35.薄暮より出でて③
モイラと名乗った女騎士は先の戦いでリコリスと共に剣聖マルトと対峙し、その鮮やかな一太刀で斬られてしまったという。右眼と右腕を失い、その傷は脳や臓腑にまで達した。ほぼ即死だった、と静かに語るリコリスが魔法の福音でさえなければ、彼女はそのまま戦死者に名を連ねていたのだろう。
その後の数秒、剣聖と福音の間で行われた攻防は、目撃した騎士たちの目には追いきれなかったという。いずれにせよ、結果としてそれ以上の戦傷を嫌った剣聖は後退。モイラの救命を優先したリコリスは剣聖を追撃できず、福音の撃破を目的としていた剣聖、彼女の足止めを目的としていたリコリス、両者ともに目的を果たせず、戦いは痛み分けに終わったのだった。
「休みなくひと晩戦えば決着がついたかもしれません。私の集中が切れるか、向こうの魔力切れとかで。きっとその前に帰っちゃうでしょうけど」
リコリスは仮面をずらしながら手製のアップルパイを頬張る。
セントレア南門番兵詰め所という名の古びた民家のリビングに集った騎士の少女たちは、血生臭い話題で茶会をしていた。
「事も無げに言うわね。そもそも普通の人間じゃ打ち合えないのよ、あのババアとは。やりあって首がくっ付いてるってだけでも信じられない話だわ」
と、紅茶のカップを片手にぼやいたのは、その剣聖マルトの弟子であるサリッサだった。趣味の意味でしか飲食をしない彼女だったが、場の空気に合わせて茶を楽しんでいる。
だが話題が剣呑すぎやしまいか。マリアージュも苦い顔で茶を啜る。
「あのひとタカナシさんと戦う前提で動いてましたからね。私には全力じゃなかったですし、全力を出されたらなんとか殺されないように時間を稼ぐので精一杯だったと思います。そんな具合に引っ張って時間切れか、ほどほどに満足してもらうのがベストだったんですけど……そうそう、うまくはいきませんね」
「あの剣聖殿にはリコリス殿でも勝てんのか?」
珍しく暗い声音で呟く仮面の少女に、マリアージュは率直な疑問を投げた。
この末の皇女が聞く限りで言えば、魔法の福音はおよそ現界の人間が抗しうる存在ではない。門番の少年と同等かそれ以上の力を有している彼女が、何者かに負けるとは考えられなかった。
椅子の上のリコリスは腕組みをして唸る。
「うーん……彼女は、人というより武力の権化です。よーいどんで戦えばまず勝てないと思います。どうしても彼女を排除するなら……薄い気配をなんとか見つけ出して気付かれないくらい遠くから街ごと吹き飛ばすとか、散々罠に嵌めた挙句に転移魔術とかを頑張って当てて高空か深海に放り出すとか、それくらいはしないと駄目ですね。それらでだって本当に殺せるかはわかりません。一発当てるのがそもそも難しいです」
「エ、エグいこと考えるわねあんた……」
サリッサが青い顔で言う。マリアージュにはいまいち具体的な想像ができなかった。話の次元が高過ぎる。見ればモイラという若い女騎士も取り残されて引き攣った顔をしていた。
その様子に気付いたリコリスは「あはは」などという、わざとらしい一笑をしてから茶のカップに手を付けた。
「……たまに生まれるんですよね。ああいう天賦が。人間のまま神々の領域にやってくる……ああいうものが真正の英雄というものなのでしょう」
「あなたは違うのか?」
「私は違いますよ。資質がなかったとは思いませんが……私は奇跡を欲しがって貰っただけの、ただの女です。武力なんて」
謙遜というよりは自嘲に近い言葉を残しつつ、仮面の騎士は茶器を傾ける。仮面の下にちらりと覗く、姉に似た口元に自然と目が寄せられるマリアージュだったが、彼女が何かを思うよりも早く、がばっと席を立ったモイラが勢いよく頭を下げた。
「あの、本当にありがとうございました、リコリス様っ! おかげさまで……こうして命を拾いました!」
「ああ、いえいえ。くっ付いてよかったです」
「……えっ?」
「腕ですよ、腕。とれちゃってたので。きれいに」
末の皇女は思わず茶を吹きそうになった。言われた当のモイラも顔面蒼白で椅子に落ちる。戦場に慣れているだろうサリッサさえ、顔をしかめて茶を遠ざけた。
「……しっかし、斬り殺された人間を蘇生できるって……あんたのほうがよっぽど生命の福音なんじゃないの?」
「あはは、そんなことできませんよ。いったん氷漬けにして時間を稼いで、体を大まかに修復したあと臓腑に衝撃を与えて肉体を賦活したんです。もともとは異界の医術なんですけど、魔術で雑に代替したので本当なら一割も成功しません」
「うわ……」
「なるほど、異界の医術か……リコリス殿は異界で医学を学んだのか?」
「いえいえ、ただの経験値です。むかし似たようなことがあったので」
一言で答えて茶を楽しむリコリスだったが、これは明確にはぐらかしているとマリアージュにも理解できる。
段々と、この仮面の騎士の話し方のクセのようなものが分かってきたような気がしていた。基本的には聞かれれば誠実に答える、という姿勢でありつつも、本人が言わないと決めているらしい話題に関しては必ずぼかしている。つまり、彼女自身の来歴に関わる話だ。
興味本位で詮索するのも不躾だとは思いつつ、稀に目にする彼女の口元や瞳を見ると、妙に落ち着かない気分になるのも事実だ。
千年前の英雄。それも、異界から来ただろう往還者がどこか姉に似ているのは一体なぜなのか。そこになにか、嫌な胸騒ぎがするのだ。
じっと仮面を見るマリアージュに、視線に気付いたらしいリコリスが首を傾げた。当然、訝るこちらにもとうに気付いているはずで、その上で堂々としているのだからやはり苦手かもしれない。マリアージュはぬるくなりつつある茶に口を付けて誤魔化した。
「でも……それってやっぱり、私の判断ミスのせいでリコリス様が……団長代理を助けに行けなかったんじゃ……」
思いつめた様子のモイラが、不意にそんなことを言った。
団長代理、と言われても咄嗟には誰のことか分からないマリアージュだったが、流れからすると行方知れずとなった二名のどちらかなのだろうと推測はできる。包帯まみれ、半死半生の騎士にそのようなことを言われても誰も責めまいが――などと考えつつ頭を掻いて言葉を選ぶ皇女だったが、
「どうにもならないこともあります。自分で言うのもおかしな話ですが、あなたを捨て置かなかったのは私の判断です。どうしてもと言うなら責めを負うべきは私でしょう」
「そんな……!」
「それが不本意ならもう忘れなさい。終わったことです。と言っても無理でしょうが、悔やんで励むにせよ何にせよ、まずは体を治してからです」
などと、リコリスが普段とまったく変わらない調子でそう述べたので、なにも言うことはなくなった。しかし、
「と、いうか私より強い騎士なんてこの街には居ないので、全部私のせいなんですよね。だから、皆さん程度がいちいち気に病む必要なんてありませんよ?」
と半笑いで付け加えたので、さすがに黙ってはいられなくなった。
どうしてそういちいち偽悪的なことを言うのだ。見ろ、モイラが真っ白になっているではないか。
そう窘めようとしたとき、マリアージュよりも先に燃え上がるサリッサが席を立った。
「言ってくれるじゃないこのクソ女……表に出なさいよ。こないだの決着を付けてあげようじゃないの」
「まあ怖い。また雪だるまになりたいんですか? 懲りない人ですね」
「すっ転げて雪被ってたのはどこの仮面様でしたっけ?」
「運だけは強くてなによりです。次は実力で一本とれるといいですね?」
「絶対泣かす!」
「わはは、かかってきやがれですよ」
火花を散らす両者はおよそ少女の動きではない、大股で詰め所を出ていく。
末の皇女は成す術なく見送るしかない。
「あー……怪我をせんようにな……」
彼女たちが本気を出すとマリアージュでは止められない。後学のために立ち会ったのも一度ではなかったが、そもそも見えないのではあまり勉強にもならない。
くい、と残されたマリアージュが茶を傾けると、放心していたモイラが我に返った。
「はっ……! リコリス様は!?」
「外へ行った。まあ、茶でも飲んで待つがよかろう」
「え、あ……はい。頂きます。ありがとうございます」
ずい、と茶のカップを勧めると、素朴そうな容姿をしている少女は恐縮しながら茶に手を付けた。
やがて凄まじい戦闘の音が外から響きはじめる中、しばし無言で茶を啜る皇女たちだったが、先んじて遠慮がちに沈黙を割ったのはモイラだった。
「……あ、あのう」
「ぬ?」
「マリアージュ様……ですよね?」
「いかにも。む、そうか。名乗っていなかったか……水星天騎士団の者と聞くとどうも、名乗るのを忘れてしまう。マリアージュだ。昼までは門の番をしていたが、いまはただのマリアージュだ」
「は、はあ……ただの……?」
呆気にとられた様子のモイラに、末の皇女は嘆息する。
だって他に言いようがない。つい数時間前、番兵団から暇を貰ったのは確かだ。そのうち戻ると何度も言ったのに、チェスター老人には泣き付かれるわ町長は号泣するわフェオドール少年は供を申し出るわで大騒ぎだった。
自分は戦争をしに征くわけではない。よって、避難を希望する人々と共に戻るつもりだ。懇々とその旨の説明を繰り返し、やっと送り出して貰ったのだった。
善良な人々の顔を思い出して少し笑い、マリアージュは飲みほした茶のカップを置いた。すると、モイラが面食らったような顔をした。
「どうしたのだ?」
「あ、いえ! 殿下は水星天の人間がお嫌いなものだとばかり……!」
「……? 好きも嫌いもなかろう。いや、いまのは思い出し笑いだが……」
「あ……そうですね。ですよね。し、失礼しました……」
みるみるうちに小さくなるモイラ。
なんなのだ。マリアージュは苦い顔をした。年の頃だって十の半ばもとうに過ぎようという、年上の騎士だろうにそんな態度を取られる筋合いはない――
「重い怪我で気でも弱っておるのか。それとも悩みでもあるか」
「え?」
「でもなければ、わたしのような者に呑まれたりはせんだろう」
「そんなこと……」
すべてに見捨てられ、奇行に走った幼い末の皇女。それが皇国におけるマリアージュの客観的な立場だ。皇女という記号以外の持ち合わせはない。
モイラは空笑いをした。図星だった、というよりマリアージュの指摘する事実など考えもしなかったからだった。
「あの……じつは私、昇進しちゃったんです……」
青い顔でそう呟く手負いの騎士。
悩みの類か、と推量をしていたマリアージュは怪訝に眉を寄せた。
「しちゃった、とは? よいことではないか」
「それが……私、副団長だそうです。今日から」
――トビアス。
マリアージュは心の中だけで先刻打ちのめした老騎士の名を叫ぶ。
「ふぬけ爺が……ッ!」
口からは別の言葉が出て、モイラがぎょっとした顔をした。
ので、マリアージュはパァっと笑顔を作った。
「なんでもないのだ」
「は、はあ……」
釈然しない様子のモイラ。彼女から見えない角度で、マリアージュはギリィっと強く歯噛みした。
トビアス・ガルーザというあの老騎士が九大騎士団、水星天騎士団の副団長に収まっていたのはマリアージュも知るところだった。そしてその地位は、決して伊達では済まない。
代々の主が国教会付けであり、他国で言うところの宗教騎士団に近いニュアンスを持つ水星天騎士団だが、形骸化と弱体化を繰り返しながらも皇国の主要騎士団の一角である事実に揺るぎはない。
長を務める騎士には相応の家格が求められるし、副長だろうとそれは同様である。程度の差こそあれ、若輩無名、手負いの女騎士をポンと置いてよい地位ではない。でなければ要らぬ顰蹙や嘲笑を買うことになる。
くだらぬ因習だとマリアージュも思ってはいるものの、それは事実として存在するれっきとした慣習だ。皇国の騎士貴族すべての価値観を妥当な理由もなくいますぐに刷新せよ、とする方が乱暴な話である。
モイラが青い顔をするのは無理からぬことだった。
「何を考えているのだ爺は……!」
「何を聞いても一任する、の一点張りで……後事はルース卿やリコリス様と相談せよと」
「……なるほど、それでここへ来たのだな」
「先輩方もガルーザ卿を説得しているのですが……団長代理と姫様もいらっしゃらないし、もうどうしたものかと……」
ほとほと困り果てた、といった様子でうなだれるモイラ。マリアージュはまたも嘆息する。どうやら空中分解の危機にあるらしい水星天騎士団のためにひと肌を脱ぐ義理も余裕もこの末の皇女にはない。
が、老騎士を叩きのめした自分が遠因になっているのは間違いないように思えた。だとすれば、責任の一端が自分にもなくはないのだろう。それに、どことなく――なにか、謀の予感もする。そんな気配があった。
考えながらカップに口を付けるが、茶はもうなくなっていた。
「なんなのだ、いったい」




