34.薄暮より出でて②
白い皿に穴をふたつ開けただけのような仮面がある。ただひたすらに隠す為だけにあるかのような造りであるそれに違わず、マリアージュはその仮面の内を見たことがない。知るのは己と似た声と、己と同じ色を持つ髪と、姉ミラベルや侍女のカタリナに似るすらりとした体躯。そして英雄たるに相応しい力を備えているという事実のみである。
それらが、リコリス・ブルーマロウと名乗る風来坊、第三の門番たる在野の女騎士について末の皇女が知るすべてだ。名も偽りだろう。いくつかの名を持つ生命の福音にしかり、この少女も何らかの事情によって本名を伏せているのだと末の皇女は了解している。
「わははははっ!」
その、末の皇女が知る限りでの最強の騎士は門番詰め所のリビングで膝の猫を撫でながら読書などをしていた。彼女が時折爆笑しながら読んでいるのは比較的どこにでもある教典書、世界樹の書である。一千年前の神々の戦いを非常に抽象的かつ幻想的に表現した物語が記された書だったが、当事者のひとりである魔法の福音本人にはユーモラスに見えるらしい。自分が登場するお伽噺を見て大笑いしている伝説の英雄――というなかなか目にかかるのが難しい、どう処理していいものか苦慮する相手に、マリアージュはとりあえず怒っておくことにした。
「……リコリス殿。年頃の娘が慎みのない笑い方をするものでない」
「いひひ……ひー……だってこれやっぱりおかしいんですもの。アリエッタが囚われのお姫様みたいな台詞を言ってるんですよ! あのアリエッタが! わははは! いひひひ!」
「分からんでもないのだが……」
マリアージュも、生命を自在に弄ぶ生命の福音アリエッタの異様と悪逆を思い返す。巨悪として捉えられがちな父、始祖の皇帝カレルでさえあそこまで破綻した人格は持っていない。生命の価値を永遠に見失った憐れな少女である。
末の皇女は複雑な心境でリビングテーブルに着席しながら、ふと考えた。
福音は皆一様に人間性を犠牲にしている。そう聞いているし、知り得た過去の福音たちには少なからずその気配があった。しかし、この騎士に関していえば異質な精神を有しているとは思えない。奇妙な面を被っているという一点以外は。
「リコリス殿も福音を得たことでなにか……心を損なったのだろうか」
マリアージュは疑問を率直な言葉にした。目の前の仮面の少女の雰囲気はどちらかといえば門番の少年に近い。一見したところで大きな問題が見当たらない、とでも言うべきだろうか。なにかを失ったように見受けられないのだった。
仮面の奥で瞬きをしたリコリスは、本を閉じて末の皇女に面を向ける。
「タカナシさんがどう認識していたかは知りませんが、福音に明確な代償があるわけではありませんよ。司るものを自在とするから自然と、尊べなくなるというだけで。私の場合も……そうですね。実感はあまりありませんが、魔術の類を軽んじている傾向はあるかもしれません」
「やはりそうなのか」
「魔術というものも所詮、技術。あるいは手法にすぎない。そう感じます。事実、魔術そのものはさして重要ではないのです。魔術によって受ける恩恵があり、それでなくては叶わない事柄がある。ただそれだけのことでしょう」
どことなく、言わんとすることは分かる。末の皇女には仮面の語る真実が理解できる。魔素への親和性が極端に高いマリアージュにとって、魔素とは半ば己の一部分であり、己の手足に近いものだ。
しかし「ただそれだけ」と言ってのけるには、やはり福音を持たない身には荷が勝っている。その陥穽は生半には埋まらない。
ふむ、と顎に指をあてるマリアージュを見て取り、リコリスは机で指を組んだ。
「ときに、皇女殿下はなぜ魔術が存在するのだと思いますか?」
「いきなりだな……なぜ、とは。何者かが技法を編み出したからであろう」
「ではその最初の者は、なぜ技法を編み出したのだと思いますか?」
難しい問いだ。
末の皇女は熟考する。
「まだ魔術のない世界で、魔術を欲さんとする理由……ということか?」
「そうですね。まだ無い術理を見出さんとした理由、です」
「……分からん。考えられる可能性が多すぎて絞れるものではないだろう。もしかすると火種なしに火を起こしたかったのかもしれんし、なかなか癒えない傷を癒したかったのかもしれん。想像するしかあるまい」
「ええ。なかなか的を射ていると思いますよ」
仮面の向こうで微笑む気配がした。
なぜか、照れ臭いような気持ちになってマリアージュは頬を掻いた。
「つまり、どうにもならないことをどうにかしたかった、ということなのです。魔術に限らず、剣術であれ医術であれ。田畑を耕す技術であれ同じです。術理とはそのようにして見出される。ただ魔術だけが、その根幹に見えぬ粒を。奇跡を要求しました」
「……魔素のことか?」
「そうです。言い換えてしまえば、奇跡を欲しがった。どうしようもない現実を前にして奇跡を願い、奇跡を祈る心が、最初の魔術を作ったのです」
「……」
マリアージュには言葉もない。
遥かな昔にひとりの人間が抱いたひとつの祈りが、術理となって今の人々に恩恵を与えている。それが誇張された表現だとしても、もし本当にそうだとすれば、それはとても純粋で尊いことのように思えた。
そしてそれは、すべての術理が同じであるという。
人によって願いや祈りから見出された術理の数々。人から生まれた人の力。それは、なんと美しく――愛すべき人の営みなのだろう。
感じ入る末の皇女の前で、仮面の騎士は言う。
「もしかするとそれは欲望とも言えるかもしれません。ですが人とはそういうものです。欲があることは罪ではありませんし、悪でもない。善悪不二、邪正一如です。清濁併せ呑む混沌が人という生き物の本質であって、そこに善悪の線を引くのは勝手で傲慢なことです。光輝の樹だの邪悪の樹だのと。私は如何かと思います」
そう言い切ると、仮面の少女は世界樹の書を放り出した。邪悪の樹という語について初耳だったマリアージュだが、リコリスはそれ以上話さなかった。膝の上で丸くなった飼い猫のガルガンチュアを撫でるのみだ。
マリアージュはふと、この仮面の少女に湖を幻視した。止水のように静かに、月光を返して仄かに輝く白き湖面。そして、地に深く根を張った広大なる水の群れ。その水底はいまだ見えず、宵闇の中に隠れている。しかし――
「なぜかな。あなたが少し好きになったよ」
「え、そうですか? へへ、なんだか照れちゃいますね」
「……かといって、ロスペールに伴うかどうかとは話が別だが」
「あれれ、駄目なんですか。正直、殿下がおひとりで向かわれても早晩犬死なさるだけかと思いますけど……」
「なにぃ……?」
ひどい言い草だ。末の皇女はむっとして口を結ぶ。
「ロスペールに辿り着く可能性すらゼロです。東方の戦力はともかく、上位の竜種はそこまで甘い相手ではありません。仮にも神と称された存在を甘く見ていませんか?」
「ほう。ではそういうリコリス殿ならロスペールに辿り着けるというのか」
「ええ、かなりの確率で。というより、私を欠いて竜種の息吹を掻い潜るのは不可能といっていいでしょう」
言い方に引っかかるものがあり、マリアージュは首を傾げる。
「そいつの現象攻撃でしょ。放逐だっけ」
疑問の先を引き取ったのは、白槍を担いだ赤いエプロンドレスの騎士、サリッサだった。現れるなり、皇女と仮面の少女にそれぞれ手を挙げて挨拶しつつ、リビングテーブルにつく。
「福音で魔法っぽい……魔素絡みの攻撃なら消せるんでしょ? だったら、アズルで見たあの破壊魔法チックな息吹ってやつも消せるってことなんじゃないの」
「鋭いですね。そういうことです」
「なるほど……ん? ということは、リコリス殿がいれば……うまくすれば竜種を打倒する目もあるのか……?」
やや現金な思考に至ったマリアージュだったが、当の魔法の福音は頭を振った。
「私や皆さんの持ち得る手段で竜種を殺すのは難しいでしょう。目があるとすれば異界に由来する原理の魔術ですが……」
「黒のことか。しかし、あれは触媒がなければ使えぬはずだし本末転倒……」
「あ、いえいえ」
リコリスが手をかざす。
不意に、その掌に赤い結晶が生じた。マリアージュは思わず椅子から腰を浮かし、サリッサは眉を寄せる。
「まさか!?」
「奇跡の模倣者といいます。私の概念攻撃は例外なくすべての魔術の行使を可能とする。それは滅亡の火とて変わりありません」
「いや……いやいや、ちょっと待って。それって、その気になったらあんたひとりで世界を滅ぼせるってことなんじゃないの……?」
「ですね。でも、私がその気になることはありえません。この火は放たれるべきじゃないんです。誰の手からも。絶対に」
青い顔のサリッサの呟きを受け流し、神の如き力を使うリコリスは握り潰すようにして赤い結晶を消した。
「それと、そもそもの誤解を正しておかなくてはいけませんね。おそらくですが、黒ではロスペールの竜種を倒すことなどできません。第二皇子が何故そんな勘違いをしたのかはわかりませんが」
「ということは……撃ったところで無為にロスペールを焼くだけ、ということなのか? アーネストのやろうとしていることは人を殺戮するだけ……まったくの無駄と……!?」
「おそらく、ですけどね」
「ばかな……! それではいったい何の為の……!」
マリアージュは憤激する。
黒を巡る先の戦いで失われた命。そして、これから失われようとしている命。それらを犠牲にしても何の意味もないかもしれない。なら、なおのこと看過はできない。
そこで、どこか人外の蟲惑を覗かせるサリッサの紅い瞳が瞬いた。
「じゃあさ、その黒でも駄目ってことは、なにか竜種を倒せるような別の魔術があるわけ? 異界由来の強力な破壊魔法とかが」
「いえ、ありません。今はまだ」
「どういうこと? 目があるとしたら、って言ったじゃないの」
「……その話をするのは別の機会にしましょう。すこし口を滑らせてしまったようです。とにかく、現時点の私たちに竜種を殺す手段はありません」
いささかの含みはありつつも、その結論に至るのは間違いないのだろう。末の皇女は勘のようなものでそう悟った。もしこの仮面の少女にその手段があれば、すでにひとりで赴いて竜種を打倒しているのではないだろうか、と。
あるいは、彼女が千年を経てこうしてセントレアにやってきたのも、その手段を持つ唯一の往還者――門番の少年を迎えに来たのではないだろうか。
だとして、なぜ当初は素性を隠していたのか。そして今になって協力的な姿勢を見せるのはなぜなのか。まだ仮面を被っているのはなぜか。マリアージュには分からない。しかし――いま追及しても仕方がない。のらりくらりと躱されるだけだ。目に見えている。
「やはり現実的な目標を決めねばならんか」
「ま、あんたが自棄を起こしたのでなければね」
「もちろんだ。なにもできんのでは意味があるまい」
末の皇女は友人を見る。
戦慣れをしているだろうサリッサは、頷く皇女に片目を閉じて答えた。
「なら実現可能な作戦ってやつが必要よ。人手も。あんたとリコリスだけじゃもちろん、九天が居ても似たようなものね。全然手が足りないわ」
「わたしにそんなあてはない……だが、どうにもならないことでもどうにかしたい。それだけは確かだ」
仮面の下でリコリスが笑った気配がした。
「では、がんばって術を見出さなきゃいけませんね、殿下」
「うむ」
マリアージュは顔を上げ、ふたりの仲間を交互に見た。薄闇の中、わずかに進むべき道が見え始めているような気がした。
決して、暗いばかりの先行きではないはずだ――
「あのう……ごめんくださーい……」
そのとき、遠慮がちな声が廊下から届いた。
怪訝そうに振り返ったサリッサが「あー」と声をあげ、顔見知りらしいその若い騎士に手招きをする。
顔の右半分と吊った右腕とを包帯で巻いたその若い女騎士は、遠慮がちに廊下からリビングへと足を踏み入れた。
首の後ろを掻きながら会釈をするその騎士に、マリアージュは覚えがなかった。最近どこかで会った気もするが、思い出すことができない。
「えーと、あんたたしか……水星天の」
「あ、はい。モイラです。水星天騎士団のモイラ・ラングレンといいます。よろしくお願いします」




