33.薄暮より出でて①
アズル領が雪深い地域だと知ってはいたものの、マリアージュがその実感を得るに至って理解したことがふたつある。ひとつは風情。しんしんと降り積もる雪には得も言われぬ情緒がある。もうひとつは、不便さ。積もった雪は外出を厭わせる程度に鬱陶しい。
しかしそれでも、給金の出ている仕事を放り出すのは筋違いだろうとこの年若い皇女は考える。街門の申し訳程度の庇の下で火を焚きつつ、曇天を見上げた少女は今日も門の番をする。
「よくも降り続くものだ」
すべてが変わった降誕節から、すでに二週間が経っていた。新たな年を迎えた辺境の街、セントレアに大きな変化はない。変革を求める勢力の主柱であった皇女ミラベルと門番の少年を欠き、なおかつその事実が伏せられている現状でアクションを起こす者はいない。
この街に集った騎士たちも皇族たちも、沈黙を保ったまま。唯一の例外があるとすれば、この街門の前に立つ少女だけであった。
「最後のお勤めの日くらい晴れても良かろうに」
空に向かって語りかけてみるも、降りてくる雪が弱まる気配は一向にない。白く染まった平原にも何の影もなく、満ちるばかりの静寂の中で皇女は回顧する。
――ロスペールへ征く。
そう告げたとき、未だ皇女の従者であるつもりでいるカタリナ・ルースや友人であるサリッサは大いに反対をした。この何の立場も権限もない末の皇女が、戦争状態にある敵国ドーリアに占領された都市に向かって何の意味があるのか、と。
意味はある。
第二皇子アーネストが所持している恐るべき破壊の大魔法、黒は九鍵と呼ばれるある種の封印が為されており、その効果範囲においてマリアージュが存在するかぎり発動しない。つまりマリアージュが赴くことで、占領されたロスペールを黒で焼こうとしているアーネストの目論見は一時的にであれ阻止できる。大勢の人々を守ることができる。
だが、マリアージュには戦争をする能力も手勢もない。当然あるだろうドーリアの防御線を抜けてロスペールに辿り着けたところで、できることは限られる。運がよければ数人の自国民を脱出させることができるかできないか、といった程度だろうと本人も理解している。
しかし、掬えるものが皆無ではない。彼女にとってはそれだけが重要だ。
今はもう居ない門番の少年の代わりにドーリアの竜種を討てれば理想であったものの、それは人の身には叶わない奇跡だ。人でしかないマリアージュには望むべくもない。だとして、その奇跡の数万分の一でも代行したいと考えるのは欲が深すぎるだろうか。
否だ。
末の皇女は否定する。
古き英雄と新しき姫が去ろうとも、正しきは依然として存在し続けている。己の胸のうちにもそれはある。正しきは行われなければならない。誤りは正されなければならない。他ならぬ人々自身の手によって。
それは、そもそも異邦の超越者たちだけの使命ではなかったはずなのだ。
最初から。
「……あなたはそうして、番兵としての責務を果たしてこられたのですな。あの少年のもとで」
振り返れば、老いた騎士が立っていた。
「トビアス」
久しく言葉を交わさなかった老騎士は末の皇女に頭を垂れた。
「お久しぶりにございます、殿下。一時は刃を向けておきながら、このようにあなたの前に顔を晒す。そのご無礼をお許しいただきたい」
「よい。そもそも、わたしは姉上の手勢に傷のひとつも付けられておらん。互いに禍根はないと思っている」
「は……」
「皇国の騎士ともあろうに、番兵に頭を下げるものではない」
それはかつて敵対した末の皇女と吸血姫の間に門番の少年が立ったから結果としてそうだっただけではある。とはいえ、当の門番の少年がさほど気にしていなかったのだからこの皇女としても思うところはない。
なおも顔を上げない老騎士を苦々しく思いつつも、末の皇女はほとんど溜息同然の問いを放った。
「用向きを聞こう」
「先ごろ、殿下が兵を挙げると耳にいたしました」
なんだそれは。マリアージュは顔をしかめる。
「ばかな。兵などと。いったいどこにある兵だ」
「ルース卿を始めとして九天のほぼ全員。加えて、かの魔法の福音も伴うと聞いております」
「……カタリナめ」
末の皇女は頭を抱える。あの元侍女はこの辺境までついてくるに飽き足らず、いったいどこまで付き従うつもりなのだろうか。九天の騎士たちにも身の振り方の自由はあるだろうに。
「一個で隊に伍する九天と伝承の英雄をそのように引き連れる。もはや誰にも寡兵とは言えますまい。乱れる皇国を憂いたあなたが内憂と夷敵を討つため、遂に挙兵したのだと。皆そのように捉えております」
「わたしにそのような意思はない。ロスペールの民のためだ」
「見知りもしない民のために立つ者を、王というのです。殿下。あなたは王への階に足をかけようとしている」
「……ばかなことを言うでない」
老騎士は首肯した。
「ばかなことです。誰もがこの窮境に夢を見ようとしているだけだ。あなたに救世は務まらない。おやめなさい。あなたは姫様やあの少年とはちがう」
「無論だ。言われるまでもない。わたしに思い上がりなどない」
老騎士の言葉を、末の皇女は肯定する。
「わたしはあたりまえのことをしに行くのだ。誰もそれをせぬから、わたしが行くのだ。わたしにしかできぬから、ではない。誰もせんからわたしが行くのだ」
腹立たしさを言葉に変える。
「おまえたちは理解しているのになぜ行動しない。なぜ立ち止まる。おまえたちは低きに流れる水を見て、低きに流れるとただ口にする。死ぬるを見てただ死ぬると言う。なぜ手を伸ばさんのだ」
「力なきゆえに」
「ざれてくれる。腰に差しているものをなんとするのだ」
老騎士の腰に下がっている得物を指して吐き捨てると、マリアージュはおのれの背に負った長剣の柄に手を置いた。
「わたしは救世などと宣うつもりはない。だが、そのようにふぬけた爺に生き方を指図されるいわれもない。わたしを止めたければ剣でもって示すがよかろう」
「それは騎士の道理でありましょう」
「おまえはいつ騎士を辞めたのだ、トビアス。おまえはいつまで姉上の御目付をやっている。姉上はもう居ないのだぞ」
タカナシ殿もだ。
末の皇女は口の中で付け足し、翳った老人の顔を見た。
「なればこそ。私めがお止めせねばなりますまい。姫様やあの少年の代わりに」
「それこそ思い上がりと知れ。わたしはともに行くと決まっていた」
「異なことを」
「くどい」
二本の剣が同時に鞘走る。
老騎士の長剣と、末の皇女の長剣。
数多の戦いを経てきた街門を背に、両者は対峙した。
そして、老騎士は瞠目する。
皇女が背から抜いた、まったく体格に釣り合わない長剣の素性に。
「黎明……! 彼の剣を……!」
「身の丈に合わぬと笑うか。それもよかろうが、年寄りの冷や水よりは笑わせん。これも誰かが引き受けねばなるまい」
「そのなりに心を痛める者もおりましょうに……!」
知っている。
末の皇女は理解している。自身が剣を執ることを良しとしない人々は居る。セントレアの善良な住民たちもそうだし、親しいカタリナやサリッサもそうだ。継承戦が終わったいま、兄たちでさえもいい顔はしないだろう。
ましてや、それがある意味で剣の福音を象徴していた剣ともなれば絶対に良くは思わない。無理をするな。危ない真似をするなと言うに違いない。しかし。
「虚仮にするな! わたしはとうに、守られる者ではない!」
「……!」
長剣を担ぐように構えると、老騎士も応じて剣を下段に構えた。皇国で主流の流派、涙滴の基礎の型。
マリアージュはトビアス・ガルーザという男の素性を知っている。ミラベルの目付などをする以前から、彼は剣聖マルトが擁する水星天騎士団の騎士だった。似た剣を使うのも道理。下手をすれば前代の継承戦の頃から現役に居る古参中の古参騎士である。
力量も騎士の最強格たる九天の下位に次ぐ。末の皇女はそう読み取れる程度に力を増していた。だとすれば。
「遅れを取る理由もあるまい!」
「お覚悟を!」
前傾の姿勢で地を蹴った皇女を、老騎士は正面から迎え撃つ。上段、真っ向から一刀を巻き上げて封殺せんとする。
老騎士の剣筋を瞬時に見切った末の皇女は、奇しくも、その手がかつての門番の少年の手と同じものであることに内心で憤る。明確に手心を加えられているという事実にだ。
もうあの頃とは違うのだ。何もかもが。
地に足を叩き付け、打ち下ろしを直前で止める。巻き上げんとしていた老騎士の剣筋が拍子外れに彷徨うのを眼前に、皇女は身を翻した。腰を捻って剣を回し、大きく袈裟に切り下ろす。直線主体の真正直な剣ではなく、円を描くような流動的な剣。
第二皇子や近衛の騎士との戦いで死線を潜り、仮面の騎士とも剣を合わせて末の皇女は知った。若年の自分が剣を比べても及ばない。かといって、力だけでは流される。だとするなら、いかに相手に打ち勝つのか。
まず捨てること。こだわりも固定観念も捨てる。かくあるべしとする正しい剣筋も正道も、所詮、他者の敷いた道筋でしかない。同じ流派、同じ剣では先達には勝ち得ない。
もっと柔らかく。相手の狙いから外れるように、自由に動けばいい。体躯で劣る身ながら、その身は誰よりも強い魔力を有している。誰よりも速く、強く動けるはずなのだ。自由でさえあれば。
「ぬッ!?」
大きな弧を描いた皇女の剣を、老騎士は己の白刃を挟んで紙一重に受けた。魔力干渉の火花が散り、刃が刃の上を滑る。
力比べなどはしない。老騎士の押す力に合わせて流れるように姿勢を変えた末の皇女は、身体を沈ませ、次の刹那には手首を返して跳ね上がっている。
変則的な巻き上げ。
黎明の名を持つ長剣の刃が、老騎士の剣を空高く打ち上げる。
やがて雪原に降り落ちた剣が突き立つも、老騎士は動かなかった。末の皇女がぴたりと向ける剣尖の前で、ただ立っていた。
「……お見事にございます」
「加減などするからだ」
「せずとも結果は変わらなかったでしょう……あなたは強くなられた」
「……!」
ここに至り、初めて人に認められる言葉を受けた末の皇女は息を呑む。
強い?
強いといったのか、この騎士は――?
理解できず、唇が戦慄いた。
剣を持つ手が震え、唾を飲んだ。
それでも、抑えきれない感情が口から迸った。
「そう強いたのはおまえたちであろうが! 勝手なことを言うな!」
意思とは関係なく唇が動いた。
「継承戦が始まったとき、わたしには病身のカタリナしか居なかった! おのれの病のことですら語らん侍女だけだったのだ! わかるか、その意味が!? 姉上にはおまえたちがいたというのにだ! わかっているのか!?」
「……それは」
「この街で死すると覚悟していたのだ、わたしは! 最後に自分の生を生きて死ぬと! タカナシ殿がおらなんだらそうなっていた! それをおまえは……おまえたちはなにを……勝手なことばかりを言うなッ! このわたしを作ったのはおまえたちであろうがッ!」
その世迷いごとは本意ではなく、老騎士のみに宛てたものでもなく、糸を引いた父や乗った兄たちや姉たちにのみ宛てたものでもなく、すべて。
「乱れる皇国を憂いただと!? いったい誰が乱したというのだ! わたしではない! おまえたちのいったいだれが私を顧みたというのだ! だれもだ! おまえたちのだれ一人としてわたしを一顧だにせず、ただ死するだけものとして扱ったのであろうが! それを今さら、王の階だと!? やめろだと!? ふざけるな! ふざけるんじゃない!」
ひとり。ただひとり見捨てられたこの皇女が、後にも先にもただ一度だけ。
自身を取り巻く世界のすべてに対して吐き出した激昂だった。
「わたしは征く! わかったのなら消え失せろ! どこへなりと行っておまえのやるべきことをやれ、おまえは騎士であろうが!」
言い終え、肩で荒く息をする。
愕然と激情を聞いた老騎士は、深く黙礼をして去っていった。その足取りは重く、降りしきる雪の中にゆっくりと消えていった。
見送って長剣を背に収めたマリアージュも、力なく街門に寄り掛かった。言うべきでなかった己の気持ちを省みながら、降る雪で帯びた熱を冷やす。窮境に夢を見る。分からないでもない。そうしたいのは、自分も同じだというのに。
門番の少年はもう居ない。




