32.新たなる日々
己の人生にゆるぎない実感を得ることなど今までなかったし、おそらくこの先もないのだろうと俺は思う。とりたてて変わったところのない、ごく一般的な家庭に生まれた男子高校生としてこの先を生きていくには、此処とは異なる場所で一千年を超えてしまった俺の来歴は少しばかり風変りといえよう。
それは、両親と妹が人知れず出奔したこととはまったく関係がない。たとえきっかけがそうだったことが間違いないとしても、俺がどのような経緯を経て何を選んで来たのかは自分の責任と意思の結果でしかなく、だとすると、その積み重ねが形成している俺という自意識は、割合しっかりとアイデンティティを確立していると言えるのかもしれない。
二週間前の高地ランドパークでの一件も記憶に新しい。此処とは異なる場所でなくとも俺は変わらず走って叫んで剣を振り回していて、この先もそうなのかと問われたとしたら、必要があればそうだろうと即答できる。我ながら情けないことだが、悪戦苦闘以外で自分が身を立てているイメージなどできないのである。どんな形であっても似たような生き方をしていくのではないかと思う。
今現在ですらそうなのだから、俺が進路希望調査票によく知りもしない大学を列挙したのも無理からぬことだろう。俺の学業の成績ではどこも厳しいのだが、どこかひとつくらい引っかかってくれる奇特な大学もあるに違いない。あってくれ。でなければいきなり就職ということになる。そちらは内定が出てしまっている。
つまり俺が高梨明人であるという自己認識は、これからも順調に更新されていくものであって、決して失われたものではないということだ。千年経とうと肉親が居ようと居まいとそれは変わらず、いま家族と同じくらい親しみを持っている人達がいるのだから幸福であるとすら言えるだろう。立脚点である彼女ないし彼らがいてくれる限り、この先どんなことが待ち受けていたとしても、なんとかやっていける気がしている。おそらく。たぶん。
ひとつ確かなことは、俺が初めて乗ったヘリコプターという乗り物について、意外に速度の出るものだったのだなあという、どこか現実味の伴わないぼんやりとした感想を抱いたことくらいだ。
思っていたよりは広い、自動車一台分ほどの客室に備えられた五人分の座席のうち、およそ半分以上が埋まっている。つまり三人が乗り合わせているのだが、そのうちひとりは別世界の皇女様で、近代的な乗り物にまったく似つかわしくない。残る、タブレット端末を膝に乗せた来瀬川教諭などは、彼女自身の見た目もあってかこの乗り物と絶望的にマッチしていない。航空機用の大型ヘッドセットをかぶっているおかげで、辛うじて乗員としての説得力がある程度だ。
「……? なあに、高梨くん」
しげしげと眺めていたら、いつもと変わらない笑顔と目が合った。客室内に響く高周波のような駆動音をバックにしているせいか違和感が凄まじい。こうしている間にも俺たちは時速二百キロ程度で移動しているのだが、なぜこの人はいつもとあまり変わらないのだろう。
「先生、ヘリに乗ったことあるんですか?」
「えー? ないよー。飛行機はあるけど、ヘリコプターに乗る機会なんてなかなかないよね。ちょっと新鮮かも」
「……にしては平然としてるような気が」
「知ってた? ヘリコプターの事故率ってとっても低いんだよ」
知らなかった。知らなかったが、それを聞いたところで俺なんぞは浮足立つのを免れない。パークの一件以来、地に足を付けていないと不安でいっぱいだ。来瀬川教諭の隣で青い顔をしているミラベルも自分の仕事をしながら微振動を繰り返している。大丈夫なのだろうか。
アグスタウエストランドAW139。俺たちはそんな名前のヘリコプターで機上の人となっていた。勿論、遊覧飛行などではない。公安警察、というより永山管理官から正式に協力を依頼された業務だ。
パークの一件で翼竜の存在を知って多大なる危機感を覚えたらしい永山管理官は、警察組織のみでの対抗を不可能と見たらしい。そこで彼は、パークで大暴れをした俺に目を付けた。露見してしまったのは俺のミスなので文句のあるところではないし、別に頼まれなくても翼竜を何とかしなければならない認識はあったので黙認だけしてもらえれば良かったのだが、気が付いたら来瀬川教諭が待遇諸々の話をまとめてしまっていた。
聞くところによると近々、長ったらしい名前の専門部署が立ち上がるらしい。俺はあくまで学生で来瀬川教諭は教員なのだが、永山管理官はどう収めるつもりなのだろうか。彼の権限で収まる話だと良いのだが。
それに、ミラベル。当然ながら日本国籍など持っていない不法入国者である彼女にも、公安警察の権限で来瀬川碧という架空の人物の戸籍が用意されてしまった。いったいどういう建前で押し通したのかは見当もつかない。
あるいは、来瀬川教諭の本当の狙いはそれだったのかもしれない。でなければ、少なからず恩恵を受ける俺はともかく、なにも得る物がない彼女が骨を折る意味がどこにあるというのか。
彼女は単にミラベルが大手を振って外を歩けるようにしたかっただけだったのだろう。そう考えると、俺も張り切って仕事に勤しまなくてはならないという気になる。
『お待たせしましたー、観測終了です。いま予測範囲を転送しますね』
弾むような声がヘッドセットから聞こえた。
富士重力波観測研究所――重研で会った新田さんの声である。彼女はLIBRAの担当である。現地からオペレーション担当の来瀬川教諭にデータを送ってくれる有難い存在だ。
小さい手でタブレット端末を叩く来瀬川教諭が応じる。
「確認しました。ありがとうございます。あとの細かい調整はこちらで」
『はーい、よろしくお願いまーす』
間延びした返事。
俺たちと歳もそう変わらない女子大生に緊張感など望むべくもないが、一応仕事なんだよなあと頭を掻いていると、急に話を振られた。
『どう、高梨くん。お仕事慣れた?』
「え? ああ、はい。まあ、ヘリまで出してくれたのは意外でしたけど。どっから予算出てるんですかね、これ」
『あっはは。そんなの私らが気にすることじゃないって。詳しくは教えてもらえてないけど、重要なお仕事だって聞いてるよ。頑張ってね。応援してる』
「あ、ありがとうございます?」
礼を言うと、そのまま切れてしまった。
妙に気安い人だ。首を捻っていると、いつのまにか微振動から脱したミラベルがこちらをじーっと見ていた。
「なんだ」
「いいえ。はあ、ご学友のつぎは同僚ですか……そうですか……」
いまひとつはっきり物を言わない皇女様は、ついっと窓の外の夜空を向いてしまう。それはさすがに気にしすぎではなかろうかと思うのだが、見れば来瀬川教諭も似たような顔でタブレット端末をこちらに向けていた。
「ホームルーム始めていいかなあ」
「……もちろん」
俺は真面目に仕事をする人間だ。きりっと表情を作るが、ミラベルはそっぽを向いているし来瀬川教諭はタブレット端末を生徒名簿のようなノリで持っているので、ゆるい感じは否めない。
「というかホームルームて。ブリーフィングですよね?」
「おっとぉ!? 高梨くんはいつから本職さんになったのかな!?」
「いやまあ、変わらず学生ですが……」
「だったら線は引いておかないと駄目だよ。戻れなくなっちゃうから」
唇を尖らせて手でバツ印を作る来瀬川教諭。言っていることは分かるのだが、今更感も否めない。曖昧に頷くに留めて、俺も身支度を始める。
「今回は一匹だと思うから全然大丈夫だと思うけど、ちょっと位置が悪いかな。繁華街なんだよね」
「とすると障害物が多いですね……射線が切れてしまいます。困りました」
「じゃなくて禁止だよ!? 攻撃魔法禁止! ノーマジック! ノー!」
「え、じゃあ私また留守番なんですか!?」
「ものすごく重要なんだよ!? ヘリが落ちゃったら帰れなくなっちゃうでしょ!? ミラベルさんはヘリから援護!」
わあわあと騒ぐ声を背に、いつもの小型ヘッドセットを耳にねじ込んで仮面をかぶり、上着を羽織る。嗚呼、緊張感がない。心の中でぼやきつつ、最後に古ぼけた剣をベルトの金具に挿して簡単な支度を終える。
すると、急に真顔になった来瀬川教諭が面白いことを言った。
「あ、高梨くん。そろそろ降りて」
「……」
やはり。薄々、そうなる予感はしていたのだ。
繁華街にヘリポートなどあるわけがない。
「まずはビルの屋上を目指してね。目印は証券会社の看板。たぶんそこに居るから、次はやり合いながら北に向かって五キロ先。この時間は無人のスタジアムがあるからそこで片付けて。回収も。細かいルートは指示するね」
とはいえ、LIBRAの前兆観測が――何らかの手段で異界に押し寄せているという翼竜がこちらの都合を考えてくれるはずもなく。夜中にヘリを飛ばして限られた人員と装備で作戦行動をするともなれば、ものの数分でプランが立てられるだけ凄いというものだ。俺にはできない。
「了解」
ドアを開けると、凄まじいローター音と風がキャビンに入り込んできた。高度は三百メートルほどだろうか。眼下に広がる知らない街の灯に圧倒されつつ、「高いな……」などと呟いてみる。実際に恐ろしいのだが、もっと恐ろしいことは山ほどにある。
胸の前で祈るように手を合わせるミラベルと、無言の笑顔でサムズアップする来瀬川教諭に手を挙げて挨拶しつつ、俺は夜空へと身を躍らせた。
***
県立芥峰高等学校、二年B組。前席の橋本と隣席の長命寺が仲良く並んで雑誌を読み進めながら談笑している。ひどく遠くに聞こえるので内容は分からない。
俺はといえば自席で力尽きてなにか、魂のようなものを口からまろび出しているような心地なのだが、この友人たちがそんな俺に配慮をすることはなかった。
「ね、高梨はどう思う?」
「……何の話だかも分からん」
本当に分からないのでそう告げたところ、目尻を吊り上げた長命寺が飛んできて俺の頬を指で突いた。
「おら。朝っぱらから寝ぼけた顔してんじゃない。しゃきっとしなさい」
寝不足なんだ。ほうっておいてくれ。幾度となくそう言った記憶があるのだが、異界の若者はどこまでも元気だ。連日の仕事で睡眠不足極まれる俺にはとても眩しい。物理的にも。視界が黄色がかって見える。
「あ、でもやっぱなんか懐かしいな。なじられるこの感じ。いいぞ」
「うわ、なに言ってんの……キモ……」
「そうだ。いいぞ。もっと俺を罵ってくれ」
しなだれかかろうとしたら長命寺は凄まじい勢いで離れた。冗談なので傷付くこともなく彼女達の読んでいた雑誌を見やると、旅行雑誌のように見えた。
「なんだ、また旅行に行くのか?」
「お、お前……マジで言ってんのか、高梨」
橋本が珍しく驚いた様子で俺を見る。
二週間前のパークの一件――翼竜の群れの襲来は、世間的にはガス爆発事故として公表されている。死者、行方不明者あわせて十五名にのぼる大惨事として。事故後の一週間、この件にまつわる報道が連日続いていたほどだ。
そんなものに居合わせてしまった橋本と長命寺が直近で旅行を企図するとは俺にも思えないのだが、どうやらその思考は完全にズレていたらしい。
「修学旅行だよ、修学旅行。お前大丈夫か」
「ああー……」
言われて気付く。ここのところ忙しかったのもあり完全に頭から抜けてしまっていたが、十一月の頭に修学旅行があるのだった。とはいえ、ついこの間まで休学し、およそ千年を別世界で過ごしていた俺が学を修めるも何もあったものではない。誰も咎めてくれはしないのだが、本当に参加して良いのだろうか。
などと考えていたら、長命寺がふんぞり返った。
「今日の放課後はミーティングだかんね。ビッキーにも声かけてるから」
「……ビッキー?」
「小比賀ちゃんだろ」
橋本の補足で理解する。
小比賀瑠衣のあだ名、ということなのだろうが――ビッキー?
瑠衣の大人しそうな顔を思い浮かべながら思案するも、まったくイメージが合わない。というか音も原型を留めていない。一瞬、ビクトリアとかそういう名前の女性の愛称かと思ったほどだ。
「お前のセンスどうなってんだ」
「は? ミッキーみたいで可愛いじゃん。それに、ルイルイとビッキーとオビーのどれがいいかってちゃんと聞いたけど? 高梨に文句言われる筋合いないし」
どの候補もひどい。俺は心から瑠衣に同情した。
「その中だとルイルイがいいんじゃねーかな」
頷きながら真顔で述べる橋本には触れず、俺はスマートフォンを取り出してアプリを起動する。
この三人のグループには、新たに追加された名前がいくつかある。
そのひとりが小比賀瑠衣だ。それがどういった経緯で行われたことなのか、実のところ俺はよく知らない。いつの間にか長命寺が瑠衣を招待したらしいのだが、クラスが異なるうえ、どう考えてもウマが合いそうにないこの二人がどのように距離を縮めたのかは謎だ。
観察していると長命寺が一方的に瑠衣に絡んでいる、といった雰囲気なのだが、瑠衣の方も迷惑ではなさそうなので無理のある関係ではないのだろう。女同士のあれやこれは俺には分からない。
試しに瑠衣個人に宛てて「おはよう、ビッキー」とメッセージを送ると、数秒で骸骨のスタンプが返ってきた。二個も。
無理のある関係ではないはずだ。
「なあ、ルイルイにしようぜ」
橋本は真顔で述べるが、アイデアソースであるはずの長命寺ですら取り合わずにチョップしていた。徐々に彼氏の扱いが手慣れてきているようだ。
とはいえ、明確に付き合っているという話はまだ聞いていない。来瀬川教諭が睨んだとおりの長期戦になっているのか、それとも恥ずかしがって俺や瑠衣に隠しているのか。
そんなことを考えていた折、開きっぱなしだった教室前側の出入り口に、注目を集めやすい人影が現れた。ぱっと見の印象どおりの、中学生くらいの女の子、ではない。やはり出で立ちだけは教師らしい、パンツスーツ姿の新米教師ひーちゃん先生である。
「はーい、ホームルームはじめるよー。みんな席についてねー」
黒い名簿片手に教卓へと向かう子供先生。
二年B組の教室に、僅かな緊張が走――らない。実に和やかな空気のままで、生徒たちはゆったりと着席していく。
その微笑ましい場面にももう慣れたもので、俺はどうにも眠気が抜けきらないまま教室の窓から空を眺める。
もうじき十一月になる空は雲もなく、澄んだ青を見せていた。冬の気配を感じるのもすぐだろう、などと考えると、意識して押し退けていた寂寥が戻ってくる。
現界に戻りたい。
すぐにでも戻らなければ、という気持ちが否定しきれない。俺とミラベルが居なくなったあと、セントレアがどうなったのかが気がかりで仕方がないのだ。
時間移動を伴う往還門の性質を論理的に考えれば、俺があちらを離れている間に何かが起こるということはないはずで、心配ないとは理解している。しかし、抑えきれないものは抑えきれない。
かといって、翼竜が異界に害を為している現状、その対応に不可欠なLIBRAを止めてもらうという選択はとれない。ジレンマだ。
ひとつひとつ問題に片を付けていくしかないのかもしれない。もしくは、冬に予定されているというLIBRAのメンテナンスを待つかだ。
そもそも、翼竜たちはいったいどうやって異界に来ていたのだろうか。氷室が突き止めた重力波通信という往還門の動作原理を踏まえて考えると、翼竜も現界から同様の通信によって転送されてきているに違いない。あるいは現界には往還門が他にもあった、ということなのか。
気付けば、俺は来瀬川教諭の声を遠くに聞きながら深い思索に沈んでいた。そのさなか、なにか忘れている、見落としているような気がした。なにか異界に関連する危機を知っていたはずなのだが――その正体に思い当たるより先に、来瀬川教諭の明るい声が空気を変えた。
「……というわけでなので、日没以降の外出が解禁されました。やったね。部活動の時間も元通りです。でもみんな、あんまり遅くまで外でぶらぶらしないこと。遅い時間に見つけたら現行犯逮捕するからそのつもりでね」
大いなる快哉と一部の悲鳴で教室が沸く。
翼竜の被害が激減したからだろう。仕事の成果が出るのはいいことだ。自然と表情を緩めると、教壇の来瀬川教諭と一瞬視線が合った。彼女はわずかに意味深長な微笑みを浮かべるが、すぐにいつもの先生に戻った。
「はーい、はい! しずかにー! 調子のらないー! しーずーかーにー!」
そうは言っても、異界の若者はどこまでも元気だ。騒がしい教室は拍手でも静まらない。橋本も前席で小躍りしている。
知る者は少ないながら、実は戒厳令解除の功労者であるところの子供先生はしばらくわあわあと騒いでいたが、やがて必死な声でホームルームの終了を告げる。平和で実に結構なことだ、などとひとりごちて、俺はあくびを噛み殺しながら視線を空へと戻した。




