31.普通④
骨折などをしたのは何年ぶりだろう。永山喜嗣はぼんやりと回顧する。あれはたしか、小学生の頃の昼休みだった。校庭の雲梯から落ちたのだったか。
その頃の永山は瓶底を思わせるような眼鏡をかけていて、あだ名は委員長だった。今思えば残酷なセンスだが、どこか無邪気で微笑ましくもある。実際、学級委員長だった。当時はわんわんと泣いたものだった。はたして、自分はいったいいつから痛みでは泣かなくなったのだったか。
永山は左の上腕と肋骨を折っていた。全治二カ月の重傷だ。しかし、それを名誉の負傷とするには少々戦果に乏しい。公務災害保険が降りればいいのだが、という即物的な心配がせいぜいで、暖かな病室で安穏とベッドに収まる自分にそれ以上は望むべくもない。永山は無力だった。
「有紀センパイが心配してましたよ。山梨まで来そうな勢いでした」
パイプ椅子の上にちょこんと腰掛ける少女、のような女性が言った。
別居中の妻の名を出された永山は「そうですか」と平静を装う。実際のところは内心穏やかでなかった。次に会ったとき殺されるかもしれない。比喩でなくそう思った。
「……あなたとこうしていると昔を思い出しますよ。来瀬川さん」
「長野の事件のときでしたっけ、永山さんがお腹刺されたの」
「十和田です。今でもたまに夢に見ますよ」
ひび割れた眼鏡を傍机からとってかけると、ぼやけていた女性の像がはっきりとした輪郭をとった。来瀬川姫路。初対面の頃から見た目の印象が変わらない女性がそこに居る。
もっとも、昔の彼女はずっと物静かで、髪がとても長かったと永山は記憶している。永山は当時警察の民間協力者のひとりであった彼女と、なりゆきや上の要請でいくつかの難事件の捜査を共にした。優れた洞察力と膨大な知識を併せ持ち、論理の光で万象を照らす分析者。対照的なもうひとりの協力者と合わせて、彼女たちは「司書」という隠語で呼ばれていた。
上司から「司書を使え」と言われるたびに胃薬を飲んでいたのを思い出す。ただ、苦い記憶ではなく良い思い出として。当時を知る者はぐっと減ってしまった。
当の司書たちさえも。思えば、姫路が腰にまで届いていた髪を切り、民間協力者を辞めたのもその頃だったか。
永山は思惟を打ち切り、苦く笑った。
「しかし相手が人間だっただけ、あの頃の方がずっと楽でしたね。さすがに物の怪の類が相手では、命がいくつあっても足りそうにない」
「あはは。物の怪って」
「どこか可笑しいですか?」
「おじいちゃんみたい。どっちかっていうとモンスターかなあ」
姫路に言われて想像するも、モンスターという字面から永山が連想するのはサイコキラーかデジタルゲームのエネミーキャラクターくらいなもので、妥当ではないように思えた。あれは倒せるようにパラメータ設定されたデジタルデータでしかない。
尾を当てただけで永山に重傷を与えたあの生物には、まったく当てはまらない。あれは殺せるようにできていない。実際に対峙した永山はそう感じている。
「来瀬川さんはどう見ますか。あの生き物」
「ええ、と。そうですねー……」
パイプ椅子の上で揺れる姫路は、なぜか天井を見ながら言った。
「人為的に作られた生き物かなって。少なくとも、自然な環境から発生したものじゃないと思います」
「……というと?」
「生態系に居場所がないっていうのもありますけど、そもそも前肢と翼を同時に持ってる生き物なんて、絶滅したものを含めても地球上には居ませんから」
「そうなんですか?」
「退化した翼が前肢なので。蝙蝠におててあります?」
「おててないないですね」
永山は眼鏡を押し上げつつ同意する。慣れたものだった。
「目に見えないっていうのもちょっとできすぎです。バリアも。フォルムも絵に描いたような西洋の竜。もう誰かがそう作ったとしか思えません」
「可能なんですか、そんなことが」
「可視光を歪曲するカモフラージュ素材はもうありますけど、本体はどうでしょう。複数の翼指竜亜目を化石からクローン再生してかけ合わせるとか、ゼロからゲノムをデザインするとか。そういうファンタジーが必要かなって。未来永劫に皆無とは言えませんけど、まったくコストに見合わないと思います」
「現実的でない、と」
「一言でいえば」
だとすると、あの生き物はどこから来たというのか。
永山は自らの思考に苦笑した。
推測というより空想の域へと足を踏み入れつつある。
「はは。安直に推理すると宇宙人が送り込んできた宇宙怪獣……ということになりそうですね。これは」
「別の平行世界からワープしてきたのかも」
「そんな馬鹿な」
永山は笑ったが、姫路は大きな瞳を瞬かせ、呆れ顔で言った。
「駄目ですよー、永山さん。無いと証明できなければどんな可能性だって否定できないんです。あるかもって考えなきゃ。実際、あれは居たわけですし」
「……その点はよくよく身に染みています。痛み止めが効いていても、呼吸をするたびに脇腹が痛い」
「うわあ。ゆっくり休んで治してくださいね」
「ええ。それはまた、おいおい。今は時間が惜しい」
姫路は気の毒そうな顔をするが、永山には無理を押してでも彼女と話す必要がある。まだ彼女をホテルに帰すわけにはいかない。
「来瀬川さん、今から話すことはここだけの話として聞いてください」
「これまでの話も、でしょ?」
「あなたのことだ。ここまでの話にはどうせ見当をつけてるんでしょう。その見識が欲しい」
「……いいですけど」
あどけない瞳に静謐な光が過ぎる。姫路のその目を見るのは、彼女が協力者を辞めて以来だ。永山は唾を飲んでから、口を開いた。
「あの生き物を観測する手段があります」
「LIBRAですね」
いくつかの服務規定に触れる発言だったにもかかわらず、姫路の表情は変わらない。どころか、間髪入れずに言い当ててしまった。
「ご存じだったんですか?」
「ちょっと縁があって。それと、永山さんが観測って言ったからです。そうなると東科大の氷室さんも関わってそうですけど」
「え、ええ。彼には外部顧問という立場で協力していただいてます。とはいえ、今日まであれが生き物だとは思ってもいなかったのですが……」
「うーん……氷室さん黙ってたんだ。なんでだろ」
姫路は考えこむように顎に指を当て、体を斜めに傾ける。
やや間を置いて、くりっとした目が永山を向いた。
「だったら氷室さんに全部聞いた方がいいと思います。わたしなんかより……っていうかきっと全部知ってますよ、あのひと」
「その氷室准教授が見切りを付けているんですよ。この世界とやらに」
痛恨の思いと共に、永山は言う。
「私も理解できました。生身で空対空ミサイルに耐えるような生物が野放しになっている。いまのところ増加は抑えられたと見ますが、それも時間の問題だと。彼は諦めているようだ」
「……なるほど」
パイプ椅子の上、姫路は揺れながら言った。
「それは……永山さんには受け入れがたい話ですよね」
「ええ。私は公僕です。そうでなくとも、一市民としてそんな現状を甘んじて受け入れられるわけがない」
「あはは。変わってないなあ」
歯を見せて笑い、すぐに笑みを消す。
「何匹くらい確認してるんですか? いままで」
「現時点で……関東近郊に絞ったとしても最低二十と聞いています。不規則なそうなので正確な数は分かりませんが……」
「ということは、国内だけで二百五十匹くらいいる可能性がありますね。そっか……どうりで、氷室さんがなにも言わないわけだ」
永山の気が遠くなりそうなことをさらりと述べつつ、姫路は体重移動でパイプ椅子を傾ける。いかなる理論で導き出された数なのかは言わず、彼女は椅子の足をがこがこと言わせながら永山に再び笑いかけた。
「わたしは兵器とかに詳しくないんですけど、それでもいくつかあの生き物を殺す方法は思い付きますよ」
「たとえば?」
「毒ガスとか」
「……常識的な範囲でお願いします」
「じゃあレーザー」
きっぱりと言う姫路に永山は頭を抱える。
「あなたの中ではそれが常識的な範囲なんですか……?」
「実現の可能性があって、あの生き物に効きそうなもの。ちゃんと現実的な提案なんですけど……」
「……現実的?」
「今日見た限り、あの生き物は食事と代謝を行っているみたいなので毒は有効だと思います。それに、見えるってことはバリアも光は通しているってことなので」
「それでビーム、ですか……」
「レーザーです」
訂正されても困る。永山は脇腹を押さえて煩悶した。
聞けば筋は通っているが、国内の法執行機関がそれらを使用する可能性など万に一つもない。米軍にだって無理だろう。
どうしたものか。悩む永山に姫路は苦笑しながら手をひらひらと振った。
「あはは。冗談はこれくらいにします。高梨くんですよね、永山さんの狙いは」
「……ええ」
駆け引きのつもりはなかった。姫路もそれは理解している様子だった。ゆえに、席を立たずに付き合っている。
永山喜嗣には信じ難かっただけだ。あの生物の死骸がパークで確認されたという事実が。それを行ったのが高梨明人一個人である可能性が高い、という自分の推測も。
「彼はいったい何者なんですか」
「高梨くんはうちのクラスの男子生徒です。言いませんでしたっけ」
「……来瀬川さん」
取り付く島もない。
苦々しく口をへの字に曲げる永山だが、姫路は柔らかい微笑で応じた。
「いいじゃないですか、それで。彼の背景なんて」
全幅の信頼を置いているのだと、その微笑が言っている。だとすれば、彼女に多大な借りばかりがある永山としても納得するしかない。
もしかすると。あるいは、姫路は彼になにか個人的な感情があるのかもしれない。下世話と思いつつも永山はそう勘ぐった。しかし、
「どっちにしろ止めたって飛び出していくと思いますしね! 高梨くんは! ずばーっと! あれ見ました? すごかったんですよー!」
ぐっとガッツポーズをして目を輝かせる姫路の顔はどう見ても子供のそれで色気の欠片もなく、永山はよく分からなくなった。ふたりはいったいどういう関係性なのだろうか。
ずり落ち気味の曲がった眼鏡を直しつつ、永山は咳払いをする。努力して公僕としての顔を作ると、姫路も居住まいを正した。いつだって気は進まない。しかし、永山には職務と使命があった。
「……彼が何者であれ、現実問題として手を借りないわけにはいきません。情けない話ですが、我々にそんな余裕は無い」
「わかってます。だから、まずはみんなが幸せになる方法を考えましょう」
「幸せになる方法、ですか」
「はい。さしあたって、一人分の戸籍が欲しいです。あと身分と予算。お願いできません?」
にっこり笑顔でウインク付きの不穏な要求。永山は脇腹を押さえて煩悶する。どうも高い買い物になりそうな気がしていた。
しかし、背に腹は代えられない。すでに腹はやられているが、まだ致命傷ではないはずなのだと永山も信じたかった。マイクの向こうで終わりではないと言い切った、彼のように。
なおも続く姫路の要求を聞きながら、永山は妻に会いたいと思った。彼女の作るカルボナーラは絶品だった。自宅の冷蔵庫に残されたベーコンがあと何日もつのかはやはり分からなかったが、あした電話をしようと心に決めた。




