30.普通③
ガス爆発事故。
騒動が収まったあとの夕方。パークの客が集められたホテルの会議室で、警官だという厳ついスーツの男性がそう告げたとき、長命寺桜は思わず鼻で笑ってしまいそうになった。
警官は、漏れたガスを吸った一部の客は集団幻覚を見た可能性がある、とも言っていた。それをいったい誰が信じるのだろうかと桜は不思議で仕方なかったのだが、考えてみれば遊園地で怪獣を見たという話よりは真実味がある。それも事前に、迅速に、電子機器の類を全部没収されていなければの話ではあったが。
小一時間で返却されたスマホになにかされた形跡はなかったものの、おそらく、怪獣を撮影していた者に対してはその限りではなかったのだろうと桜は考える。
いちいち食ってかかるような話でもないということも理解している。被害らしい被害のない桜には、真相を求めて声を上げる意味も特にない。ただ見てしまっただけだけなのだから、忘れればいいだけのこと。うかつに踏み込めば大変なことになる予感もある。
今日はなにも見なかったし、なにも起きなかった。
強いて言えば、パーク側の計らいで無料で併設のリゾートホテルに泊まれることになったことと、明日の学校は休んでよいことになったことくらいだ。
だからといって、痛ましい事故の後で浮かれてはしゃぐような気にはなれず、夕食の間ずっと橋本肇や来瀬川姫路が気を遣って話しかけてくれるのも、あまり内容が頭に入ってこなかった。
今日は特別な日になるはずだったのに、何もかもぶち壊しだった。
そうして、あてがわれたシングルの部屋で寝付けもしない桜は、真夜中にイルミネーションをひとり眺めに行く羽目になった。
臨時営業しているホテルのレストランや報道関係者が詰め寄せているらしいロビーの周りを避けて、ちゃんと静かで落ち着ける場所ともなると、ほかに思いつかなかったからだ。他意はないはずだった。
だから、そう。缶コーヒーを片手にぼんやりしている見知った先客が居たとしても、それは桜の意図したことではない。
だいたい、彼は昨夜に見物を済ませているはずで、電飾程度のものはわざわざ何度も見るほどの物珍しさではないはずだった。
「なにやってんの」
「鳥の一生について思いを馳せてたんだ。空を飛べるってのも、実際のところはあまり羨ましくないもんなんだなあって」
寒空の下、無数の電光を前にする高梨明人は振り返りもせず、訳の分からないことを言った。
「なんで?」
「視界が高くてクソ怖かったからだ」
「……あ、そう」
桜は納得する。彼はジェットコースターが怖かったのだろう。
こんな日でも明人は変わらず奇人であった。
「はー。じゅうぶん羨ましい話だってば。こっちは乗る時間もなかったし」
「また来ればいいじゃないか。いや、まあ、別のとこがいいかも知れんが」
「そーね。最悪。もう二度と来ない」
わざとふくれっ面を作って彼の隣に並ぶ。
そうしてみても、明人が桜を向くことはなかった。ずずっと缶コーヒーをすすって電飾の光をじっと眺めている。ぼんやりとしているような、なにかを考え込んでいるような。気に入らない顔だった。
「あんなことがあったのに、あんたいつもどおり過ぎっしょ」
「あんなことって、ガス爆発のことか?」
「冗談でしょ? 怪獣よ怪獣。橋本君だって見てるし、高梨も見たでしょ」
「ああ。よくできたCGだったよな。驚いた」
「……CGの意味知ってる?」
「馬鹿にするんじゃない。こう見えても俺はCG満載の洋画が大好きだ」
「あーもう、ほんっとにコイツはー……っ!」
桜は虚空を殴ってクールダウンした。明人の戯言には付き合うだけ損だ。腹が立つだけである。黙々と素振りをする桜を「うわ」という表情でようやく見た明人は、溜息をひとつ吐いてから言った。
「まあ、なんだ。色々ショックだろうけど、今は何も考えずゆっくり休んでみたらいいんじゃないか。こんな夜中にフラフラせずにな」
当たり障りのない言葉だった。
なぜだか、素直に頷けない。
「無理だよ。亡くなってるんだよ、人」
そうして口にしてはみたものの、桜にもその実感はない。彼女が見たのはまったく現実味のない怪獣がアトラクションを破壊する姿と、遠くで浮いた人間がもやに飲まれて消え失せる場面だけだった。
あとはもう、わけもわからず姫路に連れられて肇と外まで逃げただけだ。実感など沸こうはずもない。
「そうだな」
その薄い言葉を見透かすような目でいながら、明人は首肯した。彼は時々そういう目をする。戯言を繰り出すでもなく、桜を追い返すでもなく、ただ黙って立っている。
ばつの悪い思いよりも、なぜだか安心感が勝っていた。しかし認めるのは素直に難しく、悔しい気もする。桜は関係のないことを言った。
「……てかさ、すごいよね。あんなときなのに、高梨は小比賀を探しに行ったんでしょ。ひとりで」
「は? ああ、まあ」
珍しく、明人は虚を突かれたような顔をした。
そうだ。そういう顔が見たかったのだ。
気を良くした桜は、いつものように突っ込んだ質問をする。
「もしかして小比賀と付き合ってんの?」
「お前な……またそれか」
「や、だって彼女でもないとないでしょ。あんなときに探しに行くなんてさ。なんか高梨すごい顔してたし。普通じゃないってかんじ」
「なんだそりゃ。また随分と面白い飛躍をしたな」
襟足のあたりを掻く明人は、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「お前の言う普通ってのが俺には分からん。なんだ、お前の普通って」
あんたみたいなのでしょ。
そう言いたかった桜は、なにも言えずに止まっていた。
明人はどう考えても普通ではない。
普通だったかもしれなかったが、それは夏休みの前までのこと。
過去のことだった。
自分はいったい何が言いたいのだろう。
桜は自問する。
そもそも自分は、いったいどうしてこんなところで、こんなことをしているのだろうか。本当なら今ごろ、自分の部屋でデートの満足感と共に一日を終えていたはずだったのに。
それがどうだろう。デートのデの字も経験した気がしない。せっかく気合を入れてお洒落をしてきたのに、誰一人に言及されることもなく服はランドリー行きになった。いま着ているのはコンビニで買った下着とスーベリアショップで売っていたダブダブの温泉パーカーだ。化粧だってさっさと落としてしまった。
怖かったからだ。
ずっと怖くて泣いていたからだ。避難していたあいだ、明人が近くにいなかったあいだ。訳も分からず、ただ怖くて、泣いて崩れて服が汚れてしまったからだ。
惨めだった。
あまりにもあんまりだった。
まったく現実味のないガス爆発事故とやらで、どうしてこんな目に遭わなければならないのだろうか。もっと大変な目に遭った人たちがいるのに、どうしてこんな醜い気持ちを抱かなければいけないのだろうか。
こんな自分だって、今日一日くらいは主役になれていいはずだったのに。
「あはは。うちみたいなの、かな」
へらっと笑っておどけてみせると、明人は苦い顔のままで首を傾げた。
「お前のどこが普通なんだ」
「なんていうか、そーね。どうやっても特別になれない感じ。わかる?」
「いや、分からんが……」
だろうと思った。桜は内心で笑いかける。
何があったかは分からないまでも、いまは特別になった少年に。
変わってしまった彼に対して、ずっともやもやしていた気持ちがあった。
今思えば、それは嫉妬に似たなにかだったかもしれない。肇や姫路と距離を縮め、うまく立ち回ることさえ簡単にこなしてしまう明人が、本当は羨ましかったのかもしれない。桜はそう思った。
そう思うことにした。
釈然としない面持ちで頭を掻く明人は、ちびり、と缶コーヒーを啜ってから桜を横目で見ながら言った。
「いや、俺としては大いに異論のあるところだ」
「なにが」
「お前は十分普通じゃないだろ。橋本の特別じゃないか」
なんでもないことのように発せられた一言に、息が止まる。
こいつは、人の気も知らずに。
パーカーの裾を握りしめ、桜は絞るように声を発した。
「だっ……だったらさ! もし……いないのが小比賀じゃなくて……うちでも探しに来たっての!? あんたは!?」
口にしてから後悔した。今はそんな話をしてはいなかったはずで、こんなみっともないことを言うつもりはなかったのだ。
だって分かり切っている。少々驚いた様子の明人が何を言うのか、隣の席からずっと彼を見ていた桜には聞くまでもなく分かる。分かるのだ。それを聞いてしまったら、もう。
「当たり前だろ。急にどうした」
これだ。
本当に人の気も知らないで、これなのだ。
真顔でこれなのだ。
だって彼にはそれが普通だ。ごく自然なことだからだ。
桜はもう、目の前の唐変木に対してもやもやとした気持ちがなくなっていることを理解した。この奇妙でアンバランスで、底抜けに善良な隣人に嫉妬する気持ちなど、あるいは最初からなかった。
ふーっと息を吐いて、冷えた空気を吸い込む。
桜は顔を上げ、面食らった様子の明人を見た。
「というか、いま俺の話はしてなかったと思うんだが……なんなんだお前?」
「あー、うっさい。ちょっと黙ってて」
脇腹にぺしっとパンチするが、明人はわずかに上体を揺らすくらいで全然効いていなさそうだった。何度か繰り返して、それから、彼の上着の裾を摘まんでしばらくそうしていることにした。
どうせ桜と彼の関係は変わらず、これで終わり。その先はないのだ。明日からはまた友達に戻る。そう決まっている。
だったら散々だった今日、最後の五分くらいはいいだろう。許されるはずだ。桜はそう思いながら、眩いイルミネーションに目を細めた。




