28.ラフ・デイ⑥
すべての翼竜が向かってくるという状況は様々な意味で好都合といえば好都合――あれらを殲滅するという観点で言えば文句のつけようのない好機ではあるのだが、実現の可能性が全くないのだからただの危機か。
いや、こうしてただ逃げているだけでも被害を減らせていると考えれば単純な危機とも言い難い。好都合といえば好都合だ。こうして思考は無駄にループする。
両手で瑠衣を抱きかかえ、俺は再び屋根上を走っていた。
翼竜に追われている限り安全な場所――避難している人たちが居そうな場所に向かうわけにはいかず、狙われているのが俺なのか瑠衣なのかを特定する術もない。あるいは両方という可能性もある。俺と瑠衣はもう、どちらがどちらを巻き込んだのかも判然としない。
「また跳ぶぞ!」
「うん」
抱える瑠衣に注意を促すだけ促すが、彼女がスピードに強いのはコースターで実証済みだ。屋根から屋根へと飛び移る際にも瑠衣は曖昧な表情のまま、黙って腕の中に収まっている。
地面に落着する際もそう、と思ったのだが、翼竜たちとの間に建物を挟んだ際に瑠衣は動きを見せた。ホルンを持ち上げたのだ。
「こっちに呼ぶ……そのまま走って」
思わず瑠衣の顔を見る。やはり何を考えているのか分からない。どこまでも囮をやる気らしいが――乗った。
「やってくれ!」
返事の代わりにホルンが鳴った。これほど緊迫した状況にもかかわらず、屋上で聞いた曲と同じ、心に訴えるような伸びやかな音。その音色にいざなわれるかのように、翼竜の一体が進行方向に回り込んで降りてくる。
手が塞がっている上に塞がっていなくとも相手にする術がない。空から次々と襲い来る翼竜たちに対し、できることは殆どない。足を止めれば死に捕まる。
「けど聴衆がこいつらだけってのは、ちょっと勿体がないか!」
そのまま翼竜の翼の下をかすめるように走り抜け、脇目もふらず逃げる。
瑠衣はホルンから唇を離して不思議そうな顔をした。
「……? 高梨くんが聴いてるよ」
「そりゃそうだけどそうじゃない……!」
まったく噛み合わないやり取りを交わしながら、芝生の上をスライディング気味に滑って翼竜の股下を抜ける。
気分はラガーマンだ。ただし、この試合にゴールラインは無い。どこへ向かえばいいかも分からず反撃の目もない。このままではいずれこちらの魔力が尽きる。それだけは確実だった。
賭けに出るしかない。
墜落した自衛隊のヘリには火器が残っているはずだ。なんとかそれらを入手して――いや、それでは賭けともいえない。藁に縋るようなプランでしかない。墜落場所はおおよそにしか分からないし、よしんば見つけたところで火器が使える状態かは疑わしい。そもそも俺には銃器など扱えない。
それでも縋る藁があるだけマシだ。
瑠衣が笛を鳴らす。翼竜を引き連れながら売店が軒を連ねるフードコートを跳び越える。そうして、俺は関係のないことを口にした。
「どうして俺が君を嫌ってなきゃいけない」
まったく状況にそぐわない疑問。最後に瑠衣と交わした会話の続きを。
瑠衣はやはり不思議そうな顔をする。
だが、この期に及んで隠すようなことはなにもない。
「覚えてないんだ。本当は」
「え?」
「君のことを覚えてない。何も知らないんだ。俺は。知ってるふりをしたけど、全然知らない。そもそも俺は、厳密に言えば高梨明人じゃない。少なくとも、君の知っている高梨明人じゃない」
自分のことを高梨明人だと認識しているスワンプマン。
怪物だ。
「だから……ああ、くそ。だから……」
なんだ。
自分で口火を切っておきながら、言葉の先は何にも繋がっていない。記憶も。千年が塗り潰した過去の高梨明人は、もういない。なくなってしまった。もしかするとそれは悲しいことだったのかもしれなかった。
だが、決して取り返しのつかないことではない。
かつて彼だった俺がここに居る。今の俺にはそう思える。
「……だから、ここを無事に切り抜けられたら教えてくれ。君のことを。俺たちのことを。そうすれば、また始められるかもしれない。友達として。何度だって」
瑠衣は、俺が話す間ずっと俯けていた顔を上げた。
その視線は呆然と遠くを見ていた。なにかを呟くように唇が動くが、音を伴わない。いかなる思いを巡らせているのかはさだかでなかった。
しかし、なぜだろう。その瞳から涙がこぼれるのを、俺は見た。深い安堵の色を湛えた瞳から流れた雫を見たのだ。
「ずっとどこかに行きたかった……ここじゃないどこかに」
瑠衣のその呟きが、かつての俺と重なる。
だが俺には何も分からない。翼竜に追われてさえまともな感情らしいものを見せなかった少女が涙する意味も。そのわけも。
ただ、かつての高梨明人と小比賀瑠衣の間には何か不本意な訣別があったのだとだけ理解する。
それは瑠衣に深い負い目を抱かせるような何か、軽々しく口にできるような理由からではなかったのだろう。高梨明人はそれを許すべきではないのだと、彼女自身が思い込むほどに。
あるいは、かつての彼には本当に許せなかったのかもしれない。来瀬川教諭が知るように、小比賀瑠衣を強く疎んじるに足るほどの話だったのかもしれない。それはもう、分からない。おそらく誰にも。
だが正直。本当に正直なところ。
俺の知ったことではないのだ。そんなものは。俺が瑠衣を嫌っていない。それがすべてだ。
「……ここだって、そう悪くない。悪くないんだ。だから」
視界が拓ける。
当て推量で走り続けた先、噴水を備えた広場の中央。
墜落したヘリの機体が見えた。
「これ以上は悪くさせない」
同時に、二体の翼竜が立ち塞がるように着地して地を揺らす。
背後には三体がいる。左右に一ずつ。
包囲された。
小癪だ。翼竜は本能に身を任せているように見えて、それなりに賢く動いている。翼竜に戦術的な行動が可能なほどの知性はないはずだが、そもそもあれらの行動は始まりからして強い違和感がある。
人類種を超える魔術を行使する竜種ならばともかく、生態として獣同然の翼竜が隠匿術式を使うなどと。俺は聞いたことがない。
が、その疑問を解き明かすのは後だ。
足を止めず、直感で合図をする。
「ホルンを!」
「わかった……!」
視界の下限で細い指が躍る。
力強い音が響き、翼竜たちの放散する殺気が明らかに強くなった。獣たちが一瞬見せた戦術性は霧散し、走る俺に目掛けて我先にと殺到してくる。
その反応に確信を得た。
いまやただ注意を引いているだけではない。あれらは群れの一員の死を、ホルンの音と関連付けている。
衝突し、揉み合うように迫る翼竜の間をすり抜けるように躱す。最後の障害をパスした俺にはもう、大した魔力は残されていなかった。墜落して大破したヘリに辿り着くや、ひしゃげた機体のどこかに武器を探す。
しかし、そのヘリコプターが備える武器はすべて機体に固定されているようだった。ミサイルやロケットと思しき円筒、いくつか見て取れる火器類はすべて操縦席で操作するタイプだと推測できる。そして、操縦席は一見して使い物にならないと分かるほどひしゃげて――破壊されてしまっていた。中の人員ごと。
武器はない。
藁が手からすり抜けていく。
「クソッ!」
思わず吐いた悪態を聞いたわけでもないだろう。
躱した翼竜たちが反転していた。怖気を催すような咆哮をあげ、ふたたび殺到してくる。咄嗟に走りだしながらも、俺は濃密な死の気配に歯噛みする。
素手でやるしかない。しかし、やれるのか。瞬時にあらゆるパターンを想定してみるが、相当な幸運に恵まれてさえ一体を道連れにできるか疑わしい。
が、他に道はない。
俺はもう、ただの一度だって負けるつもりがない。
「……!」
覚悟を決めたとき、鋭い呼気を漏らした瑠衣が目を瞠った。
迫る翼竜にではない。耳を澄ませると、獣たちの響かせる地響きに混じって、微かな、遠い音が俺にも分かった。
ヘリコプターのローター音とは違う。もっと聞き慣れたエンジン音だ。
走りながら俺は前方に見る。細い公園樹をなぎ倒し、生垣をぶち破って広場に躍り出る自動車の姿を。小ぶりなイエローのSUV。そのフロントガラス越しに見える、必死の形相でハンドルを回す人の顔を。
来瀬川教諭。
「なんでだよ!?」
思わず叫ぶ俺。唖然とする瑠衣。
そんな俺たちを視認したと思しき来瀬川教諭の車は、通常聴くことがないような甲高いエンジン音をあげて芝の上を斜めに滑った。運転技術というより勢いによって実現しているらしき高速の蛇行は、翼竜たちから逃れるべく走っていた俺たちに向かって伸びてくる。
車で翼竜を轢くつもりなのか。
ぞっとさせられる。彼女がそんな軽はずみな行動に出るとは信じられなかった。それはまったく意味のない行為だ。車の衝突で翼竜は止められない。
しかし。
彼女の車が悪路を跳ねながら俺たちとすれ違う瞬間、俺は知った。
開いた運転席の窓から、
来瀬川教諭の手からそれが投げられた瞬間に悟ったのだ。
およそ一.五メートルほどの長さの黒と銀。
刀身を黒漆塗の鞘に収めた、ひと振りの古びたる西洋剣を。
然して、俺は左手にホルン奏者を抱えたまま、右の掌でそれを掴む。
「やっちゃえ、高梨くん!」
その瞬間、来瀬川教諭の朗らかな声が聞こえた気がした。
跳ね上がった車の運転席で、無理をした笑顔の彼女が拳を振り上げているのが見えた。そうして、小ぶりなイエローのSUVは翼竜の脚に踏みつぶされた。
奥歯が砕けんばかりに噛み合う。
彼女がどのようにしてそれを入手し、俺に届けたのか。おぼろげに分かる。
手にした剣は、あまりにも古い鉄でできている。武器というより、むしろ骨董品だ。博物館か美術館に置かれているほうがしっくりくる。実際もそれから遠くないに違いない。
これで十分だった。十分過ぎるくらいだった。
まるで最後にひとつだけ欠けたパズルのピースのように、完璧に、その剣は俺の手に収まる。たとえその刀身が実用に耐えずとも、剣であるという概念が、その形をとった武器であるという意味だけが、剣の福音には必要だったからだ。
剣技を行使する。
意思に呼応して体が動く。俺は古びた西洋剣を宙に投じ、右手だけで鞘から引き抜いた。鈍く輝く細身の刀身が露わになり、鮮やかな空の青を映す。その瞬間、どこから生まれたか分からない魔力が骨董品と全身に充填され、俺の四肢は莫大な推進力を得て跳躍した。
逃れるのではなく、迫る翼竜たちへと向かって。
すれ違いざまに右手を振るう。
大げさな太刀筋は要らない。剣先一寸で撫でるようにして描いた軌跡が、来瀬川教諭を踏みつぶした翼竜の頭部を割った。更に魔素の足場を蹴り、反転して地面に落着するや、こと切れて揺れる翼竜の図体目掛けて下段から剣を打ち上げる。
「――どけぇッ!」
久方振りに繰り出した剛剣の剣技は、あるいはオリジナルを凌駕するほどの威力を発揮した。小山ほどはある翼竜を高々と打ち上げ、はるか遠方のアトラクションまで吹き飛ばした。
その衝撃波たるや、はっきりと視認できるほど魔素の波、同心円状の余波で翼竜たちが怯んで空へと逃れていくほどだった。
それはもう、あり得ない威力だと言わざるを得ない。福音による剣技の再現が、変則発動、混合を使わずにオリジナルを凌駕するなどと、いままで一度だってそんなことはなかった。
しかも、反動がない。遺物抜きでの権能行使や変則発動のペナルティが感じられないのだ。
剣の福音が力を増している。
再び剣をとったいま、その実感があった。
理由は分からないまでも以前より強く、違和感なく機能していた。
足元がびりびりと震えるような、過去に類を見ない権能の挙動に戸惑いながらも、俺は我に返る。
「……先生……ひーちゃん先生!」
無惨に潰れた車まで走り、瑠衣を傍らの地面に下ろして、歪んで用を為さなくなったドアを力任せに引きちぎる。
最悪の想像を嘲笑うかのような光景がそこにはあった。
天井から潰れた運転席の下。座席とアクセルの間、ほんの僅かな空間に、ずり落ちるようにして収まった来瀬川教諭が大きな瞳をぱちくりさせていた。コンパクトな子供先生は潰れることも怪我をすることもなく、見事に収まり切っている。
ああ――まったく、この人は。
「すごいな……なんでそれで足が届いてたんですか」
「ちょ、ちょっとひどくない!? つらいんだよこれ!?」
「いや、割とちょうどよくハマってるように見えます。よかったですね」
「ひどい! 無事を喜んでよ!」
わめく来瀬川教諭の声は元気そのものといった感で、まあ、けっこう余裕がありそうだった。
つい、安堵で脱力してしまう。もうその場で芝に寝転がってしまいたいような気分だったが、残念ながらそうもいかない。
「高梨くん」
瑠衣のフラットな呼びかけに顔を上げる。
遠巻きに広場の上を旋回する翼竜たちが、群れの二体を失った怒りの咆哮をあげている。
やるべきことは定まっている。
倍する怒りが俺にはある。
古ぼけた剣の刃を持ち上げ、俺は空の敵を見据えた。




