26.角笛を鳴らして
母の浮気相手が同級生の父親だと知ったのは、中学最後の冬のことだ。
その恥ずべき現実に抱いた感情がシンプルな嫌悪で留まったのは、ひとえに小比賀瑠衣の臆病なパーソナリティに依る。
品行方正であるべしとして育てられた上流の娘が、ああも簡単に道を外すのかと冷めた目で母を見た。それだけで終わった。それしかできなかった。反抗することが恐ろしかったからだ。
ゆえに。
小比賀家に騒動はなかった。気取っていたはずの父も何事もなかったかのように振る舞い、母もそれに便乗した。やがて瑠衣も倣った。流れに任せるのがいい。それが一番怖くないのだと瑠衣は知っている。
ほんとうのことは、あの家のどこにもなかった。
だが浮気相手の家はそうでもなかったらしい。
瑠衣がそう聞いたのは、一年も後。
高校に入って、高梨明人と初めて言葉を交わした頃だ。
瞼を上げると、頭から血を流した男がこと切れていた。
たしか、ローカルテレビ局のクルーだと言っていた気がする。瑠衣はなんとなく思い出しながら両掌を合わせて瞑目した。
彼は運が無かったと言える。空飛ぶ蜥蜴に壊されたアトラクションの鉄骨が、偶然にも第二入園口の付近に直撃したのだ。カフェの前で演奏会の準備をしていたスタッフも演者も、僅かに集まりつつあった観客もセットも、すべてが壊れた。
だから彼だけではなかった。
瑠衣が身を起こすと、周囲には他にも人が倒れていた。
まだ息をしている者もいる。
そう気付くが、瑠衣は殊更に何かを思わなかった。
いずれにしても誰も助からない。
「……」
瑠衣は羽ある蜥蜴たちを数えた。
絵から飛び出してきたかのような幻想の生き物が、破壊と殺戮の限りを尽くす光景があった。飽きて早送りした映画のエンディング。唐突に世界の終わりがやってきたかのような光景が。
「こんなことって、あるんだなあ……」
余人とは異なる感性を持つ瑠衣には、その光景が強く心に響いた。
息が詰まるような家、退屈な学校、押し付けられる演奏の場だけが物事のすべてではなかった。行き詰まりを見せていた自分の楽譜には、ほんとうはまだ未知の可能性があったのだと気付けた。
羽ある蜥蜴たちが来た、扉の向こう。
ここではないどこかが、きっとどこかにあるのだ。
だが同時に、瑠衣にはその真実だけが残念だった。この曲にページは多く残されておらず、可能性は可能性のままで終わりを迎える。彼女にはそれだけが悲しかった。
自分もきっと、そこへ行きたいというのに。
そう考えた途端、なにか言い知れないものが己の内から込み上げてきた。
衝き動かされるように胸を押さえてうずくまる。
視界が明滅を繰り返し、鼓動が早鐘を打った。
おかしい。
「な、なに……?」
瞼を閉じてもそれは見える。
球体が連なる幻影。つめたい星海に枝を伸ばす大樹が。虚で形を取った花、まつろわぬ水を湛えた白き鏡面が。
そこに立つ何ものでもない誰かが見える。
その者へと手を伸ばし、手で触れれば何かが分かるかもしれない。
瑠衣は誘われるかのように虚像へと手を伸ばす。
だが、それらは人の認知しうる概念ではない。生命をほどき、存在の段階を上げる招き手。此方より生まれ彼方へと去った者の残滓――
そのとき、
恐るべき獣の叫び声が、瑠衣の意識を彼方の星界から呼び戻した。
慌てて振り返れば、洋風建築を模した様式のストリートに蜥蜴の一匹が降り立っていた。瑠衣は自分の喉から細い声が漏れるのを聞いた。
邪魔をされた。邪魔立てをしたのだ、あの蜥蜴は。
何が起きていたかは分からない。分からなくなってしまったが、とにかく機を逸したという確信だけが瑠衣にはあった。
「……あと少しだったのに!」
地鳴りに等しい足音を鳴らしながら、翼ある蜥蜴が迫り来る。小山ほどはある異形の獣は瑠衣とその周囲に倒れる人間たちをめがけて一直線に向かってくる。
食べられるか踏み散らされるかどちらかだと理解できていても、瑠衣にも人々にも逃れる術はない。尋常の縮尺では収まらない蜥蜴の走るスピードは、瑠衣が走ってふり切れるものでは到底ないように見えた。
曲が終わる。
そう思った瞬間、怒声が響いた。
「伏せなさい、瑠衣!」
反射的に身を屈める瑠衣の後ろから、こもった破裂音が三度鳴った。
はじめて耳にする音だ。興味をひかれて目を向けると、見たこともないほど狼狽した様子の叔父、永山喜嗣の姿があった。
叔父は黒いオートマチックの拳銃を水平に構えていた。発砲したのだと瑠衣は理解したが、温厚でどこか抜けているあの叔父が、この平和な日本で引き金を引くとは、すぐには信じられなかった。
思い直す。
普通、あの蜥蜴たちは恐ろしい怪物なのだ。人を襲い、人を食らう巨大な怪物。遅まきながらそう考えると、発砲するのは当然の反応かと納得した。
また破裂音がした。
叔父の構えた銃が一瞬なにかの動きを見せ、もやを吐いていた。
四度目の発砲。
しかし、蜥蜴は止まらない。迫り来る蜥蜴は痛痒の様子を見せておらず、叔父があんな大きな的を外しているのかと瑠衣は訝む。当の叔父はいっそうの狼狽を見せた。
「っ!? なんなんだあれは!?」
ここでない彼方より来たもの。
なんとなくそう思う瑠衣だが、口にはしなかった。叔父の銃は当たっているのかもしれない、と曖昧に理解しただけだった。あれにはおそらく、此方の理など適用されないのだろう。
銃を下げた叔父は、瑠衣に飛びつくようにして抱えるやいなや、諸共に脇道へと身を躍らせる。その咄嗟の判断は両者の命を救った。
カフェに突っ込むようにして激突した蜥蜴が、建物を完全に破壊した。微かに悲鳴が上がったような気がしたものの、瑠衣は考えるのをやめた。
代わりに、瑠衣を抱えたまま呆然としている叔父に向けて口を開いた。
「……叔父さん……どうしてここに?」
その問いで我に返ったらしい叔父は、眼鏡の奥で目を丸くした。
「どうしてって……」
理解し難い。
叔父がこのような異様な現場に身を投じる理由が、瑠衣にはよく分からなかった。彼は警察官ではあるが、それ以前に官僚でもある。彼の仕事は現場にはないと聞いていた。
叔父ははっきりとは答えず、苦い顔をした。
「やれやれ、こんなときでも変わりませんね、瑠衣は。あなたにもし何かあったら、私は姉さんに合わせる顔がない。そういうことです」
「……ふうん」
相槌を打ちつつも、瑠衣はやはり納得していなかった。
彼の姉はもう居ない。
「にしても……これは現実なんですか。悪い夢としか思えない。あんな生き物が実在するわけが……」
なにかを貪るように首を上下させる蜥蜴を陰から窺いながら、叔父は額を拭う。その手に握られていた拳銃に気付くと、彼は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「これを使うのも、結構な覚悟が必要だったんですがね。滑稽だ」
「……始末書もの……ってよく言うよね」
「それは誤りです。報告書を書かないといけないのは違いないですが、別に必ず怒られるわけではありませんよ。抜かないに越したことはないのでしょうが、飾りというわけでもない」
ふう、と息を吐いた叔父は銃を懐に仕舞ってしまった。
「とにかく、さっさとあれから離れましょう。脇道から外へ出ますよ」
「まって」
屈んだまま歩き出そうとする叔父の肩を引き、瑠衣は数少ない関心事を口にする。
「……高梨君たちも一緒だったから。呼ばないと」
「な……」
叔父は絶句し、一瞬考えを巡らせるような顔をしてから眉間を揉んだ。
「いや。そう、でしたね。私があなたを彼に預けたんでした。しかし、まさかこんなことになるとは……彼は園内に残っているんですか」
「……わからないけど、来瀬川先生も一緒に居ると思う」
「来瀬川さんも来てるんですか? ここに?」
再び叔父の表情が変わった。苦渋の顔ではあったものの、危惧するような色が消えている。
「彼女がついているなら、きっと高梨君も無事です。彼女は私よりよほどしっかりしている。よほどのことがなければもう安全な場所に……」
叔父は言いながら気付いた。
よほどのこと、である瑠衣は瞬きをする。
あの教師の性格からして、生徒を置いて逃げはしないと彼女も思う。
「……なんてことだ」
叔父は再び拳銃を抜いた。
残りの弾がいくつなのか。瑠衣には知れなかったものの、四発撃っても目に見えた効果がない相手に対し、銃にどれほどの意味が残っているかわからない。叔父もそれはよく理解している様子だった。抜いたはいいものの、夢中で食事を続ける蜥蜴に向けるなどということはせず瑠衣を見た。
「いずれにしても一度園外に出ます。そこからはひとりで―――
―――。
低い音がして、不意に意識が飛んだ。
痛みがあった。
瑠衣は自分がまたも昏倒しかけていたことを知り、ゆっくりと頭を振って立ち上がる。体のあらゆる箇所が痛んだが、痛みよりも景色の変化に戸惑った。
脇道にいた筈が、脇道でなくなっていた。
蜥蜴が振り回した長大な尾が、脇道を作っていた左右の建物を根こそぎ破壊したのだった。そう理解したのは、尾を振り回す蜥蜴と、一人対峙する叔父の姿を視界に捉えたからだ。
「逃げなさい! 瑠衣!」
後ろに下がりながら発砲する叔父に対し、蜥蜴は尾をしならせながらにじり寄る。分かりやすい動作のない、予兆なく断続的に繰り出される尾撃を、叔父は姿勢を低くして何度かかいくぐってみせた。あの叔父が鍛えているとは思わなかった瑠衣は、その勇姿を意外に思う。
「あ」
だが、幸運は何度も続かなかった。
七度振るわれた尾の、ついに直撃を受けた永山喜嗣は、まるでなにかの冗談のように宙を舞った。人間が放物線を描くさまを初めて目にした瑠衣は、彼が言っていたように、これは夢なのではないだろうかと訝った。
弾けた叔父は対角線上にあったクレープの屋台に落着した。凄まじい音がして、ガラスと建材の破片が飛び散る。それきり彼は動かなかった。拳銃もどこにいったのか分からない。
叔父は死んでしまったのだろうか。
余人とは異なる感性で、瑠衣は少しだけ状況を考察した。考えても当然、遠目に叔父の生死がわかるわけもない。ただ、彼が死んだとすればそれはとても残念な出来事で、そうでないことを自分は望んでいる。
だから。
痛む首を動かし、瑠衣は辺りに視線を彷徨わせた。そうして崩れた会場セットのそばに自らの楽器、金管の輝きを見止めて歩きだした。
屋台の残骸に突っ伏す叔父に蜥蜴が辿り着くよりも早く、瑠衣は瓦礫の中から自分のホルンを掴んだ。ペット――トランペットのほうがよかったかもしれない。そんな風に思いながら息を整え、マウスピースに口をあてがう。
F管Bフラット。
ただ大きく響かせるためだけに発した音が、蜥蜴の巨体を止めた。大蛇のような首がうねり、黒い双眸を瑠衣へと向ける。威嚇の鳴き声を上げる蜥蜴に、まるで挑発するかのように愛器のレバーを操った。
瑠衣がホルンを嗜むのは、幼少のころに指導者が見い出した優れた才能のためでもなければ、積み上げてきた努力と実績のためでもない。周囲の期待や賞賛のためでもない。恐怖で抑圧された感情。フラストレーション。その発露である。
演奏を情感豊かと評されるたび、瑠衣は微笑んだ。
それはそうだろうと彼女は笑う。当人から欠け落ちた感情の、そのすべてを瑠衣は音に乗せているだから。そのすべてを託した音を生むとき、たまらなく気分が良いのだから。
高らかに響き渡ればいい。
耳あるすべてのものは聞けばいい。
蜥蜴の注意を引きながら、瑠衣は躊躇なく裏路地へと走った。肺活量には自信がある。調子はずれの音を鳴らしながら走るくらいはこなせる。
彼女を追い、胴体を路地裏をねじ込もうとした蜥蜴がその巨体で建物を破壊した。凄まじい、非現実的な破壊の嵐を目の当たりにしながらも、瑠衣はホルンを吹き続ける。
いっそすべての蜥蜴を集めてしまおう。
瑠衣は痛みをこらえながら笑う。彼方よりきたる悪しき夢をかき集め、もしも笛吹き男のように消えることができたなら。
きっと、自分も此方から去り彼方へと至るのだ。ほんとうのことはなにひとつない、あの家のドアを開いて。




