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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
五章 シンギュラリティ
223/321

26.角笛を鳴らして

 母の浮気(うわき)相手が同級生の父親だと知ったのは、中学最後の冬のことだ。

 その()ずべき現実に(いだ)いた感情がシンプルな嫌悪(けんお)(とど)まったのは、ひとえに小比賀(おびか)瑠衣(るい)臆病(おくびょう)なパーソナリティに()る。

 品行方正であるべしとして育てられた上流の(むすめ)が、ああも簡単に道を外すのかと冷めた目で母を見た。それだけで終わった。それしかできなかった。反抗(はんこう)することが(おそ)ろしかったからだ。

 

 ゆえに。

 小比賀(おびか)家に騒動(そうどう)はなかった。気取っていたはずの父も何事もなかったかのように()()い、母もそれに便乗した。やがて瑠衣(るい)(なら)った。流れに任せるのがいい。それが一番(こわ)くないのだと瑠衣(るい)は知っている。

 

 ほんとうのことは、あの家のどこにもなかった。

 

 だが浮気(うわき)相手の家はそうでもなかったらしい。

 瑠衣(るい)がそう聞いたのは、一年も後。

 高校に入って、高梨(たかなし)明人(あきと)と初めて言葉を()わした(ころ)だ。

 

 

 

 (まぶた)を上げると、頭から血を流した男がこと切れていた。

 たしか、ローカルテレビ局のクルーだと言っていた気がする。瑠衣(るい)はなんとなく思い出しながら両掌(りょうて)を合わせて瞑目(めいもく)した。

 (かれ)は運が無かったと言える。空飛ぶ蜥蜴(とかげ)(こわ)されたアトラクションの鉄骨が、偶然(ぐうぜん)にも第二入園口の付近に直撃(ちょくげき)したのだ。カフェの前で演奏会の準備をしていたスタッフも演者も、(わず)かに集まりつつあった観客もセットも、すべてが(こわ)れた。

 

 だから(かれ)だけではなかった。

 瑠衣(るい)が身を起こすと、周囲には(ほか)にも人が(たお)れていた。

 

 まだ息をしている者もいる。

 そう気付くが、瑠衣(るい)殊更(ことさら)に何かを思わなかった。

 いずれにしても(だれ)も助からない。

 

「……」

 

 瑠衣(るい)は羽ある蜥蜴(とかげ)たちを数えた。

 絵から飛び出してきたかのような幻想(げんそう)の生き物が、破壊(はかい)殺戮(さつりく)の限りを()くす光景があった。()きて早送りした映画のエンディング。唐突(とうとつ)に世界の終わりがやってきたかのような光景が。

 

「こんなことって、あるんだなあ……」

 

 余人とは異なる感性を持つ瑠衣(るい)には、その光景が強く心に(ひび)いた。

 息が()まるような家、退屈(たいくつ)な学校、()()けられる演奏の場だけが物事のすべてではなかった。()()まりを見せていた自分の楽譜(がくふ)には、ほんとうはまだ未知の可能性があったのだと気付けた。

 

 羽ある蜥蜴(とかげ)たちが()た、(とびら)の向こう。

 ここではないどこか(・・・)が、きっとどこかにあるのだ。

 

 だが同時に、瑠衣(るい)にはその真実だけが残念だった。この曲にページは多く残されておらず、可能性は可能性のままで終わりを(むか)える。彼女(かのじょ)にはそれだけが悲しかった。

 

 自分もきっと、そこ(・・)へ行きたいというのに。

 

 そう考えた途端(とたん)、なにか言い知れないものが(おのれ)の内から()()げてきた。

 ()(うご)かされるように胸を()さえてうずくまる。

 視界が明滅(めいめつ)()(かえ)し、鼓動(こどう)早鐘(はやがね)を打った。

 おかしい。

 

「な、なに……?」

 

 (まぶた)を閉じてもそれは見える。

 球体が連なる幻影(げんえい)。つめたい星海に枝を()ばす大樹が。(うろ)で形を取った花、まつろわぬ水を(たた)えた白き鏡面が。

 そこに立つ何ものでもない(だれ)かが見える。

 

 その者へと手を()ばし、手で()れれば何かが分かるかもしれない。

 瑠衣(るい)(さそ)われるかのように虚像(きょぞう)へと手を()ばす。

 

 

 だが、それらは人の認知(にんち)しうる概念(がいねん)ではない。生命をほどき、存在の段階を上げる招き手。此方(こなた)より生まれ彼方(かなた)へと去った者の残滓(ざんし)――

 

 

 そのとき、

 (おそ)るべき(けもの)(さけ)(ごえ)が、瑠衣(るい)の意識を彼方(かなた)の星界から()(もど)した。

 (あわ)てて()(かえ)れば、洋風建築を模した様式のストリートに蜥蜴(とかげ)の一(ひき)が降り立っていた。瑠衣(るい)は自分の(のど)から細い声が()れるのを聞いた。

 邪魔(じゃま)をされた。邪魔立(じゃまだ)てをしたのだ、あの蜥蜴(とかげ)は。

 何が起きていたかは分からない。分からなくなってしまったが、とにかく機を(いっ)したという確信だけが瑠衣(るい)にはあった。

 

「……あと少しだったのに!」

 

 地鳴りに等しい足音を鳴らしながら、(つばさ)ある蜥蜴(とかげ)(せま)り来る。小山ほどはある異形の(けもの)瑠衣(るい)とその周囲に(たお)れる人間たちをめがけて一直線に向かってくる。

 食べられるか()()らされるかどちらかだと理解できていても、瑠衣(るい)にも人々にも(のが)れる術はない。尋常(じんじょう)の縮尺では収まらない蜥蜴(とかげ)の走るスピードは、瑠衣(るい)が走ってふり切れるものでは到底(とうてい)ないように見えた。

 曲が終わる。

 そう思った瞬間(しゅんかん)怒声(どせい)(ひび)いた。

 

()せなさい、瑠衣(るい)!」

 

 反射的に身を(かが)める瑠衣(るい)の後ろから、こもった破裂(はれつ)音が三度鳴った。

 はじめて耳にする音だ。興味をひかれて目を向けると、見たこともないほど狼狽(ろうばい)した様子の叔父(おじ)永山喜嗣(ながやまよしつぐ)の姿があった。

 叔父(おじ)は黒いオートマチックの拳銃(けんじゅう)を水平に構えていた。発砲(はっぽう)したのだと瑠衣(るい)は理解したが、温厚(おんこう)でどこか()けているあの叔父(おじ)が、この平和な日本で引き金を引くとは、すぐには信じられなかった。

 

 思い直す。

 普通(ふつう)、あの蜥蜴(とかげ)たちは(おそ)ろしい怪物(かいぶつ)なのだ。人を(おそ)い、人を食らう巨大(きょだい)怪物(かいぶつ)(おそ)まきながらそう考えると、発砲(はっぽう)するのは当然の反応かと納得(なっとく)した。

 また破裂(はれつ)音がした。

 叔父(おじ)の構えた(じゅう)一瞬(いっしゅん)なにかの動きを見せ、もやを()いていた。

 四度目の発砲(はっぽう)

 しかし、蜥蜴(とかげ)は止まらない。()り来る蜥蜴(とかげ)痛痒(つうよう)の様子を見せておらず、叔父(おじ)があんな大きな的を外しているのかと瑠衣(るい)(いぶか)む。当の叔父(おじ)はいっそうの狼狽(ろうばい)を見せた。

 

「っ!? なんなんだあれは!?」

 

 ここでない彼方(かなた)より()たもの。

 なんとなくそう思う瑠衣(るい)だが、口にはしなかった。叔父(おじ)(じゅう)は当たっているのかもしれない、と曖昧(あいまい)に理解しただけだった。あれにはおそらく、此方(こなた)の理など適用されないのだろう。

 

 (じゅう)を下げた叔父(おじ)は、瑠衣(るい)に飛びつくようにして(かか)えるやいなや、諸共(もろとも)脇道(わきみち)へと身を(おど)らせる。その咄嗟(とっさ)の判断は両者の命を救った。

 カフェに()()むようにして激突(げきとつ)した蜥蜴(とかげ)が、建物を完全に破壊(はかい)した。(かす)かに悲鳴が上がったような気がしたものの、瑠衣(るい)は考えるのをやめた。

 代わりに、瑠衣(るい)(かか)えたまま呆然(ぼうぜん)としている叔父(おじ)に向けて口を開いた。

 

「……叔父(おじ)さん……どうしてここに?」

 

 その問いで我に返ったらしい叔父(おじ)は、眼鏡(めがね)(おく)で目を丸くした。

 

「どうしてって……」

 

 理解し(がた)い。

 叔父(おじ)がこのような異様な現場に身を投じる理由が、瑠衣(るい)にはよく分からなかった。(かれ)は警察官ではあるが、それ以前に官僚(かんりょう)でもある。(かれ)の仕事は現場にはないと聞いていた。

 叔父(おじ)ははっきりとは答えず、苦い顔をした。

 

「やれやれ、こんなときでも変わりませんね、瑠衣(るい)は。あなたにもし何かあったら、(わたし)(ねえ)さんに合わせる顔がない。そういうことです」

「……ふうん」

 

 相槌(あいづち)を打ちつつも、瑠衣(るい)はやはり納得(なっとく)していなかった。

 (かれ)の姉はもう居ない。

 

「にしても……これは現実なんですか。悪い夢としか思えない。あんな生き物が実在するわけが……」

 

 なにかを(むさぼ)るように首を上下させる蜥蜴(とかげ)(かげ)から(うかが)いながら、叔父(おじ)は額を(ぬぐ)う。その手に(にぎ)られていた拳銃(けんじゅう)に気付くと、(かれ)自嘲(じちょう)めいた()みを()かべた。

 

「これを使うのも、結構な覚悟(かくご)が必要だったんですがね。滑稽(こっけい)だ」

「……始末書もの……ってよく言うよね」

「それは誤りです。報告書を書かないといけないのは(ちが)いないですが、別に必ず(おこ)られるわけではありませんよ。()かないに()したことはないのでしょうが、(かざ)りというわけでもない」

 

 ふう、と息を()いた叔父(おじ)(じゅう)(ふところ)仕舞(しま)ってしまった。

 

「とにかく、さっさとあれから(はな)れましょう。脇道(わきみち)から外へ出ますよ」

「まって」

 

 (かが)んだまま歩き出そうとする叔父(おじ)(かた)を引き、瑠衣(るい)は数少ない関心事を口にする。

 

「……高梨(たかなし)君たちも一緒(いっしょ)だったから。呼ばないと」

「な……」

 

 叔父(おじ)は絶句し、一瞬(いっしゅん)考えを(めぐ)らせるような顔をしてから眉間(みけん)()んだ。

 

「いや。そう、でしたね。(わたし)があなたを(かれ)に預けたんでした。しかし、まさかこんなことになるとは……(かれ)は園内に残っているんですか」

「……わからないけど、来瀬川(くるせがわ)先生も一緒(いっしょ)に居ると思う」

来瀬川(くるせがわ)さんも()てるんですか? ここに?」

 

 再び叔父(おじ)の表情が変わった。苦渋(くじゅう)の顔ではあったものの、危惧(きぐ)するような色が消えている。

 

彼女(かのじょ)がついているなら、きっと高梨(たかなし)君も無事です。彼女(かのじょ)(わたし)よりよほどしっかりしている。よほどのことがなければもう安全な場所に……」

 

 叔父(おじ)は言いながら気付いた。

 よほどのこと、である瑠衣(るい)(またた)きをする。

 あの教師の性格からして、生徒を置いて()げはしないと彼女(かのじょ)も思う。

 

「……なんてことだ」

 

 叔父(おじ)は再び拳銃(けんじゅう)()いた。

 残りの(たま)がいくつなのか。瑠衣(るい)には知れなかったものの、四発()っても目に見えた効果がない相手に対し、銃にどれほどの意味が残っているかわからない。叔父(おじ)もそれはよく理解している様子だった。()いたはいいものの、夢中で食事を続ける蜥蜴(とかげ)に向けるなどということはせず瑠衣(るい)を見た。

 

「いずれにしても一度園外に出ます。そこからはひとりで―――

 

 

 

 ―――。

 

 

 

 低い音がして、不意に意識が飛んだ。

 

 痛みがあった。

 瑠衣(るい)は自分がまたも昏倒(こんとう)しかけていたことを知り、ゆっくりと頭を()って立ち上がる。体のあらゆる箇所(かしょ)が痛んだが、痛みよりも景色(けしき)の変化に戸惑(とまど)った。

 脇道(わきみち)にいた(はず)が、脇道(わきみち)でなくなっていた。

 蜥蜴(とかげ)()(まわ)した長大な()が、脇道(わきみち)を作っていた左右の建物を根こそぎ破壊(はかい)したのだった。そう理解したのは、()()り回す蜥蜴(とかげ)と、一人(ひとり)対峙(たいじ)する叔父(おじ)の姿を視界に(とら)えたからだ。

 

()げなさい! 瑠衣(るい)!」

 

 後ろに下がりながら発砲(はっぽう)する叔父(おじ)に対し、蜥蜴(とかげ)()をしならせながらにじり寄る。分かりやすい動作のない、予兆なく断続的に()()される尾撃を、叔父(おじ)は姿勢を低くして何度かかいくぐってみせた。あの叔父(おじ)(きた)えているとは思わなかった瑠衣(るい)は、その勇姿を意外に思う。

 

「あ」

 

 だが、幸運は何度も続かなかった。

 七度()るわれた()の、ついに直撃(ちょくげき)を受けた永山喜嗣(ながやまよしつぐ)は、まるでなにかの冗談(じょうだん)のように宙を()った。人間が放物線を(えが)くさまを初めて目にした瑠衣(るい)は、(かれ)が言っていたように、これは夢なのではないだろうかと(いぶか)った。

 

 (はじ)けた叔父(おじ)は対角線上にあったクレープの屋台に落着した。(すさ)まじい音がして、ガラスと建材の破片が飛び散る。それきり(かれ)は動かなかった。拳銃(けんじゅう)もどこにいったのか分からない。

 

 叔父(おじ)は死んでしまったのだろうか。

 

 余人とは異なる感性で、瑠衣(るい)は少しだけ状況(じょうきょう)を考察した。考えても当然、遠目に叔父(おじ)の生死がわかるわけもない。ただ、(かれ)が死んだとすればそれはとても残念な出来事で、そうでないことを自分は望んでいる。

 だから。

 

 痛む首を動かし、瑠衣(るい)は辺りに視線を彷徨(さまよ)わせた。そうして(くず)れた会場セットのそばに自らの楽器、金管の(かがや)きを見止めて歩きだした。

 屋台の残骸(ざんがい)()()叔父(おじ)蜥蜴(とかげ)辿(たど)()くよりも早く、瑠衣(るい)瓦礫(がれき)の中から自分のホルンを(つか)んだ。ペット――トランペットのほうがよかったかもしれない。そんな風に思いながら息を整え、マウスピースに口をあてがう。

 

 F管Bフラット。

 

 ただ大きく(ひび)かせるためだけに発した音が、蜥蜴(とかげ)巨体(きょたい)を止めた。大蛇(だいじゃ)のような首がうねり、黒い双眸(そうぼう)瑠衣(るい)へと向ける。威嚇(いかく)の鳴き声を上げる蜥蜴(とかげ)に、まるで挑発(ちょうはつ)するかのように愛器のレバーを(あやつ)った。

 

 

 瑠衣(るい)がホルンを(たしな)むのは、幼少のころに指導者が見い出した(すぐ)れた才能のためでもなければ、積み上げてきた努力と実績のためでもない。周囲の期待や賞賛のためでもない。恐怖(きょうふ)抑圧(よくあつ)された感情。フラストレーション。その発露(はつろ)である。

 演奏を情感豊かと評されるたび、瑠衣(るい)微笑(ほほえ)んだ。

 それはそうだろうと彼女(かのじょ)は笑う。当人から欠け落ちた感情の、そのすべてを瑠衣(るい)は音に乗せているだから。そのすべてを(たく)した音を生むとき、たまらなく気分が良いのだから。

 

 

 高らかに(ひび)(わた)ればいい。

 耳あるすべてのものは聞けばいい。

 

 蜥蜴(とかげ)の注意を引きながら、瑠衣(るい)躊躇(ちゅうちょ)なく裏路地へと走った。肺活量には自信がある。調子はずれの音を鳴らしながら走るくらいはこなせる。

 彼女(かのじょ)を追い、胴体(どうたい)を路地裏をねじ()もうとした蜥蜴(とかげ)がその巨体(きょたい)で建物を破壊(はかい)した。(すさ)まじい、非現実的な破壊(はかい)(あらし)()()たりにしながらも、瑠衣(るい)はホルンを()(つづ)ける。

 

 いっそすべての蜥蜴(とかげ)を集めてしまおう。

 

 瑠衣(るい)は痛みをこらえながら笑う。彼方(かなた)よりきたる()しき夢をかき集め、もしも笛吹(ふえふ)き男のように消えることができたなら。

 きっと、自分も此方(こなた)から去り彼方(かなた)へと至るのだ。ほんとうのことはなにひとつない、あの家のドアを開いて。

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