25.ラフ・デイ④
手元に剣が無い。
至極当然のことだ。現代日本には剣が無い。
必要が無いからだ。だから無い。
思えば、腰に剣を帯びない生活など何年振りだったのだろう。
十ではまるで足りない。百でもまだ遠い。
ついこの間まで只の道具と見なして忌んだそれは、本当は、長い時を共に過ごした己の半身。まさしく、己の手足そのものだったのだ。
こんなことになるのなら、形ばかりでも調達しておくべきだったかもしれない。混乱の中を走りながらそう思う。
仮に首尾よく異界の刀剣類を入手したとしても、現界の騎士剣ほどの強度は望めないだろう。生身で音速を超える騎士の膂力に耐え得る剣は、現界にしかない何らかの要素によってのみ実現すると俺は考えている。
が、そんな理屈も今の状況に対しては何の慰みにもならない。何にせよ今の俺は徒手であり、使用に際しての前提条件として剣を要求する剣技――剣の福音を行使することができない。
だから。
だとして、何だというのか。
先ほどミラベルの銀弓を受けた翼竜の一個体が、禍々しい咆哮を続けながら人々の波を引き裂いていた。
その眼前にまで全力で走り辿り着いた俺は、そのままの勢いで地を蹴った。右手に携えた礫、行きがけに拾った拳大の石を振りかぶる。
なけなしの魔力を総動員して全力で放る寸前、俺は内心で舌打ちをした。魔素の通りが悪いのだ。金属ほどの浸透が見込めない。
「おおッ!」
構わずに放つ。
とりたてて強い魔力を持たない俺の身体強化でも、その威力は現界の常識を遥かに超えている。踏み切った右足はパーク中央路のコンクリート舗装を踏み砕き、振り抜いた腕は衝撃波を大気に伝播させた。
落雷が如き轟音が耳をつんざく。
石礫は狙い通り、翼竜の巨体――その、人の胴ほどもあろうかという頭部の中心に命中した。のたうつ翼竜の長い頸が後方に弾き飛ばされ、きりもむように巨体が倒れ込む。土埃が舞い、地に音が響いた。
しかし、やはり。
倒れ込んだ亜竜はすぐに首をもたげ、醜形極まる歪つで短い前脚をばたつかせながら身を持ち上げる。そして両翼を広げると、板金を引き裂くような叫び声を上げて威嚇の構えをとった。
投石は弾かれていた。
魔力有する生命が例外なく備える、魔力障壁によってだ。
十分な魔素を伴わない物理干渉では、この魔素の障壁を突破できない。
やはり、こいつらを絶対に逃がすわけにはいかない――
怖気の走るような翼竜の咆哮を無視し、俺は再び疾駆する。
路脇に備えられた交通整理用のガードポールを引き抜き、ステンレス製と見て魔力を浸透させてみる。
だが、全く思うようにいかない。魔素への抵抗の感覚が伝わってくる。
「なんだってこんなに武器がないんだ、この世界は!」
叫びながら翼竜の懐へ飛び込み、すかさず伸びてくる首を目掛けてポールを振り落とした。剣技は使えない。ただ力任せの打撃。
ヒットした瞬間、気色の悪い手応えと共に、直径十数センチはあるだろうガードポールが根元からひしゃげた。
脆すぎる。しかし、石礫よりも確かな打撃を与えたらしい。
魚卵を思わせるような、グロテスクな翼竜の黒い右の眼球が潰れていた。不揃いの牙が並ぶあぎとを開き、長い舌を伸ばしながら僅かに後ずさる。
もう一撃。
追撃せんとポールを持ち上げる俺の眼前で、翼竜が翼を大きく上下させた。飛ぼうとしている。そう直感した直後、浮かび上がった翼竜の、鉤爪を備えた巨大な後ろ脚が地面から跳ね上がった。咄嗟にポールを盾にして蹴撃を受けるが、その威力は予想を遥かに超えている。
甚大な衝撃が俺の意識と全身を打った。僅かながら魔力を通していたポールが千切れ飛び、俺は一瞬で四、五メートルは浮き上がって吹っ飛ばされた。その先にあった建物の窓ガラスを突き破ったらしく、気付けば屋内で、俺は商品棚のような建具の残骸に突っ伏してしまっていた。
立ち上がって頭を傾けると、パラパラとガラスの破片が目の前をこぼれ落ちた。鉤爪にやられたらしく左腕に軽い裂傷がある。その他に異常はない。行動継続にも支障はない。
しかし。
「……くそっ、どうする」
仮面のせいで視野が狭く、十全に動けないのもあるが、剣が無いのはやはり痛手だった。翼竜を仕留めきれる気がしない。
自分が突き破ってきただろう窓枠の向こう、羽ばたいて空へと逃れていく翼竜の姿が見えた。剣さえあれば剣技の変則発動、過負荷による歩法再現で走って空へと追うこともできるが、無い物ねだりをしても無意味だ。
「あ、あのう」
「ええ?」
恐る恐る、といった呼びかけに振り返ると、建物内に避難していたと思しき客の一団が俺を取り巻いていた。先頭に立つ中年男性が怯えた顔で俺の様子を窺う。
「だ、大丈夫なんですか? 怪我は?」
「いえ……おかまいなく。建物の中に居てください。外は危ない」
細かいケアをしている余裕がない。
必要なことだけを伝え、割れた窓へと戻り足をかけて跳ぶ。
外へ出るなりパーク内と空の様子を観察するが、観察するまでもなく、十体近くの羽持つ死が空を跋扈している現実は変わりなかった。
詰めていた息を吐き、俺は右耳にねじ込んでいる小型ヘッドセットのボタンをプッシュした。二回のコール音の後、回線がつながる。
「ミラベル、平気か」
『はい。ヒメジさん達も無事です。いま避難者を誘導しながら第一入園口に向かっています。皆さんをホテルまで送り届けた後、私もそちらに』
「いや駄目だ。君も避難するんだ」
『……で、でも』
「銀弓があまり効いてない。杖のない君にあれ以上の破壊魔法は使えないだろう。危険だ」
悔しそうな息遣いがイヤホン越しに聞こえた。
高位魔術である銀弓が低威力だ、などということでは決してない。当たり所で致命傷になる程度の威力が一発にある。だがそれは、騎士や魔術師相手――対人戦においてでの話だ。
竜種が滅びて以降の千年、新たに生み出される破壊魔法が対人戦闘向けに進化していったのは自然な流れと言える。巨人や魔族といった稀有な例外を除き、騎士や魔術師の抗すべき相手が同じ人間となっていった歴史を踏まえれば、至極当然のことだ。
異界に脅威などない。そう思っていた。
だが現実として、俺達は翼竜相手に手も足も出ない。
どうする。
いったい、俺はどうすればいい。
『もしもし。高梨くん、聞こえる?』
「ひーちゃん先生?」
この悲惨な状況にまったくそぐわない人物の、かつてないほど真剣な声に俺は現実に引き戻された。
おそらくミラベルがマイクを譲ったのだろう。彼女は返事をせず、剣呑な調子のままで言葉を紡いだ。
『よく聞いて。いまから先生の考えを伝えるね』
「……?」
『あのファンタジーの怪物みたいなのが何なのかは分からないけど、じきに居なくなると思う』
声に含まれる確信めいた響きに、俺は息を呑む。
「それは、なぜ」
『今までの事件で居なくなった人達は基本的にひとりだったでしょ。ううん。もしかすると何人か同時に襲われていたこともあったのかもしれない。それはもう分からないけど、でも少なくとも、あの生き物は今までこんなに大規模な行動に出てはいなかったはず』
それはそうだろう。でなければ大問題になっていたはずだ。
翼竜達は人目を避けるようにして、僅かずつ人間を食らってきたはずだ。その量で腹が満たされるかどうかは窺い知れないことだが、生存できる程度の食事ではあったはずだ――
「あっ」
『そう。これはあくまで狩りなんだよ、高梨くん。あの生き物は群れで狩りをし始めた。それがあの生き物の習性なのか学習なのか先生には分からないけど、目的はあくまで食料の確保で人を襲うことじゃないんだよ。きっと』
「……くそ、じきに腹がいっぱいになる!」
危機感が俺の足を前進させた。
向かうべき場所は定まらないながらも、第二入園口。瑠衣のいるだろう方向へと走る。万に一つの可能性でも、彼女が襲われることだけは防がなくてはならない。そして、
『やり過ごすだけじゃ駄目なの?』
「駄目です。あれはここで殺さないと駄目だ」
『あんなのは、もう手に負えないよ。警察……どころじゃない。自衛隊のお仕事だよ。いくらきみでも……』
聡明な来瀬川教諭でもこれだけは認識が誤っている。
彼女にとって未知の、幻想の生物であるあの翼竜を、異界の軍事力で対抗できるものだと計ってしまっている。
「あれには銃弾も砲弾も通用しない。軍隊でもきっと止められません」
『……っ!』
「飢えに追いやられたのか知りませんが、連中が狩りの味を覚えたんだとしたら一匹だってここから出すわけにはいかない。今日、この場に俺が居合わせたのだけは幸運だった。せめて俺の剣があればよかったんですが、なくてもどうにかします」
タイムリミットは翼竜が腹を満たしきるまでだ。
でなくとも、これ以上の犠牲者など看過できようはずがない。
道すがら目に付いた、土産物の店先にあるのぼりのポールを引き抜いて旗だけを破り捨てる。
とても武器とは言えなかったが、アルミ製の白いポールには多少の魔力が通った。リーチもガードポールよりは長剣に近い。この状況では無いより遥かにいい。上出来の部類だ。
『やれるんだね? 高梨くん』
「やってみせます」
確かめるような問いに、はっきりと返事する。
その問いに、俺自身の無事も含められていると理解している。俺と来瀬川教諭の間にある約束はそういったものだからだ。
『わかった。待ってて』
何を、と訊き返す余裕はもうなかった。
逃げ惑う人々を襲うべく、再び地表へと迫る翼竜の影が見えたからだ。
通話を切り、俺はポールを片手に地面を蹴った。
■■■
「ミラベルさんパスっ」
姫路が放り投げたヘッドセットを受け取り、ミラベルはそれを耳に挿し戻す。通話が切れていることに気付いた異邦の皇女は姫路の顔を見るが、彼女は自分のスマートフォンを取り出して視線を落としていた。
「ヒメジさん?」
「高梨くん、自分の剣があればって言ってたんだけど……なんの事だと思う? なにかの比喩かなあ。剣てなんだろ。部屋にそんな感じのあったっけ」
難しい顔をして端末を操作する姫路に、ミラベルは首を傾げた。
通じないのが逆に分からない。
「剣は剣ですよ。彼は私たちの世界で……こちらの世界で言うと……いえ逆かもしれませんが、ええと……長剣を扱っていたんです」
「ええ!? 剣ってそのまんまの意味なんだ!?」
「はい。アキトさんは名うての剣士で……それに、彼の能力は剣がないと駄目なんです。剣があればあんな魔獣くらい……」
「なるほどね。剣かあ。そりゃ手に入らないよね」
異界全体の話ではなく、この平和な国においては武器の類を所持するだけでも罪になる。ミラベルがそう学んだのは暇を持て余していた日中の高梨家でのことだ。
覗き込めば、姫路は目まぐるしい速さで端末に指を走らせていた。情報の検索をしているのだろうと読み取れたものの、何をしているのかまではミラベルには分からない。
「ミラベルさんの魔法で作るのは無理なの? あの仮面みたいに」
「難しいです。長剣ほどのサイズになると……きちんと準備をして時間があれば形だけ作ることはできるかもしれませんが……うまくいくかどうか」
「そっか。長くないと駄目? どれくらい?」
「えっと……四フィートくらいでしょうか」
「ヤ、ヤーポン法! うわあ、先生はぜったいそっちの世界に行きたくないです! でも、あった!」
皇女には分からないことと快哉とを同時に叫び、姫路は向き直って彼女の手を取った。それから、
「あのね、お願いがあるんだけど……」
妹ほどの背しかない姫路の、不思議な行動力と迫力に圧されてミラベルは黙り込む。彼女が何をするつもりなのか、おおよその察しをつけたからだ。
しかし、
ミラベルと姫路は振り返る。
第一入園口の周囲は惨憺たる有様だった。
ミラベルと姫路の誘導でここまでの難を逃れてきた人々がホテルや駐車場を目指して走っていく傍ら、消沈して座り込んでいる人々の姿も至るところにあった。
上空を飛び回る翼竜の姿と鳴き声に怯え、動けなくなっているのだ。
その中には、橋本肇と長命寺桜の姿もある。
「よろしいのですか? 私が代わりに行った方がよいのでは……」
異邦の皇女は問う。
背の小さな教師は一時も迷わなかった。
「ううん。ここの皆を守れないよ。私じゃあ、ね」
ミラベルは反駁しようとしたが、言葉にはならなかった。姫路の言うとおりだからだ。代わりに溜息をつき、ヘッドセットを再び差し出す。
「……承りました。どうかご無事で」
「ありがとう。またね」
一瞬の抱擁の後、姫路は振り返ることなく駐車場へ向けて走り出した。その背中に幻視した不吉な影を振り切るように、ミラベルは踵を返す。
不安げにこちらを見る異邦の少年と少女に、さてどうやって意思を疎通したものか。短く思案して苦く笑った。




