24.ラフ・デイ③
「姫川いるかでーす。絵本作家やってまーす。よろしくねっ」
伊達眼鏡で銀髪ツインテールの来瀬川教諭がダブルピースでキャピっとそう名乗った瞬間、俺は既視感と恥ずかしさと、あと何だろう。同情心のようなもので目の前が真っ暗になった。
またも事前の打ち合わせは一切ない。それ故の不意打ちである。
高地ランドパークのピザ店のテーブル席で橋本と長命寺を連れて合流した際、頭の回転が相当に速い来瀬川教諭とミラベルは一瞬で事情を察したらしい。ミラベルはともかくとして、来瀬川教諭が学校関係者へ正直に名乗るのはまずい。幸いにして彼女の容姿は魔術で完全にミラベルの妹か何かにしか見えなくなっているので、イケると踏んだのだろう。また。
俺はとても辛かった。
うわ、きっつ。そう口にするのを堪えるのがやっとだった。
外見はともかく、新任教師である彼女は二十代も半ばだ。
俺は辛かった。
「……マジかよ」
「……マジで?」
しかも橋本と長命寺は来瀬川教諭の渾身かつ壮絶な自己紹介に応えるでもなく、俺の方を見やりながら「信じられない」といった面持ちなのだから、滝のような俺の冷汗は止まらない。
よくよく考えてみれば同級生である橋本と長命寺は担任である来瀬川教諭の顔を毎日見ているわけで、多少変装をして演技をしたからといって誤魔化せるわけがない。俺は辛い。直視に耐えない。
あわれなひーちゃん先生の時間はピースサインで停止している。
居たたまれず、おもむろにミラベルへと視線をやると、彼女は溜息を吐きながら席を立って会釈をした。
「ミラベルと申します。アキトさんとは遠い親戚ということになっています」
言い回しに微妙な部分はありつつも、そもそも現界訛りのある英語は橋本と長命寺には聞き取れないものであったらしい。ふたりは目を白黒させるばかりで、やはり俺を向いていた。
「彼女はミラベル。親戚だ」
「親戚って……高梨ってハーフとかクオーターとかってやつなん?」
「いや、違う」
申し訳程度の翻訳に至極ごもっともな問い掛けをした長命寺は首を捻りながら着席する。橋本は何かしらを悟った様子で後に続いた。
「しかし驚いたな。高梨の連れが……なんつったらいーんだか……」
「言うなよ。色々としんどい」
顔を手で覆って羞恥に耐えている来瀬川教諭と、我関せずといった態度で茶をすするミラベル。表情が曇っているのはお茶の味が気に入らないのか、それとも別の理由か。
「街を歩けばご学友に当たると見えます」
「こいつらの悪戯みたいなもんだ。大目に見てくれると助かるよ」
「私は別に。でもヒメジさんが大変でしょう」
耳が痛い。
実にミラベルの言うとおりなのだが、瞬時に立ち直った来瀬川教諭は「や、大丈夫大丈夫」と首を上下させた。
「賑やかな方が小比賀さんも嬉しいんじゃないかな。橋本くんと長命寺さんのお邪魔しちゃうのはちょっと気が咎めるけど」
「そっすね。でも、まだ付き合ってはいないようですよ」
「あ、そうなんだ? 引っ張るねー、初々しいねー」
などという俺達の会話も英語でなされているため、橋本と長命寺にはまったく伝わっていない。本人たちはぽかんとしている。
「来瀬川センセー……はともかく、高梨も英語ペラペラなんだ」
「ん、まあな。外の暮らしが長かった」
「違いますー! 私は姫川ですー!」
「いや……どう見ても来瀬川センセーじゃん……なにそれ、コスプレ?」
「変装なんじゃね? 触れないでやろうぜ」
確かに賑やかになった。日本語でのやり取りを聞きとれないミラベルも、分からないなりに可笑しそうに微笑む。
来瀬川教諭の配慮に感謝しなければならない。毎度のことながら。
「それで、肝心の小比賀はどこなんだよ。演奏会みたいなのがあるんだっけ?」
「ハロウィンイベントの一環らしいよ。入園口のあたりにあるカフェのそばでやるみたいだね。あと二十分くらいしたら始まるって」
スマートフォンをするすると操作しつつ、来瀬川教諭がニコニコしながら言った。俺もちらりと時計に目をやり、瑠衣との約束に合致することを確認した。
窓から外の風景を見る。快晴の下、遠く見える様々なアトラクションの鉄骨や、休日を行き交う人々の波だ。クラシック音楽の演奏にどれだけの人が足を止めるかは知れないが、好条件なのだろうと俺にも分かる。
今日は良い日だ。
掛け値なしにそう思った。
それでも、
晴天の中空に、突如として見慣れぬその陽炎は浮かぶ。
その正体を俺が訝るより速く、異変はすぐに訪れる。
衝撃とでも形容すべきだろうか。不可視の波が俺の全身を打った。
その異様な感触に、全身に鳥肌が立つ。
「…………は?」
覚えがないわけではない。
しかし、脳が理解を拒んだ。魔素の薄い異界で、しかもよりによってこんな場所で、これほど強い魔力反応を察知するとは思いたくなかったのだ。
愕然としてテーブル席のミラベルに視線を送ると、彼女も顔面を蒼白にして頭を振った。この異様な気配がミラベルのものではないのは明白で、咄嗟に晴天へと目を戻した先。浮かぶ陽炎は不気味に蠢いている。
あれはなんだ。
「高梨くん?」
有り得べからざる異物を注視する俺を見止めたらしい来瀬川教諭が俺の袖を引いた。彼女は先ほどまでの俺の視線をなぞるように空を見るが、怪訝な顔をするばかりで何かを見い出す様子がない。
彼女には見えていないのだ。
道行く人々も同様に、空に浮かんだ陽炎を見上げる者はいない。一人として。だが、俺の目は変わらず異様な陽炎を映している。
「……空になにかあるんだね、高梨くん」
確かめるような響きを含んだ来瀬川教諭の問いに、俺は頷くことも首を振ることもできない。
分からないからだ。薄ら透けて揺れる陽炎は陽炎でしかなく、はっきりと視認できない以上は確かなことが何も言えない。異界にあんなものが在り得るはずもないとはいえ、害があるものなのかどうかまだ判然としない――いや――
何を呆けているんだ、俺は。
馬鹿か。
あんなものが無害なわけがないだろうが――!
「先生、橋本と長命寺を連れて車に戻ってください」
言いながら俺はスマートフォンを取り出し、カメラを起動して空へとかざした。画面越しに見る空には陽炎など映っていない。やはり。戦慄する俺を見上げる来瀬川教諭は、俺のその動きだけで全てを理解したようだった。
「わかった。きみは小比賀さんを」
「……はい」
端的に返事をしつつも、俺は今にも叫び出したいような心地だった。瑠衣がどうとか以前に、パーク内にいったいどれだけの人間が居るのか分からない。そして、おそらく、もう間に合わない。
「どこでもいい。急いでここから離れ――」
そこまで口にした時、外の景色に変化があった。
中天から陽炎が消えた。
代わりに、陽炎に纏わりつかれた人間が地表間近を浮いていた。行楽を楽しんでいただろう、観光客らしきその男性は両足をばたつかせ、
僅かに何事かを叫んだ後、奇妙な角度で宙返りをしてから、上下に分かたれるようにして千切れて見えなくなった。
その様は、陽炎に「食われた」と形容するのが正確だと思われた。失踪の真実がそれに近しいものだろうと推察していた俺でさえ、思わず絶句するような酸鼻を極める光景。
言葉が出ない。
俺もミラベルも、来瀬川教諭も、一言も発することができない。
そして、これは、これまでの事件と決定的にシチュエーションが異なっているのだろう。これほど開放された空間の白昼であること。さらに、衆人環視の元であるということ。
いや、もしかすると。これまでもこの光景の目撃者は居たのかもしれない。だが誰が信じるだろう。自分の見たこの光景を。人間がひとりでに宙に放り出されて消える様など、自分でも信じられなかったに違いない。
だからだろうか。
異変に気付いた僅かな人々。見上げた人々の顔に危機感、恐怖の色はなかった。薄笑いや訝るような色はあっても、それ以上にはならない。まだ思考が追い付いてこない。あれが現実の出来事だと受け入れることができないのだ。
「え……いまの、なに? なんか……人飛んでなかった?」
半笑いで呟いた長命寺も、もしかするとそんな心境なのかもしれない。
例外があるとすれば、間近でそれをはっきりと見た人間だけだ。恐らくは消えた男性の同行者だろう女性の悲鳴が、ややあってから遠くから響いた。
長命寺の言葉に笑っていた橋本が、その段になってようやく顔色を変える。
結構な騒ぎになる。
そんなことを考えつつも、男性を飲み込んだ陽炎を探して俺は視線を走らせていた。揺らめく陽炎はいつの間にか消えている。見失った。しかし、先ほどから感じている魔力の気配は去ってなどいない。
魔力感知を頼りにおおよその方向を見定めて空を見ると、陽炎が尾を引きながら宙を流れているのが辛うじて視認できた。
困難だが見える。
つまり対抗することも不可能ではない。そう信じるしかない。
「クソッ! どこが良い日だ……ッ!」
「アキトさん!」
席を立って身を翻す俺に、ミラベルはバッグから取り出した例の仮面と小型ヘッドセットを放り投げた。仮面はひとまず懐に収め、ヘッドセットを装着しながら俺はピザ屋を出る。
遠雷のような音が響いた。
店を出た瞬間、遠くに見えていたコースターの鉄塔がひしゃげ、ライドから幾人かが――人間がこぼれた。
「は……」
その光景に、俺はまたも放心する。
もはや俺の思考も追い付かなくなっていた。
こぼれ落ちていく人々のいくらかが宙で反転して消える。
陽炎が宙を走る。旋回して人々を啄んでいく。
そのさなか、陽炎は別のアトラクションに激突して鉄骨を半壊させた。陽炎の動きが乱れ、落下する人々の何人かが陽炎の捕食を免れた。
だがそれは救いではない。数十メートルから落下した人間が無事に地面に落着する可能性は皆無だ。
やがて波濤が生まれた。
喚き叫ぶ声。恐怖の悲鳴による音の洪水だ。パニックになった人々が手近な建物に向けて流れ始め、たちまち混乱の坩堝と化す。賑やかで平和な休日の姿は一変し、パークはいまや地獄絵図となりつつあった。
我に返り、即座に仮面を被る俺の後方から魔力が膨れ上がる。
振り返るまでもなくそれはミラベルのものだった。抑えていた魔力を動員して魔術を行使しようとしているのだ。
魔術を衆目に晒すなど、当然避けるべき行いだろう。が、眼前の事態がもはやその段階にないことも明白だ。俺の足だけでは縦横無尽に空を走るあの陽炎を捉え切るのは難しい。咎めるどころか礼を言うべきところだ。
ミラベルの十八番、銀弓の銀の魔弾が異界の空を奔った。
杖のない、完全な無詠唱で二発。これならば、仮に人目があってもよほど注意深く観察していなければ、誰かが何かをしたのだとは気付かれないだろう。
銀の箒星は、俺と同じように陽炎を視認しているだろうミラベルの操作で陽炎に迫り、二発とも着弾してたちまち銀色の小爆発を起こした。
爆音でいっそうの悲鳴が沸き起こる中、陽炎が翻る。それは実に有機的な動きを見せながらも、表面に纏っていた光の薄膜を剥離させはじめた。
「隠匿……術式……」
無意識の俺の呟きを、拾う者はいない。
現れたのは、骨格に灰色の皮膜を張った一対の翼。
その根元に接続した胴と頭部は鱗に覆われ、爬虫を思わせるフォルムでありながらもスケール感だけが大きく異なる。翼開長はざっと十五メートルを超えている。大蛇を思わせる首がうねり、あぎとを開いて咆哮した。
錆びた鉄を擦り合わせるかのような悍ましい音が響き渡る。その叫びは、もはや人の身に害を与えるほどの恐怖を呼び起こすものだ。
身を竦ませた人々が足を止め、耳を塞ぐ。耐えられるのは魔力使いだけだ。
「――翼竜!?」
背後から上がったミラベルの悲鳴を聞きながら、俺は戦慄していた。
かつて現界を支配していた竜種。
その眷族の末裔が翼竜だ。竜種ほどの知性はなく、言葉も介さないこの亜竜は、竜種の絶滅を経て千年、大陸北方の山脈に少数が生息するのみとなった。散発的に人里を襲うため、幾度となく討伐が行われていった結果だ。
その危険な現界の生物が、いったいなぜ異界に存在するのか。いかなる手段によってもたらされた現実なのかと、足元から崩れ落ちそうになりながらも考える。
だが、俺にそれ以上の暇は与えられなかった。
「高梨くん! あれ一匹じゃない!」
どういった思考から結論を導き出したのか定かでない、来瀬川教諭の指摘が俺を現実に引き戻す。
いつの間にか、揺らめく陽炎が複数。中天を我が物顔で走っていた。計ったかのようなタイミングでそれらは同時に隠匿術を解除する。八体。知性に乏しいはずの翼竜が術式を扱い、連携している。その理由は見当もつかない。
だが。
「最悪だ……!」




