18.羽音
俺の所持しているスマートフォンは特別に高性能でも最新でもない機種だと記憶しているのだが、触るたびにその多機能ぶりと有用性に感心してしまう。
この薄っぺらい板一枚でいついかなる時にも遠方の相手と会話できる他、ネットワークを介して集合知にアクセスできる上、簡単な計算や写真撮影まで可能なのだ。近世あたりと大差ない現界の文明感覚で考えると、これの方がよほど魔法じみている。
とんでもないことなんだぞ――というよく分からない感想を呟きながら、画面をフリックして写真を順番に確認していく。
映し出されているのは永山警視のスマートフォンから失敬した捜査情報。具体的には彼が送受信していたメールとブラウザの閲覧履歴を撮影したものだ。
それらの僅かな情報からでも、失踪事件の捜査状況が芳しくないのは見て取れた。飛び交う文面の混乱ぶりから読み取るに、警察はまだ何も掴んでいないらしい。被疑者どころか手口も明らかにできていない。
それはいい。
無理からぬことだろう。どう考えても今起きている事態は異常である。
俺が知りたかったのは科学捜査で糸口が見つかる類の事件なのかどうかで、そうでないのなら口実として、或いは、裏付けとしては十分だ。
事件現場にだけ注目して情報を浚っていく。ミラベルから聞いたウェブの情報と重なるものを除外すると、アウトレットモールにキャンプ場、サッカースタジアム、繁華街の路上。やはり、すべて屋外だ。
「どうにも嫌な予感がするな……」
改め終わった写真は全て削除し、俺はコーヒー牛乳の瓶の蓋を開けた。
思考を休日へと戻していく。
温泉施設の休憩所には瓶詰牛乳の自動販売機があるものらしい。妙にレトロというかノスタルジックな趣向ではないか。
マッサージチェアに身を沈めつつ牛乳をちびちびやる。そうして全身を弛緩させていると、ようやく休日だなあという気分に戻っていく。
意識的にそうしなければ戻らないということは自覚していた。危険を好む趣味はないとしても、今すぐにでも、自分になら何かできるのではないかという衝動に収まりがつかない。
現実としては打てる手がない。今はまだ。
異界も広い。関わると決めたとして、あてどなく彷徨ったところで何ができるわけでもない。警察機構が後手に回るのと同じく受け身にならざるを得ない。
仮面や服も持ち出してきてはいるが、何をするにしても芥峰に戻ってからだ。
マッサージチェアに硬貨を投入すると、結構な騒音を上げながら背部パッドの機構が動作しはじめた。
「あー……なるほど、こういう感じか」
背中の辺りに感じる突起が上下左右に動き出した。
たしかに適度なマッサージ感はある。とはいえ、俺に肩こりが酷いという自覚はないので振動と雰囲気を楽しんでいるだけだ。
そんな様を見たらしい笑い声が、すっと耳に入った。
「あはは、高梨くんの奇行って、まんま記憶喪失の人のそれだよね」
「似たようなもんなんで」
「見てて面白いよ。ちょっと……寂しくもあるけど」
振り返らず応じていたものの、さすがに少し気にかかった。
身を起こして振り返れば、予想通り来瀬川教諭の姿がある。予想と違っていたのは彼女の服装だ。ホテルか温泉かで貸し出しているものだろう。浴衣姿ですみれ色の羽織をかけていた。
遥かな昔、着物は寸胴な体型の方が映えると聞いたことがある気がする。彼女にも起伏がないわけでもないのだろうが、浴衣の上からでは確認できない程度の存在感であるらしい。婉曲的に表現するとこうだ。
率直に言うとすると似合っているし可愛い。
無遠慮な観察をしていると、湯上りの先生は体を斜めに傾けた。僅かに湿った様子の髪が垂れる。
苦し紛れも兼ねて訊ねた。
「寂しいとは?」
「……なんでもないなんでもない。それより、それもらっていい?」
さすがに何でもなくはないだろうと俺でも分かるのだが、彼女の問い返しは追及を許さない。
「椅子ですか?」
「牛乳」
閉口せざるを得ない。
無言で見詰めていると、来瀬川教諭は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「お財布部屋に忘れちゃって……」
「……なら仕方ないすね」
意識されてもいないのに意識する方が恥ずかしいというものだ。やむを得ない措置でもある、と言い訳をしながら瓶を手渡してから気付いたのだが、俺が新しいのを買って先生にあげればいいだけだったのではないだろうか。
マッサージの圧迫で前後に揺すられつつ、俺は関係のないことを言った。
「忘れたといえば、瑠衣のことなんですが」
「小比賀さんがどうしたの?」
「俺、あの子のこと全然覚えてないんですよ。申し訳ないんですが、瑠衣のこと教えてもらっていいですか」
「うわ……そっか。そうなっちゃうんだね……って、よくそれで一緒に居たね」
「我ながら不思議です。細かいところで不審に思われてる感じはしますが」
「やっぱり誤魔化すのが上手いのかな、高梨くん。うーん、先生は小比賀さんとあんまり話したことないんだ。A組の子で吹奏楽部の副部長をやってるね。成績は普通かな。さっきゲットした情報だと、最近の趣味は洋菓子店巡り」
さっき、というのが具体的にいつどこでの話なのか想像するのはやめておき、意外にミーハーなところがあるんだなあと瑠衣への印象を改める。
「でね、先生が知る限りは……高梨くんと小比賀さんはあんまり仲が良くなかったはずだよ」
「は?」
「嫌い合ってるとか、小比賀さんが高梨くんを嫌ってるっていうより、高梨くんが一方的に小比賀さんを嫌ってるって雰囲気だったかな。詳しい経緯は知らないんだけど」
「……お、俺が瑠衣を? 嫌われてるってんならまだ分からんでもないですが、俺が? ただ気まずいとかでなく?」
「うん。そういう口ぶりだったのは間違いない、と思う。ごめんね。いまの高梨くんからすると気持ちのいい話じゃないかもだけど」
瑠衣の連絡先がスマートフォンに残っていないのはそのせいだろうか。友人ではなく、好ましくない類の顔見知りだったとすれば腑に落ちる。
瑠衣のどこかぎこちない態度も、もしかするとそんな関係性からきている部分があるのかもしれない。
しかし、過去の俺は何を考えていたのだろう。まったく理解に苦しむ。
俺は小比賀瑠衣の人となりに詳しいわけではないし、彼女の態度にぎこちなさを感じたりやきもきさせられたりする面は確かにある。が、嫌悪感が沸くかというとそれは完全にノーだ。むしろ尊敬すらしている。演奏という自分に出来ない技術を持っていりという一点だけでも、彼女は尊敬に値する。
「いや、ひーちゃん先生が謝ることじゃないですよ。きっと俺がどうかしてたんでしょう」
「どうかしてたかはともかく、先生にも小比賀さんが悪い子には見えないから、なにか誤解があったのかもしれないね」
「だからって嫌っていいって話でもない。ありがとうございます。折を見て瑠衣と話をしてみます。もし前の俺があの子にそんな態度をとってたんだとしたら、ちゃんと謝らないといけない」
来瀬川教諭はただでさえ丸い目をいっそう丸くして驚いたのち、にっこり笑うと俺の頭をぽんぽん撫でた。
やはり子供扱いというか、ひーちゃん先生にとっての俺は、どこまでいっても手のかかる生徒という範囲を出ないらしい。
「えへへ、よしよし素直素直。そういうアンバランスさが、なんだかほっとけない感じなんだよね、きみって」
「は、はあ……アンバランスですか」
「そうそう。さっきまで難しい顔してたのは小比賀さんのことでじゃないよね。今度は失踪事件のことでも考えてたのかな」
「……お見通しっすね」
「あはは、もう高梨くんのことずっと見てるからね。人のことを観察するのって、きみの専売特許じゃないんだよ」
誤解の余地が多分にありそうなことを言いつつ、来瀬川教諭は瓶を傾ける。
「オカルト専門家としてはどう? やっぱりよく分からない?」
「専門家じゃありませんって……いくつか可能性を挙げ出してはみましたが、分かるかどうかと言えばやっぱり分からないですね」
「うん。聞かせてほしいな」
「いまのところは殆ど当て推量ですし、楽しい話じゃありませんよ」
「大丈夫」
少女にしか見えない女性は頷くと、どこか透徹した瞳を俺に向ける。
その色をしっかりと覗けば、彼女の思考が俺にも理解できるのだろうか。現時点では感覚に宇宙人にも等しい隔たりがあるだろう人へ、俺は考えを披露した。
「ざっくり、人間以外の仕業だと考えています」
「……その根拠は?」
「警察が何も掴んでないってことと、現場が大体屋外だってことの二点です。犯人がいる事件ならそもそもここまで長引かないでしょう。この間、そういう目線で外をうろついた時によく分かりました」
「監視カメラ、だね」
「はい」
ビルを跳び回って再度実感したことだが、やはり繁華街には結構な数の監視カメラシステムが防犯目的で設置されているものだ。
警察がそれらをチェックした上で何も掴んでいないのなら、おそらく――
「何も映ってなかったんでしょう。少なくとも特定できる人間は映ってない」
「うん。その可能性は高いよね」
「……今さらですが、俺とミラベルなら似たような状況でも同じ芸当ができるかもしれません。完全に映らないってのは無理でしょうけど」
「それは論外。無理筋だよ。ずっと見てるって言ったでしょ」
半分冗談だったのだが、来瀬川教諭はニコリとしながらも完璧な否定をした。
少し、ぞくりとさせられる受け答えだ。
来瀬川教諭が強引な共同生活に出た裏に、監視という目的があったとは思わない。ただ、結果としてそう機能しているのは事実だし、彼女がその事実を理屈として使ったことには意表を突かれる。
やはり、無邪気なだけではない。一筋縄ではいかない人だ。
「ミラベルとも話しましたが、獣害か天災か。そんなところかと。これ以上は実際に見てみないとなんとも」
「監視カメラの映像が見たい?」
「可能であればそうですが、まず無理でしょう」
「さすがにね」
永山警視に伝手があるといっても、素直に頼み込んでどうこうできるものでもない。非合法に入手するとしてもハードルが高い。警察の施設に物理的にお邪魔するのは不可能とは言わないが、リスクが高過ぎる上に情報セキュリティに関して俺もミラベルも素人だ。保存場所は永山警視のパソコン同様、パスワードがかかっているに違いなく、リターンが得られる保証はない。
「まずは駅の件での目撃者をあたるつもりです。被害者の連れの女性が大学病院に入院してるみたいなので」
警視のメールから得た情報は頭に入っている。
方針を聞いた来瀬川教諭は小さく頷いた。
「……観察力も判断力もある。推理の進め方も堅実だし、やり方に無茶があるけど無理はない。高梨くんが田舎の街で門番に就職してたって聞いたときはピンとこなかったけど、しっかり職業能力は身に付いてるんだね。先生は感心しました」
「ありがとう……ございます?」
いやに具体的な評価だ。
一体、どういう立場でのコメントなのだろうか。
「将来、そういう仕事についたらいいんじゃないかな。警察関係」
と、訝しく思っていたら、謎多きひーちゃん先生は担任教師らしいことを笑顔で言った。踏み込む隙は見当たらない。
それとも、思い切って踏み込んでみるべきなのだろうか。彼女の洞察力や理解力の由来が過去にあるのは何となく分かっているのだが――
「いやあ、柄じゃないですよ」
「そうかなあ。すごく向いてると思うけど。荒事にも慣れてそうだし」
「規則を破りがちですから」
「あはは! 汚職警官だねー!」
結局、俺は当たり障りのない返しをして先生の笑顔を見るに留めた。
一歩を踏み出すことでなにか失われるとは思わない。来瀬川教諭は何がどう転んでも俺の周りから離れるつもりがないように見える。俺の自意識過剰でなければそうだろう。
ただ単純に、許可が下りていないような気がする。俺が聞いていい話なら彼女はもうとっくに話してくれているような気がするのだ。
それも自意識過剰でないという保証はなかったが、なんとなく、そう思う。
「ひーちゃん先生はどう思います?」
だが、何故だろう。俺は彼女にコメントを求めていた。一介の教師にすぎない女性に、あまりにも物騒な失踪事件の意見を、だ。
往還門や瑠衣の件では淀みのない自説を披露する来瀬川教諭が、事件については自分の意見を具体的に述べない。その僅かな違和感を無視できなかったのかもしれない。
あるいは、時折露わになる彼女の鋭い洞察力なら――既に何か見抜いているのではないか――そんな予感がしたからかもしれない。
いずれにしても、来瀬川教諭は目をぱちくりさせたあと、数秒の間を置き、一言を発した。
「……ホラーだなあって。そう思うよ」




