16.エンカウント②
「姫川いるかでーす。絵本作家やってまーす。よろしくねっ」
伊達眼鏡で銀髪ツインテールの来瀬川教諭がダブルピースでキャピっとそう名乗った瞬間、偽名の語感とファンシーさに俺は思わず水を吹き出しそうになった。
事前の打ち合わせは一切ない。それ故の不意打ちである。
ホテルのダイニングレストランのテーブル席で瑠衣を連れて合流した際、頭の回転が相当に速いミラベルと来瀬川教諭は一瞬で事情を察したらしい。ミラベルはともかくとして、来瀬川教諭が学校関係者へ正直に名乗るのはまずい。幸いにして彼女の容姿は魔術で完全にミラベルの妹か何かにしか見えなくなっているので、イケると踏んだのだろう。
しかし、小比賀瑠衣は奇妙な表情をした。
笑いをこらえているような、驚いているような、困惑しているような。その複雑なリアクションが予想外で固まる俺たちに、瑠衣は震える声で言った。
「え、えと……く、来瀬川先生ですよね……っ?」
Oh...という表現がピッタリな表情でミラベルが頭を抱える。
あわれなひーちゃん先生の時間はピースサインで停止していた。
もう駄目である。
演技について俺たちは全員素人だ。
即興でキャピってくれたひーちゃん先生には悪いが、アドリブだけでこの場を乗り切るのは不可能だろう。あっさりとネタ晴らしをすることにした。
「なんでわかったんだ?」
「こ、声がね……」
「……ああ、そうか。そりゃそうだ」
ぽん、と俺は手を打った。
ミラベルの幻術はあくまで光学的な効果しか果たさない。見た目の色を変える以上のことはできないのだ。多少がんばって声音を変えたくらいでは、吹奏楽のエキスパートたる瑠衣の音感は騙せないのだろう。
というか、ミラベルや来瀬川教諭の声なら音感ゼロの俺だって聞き分けられる。これは普通に手抜かりだった。
しかし、瑠衣が俺や来瀬川教諭について学校に報告したり吹聴して回る姿はちょっと想像がつかないので問題ないと判断する。
一方、ひーちゃん先生はバグってしまったらしい。
顔を手で覆って羞恥に耐えていた。悲しい。直視に耐えない。
「すまん、瑠衣。何も聞かず、今日明日だけは姫川先生って呼んでやってくれ」
「……え、ええ?」
「彼女は絵本作家の姫川先生なんだ。決してコスプレ教師じゃない」
「言葉のエッジがやけに鋭いよ高梨くん!?」
絵本作家という設定が泣かせるポイントだ。
その設定なら俺や瑠衣が先生と呼んでも不自然ではない。姫川先生が絵本作家である理由はそれが全てだろうと思われる。
「わか……わかった……」
瑠衣は混乱しながらも頷いてくれた。
彼女の中で来瀬川教諭がどういう感じのポジションになってしまったのかは怖いので確認しない。
「で、こっちの正真正銘の異人さんはミラベル。俺の遠い親戚」
「……小比賀瑠衣です……よ、よろしくお願いします」
「ルイさんですね。よろしくお願いいたします」
すらすらと英語で喋り、迷いなく握手を求めるミラベルに瑠衣は面食らいながらもたどたどしい英語で応じて手を握る。見ていて気の毒なくらい緊張していたが、瑠衣の肝っ玉はある意味保証されているのでどうということもないだろう。
「あれ? 小比賀さんがいるってことは、もしかして永山さんが居るのかな」
「……いえ……おじさんは東京に帰るって……言ってました」
「夕方ごろなんで、いまごろ向こうに着いてんじゃないですかね」
「そっか。大変そうだねえー」
ひーちゃん先生は瑠衣と永山警視の関係性を把握していたらしい。彼女は瑠衣の担任ではないが、永山警視の親戚ということで知っていたのだろう。
下手をすると俺よりも瑠衣のことを知っているのではないだろうかと思うのだが、まさか本人を目の前にして解説をお願いするわけにもいかない。
「……あの、これってどういう集まり……なのかな……」
瑠衣はもっともな疑問を控えめにぶつけてきた。
実際、どう説明すればいいのかは俺にもいまいち分からない。瑠衣を加えると余計に接点のなさそうな集団になる。うまい言葉を探して腕組みをする俺だったが、姫川いるか先生が唐突に、ガバッとミラベルの胸に顔をうずめた。
「ミラベルさんは歳の離れたお友達です」
普通、十年来の親友にだってそんなことはすまいと思うのだが、ミラベルは多少あわあわと慌てるだけで姫川先生のつむじに視線を落とすばかりだ。
納得したらしい瑠衣はそのまま俺に視線をスライドさせる。
「俺はオマケ。荷物持ちみたいなもんだよ。いや、泊まることが場のノリで今日決まったから荷物とかは一切ないんだが」
肩をすくめて見せると、瑠衣は「……そ、そうなんだ」とやはり安堵したかのように呟いた。
姫川いるか先生が馬脚を露してからのこの流れであるので、瑠衣にはさも真実のように見えていることだろう。いや、実際にミラベルとひーちゃん先生は仲が良いので嘘ではあるまい。俺がオマケであるのもそうだ。この宿泊に関しては来瀬川教諭とミラベルが発起人である。
「というわけでプライベートな集まりでも何でもない、ノリと勢いの産物と言えよう。だからまあ、気兼ねなく混ざってくれ」
「う、うん……ありがとう……」
そう呟いたきり、そっぽを向いてモジモジする瑠衣。
俺も相当だが、彼女も実にコミュニケーション能力が不足している。相手の目を見て話すだけでも大きく印象は変わると思うのだが――などと思いつつグラスの水を回していると、姫川いるか先生がそわそわし始めた。
「そ、そろそろお料理とって来ても良いかな?」
彼女の大きな瞳にはブッフェ形式で並べられた料理の数々が映っている、と思われる。特に引き留める理由もないので、俺は頷いた。
「おー! じゃ、小比賀さんも! 先生はピッツァが食べたいです。窯焼きピッツァ」
「えっ、あ、あの……」
姫川いるか先生は瑠衣を引っ張るようにして料理の列に突撃していった。
早速、瑠衣を馴染ませようとしているのだろう。先生の立ち回りには助けられてばかりだ。しみじみと思いつつ、席に残ったミラベルに声を掛ける。
「というわけで、彼女には魔術関係は内密で頼む」
「承知してます。それにしても、彼女とはどういうご関係なんですか? いきなりよそのお嬢さんを預けられるなんて」
「実はさっぱり思い出せないんだ……名前もさっき知ったくらいで……」
「えー……」
ミラベルは呆れ顔である。
無理もない。俺だって自分でどうかと思う。
「ど、どうやってやり過ごす気なんですか。行動を共にしていては、記憶がないことにいずれ気付かれちゃいますよ」
「今日明日が凌げればなんとかなるはずだから……よろしくお願いします」
拝み込むと、ミラベルは苦笑いで姫川先生と瑠衣の方を見た。瑠衣の持った大皿に姫川先生がトングで料理をどんどん盛り付けているのが見えた。
「私も善処はします……けど、ヒメジさんがいれば大丈夫かもしれませんね。凄い人なので」
どこか自嘲の色が見える言葉だった。
ひーちゃん先生が凄い、という部分に異論はない。彼女は大人で、コンプレックスを抱えているはずの自分の容姿でさえも、時として話のタネにしてしまうほど明るく強かな人だ。俺もミラベルも、異界での生活において彼女に支えられている部分が少なくない。
とはいえ、だ。
「俺からすればミラベルも凄いけどな。現界ではちゃんとお姫様やってたし、騎士団だって率いてた。異界でも吸収が早いし、助けられっぱなしだ。何ならできないのか逆に気になるくらいだよ」
魅了の効果を差し引いたとしても、ミラベルが高い能力を持つ少女であるのは事実だ。
しかし、皇女はふっと笑みを浮かべた。
「私にだって、沢山ありますよ。できないことは」
「……たとえば?」
「人と仲良くするのがとても苦手です」
即答であった。
そして、意外な答えでもある。
「現界での私には……心から信頼できる人が少なかったんです。もっと周囲と信頼関係を築いていれば、或いは……剣聖に付け入られることはなかったのかもしれない。そう悔やまない日はありません。あの人は、私が最後にアキトさんに頼ることを見抜いていたから」
俺は剣聖マルトの姿を想起する。
ミラベルは彼女を少なからず慕っていたはずだが、今はもう違うようだった。俺が倒れたあと、何らかの決裂を迎えたのだろう。
たしかに、もしミラベルがもっと多くの人に囲まれていたなら、マルトがミラベルとあの状況を利用して俺に戦いを挑むという局面そのものが起き得なかったかもしれない。
カタリナや、サリッサ。他の九天でもいい。いや、もしかすると水星天の平騎士、モイラやヘッケルでも状況は違っていたかもしれない。実力がどうこうではなく、俺達は二人しか居なかったのが問題なのだ。
「もっと強い組織を作るべきでした。もっと……やりようはあったはずなのに」
そこに少なからず、自分たちだけで状況を打開できるだろうという驕り――危険を前にして他者に頼らない心理が働いていたことは否めない。
さしもの剣聖マルトとはいえ、セントレアの全戦力を相手にできたはずがない。彼女の強さは尋常ではないが、それは個としての最強にすぎない。水星天騎士団と正面からやり合った俺が負けたように、だ。
だからこそ彼女も策を弄した。かつて木蓮がそうしたように。もしそんな策を寄せ付けないほど強固な関係があったなら、結果は違っていたのかもしれない。その話は理解できる。俺達はそもそも一枚岩ではなかった。
もしミラベルが上手く人を頼り、使うことを覚えたなら、かつてよりもずっと高い場所に登れるのかもしれない。本質としてか弱い少女にすぎなかった彼女は、ここで成長しようとしている。冷徹な打算によって強い信頼関係を築き、より強固な組織と勢力を作り上げられる、本物の為政者――真の吸血姫に。
おそらくは、剣聖マルトが望むとおりに。
そして、そこに慈愛の福音の力が加われば、魔王とさえ言われるカレルでさえも屈服するかもしれない。彼の力の大部分は往還者となったミラベルに通じない上に、ミラベルの現象攻撃は俺が直撃したらしいことを踏まえると、回避が非常に難しいと推測される。そして、魅了は当てれば勝てる類の攻撃だ。
ミラベルはあと一歩でカレルと戦える次元にまで来ている。
吸血姫が現界に戻ったとき、もしかすると皇国を取り巻く局面は大きく変わるのかもしれない。良くも悪くも。
だが、俺は否定する。
そう約束した、そのとおりに。
「いや、俺を頼ってくれ」
ミラベルを全肯定しろという、脳内の声は完全に無視した。
目を丸くする彼女に、俺は重ねて言う。
「もし仮に現界に帰れて……君が上手く人の信頼を得られたとして……心から仲間と呼べる人達を作れたとしても、それでも、カリエールさんとは戦っちゃいけない。あの人はその人達を順に尽く斬り伏せる。きっと死ぬまでそうだろう。そうやってあの人に勝ったとしても、何にもならない」
あの剣聖には、およそ個人では太刀打ちできない。軍が必要だ。
そして大勢が死ぬ。屍山血河で立ち尽くす皇女の姿が、俺には見える。
「政治をやるならそれでもいい。王ならそれでいいかもしれない。人心を集める強さってのは確かにある。非情に徹する強さも。でもそれは、強さが全てだとするカリエールさんの理屈そのものだ。君がそんなことをする必要はないよ」
俺は信じている。
強さと正しさは必ずしもイコールではない。戦わなくてはならない時があるとしても、勝ち取らなくてはならない時があるとしても、他者を踏みにじるような行為は絶対に間違っている。
そんな綺麗事の為になら、俺は何度だって戦える。その為の剣の福音でなければ、いったい何のための力だというのか。
「だからもし現界に帰れたら、また俺を頼ってくれ。次は負けない。今度こそ、俺があの人の剣を折るよ」
「は……はい」
虚勢も良いところだったが、ミラベルはきょとんとした顔で首を縦に振った。
実のところカリエールさんが何をして、どうなって負けたのか俺は未だに理解できていない。彼女の剣に仕掛けがあったのか、はたまた魔術による細工だったのか。或いは、俺の思いもよらない技による攻撃だったのか。しかし、剣技であれば俺に分からないはずがないのだが――
いま再戦しても負けるよなあ、と情けないことを考えていると、ぼうっと熱に浮かされたような顔のミラベルと目が合った。
「……どうしたんだ?」
「い、いえっ! べつに……なにも」
彼女は勢いよく顔を振り、水のグラスに視線を落とした。
まるで瑠衣のような挙動不審っぷりに少し心配になる。
どうも俺の話は的外れだったのかもしれない。
言葉通り、彼女は人との付き合い方に悩んでいるのではないか。
そんな気になってくる。
考えてみると、ミラベルに友達らしい友達が少ないのは確かなのかもしれない。カタリナとマリーは友達というより姉妹だし、サリッサは誰とでも仲良くなる感じなので、おそらくミラベルの社交性による友人ではない。
もしかすると彼女は、皇女という立場もあって普通に友達が少ない子だったのかもしれない。意外な発見だった。
現界のゴタゴタは抜きにして考えれば、ミラベルが真っ当な友達を作るのは悪いことではないだろう。むしろ必要なことだと思われる。
打算や計算抜きで付き合える来瀬川教諭のような人が増えれば、きっと彼女にいい影響を与えるに違いない。
などと、半ば父親のような目線の思考を巡らせた俺は、さしあたって彼女に頼みごとをすることにした。
「……ミラベル」
「は、はい?」
「あの二人を手伝いに行ってくれ。俺は飲み物を取って来るから」
見れば、瑠衣が両手に皿を抱えて困り果てていた。姫川いるか先生はなおも怒涛の勢いでトングを振るっている。俺の知る限り彼女は健啖家でもなんでもなく、むしろ見た目通りの小食なので全員でシェアする気満々なのだろう。それはそれで楽しそうで大変結構なのだが、瑠衣はそろそろバランスを崩しそうだ。
慌てて二人のもとへ駆けていく皇女様の背中を見送りつつ、俺はしみじみ頷く。ミラベルにはぜひとも瑠衣と仲良くなっていただきたい。一朝一夕でそこまでは出来過ぎだろうが、彼女なら目がないわけではないだろうと何故か思えた。
瑠衣が英語を流暢に話せないかもしれない、と俺が思い至ったのは、人数分のウーロン茶を注ぎ終わった頃だった。




