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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
五章 シンギュラリティ
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13.休日③

 氷室一月という男について俺が知っていることは多くない。

 忘れてしまったのもあるが、そもそも行動を共にしていた頃から彼は身の上をあまり語らなかった気がする。それは他の往還者たちも似たようなもので、俺自身も自分の境遇をマリア以外に深く話したことはなかったように思う。

 

 別に身の上を恥じたわけではない。優先度が低かったとでもいうべきだろうか。仮に、まったく共通点のない赤の他人同士が未知なる異世界で出会ったとして。そして、帰還がまず有り得ないという状況に陥ったとするなら。それまで歩んだ自分の人生というものに、一体、いかほどの重みを見い出せばいいのだろうか。

 少なくとも、俺たちはそんなことよりも明日の寝食の心配をしていたし、その心配がなくなった後は世界に慣れることに必死だった。更にその後は竜種の戦いに明け暮れていて、その頃になるともう、異界のことを振り返る機会もほとんどなかったように記憶している。

 

 俺の知る氷室がどういう人間だったか、という範囲でいうのなら、彼は往還者たちの中で年長者のポジションに居た。容貌からしてそうだったのもあるが、子供ばかりといって差支えない仲間たちの中では、彼が最も落ち着いた人格を備えた人物だった。

 今思えば彼が最もリーダー向きだったように思うのだが、実際に一団を牽引したのは全員の合議。実質的には俺とマリアの話し合いだった。

 准教授という肩書がどれだけのものなのか俺にはあまり実感がなく、語感と乏しい知識から想像するしかないのだが、職階的には上の方だろう。能力的にそこらの高校生である俺とは比較にすらならないはずだ。もし、そういった彼の背景が最初から明らかだったのなら、俺たち往還者が無知な若者主体で突っ走ることもなかったのではないだろうか。今となっては分かりようもないことだが。

 

「重力波というのは、質量によってもたらされる時空の歪みのことなんだ。この研究所はもともと、その重力波を観測するために作られた施設なんだよ」

「へえ」

「観測といってもこれがなかなか難儀でね。天体がもたらすような重力波でさえごく微弱なもので、観測機器も非常に大型になる。この研究所がこんな辺鄙な山奥にあるのはそのせいなのさ」

 

 などと、狭いエレベーターの中で簡単な説明をする氷室は、たしかにどこかの学者と言われても素直に頷ける説得力を備えている。

 下るエレベーターが到着したのは地下七階という、なかなかお目にかかれないような数字の地下フロアだった。

 ただ、エレベーター付近を除いて建物の体裁を保っていない。鉄筋コンクリートでと断熱材で覆われた薄暗いトンネルと形容した方が正確だろう。照明もまばらな遠大なそのトンネルに、太いパイプ二本が延々と伸びている。

 

「で、その大型の観測機器というのがこれ。重力波望遠鏡、固有名称はLIBRA(ライブラ)。全長四キロ。発展型レーザー干渉計としては最大級の代物だよ」

「四キロ?」

 

 単位が狂っている。

 暗いトンネルの先に目を凝らすが、確かに果ては見えなかった。

 

「すごいだろう。同じ規模の重力波望遠鏡が国内にもう二箇所あるんだが、ここのは少し特別でね。今のところは僕にしか調整できなくてね。こうやって直接出張しているというわけなんだ」

「望遠鏡……ってこれ、もしかして宇宙を観測する装置なのか?」

「そう。正確には天体の衝突やなんかで発生した重力波を、だね。さっきも言ったけど、そんなレベルの現象が起こす重力波でさえ微弱過ぎて、観測にはこれだけ大きな装置が必要になるんだ。まあ、今は別のものを観測してるんだけど」

 

 別のもの、については触れず、氷室は再び俺たちに向き直った。

 わざわざ俺たちに重力波望遠鏡を見せる意図は、おぼろげにしか分からない。そのはっきりとしない部分を明確に言葉にしたのは、意外なことに難しい顔をした来瀬川教諭だった。

 

「次元の壁を越えられる……可能性があるのは重力波だけと言われてますね」

「そう。まさにそのとおり。来瀬川さんは物知りだ」

「あはは。サイエンスフィクションをよく読んでましたから。テレポートとかタイムトラベルって聞くとワームホールとかブラックホールとか考えちゃいますけど、それはちょっと現実的じゃないですし……」

 

 口ぶりだけは照れた風に答える来瀬川教諭だったが、表情は暗い。

 対する氷室は苦笑交じりに言う。

 

「……そうだね。仮に百歩譲って往還門の正体がそれらだったとしても、どちらも生身の人間が通過できるものではないし、もしそんなものが地球上に発生してしまったら、今ごろ僕らは吹き飛んでいるか、事象の地平線の向こうだ」

「そういうもんなのか」

 

 俺としてはどれもピンとこないので頷くしかない。

 往還門の仕組みに興味があるわけでもない。考察するだけ無駄だ、と納得して久しい部分だからだ。

 なにせ、俺たちが個人的に行使できる福音の権能ですら種や仕掛けがない。そういうものだと理解するほかにないと思っていた。

 しかし氷室は、わざわざそこを掘り下げたらしい。彼の頭脳が導き出した結論を、俺たちは沈黙と共に聞いた。

 

「つまり、僕たち往還者は別世界に移動していたわけじゃない。あくまで、そう見えていただけなんだよ」

 

 俺もミラベルも、その言葉の意味があまり理解できなかった。

 いや、話の流れは分かっている。

 次元や時間の壁を越えられるのが重力波だけなのだとしたら、生身の俺たちが移動しているわけがない、というごく単純な話だ。

 だが、現に移動している。すっきりしない俺の面持ちを見て取った氷室は、断熱材と思しきビニールに包まれた壁に背を預けながら言う。

 

「そもそも、僕らはあきらかに外殻大地(オズモテンレイオン)に招かれる前の、元の自分たちとは異なっているだろう?」

「福音のことか」

「いいや、違う。歳をとらないって点さ」

 

 言われて自分の掌を見る。

 千年変わらなかった己の肉体を。

 

「実はもう裏をとってある。こっちに戻ってから検査を受けた。医学的にも、僕らは人類のままだ。なのに不老。劣化もしない。傷を負っても跡形もなく治ってしまう。普通、痕くらい残りそうなものなのに」

 

 ミラベルは心当たりがあるのか、額の辺りを僅かに触る仕草をした。

 俺にも心当たりがある。千年の間にあった数多の戦い、そして直近にもあった継承戦絡みの戦いで負った多くの傷。後遺症でとっくに再起不能になっていてもおかしくはなかった。だというのに、俺の掌には、体には、傷跡ひとつない。

 

「僕らは人類のまま。そう見える。だけど科学的には違う」

「なに?」

「物質転換だよ、明人君。いまの僕らの肉体を構成しているのは魔素(ルキィス)由来の物質だ」

 

 視線を上げる。

 語る氷室の顔は、冗談を言っているようには見えなかった。

 

「えっと……ルキィスとは?」

「……魔素(マナ)のことだ。これも現界の古い言葉だよ」

 

 曇った表情で問うミラベルに補足しつつ、俺は氷室の言葉を考える。

 可能性を検討する。

 魔素の物質転換術、つまり実体化の魔術にはいくつかのパターンがある。たとえば魔素を水に変換したとして、その水が永久的に水のままであるパターン。すぐに魔素に戻るパターン。前者の場合、魔素は永久に水として振る舞い続ける。

 生命体を錬成することはできない。いくつかの解決不可能な問題もある。

 

 それでも――まったくありえない話ではないのかもしれない。

 俺は自分の手を動かした。

 肉体の実感は確かにある。あやふやな霊体などではない。

 

(マナ)とはね。それはまた面白いネーミングだ」

「つまり……なんだ。俺たちは……作り変えられたって言いたいのか」

「表現は悩ましいところかな。一言でいうとファックス……いや、若い子は知らないか。複製(コピー)かな。人間一人をまるごと情報に変換して、重力波として送信。受信した側の世界で、その情報を基に人間を再構築する。往還門による世界間の移動はそういう仕組みだと僕は推測した」

 

 氷室は衝撃的な推論を淡々と述べた。

 怖気が走る。その理屈では、移動する度に同じ人間が増えていくことになる。

 だが、そうはなっていない。ということは。

 

「だとすると、複製元は消去してる……という話ですよね。テレポーテーションに関する思考実験を読んだことがあります。自己同一性の問題に繋がる……」

 

 語る来瀬川教諭は青い顔でこめかみを押さえていた。見ればミラベルも、端々の単語が分からなくとも意味を理解したらしい。こわばった表情をしていた。

 

「本当に博識だ」

 

 氷室はやはり涼しい顔をしていた。

 論理で割り切っているのか、慣れの問題なのか。

 判然としなかったが、俺は確信の持てることだけを口にした。

 

「この重力波望遠鏡で観測したんだな。その……往還門の通信を」

「……まあね。検証しないと気が済まなかった」

 

 なら、

 氷室の仮説は事実とそう遠くない場所にあるのだ。

 

 世界間の移動によって元の俺(・・・)は消滅したのか。

 そして、俺だけではない。他の往還者も全員、世界間の移動を行った時点で元々の人間としては死亡しているといっていいのかもしれない。

 もし自分の完全な複製が目の前に現れたとして、それを自分自身だと受け入れられるかどうか。おおよそ不可能だろう。自我の同一性を維持できなくなる。往還門が複製元を消滅させるのは、おそらくそれを防ぐためだ。

 

 原理を悟ってしまった今となっては無意味な話でもある。

 実感はまるでなかったが、自分が、かつての高梨明人の複製にすぎないのならそれはそれでいい。むしろしっくりきてしまうほどだ。

 しかし、カタリナやサリッサ、ミラベルのことを思えば容易には受け入れがたい仮説だった。元の彼女たちは往還門に触れたことで消滅してしまったのだと考えると、言いようのない虚無感が爪先から這い上がってくるのを感じる。

 

「ご気分を害してしまって申し訳ない」

 

 氷室はミラベルと来瀬川教諭に向けて頭を下げる。

 

「だけど、まずはこの話をした上で次の話をしたかった。でないと理解を得られないと思ったからね」

「これ以上、まだ何かあるのか……?」

「往還門を止めたのは僕だ」

 

 彼はあまりにさらりと言ってのけたので、誰も咄嗟には反応できなかった。氷室は丸眼鏡を外して胸ポケットに差す。そうしてから目頭を揉んだ。

 

「いまの僕に福音はない。けど、この世界には科学がある。この重力波望遠鏡はただの観測器機じゃない。照準器だ」

「……重力波ってやつを止める装置を作ったのか」

「うん。まあ、もちろんゼロからじゃない。表向きは重力波望遠鏡の精度向上のための改修ということにして予算をもぎ取った」

 

 氷室は顎で階下を指す。

 

「このフロアの下で建設中だった加速器を流用して、特定の重力波の干渉を広域で平衡化する装置をLIBRAに接続した。それがつい半月前の話。稼働し始めたのは十月三日の午前零時。少なくとも、ここから半径一千キロメートルの範囲で別次元からの重力波干渉は二度と起きない」

 

 どうしてそんなことを、という問いは無意味だった。

 彼は最初からすべて説明している。

 

「触れた人間を分解して、その情報を基に別の世界で人間を再構築する。そんなおぞましいものはこの世界にあっちゃいけない。そんな悲劇は、僕らだけで終わりにしなければ」

 

 静寂で響いた呟きに反論はなかった。

 仕組みを知った今、これ以上は往還者を増やしてはならないと俺も思う。

 

「……あちら側に帰属する明人君やミラベルさんには申し訳ないことをしたと思う。すぐには無理だけど、いずれ……何カ月かしたらメンテナンス作業で加速器を停止させることもある。そのタイミングでなら、ほとんどゼロに近い確率だけど往還門がまた使える可能性もなくはない。そのときは必ず知らせよう」

 

 本当に申し訳なさそうに氷室はそう言うと、壁から離れてエレベーターへと戻っていった。

 

「すまないが、このあと急なミーティングが入ってしまってね。今日のところはこれで失礼するよ。入れる場所なら見学自由だ。せっかく来てくれたんだし、好きに見ていってくれ」

 

 エレベーターの扉が閉まる。

 取り残された俺はミラベルを振り返った。皇女は浮かない顔のままだったが、同時に、どこか釈然としない様子でもあった。

 

「私たちが複製……本当にそうなんでしょうか。私にはどうしても、そんなふうには思えなくて……」

 

 睫毛を伏せて考え込むミラベル。

 気持ちは分かる。俺にもやはり、実感はないままだった。

 

「……うん。本当のところなんてまだ分からないんじゃないかな」

 

 サイエンスフィクションを読んだだけにしては不自然な理解力を発揮していた来瀬川教諭が、明るい声音で肯定する。

 彼女だけはホワイトボードでの説明時点から話の流れを察していたような節があった。まさかすべてを察していたわけでもないだろうが。

 

「氷室さんの話はあんまり気にしない方がいいよ。もしかすると帰れるかもしれない、くらいに受け止めるのがいいと先生は思う」

 

 彼女らしいことを言いながら、ひーちゃん先生はエレベーターのボタンを押した。この湿った地下道のどこにも見学の余地などない、という認識は共通していたらしい。

 俺は最後に、だだ長いだけのパイプにしか見えない重力波望遠鏡を振り返った。この装置の存在を知れただけでも収穫だったといえる。科学があの往還門を閉じたなどと、まったく想像の埒外だったからだ。

 もし本当に、直ちに現界に戻らなくてはならない時がきたなら。その時はまずこの装置を止めてもらえばいい。確実ではないのだろうが、それが分かっただけで、以前より遥かに気が楽になったような気がした。

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