12.休日②
人出が多い。来瀬川教諭の駆る可愛らしいイエローのコンパクトSUVから降り立った高速道路のサービスエリアで、俺はまずそんなことを思った。
首都圏で奇怪な失踪事件が続いていたとしても、世の中の大多数の人々には影響がないらしい。土産物販売や食事の提供を主目的とする休憩施設は、その目的に違わず週末らしい行楽客で賑わっているように見えた。
外国人観光客の姿も多く見られる。
これなら現界人の一人や二人が混じっていても衆目を集めることはあるまい、などと思ったのだが、ソフトクリームを両手に小走りで戻ってくる皇女様と、その後をちょこちょこ追従する子供先生は大層目立っていた。彼女も、土産物が詰まっていると思しき紙袋を両手に下げている。
ふたりともはしゃいでいる。遠目にも分かるほどであった。なので彼女たちが間近にまで戻ってきたときも、ふたりの熱量に面食らわずに済んだ。
「見事な氷菓が売ってましたよ、アキトさん! ほかにも色々……!」
「信玄餅も買ってきたよ! 食べよ食べよ!」
「ああ、うん。はい。車ん中で食べましょうか。きな粉こぼさないように」
ふたりは興奮冷めやらぬ様子で後部座席へと乗り込んでいった。
俺たちは観光客ではないはずなのだが、彼女たちの様子からするに、実は観光客だったのかもしれない。休日らしいといえば休日らしい。主目的は別にあるはずだったが、ちょっと分からなくなってきた。
助手席に戻る前、間近に一際高く聳える山を振り返って仰ぐ。
標高三千七百メートルの活火山。富士山だ。
何の因果か、俺たちは遠く、富士のふもとにまでやってきていた。
ここまで来ると、もはやドライブではなく小旅行だ。ミラベルはともかく、来瀬川教諭まではしゃぐのも無理はない。俺もいくらか浮かれている自覚があった。
首都圏と比べて自然が近いせいもあるだろうが、どことなくいい思い出があったような気がしていた。もしかすると過去、家族旅行か何かで訪れたことがあるのかもしれない。まるで記憶には残っていないが、そんな気がするのだ。
「溶けちゃいますよ?」
車内からの声に呼ばれて振り返ると、口元にクリームをつけた皇女様が不思議そうに俺を見ていた。
なんとも脱力する有様である。
こんなことになったのは理由がある。
旧友である法の福音に会うべく都内の大学に出掛けた俺たちは、待ち合わせの一時間前になって予定変更の連絡を受けることになった。
新たに指定された場所は芥峰から遠く離れた山梨県の山中。車で二時間はかかる。率直に言って気乗りはしなかったが、ミラベルと来瀬川教諭が大いに乗り気だったのでそのまま日帰り旅行と相成ったわけだ。
いや、むしろ来瀬川教諭は泊りがけをも歓迎する勢いであった。単純に旅行を楽しむ気なのだろう。よくよく考えれば彼女は巻き込まれただけなのでスタンスが変わったわけではない。現代人にはストレスも多い。ミラベルがウキウキな理由も近いと思われる。
彼女たちのストレスの一因であろう俺が異を唱えられようはずがない。
***
目的地は山奥の集落を抜けた山道のそばにあった。
真新しい、公民館のような建物が二棟ほど生垣に囲われている。ただそれだけの建物で、看板も何も出ていない。備えられている十数台分の駐車場が半分以上埋まっているあたり、何らかの目的で現在も運営されている施設だと辛うじて分かる程度だ。
「うっわ、空気綺麗だね。ほんとにここなのかな」
「そのはずなんですが」
車から降りた来瀬川教諭の問いに、俺はあやふやな返事をする。
来瀬川号は川沿いの道をずっと登ってきたのだが、その道中もごく一般的な田舎道でしかなかった。駐車場から見える景色も畑や民家といった、のどかな山中の村といった風情だ。隣の敷地も古い郵便局だ。
しかし、住所は合っている。
ということは、公民館か村役場にしか見えないその建物こそが、目的地である研究施設、富士重力波観測研究所であるに違いなかった。
「研究所っていうくらいだからもっとこう、警戒厳重だったり秘密にされてたりするものだと先生は思ってたよ」
「俺もです。字面が厳ついですから」
「大学の研究施設なんですよね。地価が安かったのでは?」
そのあたりの浪漫を解さない異世界人のミラベルが首を傾げながら言った。夢が壊れるなあ、などと呟きつつ、来瀬川教諭はとことこと公民館じみた建物へと歩いて行った。俺とミラベルもその後に続く。
観測研究所の入り口は特に施錠もされておらず、ガラス扉を抜けたロビーに人気はなかった。というより、不思議なことに施設全体に人の気配が殆どない。
受付などがあるわけでもなく、仕方ないので電話で連絡するか、とスマートフォンを取り出したところ、パタパタと奥から駆けてくる足音があった。
音の主は若い、ちょうど大学生くらいの女性だった。これで白衣でも着ててくれれば僅かにでも研究所感を添えてくれたろうに、女性の出で立ちはごく普通のニットのカーディガンだった。
「こんにちは。氷室先生のお知り合いの方々でしょうか」
「どうも。高梨といいます」
「お話は伺ってます。補助員の新田です。先生は二階の電算室にいらっしゃいますので、どうぞ上がっちゃってください。あとでお茶、お持ちしますね」
傍目には年下の学生集団にしか見えないだろう俺たちにも営業スマイルを浮かべてくれた新田さんは、奥まった位置にある階段を指してそう言った。
補助員。助手みたいなものか、と勝手に納得しながら言われたとおりに階段を上って二階へ。十字路の先に電算室と書かれた部屋を見つけたので、特にノックなどをすることもなくドアを開けた。
中は四畳半ほどの狭い小部屋だった。
そこに、さも間に合わせといった感のある長机とパイプ椅子、そしてホワイトボードが雑に配置されている。
電子計算機と呼べそうな代物は、長机の上に置かれた二台のノートパソコンくらいしかない。その前、安そうなパイプ椅子に腰掛けた男がこちらを向いた。
細面で鼻が高く、どこか中性的ですらある若々しいルックス。お洒落なのかどうかは分からないが、銀縁の丸眼鏡などをかけているし、伸びたパーマ気味の髪の毛は明るい色のメッシュが入っている。顎に伸びた無精ひげと、よれたワイシャツ姿がなければ大学生と言っても通用するだろう。
氷室一月。千年越しに対面したかつての仲間は、まるでつい昨日までもそうしていたかのように、人懐っこい笑みを浮かべて口を開いた。
「やあ明人君。ようこそ。こんなところまでよく来たね」
「ここ来いって言ったのお前だろ……」
「あっはは。まさか本当に来るとは思わなかったよ。ここはバスも全然来ないからね。まま、適当に座ってくれたまえ……よ」
氷室はパイプ椅子を掴んで固まった。その視線の先には、おずおずとこちらを窺うミラベルと来瀬川教諭の姿がある。
「あの子たちは?」
「話すと長い」
ざっくりした説明で済ませようとしたのだが、一歩を歩み出た氷室は居住まいを正し、二人に向き直った。
「はじめまして。氷室です。東科大の物理学科で准教授をしています。どうぞよろしく」
「来瀬川です。よろしくお願いします」
ひーちゃん先生は笑顔で簡潔に自己紹介をした。
いや、簡潔過ぎる。遊ぶ気らしい。笑顔には悪戯っぽい色が混じっていた。
「……で、そちらのお嬢さんは見るからにあっちの人ですね」
「ミラベルといいます。お会いできて光栄です」
「本来、外殻大地の方がこちらにいらっしゃるのは褒められたことじゃない。が、あなたのように美しいお嬢さんなら別だ。よければご一緒に食事などいかかでしょう」
魅了を受けたわけでもないというのに、氷室はミラベルに向かってすり寄っていく。許されないことだ。万死に値する。
俺は僅かに考え、最も適切と思われる事実を口にした。
「その子、カレルの娘だぞ」
氷室の足がぴたりと止まる。
彼は感情を読み取るのが難しい顔をした。
「そ、そっか……友人の……しかも自分より年下の友人の子と聞くと、途端に複雑な気持ちになるものだね。この歳で独り身でいるのが悲しいような責められているような……」
「氷室さん、まだお若いように見えますけど」
「いやあ、こう見えて五十路でね。外殻大地で過ごした十数年を足せば、だけど」
「ご、ごじゅ……!」
ひーちゃん先生が驚いている。
いや、俺に言わせれば彼女の方がびっくり人間なのだが。
この場で唯一、見た目と実年齢が乖離していないミラベルが控えめに問う。
「あの……外殻大地、というのは?」
現界の歴史に詳しい彼女も、千年越しに対話する人間とは話がかみ合わないらしい。言葉を足す。
「外殻大地は現界の古い呼び名だよ。元々、現地の言葉ではあの大陸をそう呼んでたんだ」
「へえ。今は生命の木というのか。ならこちらの世界は、さしずめ邪悪の木といったところかな」
「合ってる」
「ずいぶんな皮肉だね。レーシャかカレルのセンスだ」
氷室は面白そうに笑うと、来瀬川教諭を見た。
「すると、この子は明人君のお子さんかな。言われてみれば、どことなくあの子の面影が……」
「ないだろ」
「……全然ないね。なら妹さん?」
「それも違う」
ひーちゃん先生は吹き出して笑いをこらえている。
ミラベルは「あの子」の部分に敏感に反応して俺に問い掛けるような目を向けているが、説明するのに適切な機会とは言い難いので気付かなかったことにした。
新田さんが人数分のお茶を持って来てくれた後、パイプ椅子に着席した俺たちは改めて氷室と向かい合った。
彼は無精ひげを撫でながら窓の外を見やる。
「外殻大地……いや、現界といった方がいいのか。とにかく、明人君があちらの世界で千年を過ごしたという話は実に興味深かった。僕の考えていた仮説とも合致する」
「仮説?」
「難しい話じゃないよ。僕なりに君たちや自分の身に起きたことを解釈した。これから話すことはその一端だ。サイエンスフィクション。話半分で聞いてもらえると幸いだね」
きゅぽっと奇妙な音がしたので氷室の手元を見ると、彼は水性マジックのキャップを抜いたところだった。
ホワイトボードに何かを描こうとするが、掠れた青い線が伸びるだけだ。氷室は軽く舌打ちをしてから別のペンをボードのペン置きから掴むと、白板に黒いラインを二本、引いていく。
彼は次に、それぞれの線の上に文字を書き込んだ。「Qliphoth」と「Sefirot」。そして二つの線の左端にそれぞれ「始点」と書き加える。
「そうだなあ……この始点の定義は……そうだね、僕と明人君が別れた時点としよう。つまり明人君にとっては千年前。僕にとってはふた月前だ」
意図が読めずに困惑する俺に、氷室は更に「Qliphoth」の線のほぼ真ん中に点を書き加える。「現在」と記されたその新たな点を曲げた人差し指の背でコンコンと叩きながら、氷室は言った。
「で、この点Bを現在とする。定義は、今ここで僕達が話している時点……過去と未来の間。過去から未来へと移り行く、今……とする。現在という言葉の定義を厳密に決めようとすると面倒だからね。簡略化させてもらうよ」
何となく図の意味は分かった。二本の線は現界と異界の時間軸を表わしているのだろう。
「で、往還門でタイムトラベルしたことがあるんだって?」
「ああ。少し前、現界との間を往復した時に一度だけ……数日前に戻された」
「原因に心当たりは」
「推測レベルなら。時の福音……カレルの現象攻撃を受けた人間と一緒だった」
「ふうん」
無精髭に指を這わせつつ考え込む様子を見せた氷室は、すぐに顔を上げて驚くべきことを言った。
「原因はともかく、話自体は別に驚くようなことでもないよ。実際、タイムトラベル……も定義によるが、似たようなことは僕でも実行できたはずだ」
「……何だって?」
「往還門の動きを考えればすぐに分かるよ。僕はね、あれを使ってみた時からそういうことも起き得るだろうと確信していた」
再びペンを執った氷室は、「Qliphoth」の線にある「現在」の点Bから「Sefirot」の線のほぼ真ん中に向けて垂直に矢印を書き込んだ。
「仮にこれが、今の明人君が往還門を使用した場合の君の動きだとしよう。往還門は通過した人間が前回に往還門を通過した時間へと寸分違わず移動させる」
「ああ」
「でも逆に言うと、僕が往還門を使用するとだ……結果はこうなるんだよ」
氷室は言うなり、今度は「現在」の点から「Sefirot」の線の「始点」に向けて斜めの矢印を引いた。つまり、千年前に。
「あっちで千年過ごした明人君と違って、僕が最後に往還門を通過したのはこの時点だからね」
「……なるほど」
ようやく俺も理解した。
俺から見たら氷室が千年前に遡っているように見える。
「要は、移動者を基準にして考えるから、単なる二地点間の移動に見えていただけなのさ。移動に時間的なギャップが一切ない時点で、相対的に見れば常に時間移動も伴っている。あれは最初からそういうものなんだ」
こうやって冷静に整理すれば、すぐに理解できる話だった。
「分かりにくいだけで、実際のところは毎回タイムトラベルしてたってことか」
「定義によるけど、そうとも言える。何故だとか何の為にだとか、そういった疑問はさて置いて機能だけを考えるとそう。で、往還門が移動先に指定している『前回の通過時間』だけど……おそらく、時の福音を用いればある程度は制御ができるんじゃないかな」
「制御?」
「通過した個々の人間の『前回の通過時間』を往還門側が記録しているとは考えにくいよ。もしそうなら、時の福音を食らった人間が通過したからといって誤作動みたいな事が起きるはずがないからね。だから、『前回の通過時間』を保有しているのは通過した往還者の方だと推測できる」
通過した往還者――
「つまり、俺か?」
「うん。おおかた、明人君も何か……時の福音の攻撃を受けたんじゃないか? 直接的な原因はそれだ。それによって明人君が保有していた『前回の通過時間』が巻き戻された。だから往還門は誤作動を起こした……ああ、タイムトラベルの仕組みを無理矢理説明するとしたら、こんなところかな」
キャップを嵌めたペンを手の中で転がし、氷室は苦笑する。
「勿論、この仮説じゃ説明がつかない点もある。もし明人君が保有している『前回の通過時間』が狂わされたのが原因なら、その影響が現れるのは直近の移動……『異界から現界』への移動ではなく、『現界から異界』への移動のはずだ。『異界から現界』への移動でタイムトラベルが発生したのなら、異界で『前回の通過時間』を狂わされたとしか考えられなくなる」
「異界でか? いや……心当たりがない」
「だとすると……狂わされたのは時の福音にではないのかもしれないね。けど、どうやっても憶測以上にはならないかな。まあ、本題でもないからね。そろそろ本題に入ろう」
本題とは。黙って話に聞き入っていたミラベルが顔を上げる。
来瀬川教諭はホワイトボードに見入っていた。まさか、ありえない。そんな風に唇が動いた気がした。
その動きは音を伴っていたらしい。氷室は感心したように手を叩いた。
「そう、ありえない。人間が時間移動するなんてことはできないんだ」
「……と言われてもな。実際、起きてる」
起きえないことを起きえないと安易に否定するにしては、俺たちは神秘に囲まれ過ぎている。だが氷室は、ゆっくり首を振った。
「無理なんだよ、明人君。水分と蛋白質で構成されている僕たち人間が、生身で時空を超えるなんてことはできないんだ。だって、ただの物体なんだから。時間移動を伴うってことは、この二本の線の間にある壁は、もはや次元の壁そのものだ。物体なんて通過できないよ」
そう言われてしまうと、俺だって生身の人間が次元だの時空だのをホイホイ越えられるとは思わない。
だとしたら――氷室は矢印に丸をつけてペンを置く。
「だからこそ、ここ……往還門を使うことで起きていた移動とは、本当は何だったのか。僕たちが何になったのか。ある程度の推測ができる。まずは君に、その話がしたかったんだよ。ようこそ、富士重力波観測研究所へ」




