09.仮面
帰宅して食卓を囲む段になっても、来瀬川教諭の笑顔に力が戻ることはなかった。当然だ。あんな現場を見てしまった後で食欲も湧こうはずがない。
先週から仕込んでいた返しを使ったかき揚げ蕎麦はそれなりの自信作だったのだが、半人前程度の分量で提供することにした。
気が進まないだろうにきちんと食べてくれたし、表面上は変わらずに振る舞うあたりが実にひーちゃん先生だった。そして彼女がそうである限り、俺も殊更に突っ込んだ話をする隙を見付けることができなかった。
仮に隙があったとしても、なにを言えば良いのかは分からない。
俺と彼女は違い過ぎて、どう接して良いのか正直見当もつかない。
なにせ、俺の方はもう落ち着きを取り戻している。もっと惨たらしいものを俺は知っているし、もっと惨たらしいものを俺は見てきた。
未知が恐怖であるなら、既知は恐怖でない。単純な道理だ。
俺の中で駅前の一件は忌むべき記憶ではなくなり、もはや考察の対象になってしまっている。
永山警視の口ぶりは、俺の知らない来瀬川教諭の過去をも示唆するものだったように思えた。そちらも気にはなるが、いま考えるべきは事件のことだろう。
もしあれが世を騒がせている失踪事件の一部なのであれば、失踪と呼称するのは間違いであると言わざるを得ない。経験から言って、片足を失った人間は適切な処置なしで長く生きられるものではない。十中八九、足の落とし主は既に亡くなっている。失踪ではなく殺人とすべきだ。
残りの一割の可能性として、足を落とされた人間が処置をされている可能性も考慮できなくはないが、だとすると本当に意味が分からない。それはもう狂人の所業としか言いようがない。
瞼に焼き付けた被害者の足を想起する。
血だまりを作っていたことから、現場はあの駅前で間違いがない。別の場所で落とされていたのなら、血だまりができるほどの出血はないはずだ。
更に警官の言葉。被害あった方々。
あれが言い間違いでなければ、その場に居たのは足の落とし主だけではない。連れか、或いは通行人が近くにいたのだろう。
総合するとこうだ。
人通りの多い夕時のラッシュアワー。
何者かが駅前のど真ん中で人間の片足を切り落とし、本人を連れ去った。
おそらくは、あっという間に。付近に人が居る中でだ。
もはや完全にホラーだ。
推理も何もない。何ひとつ筋が通らない。
事象だけ並べると人間の仕業というより獣害に近いかもしれない。ヒグマか何かがやったことだと考える方がまだ筋が通る。
だが当然、街中にヒグマはいない。居たのだとしたらネットで十万再生くらいはされているかもしれないし、ニュースにもなるだろう。
「いまのところ、そのような動画は見当たりませんね」
カチカチと慣れた手つきでマウスをクリックしつつ、ミラベルが言った。
ソファーに撃沈する俺は首だけを動かし、リビングの隅にあるパソコンデスクを向く。彼女が操作するパソコンのディスプレイには当たり前のように動画サイトの検索画面が映し出されていた。
「あ……お……俺、声に出してたか?」
「ええ、ばっちり」
「……す、すまん。変な話を聞かせた」
「いいえ。アキトさんはもっと話してくれるくらいでちょうどいいです。異界にも危険な生物はいるようですが、生息域が人里から遠いのですね」
「あ、ああ」
顔が熱い。
自分の思考をそのまま話すのは、どうも苦手だ。つまり普段喋っている数少ない部分は取り繕ったり気取ったりしているという証拠なのだが、格好をつけてようやく人並み程度の器なのでご容赦願いたいものだ。
などと俺がひとりで思い悩んでいるのをよそに、ミラベルは動物の動画チャンネルを再生し始めた。画面の中ではチワワが走り回り始めている。
何故チワワなのだろう。
「遠方の様子が記録としていつでも鑑賞できるなんて……この技術は本当に素晴らしいです。きょうはこの子たちを一日中眺めてました」
「びっくりした。チワワを危険な生物と認識してるのかと」
「あは……さすがにそんな誤解はしません。最初見たとき犬とは思えませんでしたけど」
「気持ちは分かる」
襟足の辺りを掻きながら理解を示すと、ミラベルはくすくすと笑って椅子から立ってキッチンの方へと引っ込んだ。ティーポットの蓋が開く音がした。物質転換ではなく、先日贈った茶器を使ってくれているらしい。
「……ぞっとする話です。人の仕業と思えない、という意見には私も同意します。病んだ人間として考えても手段がありません。異界の技術は素晴らしいですが、少し足りない」
「魔法があれば別か?」
「相当腕のいい術師なら。でも、どちらかと言えばアキトさんの守備範囲かと」
「どうかな。人格破綻者にできる芸当じゃないし、異界に騎士はいない」
「ならやっぱり獣でしょう。神出鬼没の怪物です」
どこまで本気か分からないがミラベルは消去法でそう結論付けたらしい。
異界出身者の身としては、やはりそんな獣は居ないだろうという固定観念がある。用意した選択肢に正解が混じっているかどうかも分からない。
「この国の憲兵はどのような動きを?」
「後手後手っぽい。箝口令を敷いてるらしいが、どこまで続けられるか」
「……凶行を止められないのでしょうか」
「どうだろうな」
言葉通りの質問でないことは分かっていたが、俺は返答を濁した。
実際に分からない。警察はとっくに目星を付けているのかもしれない。曲がりなりにも自警組織の一員であった現界でならともかく、異界では一学生にすぎない俺には知る由もないことだ。
「らしくないですね。関わる口実を探してるみたい」
ミラベルにはお見通しだったらしい。
自分でも自覚はあった。
「……俺の出る幕じゃないよ。権限もなければ必然性もない」
「いつもそんなこと気にしてましたっけ」
「さすがに現界と同じようにはいかないって。結構優秀なんだ、警察ってやつは。髪の毛一本でも手掛かりにする」
「それはそれは。だとしたら、このまま国家権力にお任せするのが一番ですね」
笑いをこらえるような声音だった。嫌味というよりは意地悪なのだろう。
俺はしばし考え、やはり首を振った。
「君やひーちゃん先生に迷惑がかかるかもしれない」
「魔力が使えない人間を幻術で欺くくらい、どうってことないです。人目を逸らすお守りでも作って差し上げましょうか?」
「……そりゃ便利だな」
「短時間なら隠匿術も付呪できます。現界の騎士相手では大した意味はありませんが、こちらの人間が相手なら十分でしょう。あとの問題は……記録器機でしょうか」
「監視カメラのことか?」
「それです。さすがに知性体でないものを欺くのは難しいのですが……軽く変装でもなさってください」
お茶の準備を終えたミラベルがトレーに茶器を満載させてやってくる。
しかし俺を驚かせたのは、彼女が顔に被っている仮面だった。
白い磁器のような質感の、無貌の仮面。
両目の部分にだけ丸い穴が開いている。それは、現界で出会った仮面の騎士リコリスが被っていたものと、まったく同一の意匠に見えた。
「……流行ってるのか、そのデザインは」
「はい?」
「リコリスの仮面とそっくりだ」
「彼岸花……? どなたです?」
「……いや、なんでもない」
そういえば、両者に面識がないのだと思い出す。
仮面の下から漏れ聞こえるミラベルの声が、その背格好が、あの仮面の少女と一瞬だぶった。妙な感覚だったが、この地上に舞い降りた天使が如き少女と他者を重ねるのは甚だ不敬だ。魅了の効果を利用して奇妙な思考から脱却する。
仮面を脱いだミラベルは、そのまま仮面を俺に差し出した。
「自動車の外装を参考に錬成してみました。見た目より頑丈ですよ」
「どこでそんなもんを……しかし、これじゃ変装っていうより仮装だ。逆に目立たないか?」
「特定の条件下で可視光を歪曲させる幻術が仕込んであります。具体的に言うと、これを被った人物はガラス越しに見るとぐにゃぐにゃに見えるはずです」
ガラス越し。
つまり、レンズを使用しているカメラは軒並み騙せるということだ。
俺は呆れ返りつつ、仮面を観察した。
見た目には変わったところがない。陶器のような手触りだったが、やや重量があるあたり金属製なのだろうと察しが付いた。
「……随分と準備がいいんだな」
「色々と異界について調べていますから。いずれアキトさんに必要になるだろうと思ってました。べつに私、動画を見ているだけではないんですよ?」
ウインクしつつ、ミラベルは片耳にかけるタイプの小型ヘッドセットを装着した。ブルーのライトが点灯しているあたり、通話可能な状態であるらしい。
屈み込んで、同じものを俺の耳にも当てる。
「お好きになさってください。お手伝いはさせていただきます」
「……まったく」
溜息を吐く。
ここまでお膳立てされているなら、さしあたって問題もない。
あとは俺がヘマをしなければ済む話だ。だったら話は早い。
仮面を被り、俺はバルコニーに向き直った。




