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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
五章 シンギュラリティ
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06.怪異②

 不穏な会話そのままの流れで学食にて来瀬川教諭と和やかな昼食を摂り、精神的に万全を期して迎えた午後は平穏無事――とはいかなかった。

 

 午後の授業の二発目、数学Bが実に難敵だったのだ。

 死の気配を感じたのは一度や二度ではない。俺に蓄積された膨大な戦闘経験も役には立たない。得体の知れない詠唱文が教師の口からこぼれる度、板書で描かれる未知の魔術式と教本とを見比べて幾度となく冷や汗をかいた。

 得体の知れない相手ほど恐ろしい。いかなる戦い、いかなる分野においても不変の原則だ。

 

 確率密度関数から確率を求める問題。

 ノートに書かれた己の汚い字を、俺は改めて読み返す。自分で書いておきながらさっぱり意味が分からない。これはどこの星の言葉なのだろうか。そもそも確率密度関数とは何だろうか。はたして、実社会でどのように活用されている計算なのだろうか。

 

「この国は数学者を量産する気なのか……?」

 

 思考の果てに宇宙の深淵へと到達しそうだったので、瞑目してノートを閉じる。逃げるわけにもいかないが、数学の復習はまたいずれということにした。

 正直なところ、すっかり慣れ親しんだ英語以外、テストの点を取れる気がまるでしない。英語だって回答できるのは八割程度だろう。知らない単語の読み書きを詰め込み教育されるより、喋れと言われるほうが遥かに楽だ。

 さすがに義務教育レベルの教養が千年で吹き飛んだわけではないが、高校のカリキュラムに追い付くには予習復習の自助努力だけでは限度がある。

 

 もし、叡智の福音たるカタリナが異界に居てくれたなら、彼女に教わることもできたかもしれない。これもやはり空虚な想像だが、彼女に教わるなら勉強も少しは楽しくなりそうなものだ――

 

「……」

 

 やや現実逃避気味な想像から脱する。

 先ほどから、じっと観察されているような気配を感じていた。俺は別に魔力云々を抜きにすれば気配を読むことに長けているわけでもないし、福音を考慮しなければ武術の達人でも何でもないのだが、視界隅に居る隣の席の女子生徒の視線くらいは気付ける。

 目を細めて九十度首を回すと、隣席の長命寺は面食らった顔で口をすぼめた。

 

「さっきからなんだ。俺の顔になにかついてるのか」

「べっ、べつに……?」

「そんなに凝視されると落ち着かん。直接言い難ければメッセージで寄越せ」

「凝視!? してないし!」

「嘘をつくな。五分は停止してたろ。人の絶望を観察しやがって。許せん。お前の名前に秘められた面白エピソードを橋本に暴露してやる」

「意味わかんないんだけど!?」

 

 もちろん、そんな惨たらしい真似をするわけがない。単なる冗談である。

 というか、橋本なら既に知っていそうだ。事実確認をしたいところではあったが、前席はもぬけの殻だった。

 既視感が凄まじい。本日は来瀬川教諭のタイムスケジュールの都合で終礼、つまり帰り際のホームルームがない。すでに放課後というわけだ。すると橋本はまたも喜び勇んで部活動へと邁進しに出掛けたということで、いまごろグラウンドで球でも蹴っているのだろう。

 いや、それだと速過ぎる。着替えの最中あたりか。なんにせよ、早々に人がまばらになった教室で長命寺と相対するのは俺のみだった。

 人気がなくなったのは好都合であったらしい。周りを一瞥してから、長命寺は座ったままパイプ椅子をゴリゴリ引き摺って寄ってくる。

 そして声をひそめ、

 

「高梨ってさ、もしかして来瀬川先生と付き合ってんの?」

 

 ――。

 

 解釈不可能な言葉と遥かいにしえの記憶、そして脳内に巣食った現象攻撃が複雑に干渉しあい、一瞬、思考が停止しかけた。浮上しかけた正体不明の感情は頑張って風化した過去に追いやり、俺は首を左右に振る。

 

「……そんなわけがないだろ。先生だぞ。どういうロジックを経たらそういう推論になるんだ」

「お昼一緒にいたでしょ。先生と仲良くランチとかありえなくない?」

「それを言ったら田辺もだろうが……!」

 

 田辺というのは長身イケメンの若い体育教師である。女子生徒からたいそう人気があり、学食で集団形成しているのをちょくちょく見かける。俺にはもはや一般的な恋愛願望などはないが、それでもどこかモヤっとする光景だった。いや、彼の場合は下心なく人気者であるだけなのが俺にも観察できたので、他意はない。

 

「来瀬川先生と高梨、もう三回目じゃん。この一週間でよ?」

「さ、三回飯食っただけで疑われてるのか……!? お前は男子高校生の恋愛事情を大いに勘違いしてるぞ……!」

「そ、そう?」

「ああ……!」

 

 異界(クリフォト)のうら若い男子は「恋人が居る」という事実だけである種の神格化を果たすほどに恋愛から遠い存在なのだ。持たざる者が圧倒的大多数を占め、ごく少数の持つ者を羨み、大いに蔑みながらも、天を仰ぐが如く求め続ける社会の縮図なのだ。

 その意味では、いま、神の座に最も近い位置に居る橋本は、座に至った瞬間から級友たちに呪殺されてもおかしくはない立場だ。付き合うだの付き合わないだのというのは、それほどのことなのである。

 

 ポケットから貰ったドライフルーツを取り出してつまみ、俺は一息をつく。レモンの香気によって冷静さを取り戻し、ドン引き気味の長命寺をまっすぐ見た。

 

「ふー……お前はどうかしている。昨日も言ったが、飯を食うという行為を特別視し過ぎだ。俺がひーちゃん先生と付き合えてたまるか」

 

 来瀬川教諭は無邪気な人なのだ。面白半分でからかってくることはある。しかし、俺を対等な立場の人間として見ているとは、とても思えない。彼女にとって俺は異様に手のかかる生徒、もしくは年の離れた――なんだろう。分からないが、とにかく恋愛対象ではないと推測できる。でなければ、いくらミラベルが居るとはいえ我が家に泊まり込むような真似はできまい。好意を持つ相手にジャージ姿を見せるか? 見える位置で着替えるか? という話だ。いくらなんでもないだろう。

 

 などという話を馬鹿正直に長命寺に語ると、俺も来瀬川教諭も社会的に死ぬことが確定するのでおくびにも出さない。

 

「百パーセントない。安心してくれ。先生は今も変わらず皆の先生だ」

「へ、へー……いや、そこは別に心配してないけど」

「ほう。じゃあ何を心配してたんだ長命寺。俺みたいな冴えないやつに先を越されるのがそんなに癪だったのか」

「違うし……ってか、いまの高梨ってけっこう注目されてるっていうか……目立ってるかんね? 来瀬川先生となんでもないんだったら気を付けた方がいいよ」

「む、そうか。浮いてるのは自覚がある」

「あ、あー……そういう意味じゃないんだけど……」

 

 他にどういう意味があるというのか。

 来瀬川教諭曰く、復学以降の俺の奇行は教職員にも知れているほどらしい。特に日本史の小テストで俺が叩き出した一桁台の点数は、日本史担当の壮年教諭の腹筋を完膚なきまでに破壊したと聞く。

 たしかに、悪目立ちしている俺がひーちゃん先生と頻繁に一緒にいるのも彼女に迷惑が掛かるのかもしれない。こうして長命寺が親切で忠告してくれているように、あらぬ疑いをかけられるおそれもある。

 合点がいった。

 知ってはいたが、長命寺は比較的派手なルックスをしているだけで、中身はとても気立ての良い女の子なのだ。

 

「大いに了解した。ありがとな」

「え、ええ? なにがどうありがとうなワケ?」

 

 素直に礼を述べても、長命寺は困惑顔だった。

 どうもなにかすれ違っている気がしないでもないが、ここはとぼけてくれているということにして俺は鞄を持って席を立つ。

 

「というわけで俺は帰る。橋本によろしく言っておいてくれ」

「ちょ、ちょっと待って? 話したいことがあるんだけど」

「いや、大体読めてるって」

 

 昼ごろ、スマートフォンのグループチャットに放課後どこかに行かないか、という橋本のメッセージが残されていた。

 今朝のホームルームでは部活動の時間短縮が発表されたばかりだ。それは当然、橋本のサッカー部も対象である。つまり橋本は常日頃のスケジュールより早く部活動を終える。遊び盛りの高校生が持て余した時間を何に用いるかは自明だろう。

 その貴重な時間が部活の同輩でなく、俺と長命寺しかいない実にミニマムなグループに充てられた――この意味が分からないほど、俺は鈍くない。そして、橋本にとって俺はおそらく必須ではない。いや、必須であっても困るのだが。

 

「いいから飯でも行って来いよ。さっきも言ったが、そんな構えるほど特別なことじゃない」

「……そ、そうかなあ」

「ああ」

 

 俺が居ようと居まいと大差ないと思えるが、二人の仲の進展を望む身としては居ない方がよいと判断する。

 むしろ橋本に感謝されるまであるのではないか。さすがにそれは出来過ぎにしても、ここで長命寺の背中を押すのは、色々と不器用な自分にしては悪い選択ではないように思えた。

 

「また明日な」

 

 どこか不安げな長命寺を置いて教室を出る。

 もちろん、本当に帰るわけはない。忠告されたばかりだが、俺は来瀬川教諭と帰るつもりである。教職員の退勤時間は遅いうえに日によってまちまちであるので、校内で時間を潰す必要があった。

 

 連続している不穏な失踪事件について、積極的に動くつもりも介入する気もさらさらないが、少々気になる点もある。

 俺は内心で長命寺の健闘を祈りつつ、のんびりとした足取りで屋上への階段に向かった。

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