04.高梨家の朝
明くる朝。
仄暗い寝室に、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
ベッドの上ではシーツに包まったミラベルとジャージ半パン先生が複雑に絡み合って寝息を立てていた。
本当に仲が良い。息を殺して寝室に立ち入った俺は苦く笑う。とはいえ、別に二人の寝姿を見に来たわけではないので視線を外し、素通りして閉じたクローゼットの前に立つ。
オーク材を模した材質の折戸は、やはり見た目には何の変哲もないクローゼットでしかない。取っ手の金具も、扉の向こうにある収納スペースも変わったところのない、市販品の建具の域を出ないものだ。このクローゼットがつい先日まで別世界に通じていたなどと言って、いったい誰が信じるだろうか。
少しだけ息を整えてから、俺は折戸に触れた。途端に視界が切り替わり、遠く別世界の片田舎にある地下室のものへと変貌する、などということはやはり起きない。ややひんやりとした、木目調の合板の感触が指に伝わるだけだった。
それが当然であるはずで、自然なことでもある。
両世界は本来、交わるべきではない。長い間、延々と往還門について考えた結果として、俺はそういった結論を出している。その観点で言えば確かに歓迎すべきことではあるのだが、魅了が緩み、一度意識が向かってしまえば落胆を禁じ得ないのも間違いがない。
せめて、俺たちが現界に居る時に閉じてくれていたら。
そう思ってしまう一方、それも素直に肯んじえない気持ちもあった。恩人である来瀬川教諭はもちろん、異界での暮らしを再開したのも無関係ではない。日は浅いながらも橋本や長命寺が友人であるのも事実だ。
消えてほしいと思っていた頃には消えず、必要とする時に限って消えている。
どこまでいっても往還門には悩まされる。もしかすると、俺と往還門の間にはなにか断ち切れないほどの深い因縁があるのではないだろうか。でなければ、往還門を作ったと思しき神のような何かは、きっと俺のことが嫌いなのだ――
そこまで考えた時、ジーンズのバックポケットに入れていたスマートフォンが振動した。
待機画面をフリックし、通知をタップしてメール画面を起動する。表示された文面は丁寧でありながらも簡潔な文章で、おぼろげに残る記憶の中の旧友と重なるものがある。差出人の名は氷室一月。元、法の福音だ。
「変わんないな、あいつ」
俺の体感では千年前に別れたきりの仲間ではあるのだが、彼の主観ではひと月程度しか経っていない。そんな彼から見て、千年を経た俺はどう映るのだろうか。
ちょっとした想像に耽る俺の耳に、不意に、背後からなにか、衣擦れのような音が届いた。
状況と場所を思い出す。
スマートフォンの振動音と独り言。決して大きな音ではない。だが、日が昇った頃合いで眠っている人間を覚醒させるのには十分なのだろうか。
はたして、回答はいかに。俺は百八十度ほど回頭する。
頭頂部に寝ぐせを跳ねさせたミラベルが上半身を起こし、俺を見ていた。
「……」
ああ、まさか下着で寝る人類が実際に存在するとは思わなかった。
そして、真理を得た代償が土下座なら安いものだ。
俺は土下座に慣れていた。
***
フライパンでハムとエッグが焼けている。
ついでにトースターでは六枚切り食パンが二枚ほど香ばしい匂いを放散している。俺は夕食時と同じようにキッチンに立ち、バタバタと小走りで出勤準備をする来瀬川教諭を目で追っていた。高梨家の朝は騒がしい。
「ひーちゃん先生、まだ二十分くらいありますよ」
「二十分しか、なんだよー! 着替えればおっけーの高梨くんと一緒にしないでー!」
「失敬な。俺だって顔洗って寝ぐせくらいは直しますよ」
「それだけでしょ!?」
ふわりと広がる髪にごしごしとブラシをかけつつ、ジャージ先生はジャージをババッと脱いでカジュアル寄りの明るいパンツスーツ姿に変身していく。さすがに注視すべきではないだろう。自重して変身過程を視界に入れないよう、俺は視線をリビングの液晶テレビに移す。
ふと、視界に入るものがあった。ソファーに座ってティーカップを両手で包む、銀色の妖精の横顔が朝日に眩しい。ミラベルはちら、と俺を横目で見たが申し訳なさそうな、ばつの悪そうな微笑を浮かべてから、テレビを向いてしまう。
ミラベルには大変申し訳ないことをしてしまったが、昨夜の気まずさを引きずるよりはマシであると言える。心の中でも謝罪しつつ、画面に意識を移す。
都内で行方不明者が相次ぐ、といった内容のニュース報道がされている最中だった。英字字幕が表示されているのでミラベルにも読み取れているだろう。彼女の中で異界のイメージが悪くならなければいいのだが、現実としてこちらの世界でも事件や問題は起きる。人の世があるかぎり、どこの世界も変わらない。
「あー、これね。首都圏だけでもう三十人くらい居なくなってるんだって」
「……ええ? マジですか」
変身を終えたひーちゃん先生のぼやきに、俺はハムをひっくり返す手を止めた。画面に映る報道では十名に届かない程度だ。数字にずいぶんと開きがある。
「うん。先生ちょっと伝手があるから知ってるんだけど、なんか警察の方で伏せてるらしいよ。事件なのか事故なのかもまだ分かってないみたい」
「へえ。原因が何にせよ、人数が多過ぎますね。まともじゃない」
不穏な空気を感じ取ったらしいミラベルが不思議そうに言葉を挟んだ。
「あの、行方不明……というのは異界ではそんなに珍しいことなのですか」
「うん。家出くらいならともかく、十単位で人が消えるのは大事件だよ」
「なるほど。やはり、こちらは治世に恵まれていますね」
異界と現界の肌感覚の違いがこんなところにもある。しみじみと頷くミラベルはさて置き、現代日本人の感覚としては結構なトピックである。
「この辺りでも起きてるらしいから、あまり遅くに出歩かないよう注意しないといけないかなーって職員会議でも話してるくらいなんだよ。高梨くんも、周りの子にそれとなく注意してあげてくれると嬉しいな」
「了解です」
と、返事をしたはいいものの、俺の周囲にいるクラスメイトは二名くらいなのであまり効果はないだろう。あまり友達が少ないのも問題なのかもしれない。
ハムエッグとレタスを盛り付けつつ、俺はミラベルに声を掛ける。
「君も不用意に出歩かないように」
「えっ、私ですか? 異界に脅威があるとは思えませんが……」
そりゃそうだ。
魔力使いであるミラベルと俺は、自前の魔力――体表の魔力障壁によって魔素を伴わない干渉を一切受け付けない。銃撃すら弾くだろう。おそらくだが、車に跳ねられても怪我はしない。
異界にあるだろう、およそすべての暴力が脅威ではない。その認識は間違っていない。
「とはいえ用心に越したことはないよ。あ、ひーちゃん先生も」
「む、ついでみたいに言われると先生ちょっと傷付くかなあ!」
「いや、むしろ本命かもしれません。ひーちゃん先生の方が危ない」
「それも傷付くなあ……」
ふんすふんすとご立腹の来瀬川教諭だが、見る限り本人のスペックは犬猫に毛が生えた程度だろう。どの角度から見ても庇護対象でしかない。
とはいえ、俺と登下校を共にすれば特に問題ない。ないので、不穏なニュースは一旦忘れ去ることにして、ジャムとバターを塗ったトーストを差し出す。
「へへへ、どうぞお納めくだせえ」
「うむ、くるしゅうないぞ」
来瀬川教諭は受け取るなり、がぶりと大口でトーストを頬張った。マリーと大して変わらないな――などという、大人の女性に対するものとしてはいささか失礼な感想を抱いてしまう。
一方のミラベルは上品に小さくちぎって、欠片を口に運ぶという動作を繰り返していた。それが猫被りなのは知っているのだが、猫被りも徹底されるとそれはそれで認めざるを得ない。
仕上げたハムエッグも提出し、俺は朝食を進める二人に話を切り出した。
「で、明日なんですが」
「うん? 高梨くんの古い友達に会いに行くって話かな」
「ええ。お願いできますか」
「いいよ。どこで待ち合わせなのかな」
「向こうの大学に来てくれって話なので、ちょっと遠出になるかもしれません。車は出せそうですか」
「おっけーおっけー。場所が分かってればどこでも大丈夫だよ。ちょっとしたドライブだねー」
来瀬川教諭はのほほんとした様子でフォークでハムエッグを口に運ぶ。
車の運転が可能と聞いてからずっと疑問だったのだが、この人はアクセルペダルに足が届くのだろうか――
「大学ですか。法の福音だった方はアキトさんと同じく学生だったんですね」
「いやあ、それがどうも違うっぽいんだ」
「……?」
大学生と高校生の間にある隔たりだって相当なものだが、簡潔な文面に記載されていた待ち合わせ場所と彼の肩書を見るに、法の福音と俺の間にあるものはもはや隔たりという次元ではなかったらしい。
軽く説明しておこうと口を開きかけたとき、卵の白身の欠片を口元にくっつけたひーちゃん先生が素っ頓狂な声をあげた。
「……あっ! あーっ! 高梨くん、電車の時間は!?」
彼女の視線の先には壁掛け時計がある。
俺も分針の角度を読み取り、顔面を引き攣らせた。
「え、あ。しまった」
余裕をかまし過ぎたらしい。
目を丸くするミラベルを置き去りに、俺と来瀬川教諭は慌ててハムエッグを掻き込んでトーストを口に押し込む。
俺はそうこうして平らげて席を立つことに成功したが、ホビット族である来瀬川教諭は口腔のサイズ差によってか、もごもごとハムエッグを始末するのが限界だった。トーストは食べ歩くことにしたらしく、咥えながら上着に袖を通す。
俺はと言えば、とうに制服へと着替えを済ませている。あとは鞄くらいなもので、
「はい、どうぞ」
いつの間にか席を立っていたミラベルがソファーから学生鞄を持って来てくれていた。何も言わずとも。
「あ、ああ。ありがとう」
「いえ……」
見つめ合い、おずおずと鞄を受け取る。
なんでもない朝の一幕なのだが、どうにも形容しがたい感情が胸を過ぎった。
もし将来、俺が異界で家庭を持つとしたら、毎朝こんな具合なのだろうか。だとすると、それも悪くはないのかもしれない――
――などと、たいそう気持ちの悪いことを考えていた俺は、来瀬川教諭の体当たりによってリビングから廊下へと追いやられた。
「痛いですよ」
「なに雰囲気出してんの! マジヤバだよ時間!」
トートバッグ片手に騒ぐひーちゃん先生は深刻そうな面持ちである。
教職員は生徒より早めに登校しなくてはならない。そもそも仕事であるからして、遅刻への深刻度が生徒とは異なるのだろう。
俺は登校時間をひーちゃん先生に合わせているだけなので、実は余裕があるのだが――彼女を困らせるのはまったく俺の本意ではない。
「んじゃ、すこし急ぎましょうか」
「すこしじゃ駄目! 超特急!」
「超特急ですか……いいんですか?」
「なにが!? いいよ!?」
どたばたと玄関に至り、丁寧に玄関先にまで見送りに来たミラベルに二人して手を振る。
「戸締りはしっかりな。留守番よろしく」
「はい。いってらっしゃい」
心なしか少し寂しそうな微笑を背に、俺と子供先生はドアをくぐる。
「じゃあね、ミラベルさん。いって……!」
くるっと反転し、ミラベルに何事か声を掛けようとした来瀬川教諭を俺は掴む。
超特急だから仕方がない。
そのまま彼女を小脇に抱え、俺は欄干に足をかけて四階から飛び降りた。
「きまあーーす!?」
落下によって目まぐるしく流れる風景の中、来瀬川教諭の悲鳴が尾を引いた。
どうにも、高梨家の朝は騒がしい。




