2.タマネギ②
「それは、おいたわしい皇女殿下の語るも涙、聞くも涙の物語! あの忌々しい第二皇女と第三皇子の手によって殿下が――嗚呼、殿下! わたくしの殿下がッ!」
「聞いてねえよ。いいから帰れ」
皇女殿下がおやすみ三秒した直後、詰め所には毎晩、殿下の元侍女がやってくる。
カタリナ・ルース。今はセントレアでパン屋を営んでいる。
年の頃は一七、八くらいだろうか。
長い赤毛を三つ編みにした、丸眼鏡の神経質そうな女だ。
人格と性癖が破綻していることを除けば、どうやら優秀らしい。でなければ「パンなんぞ家で焼けばいい」という認識が深く根付いていたセントレアで、パン屋という商売を成立させるのは困難だろう。
「そうはいきませんわよ東洋人! あなたが皇女殿下に不埒な真似をしないよう監視するのが殿下の元侍女であるわたくしの役目、いえ使命! 運命であるからして!」
「飯食いながら言うことなのか、それは」
「これはお毒見ですわ!」
無駄にかしましい女は米粒を口から飛ばす。
どうやらこいつも品性をどこかに忘れてきたクチらしい。
というか、皇女殿下本人が先に食べているので毒見も何もないだろう。
「殿下のお口に合うかはいささか疑問ではありますが、このスパイシーな香りとほのかな辛味はなかなかどうして病みつきになりそうですわね。及第点をあげましょう」
「ありがとよ。分かったから、それ食ったら帰れ。お前も朝早いだろうが」
「お気遣いをどうも。ですが、ご心配には及びませんわ。おかげさまで最近はわたくしがおらずともお店はちゃんと回りますので」
「チッ……そりゃ何よりで」
「舌打ちが聞こえていましてよ。まったく、どうしてこんな男が殿下と同じ屋根の下に……」
カタリナはマリーの事情をそれ以上口にすることもなくカレーを食べ進め始めた。
心底、露ほども関心がない俺にとってもその態度は救いだ。人畜無害でスモール&フラットなあの皇女殿下に何かしらの感情を抱くほど落ちぶれてもいない。
事情なんて話されても困るだけだ。
「それで、殿下のご様子は?」
「まあ……そうだな。今日も張り切って仕事をやってくれてたよ。こういう仕事が新鮮で楽しいのかもしれないな」
「……でしょうね。本来このようなお役目とは無縁のお方です」
空になった皿にスプーンを置き、カタリナは整った眉目を歪める。
「前向きなんだか何なんだか分からないな。普通、こんな暇な仕事を好き好んでやるかね。それにしたってこんな田舎でなくてもいいだろうに」
「……ごもっともです」
皇女殿下の事情には興味がないが、彼女自身を見ていると自発的な意思がないようには感じられない。むしろ積極的に頑張っていると言ってもいい。その意思を挫くような真似は、単なる同僚である俺には許されない。そしてそれは、彼女が門番になった日に侍女の任を解かれたカタリナも同様なのだろう。
「いつか殿下がご自分の意思でここを離れると決めた時のため、先立つものがなければと思い商売などを始めてはみましたが……この分では無駄になってしまいそうですわ」
俺にはかけてやれる言葉も見つけられない。
「もういっそ、お前もここでパン屋を生業にして生きていけばいいんじゃないか。住んでみればセントレアもそう悪い街じゃない」
無理に探そうとしても、どうせ失敗するのだ。
そんな卑屈な考えもあり、結局は茶化すような物言いになってしまう。
「そんなことは分かっていますわ、東洋人。それとこれとは別問題です」
ぷい、と顔を逸らしてしまったカタリナにそれ以上は何も言わず、俺は空いた皿を片付けた。
■■■
そう、セントレアは糞田舎だが悪い街じゃない。
まず治安がいい。
夜中に出歩いても危険がない。
物取りの類が最後に現れたのはもう五年も前の話で、取り押さえてみたら盗人というより余所から流れ来た物乞いだった。今では街外れの牧場で元気に牛の乳を搾っている。
それくらい平和だ。
だから俺は、五年ぶりの不審者に対してどう声を掛けるべきか少し考え込んでしまった。いっそ無視してやろうかとも考えてしまう。
だが、そいつの立っている場所と姿が問題だった。
「……屋根の上のお前、隠れてないで出て来い」
「ほう」
何もない詰め所の屋根をじっと見上げていた俺に、相手も気付いていたのだろう。
間髪入れない返答が来る。
「我が隠匿術を見破るか。よもやこのような辺境で」
どろり、と汚泥のような闇から染み出るようにしてその男は現れた。
夜の闇に紛れる為の特殊な魔法を解き、音もなく屋根に立つ。
俺はその男をぼんやりと見上げている。
「……貴様、皇女と供に居た東洋人の番兵か。皇女に護衛がついておるとは聞かされておらんが……まあ良いだろう」
黒装束の男はベラベラと喋る。
聞いてもいないことを。
「いやまあ、どうだって良いんだが……まずは下に降りてくれないか」
「何だと?」
「屋根から降りてくれないか。これは番兵団からの正式な警告だ」
男が立っているのは詰め所の屋根、つまりは俺の家と言っても過言ではなくなった建物の屋根である。
潤沢とは言えないセントレア番兵団の雀の涙ほどの予算で辛うじて維持されているこのボロ屋は、雨の時期などには雨漏りさえしてしまうほど限界に達しつつある。大の男などが突っ立ってしまえば、屋根が無事で済む保証がない。
「屋根に穴が開いたらどうするつもりだ。お前が塞いでくれるのか」
「……戯言を」
どうやら男は俺が冗談を言っているのだと判断したらしい。
こちらは至って本気なのだが、いやはや、異文化交流とは難しいものだ。
「邪魔立てするなら容赦はせんぞ」
しん、と静まり返った真夜中のセントレアの街に澄んだ音が響く。
黒装束が抜いたのは片手持ちの白い直刀だった。
刀身には何がしかの呪文が刻まれている。なかなか遠目には判別が難しい。
「毒……か? やけに手の込んだ符呪と見えるが」
「いかにも。高位の符呪士が三日三晩を費やして呪った蛇毒の刀よ。掠り傷でもやがて死に至る」
「うへえ。そりゃまた物騒なものを」
「番兵、見逃せば礼金を弾むぞ。貴様が何者に雇われたかは知らんが倍は出そう」
次は賄賂かよ。
もういいだろう。俺は黙って、腰の長剣の鯉口を切る。
男は眼下の俺へダラダラと言葉を紡ぐ。
「なに、小娘一人を縊り殺すだけのこと。外国人である貴様には何の関係もあるま――」
男と俺の距離は約一〇メートル。
俺は構えも何もなく一歩を踏み込んで剣を突く。
瞬間、長剣の切っ先から伸びた剣閃が、二重三重の魔力障壁らしき光を突き破り、
咄嗟に身を捻った男の右肩口を捉えた。
鮮血が舞う。
「ぐわあ!」
雑魚っぽい悲鳴をあげて肩口を押さえる男に、俺は首を捻る。
胴を狙ったつもりだったのだが、男が良い反応を見せたお陰で外れてしまった。
遠間から魔素で編んだ刃を飛ばす剣技。あまり速度の出る技ではないとはいえ、反応されるとは思わなかった。
「この剣技……騎士だとでも言うか! こんな辺境の門番が!」
傷から血を迸らせながらも男は跳び下がる。
ダメージはあまりないようだが、それ自体は意外な事でも何でもない。
黒装束の男は予め自分の周囲に魔術的な防御を施していた。強度から推定するに全身甲冑くらいの性能か。飛び道具では貫通がやっとだろう。
用意周到。実に念の入ったことだ。
俺は屋根から飛び降りた黒装束を追う。
男は石畳の上を跳ねるようにして舞い上がると、空中を蹴るようにして身を反転させた。大気中の魔素を操作し、即席の足場にする歩法だ。
男は反転した勢いを利用し、追いすがる俺に直刀を振り下ろした。鋭い打ち込みを受けた俺の長剣と男の直刀が火花を散らす。
「そんなに不満か? 田舎門番が騎士の技を使うのが」
「ほざけ! それほどの技を持ちながら、門番などをやる馬鹿が居るものか!」
「職業は自由だろ」
力比べには付き合わず、俺は不意に長剣から両手の力を抜いた。バランスを崩してたたらを踏んだ黒装束の腹に蹴りを見舞う。
苦悶に歪む男の顔は、さも「卑怯」とでも言いたげだ。
知ったことではない。その顔を目掛け、返した長剣の刃を叩き込む。
男は寸でのところで直刀を盾にしたが、完全には勢いを殺し切れず、自分の直刀の峰で顔面を激しく強打した。
額が割れたらしく、ばっと血の花が咲いた。
「ぐわああ!」
男は再び雑魚っぽい悲鳴をあげて後退する。
大した怪我でもないのに大げさな。
苦し紛れに振るわれる直刀を何度か弾き返しながら、俺は溜息をついた。取り締まる側としては大変喜ばしいことだが、最近の不審者はいささか根性が足りていないのではないだろうか。
ようやく剣では敵わないと見たのか、黒装束は直刀を引いて横っ飛びに離脱する。
距離をとって立ち止まると、空いている左の掌を掲げた。
「這い回れ! 赤き舌、血と硫黄、黒の残火!」
風に乗って男の口から零れた詠唱の声が聞こえる。
魔法だ。
正直なところ、俺は魔術には詳しい方じゃないので詳細は分からない。
多分、火をどうにかする系統の破壊魔法だろう。しかし、
「舐めてるのか?」
それは悪手だ。
この世界の魔力使いは風のように駆け、一息で距離を詰められる。魔法なんて短文詠唱でも一発撃てれば良い方だろう。魔法戦から接近戦に持ち込むことはあっても、その逆はセオリーとしてあり得ない。
まあ何にせよ、あんな長い詠唱の魔法で火を放たれたら溜まったもんじゃない。
俺は両足に魔素を集めて加速した。
一呼吸で距離を詰め、両手で長剣を力任せに振り下ろす。
「な、なん――!」
重い地響きが轟いた。
蛇毒の刀とやらで受け太刀をした黒装束が、受けた姿勢のままで地面に陥没する。
男は全身を魔法で強化しているのでこの程度では怪我はしない。行き場がない運動エネルギーが彼を数センチほど地面にめり込ませただけだ。
男は驚愕に目を見開いているが、驚いたのは俺も同じだ。
「その刀、頑丈だな。自慢するだけはある。折るつもりだったが」
「きっ、貴様……! 何だこの出鱈目な力は!」
応えず、俺は長剣を手放して右の拳を男の腹に突き入れる。
溜め込まれた空気が肺から噴出し、痰交じりになって男の口から吐き出される。くの字に折れた男から左手で直刀を奪い取り、落ちかけた自分の長剣を右手でキャッチした俺は、そのまま男の膝に僅かな傷を付けた。
「確か、掠り傷でも死に至る、だっけか。ご愁傷様だ」
「ぎ、ぎゃあああ! 馬鹿なあああ!」
男は殊更に雑魚っぽい悲鳴と供に地面に倒れこみ、膝の傷を両手で必死に押さえながらのた打ち回った。既に皮膚の変色が始まっている。
どうやら本当に致死的な呪いが込められているようだ。
「こんな、こんな馬鹿な……この、ウッドランドの九天の騎士たるこの、俺が……こんな辺境の、ま、街の門番如きに……ッ!」
この国、ウッドランド皇国では魔素、つまりは魔力を操って戦う者を騎士と呼ぶ。聞く限りでは純粋に魔法で戦う者も居るらしい。
見た目は暗殺者紛いのこの男も、何合か剣を交えた限りでは確かに騎士の範疇に入るのだろう。いささか以上の違和感を覚えてしまうのは間違いないが。
「……騎士、か」
俺は悶絶する男から緯線を外し、詰め所の方を見る。
少女達の姿はどちらもない。ちょっとやかましい音を立ててしまったので起きてやしまいかと心配になったが、どうやら杞憂だったらしい。いや、見られて凄く困ることがあるというわけでもないのだが、少々面倒になる。それは避けたい。
そうこうしていると、何を勘違いしたのか黒装束の男が苦しげに呻いた。
「お……俺から情報を引き出そうとしても、む、無駄なことだ。殺すがいい……!」
「は?」
思わず間抜けな声を出してしまう。
まるで自分に幾らかの価値が残されているとでも言わんばかりの男の態度に、俺は首を傾げた。どうも噛み合っていない。よく考えれば出くわしてから一度も噛み合っていないような気もする。
「何を言っているんだ、お前は。俺はお前に聞くことなど何もない」
男が息を呑む。
「お前が誰に頼まれて、誰を狙っているのかくらいはおおよその見当が付いてる。確認の必要もない。俺にはまるで関係ないからな。猫の額ほども関係がない。積極的に関わっていく義理もないんだ。分かるか?」
「な、なに? では貴様はなぜ……」
「だから、屋根から退けと言っただろう」
人の話を聞かない男の頭を、俺は本当に一切、何の加減もなく踏みつけた。
■■■
セントレアの朝は早い。
太陽が顔を出す前から住人は既に起き出して家畜や農地の世話に精を出す。
街中を血管のように巡る石畳の道に馬車は走り、往来は行き交い始める。
門番たる俺達もそれに合わせて松明を消し、門を開く。
そして、日が昇る。
「へあー! へあー!」
南門の前で、なんとも気合の入らない掛け声と共に剣を振るう少女が一人居た。
もっとも、自身の身の丈の八割ほどもある長剣を腰の高さまで持ち上げてはすぐに地面に下ろす行為を「剣を振るう」と言えるのであれば、だが。
「へあー! む、タカナシ殿」
素振りらしき運動を中断した寸胴鍋、もとい皇女殿下の大きな碧い目がこちらを見やる。
街の外から戻ってきた俺に、皇女殿下は訝しげな表情を向けた。
「貴殿、こんな時間まで何処へ出掛けていたのだ。夜の見回りはどうした」
「まあ色々と。街中に蛇が出たので遠くに放してきたところです」
「おお、そうか! でかしたぞ! 子供が噛まれでもしたら大事件だものな!」
一転して大輪の花のように笑うマリー。
そうしてから、彼女はすぐに真顔に戻って素振りらしき運動へ戻る。
皇女殿下はこういう少女だった。
「そうっいえばっ、カタリナがっ、詰め所でっ、寝ておったがっ!」
「ああ、昨日来てカレー食ってすぐ寝ました」
「ぜぇーぜぇー……そうであったか。疲れておったのだろうに、まったく、いつもながら困ったものだな」
疲れていたかどうかはさておき、カタリナの気遣いは皇女殿下にも伝わっているだろう。あの侍女はマリーに気取られまいと彼女が寝静まった頃を見計らって詰め所にやってくるが、いくらなんでも全くこれに気付かないほど皇女殿下は愚鈍ではない。むしろ、マリーは色々なことに気が付くほうだ。隠し通せているとはカタリナ自身も思ってはいないだろう。
ふたりとも難儀な性格をしている。
「あやつがわたしの事を気にかける必要はもうない。もうないのだが、言って聞く者でもない。困ったものだ。本当に」
皇女殿下はそう言って、困ったように少し笑う。
笑って、言った。
「あやつにも自分の人生を生きてほしいのだがなあ」
その言葉は、朝焼けの方角へ向けて放たれたものだ。
思いやりに満ちた、空虚なものだ。
だから俺は、門をくぐりながら言った。
「あいつは今も、自分の人生を生きてますよ。多分」
それを聞いた少女が、一体どんな顔をしたかまでは見なかった。
■■■
皇都から馬車で何日もかかる辺境の街、セントレアの南門番詰め所。
俺と皇女殿下はナイフでタマネギを刻んでいる。
「タカナシ殿」
「ああ、はい。何でしょうか皇女殿下」
「タマネギという野菜については大体理解できたのだが、なにゆえにこのように涙が溢れ出るものなのだろうか」
俺は少しだけ考えてから、手を止めずに言った。
「恋煩いとは往々にしてその身と心を焦がすものです。皇女殿下」
「貴殿は本当にいい加減だな、タカナシ殿」
朝露のような美しい水滴を瞳に湛えながらのたまう、金髪碧眼の美少女。
この国、ウッドランドの第十八皇女、マリアージュ・マリア・スルーブレイスは口をへの字に曲げてぶーたれた。
「だいたいおかしい。わたしはこんなにも涙を流しているというのに、タカナシ殿はまるで平気そうではないか」
確かに俺は昨日も今も涙など流してはいない。
俺は少しだけ考えてから、やはり手を止めずに言った。
「俺は体質の関係で平気なんですよ。あ、殿下でも出来る予防法もありますけど」
「予防法とな!」
「ええ。実は、鼻を摘めば涙が出なくなります」
ポケットから木製の洗濯ばさみを取り出す俺。
皇女殿下はまるで人形のような愛らしい美貌を淀んだドブのような感情で彩った。
露骨に嫌そうな顔だ。
「鼻……」
「摘んで差し上げましょうか」
ガチガチと洗濯ばさみを鳴らす俺。
「いや……いい」
光の消えた瞳から涙を流しながら、皇女殿下はタマネギを刻み続ける。
よほど洗濯ばさみが嫌だったのだろう。
強情な子だ。
「後はやっときますから、そろそろカタリナを起こしてもらえませんか」
「……あ、そうか。あやつめ、いつまで寝ておるのやら」
マリーはぼやくと苦い顔で手巾を手に取り、手を拭った。
眠り薬を盛り過ぎたかもしれない、という不穏当な心配は口に出さず、俺は笑う。
「きっと喜びますよ。殿下が用意を手伝った朝食なら」
キッチンを後にしようとしていたマリーが立ち止まり、振り返った。
朝露のような美しい水滴を瞳に湛えながら、金髪碧眼の少女は笑っていた。