02.法の福音①
千年前、福音は俺を含めて九人居た。
俺の剣。魔法、叡智、生命、盾、創造、力、時。
そして、法。
彼はただ一人、異界に帰還することを望んだ往還者だった。自身の得た福音の特性を利用し、完全に放棄することを実現した唯一の往還者でもある。
今にして思えば、もし彼の福音が健在で助力を得られるのなら、他の往還者と戦う際に大きな力になってくれていたはずだった。
かの福音は法則を司り、有り得べからざる全てを否定する。魔素による魔術や技はおろか、福音の奇跡――現象攻撃でさえ部分的に無効化してみせた。叡智以外の戦闘向きの福音とは、まったく異なるベクトルで非常に強力な福音だった。
過去形である。
彼は現界を離れる際、自分で自分の福音を完全に無効化したのだ。その瞬間、彼の遺物は眩い光の柱となって消滅した。破壊不可能とされていた遺物が破壊された唯一の例だ。
以降、彼の無効化能力は完全に失われた。
俺達はそれを福音の返還、あるいは破棄と解釈した。それが可能であることを初めて目の当たりにしたのだ。そして、法の福音が失われた以上、それが最初で最後の返還であるとも理解した――ある種の、絶望と共に。
それからおよそ千年。
そんな法の福音の消滅が、往還者たちを神の使徒として祭り上げるウッドランド皇国のお伽噺、世界樹の書に残っている筈もなく、単に他の御使いの力を相克する力を持つと認識していたらしいミラベルが、法の福音の話を持ち出してくるのは自然な流れではあった。
「……では、法の福音は異界に帰っただけではなく、力を失ったのですか?」
「ああ。だからまあ、もし仮に俺がその……君の慈愛の福音の現象攻撃を食らってたんだとしても、彼には治せない」
「そう……ですか」
ミラベルはぬるくなった紅茶のティーカップを両手で支えたまま、悄然と頷くばかりだった。
すでに時刻は午前に近い頃合いで、来瀬川教諭はテーブルに突っ伏して寝落ちしてしまったので寝室に運んだ。静まったリビングで顔を突き合わせているのは俺とミラベルだけだ。こうしていても俺の状態を疑いっぱなしの彼女が明るい顔を見せることはないので、ふたりきりになるのはなるべく避けていたのだが。
「その方とお会いすることはできませんか」
「氷室と? ああいや、できるっちゃできるが……あいつが帰ってから連絡したことないんだよ。会ってくれるかはちょっと分からない」
「ぜひお願いします。もしかするとなにか治療法に心当たりがおありになるかもしれませんし」
「治療法て」
「ご面倒をおかけしますが、どうかお願いします」
真剣な顔で重ねてお願いされてしまう。
ミラベル的に今の俺は病気であるらしい。まったく自覚がないので戸惑うばかりなのだが、他ならぬミラベルの頼みとくれば付き合わざるを得ない。
「わかった。とりあえず連絡してみるよ」
「……! ありがとうございます!」
ようやく僅かにミラベルの顔色が明るくなった。それだけでも、殆ど記憶にない千年越しの旧友――向こうが俺をどう認識しているかは定かでないが――に連絡をするくらい軽いものだと思える。
「ついでに往還門が動かなくなったことも一応、報告しておくか」
独り言のつもりで何の気なしに口にしたのだが、ミラベルは驚いたように瞬きをした。
「その方も往還門のことをご存じなんですか?」
「ん? ああ。あいつも往還門で異界に帰ってきてるから」
「あ……い、言われてみればそうですね。当たり前でした。あはは」
ミラベルは少し慌てたような調子で紅茶に口を付ける。
「どうしてそんなことを?」
「いえ、なんだか意外に思えちゃって……アキトさんって往還門をできるだけ秘密にしようとしていたんじゃないかって思ってたので」
「ああ、なるほど。そこは合ってる。けど、別に仲間内でも秘密にしてたわけじゃないよ。実際、あれこれ現界に持ち込んだのも往還門を使って皆でやったことだから。正確には、竜戦争の後、疎遠になってたカレルと他の三人を除く五人で」
「そうだったんですね。なんだか、伝説から想像していた印象と違ってて……少し不思議な感じです」
「そりゃ、異界の門とかって言っても繋がってんのクローゼットだしなあ。そんなとこまで伝説になってなくて良かったよ」
おどけてみせると、ミラベルは肩を揺らして笑った。
悪くない雰囲気ではあるのだが、もう夜も遅い。話を切り上げようと、俺は自分のティーカップを空にする。
しかし、カップを置いたミラベルは不意に物憂げな表情で唇を動かした。
「法の福音と呼ばれていた方は、どうして現界に留まられなかったのでしょうか」
その質問のはっきりとした答えを、俺は持たない。
「どうだろうな。現界に関わりたくないとは聞いてたけど、それくらいしか分からない」
「なにか辛いことでもあったのでしょうか。その、アリエッタ様みたいな」
「……いや、そんなことはなかったと思う。たしか、淡々としたもんだったよ」
法の福音が去っていった様子を仔細まで覚えているわけではなかったが、静かな別れだったと辛うじて記憶している。少なくともアリエッタ――白瀬柊のような悲劇はなかったように思う。
「別の世界に残るか、生まれた世界に帰るか。身の振り方の違いの理由はどこにあったのでしょう。こうして越境を果たした身としては気になってしまって」
「それこそ人それぞれ……って言ったら薄情だよな。いや、薄情だったんだけどさ、俺は」
少なくとも、俺は仲間たちの選んだ道を問いただすなんて真似はしなかった。
深くは聞かず、去る者を追うこともなかった。
その結果、なるようになった。離散だ。
どうすればよかったのか。その答えはもうある。
だとしても、過去と事実は変わらない。もう受け入れている。
若干の苦味と共に飲み下した紅茶が喉を過ぎた頃、その問いは来た。
「アキトさんはどうして現界に残られたんですか?」
「あ……」
言葉が詰まる。
ミラベルには話していない。
そう思い出して俺は、初めて、自らの異常を自覚した。
「……俺は……」
脳裏に鮮明に蘇る光景があった。
揺れる麦穂の波が。
その先に在る人の姿が。
忘れていたわけじゃない。ただ、押し退けられていただけ。
古い約束があった。
ただ言葉を失う俺を、ミラベルはどこか悲しそうな瞳で見た。
それから視線を外して、何も言わずに席を立って行ってしまった。
俺はただ、彼女を成す術もなく見送るしかなかった。




