ex.Amor caecus est
吸血鬼は鏡に映らない。そんな伝説を聞いたことがあった。
しかし、そもそも現界に生息する悪鬼の類――魔族は基本的に肉体を持たない。わざわざ他の生物の血を吸う生態を持つ生物は蚊や蛭くらいなもので、まずもって吸血鬼などという魔族がいないという事実はこの歳になれば充分に承知している。
それは異界でも同じことだった。砦のごとく堅牢な造りのアパルトマン――ヒメジ曰くマンションというらしい――の一室、タカナシ邸において、異界の先進的な情報記録媒体たる箱の入力装置を操作し、対話と情報の参照を実施した限り、異界においても同様の概念を有する存在はすべて民話や伝説上の存在とされているようだった。
膨大な知識の集積と迅速な共有を容易としているその箱の有用性に関しては驚愕すべきものがある。しかし、今それはいい。重要なのはこの天宇地廬、三千世界のいずれにも吸血鬼などというものが存在しないという事実だ。
だとしたら。
なぜ自分の姿が鏡に映らないのか。
なぜ幼い自分の姿だけが映っているのか。
ミラベルは洗面台の鏡の前で愕然としていた。膝にまで届きそうなほど長い、長過ぎる銀の髪。背は低く、顔も稚い。いつかの夏に着ていた白いサマードレス姿。五年ほど前の自分がそこには映る。
皇帝の力によって肉体年齢が退行した友人の姿が思い起こされた。しかし、ミラベル自身は時の福音の影響を受けたことなどなく、現に、洗面台の前に立つ彼女の肉体は何ら変わりなく、十七歳の自分のままだ。
現界には他者の認識に影響を及ぼす魔術がある。幻惑系魔術。しかし、幻術にも明るいミラベルにはその鏡像が幻などではないことが分かった。もしそうなら魔素の痕跡がどこかしらに残る。ただでさえこの魔素が極端に少ない異界で、熟練の魔術師でもあるミラベルを幻術で欺くのは不可能といえる。
かといって、手で鏡に触れてもただの硝子と極薄の銀でしかない。精巧な造りには感心するが、ただの鏡である。異界の技術によって異質な鏡像を映し出す仕組みなどは見当たらない。
「どうしてこんなことが」
呆然と呟くと、異変が起こった。
幼いミラベルの鏡像が、鏡の向こうで指先を鏡から離したのだ。それまではミラベル自身に追従した動きしかしなかった鏡像は、息を呑む本人をよそに、鏡の向こうで穏やかに微笑んだ。
「そりゃ私が樹に接続したからでしょ」
石楠花の蕾のような唇が音を紡ぐ。
ミラベルは言葉を失った。
幼い鏡像は幻聴などではない、はっきりとした言葉を語る。
「樹っていっても比喩だけど。始まりから終端へと伸びる幹と無限の枝。無限の過去と未来。接続者がそれを樹に喩えてるだけ。各地の伝承が似た形に収束するのもそのせい」
「な、なにを……なんのことですか!?」
「あら、このときの私って、けっこう鈍いのね。いちど樹の外に出たら樹の全体が見えちゃうでしょ。だから過去と未来の認識が同等になるの。わかる?」
「わかるわけないでしょう……!?」
分かって当然、といった態度を崩さない鏡像にミラベルは困惑を隠せない。突然現れてなにを言っているのか。
「んー、要するに世界は樹なのよ。で、私は越境でそれを見た。だから私が見えるし私を知ってる。こうやって認識を共有できる」
「もしかして……それでわかりやすく順序立ててるつもりですか……?」
「他に言いようがあるなら逆に教えてほしいわよ。もっとも、終端の私にできないことが幹の私にできるわけないけど」
さっぱり分からない。
ミラベルは頭を抱えるしかなかった。
「幻聴に幻覚……さすがに休んだ方がいいのかも……」
「無駄ね。どれだけ休んでも私が私を否定なんてできない。もう二度と、鏡のある場所だと心休まらないんじゃないかしら」
「……そんな馬鹿なこと」
ミラベルは慣れた調子で自前の魔素から手鏡を錬成して覗き込む。そこには小馬鹿にするような笑みを浮かべた幼い鏡像が映っているばかりだった。
「ね?」
「勘弁してよ……おかしくなりそう……」
手鏡は魔素に戻し、やはり頭を抱える。
重症だ。まさか自分がここまで追い詰められていたとは。
ヒメジに本音を吐き出して少しスッキリした気がしていたのだが、手遅れだったのかもしれない。ミラベルは嘆息した。
「考えようによっては幸せなことだわ。もっと曖昧な形でしか共有ができない接続者が多いのに、こんなに人間性を残した私と認識を共有できるなんて、むしろラッキーだと思わなきゃ」
「ぺらぺらとよく喋る幻覚だこと……はあ。もういいです。それで、結局あなたは何なんですか。何が目的なんですか。ちゃんとそこから話しましょう」
鏡に話しかけられているという現実を受け入れることにして、ミラベルはきちんと洗面台の鏡と向き合った。しかし、幼い鏡像は呆れ果てたかのように肩をすくめて頭を振る。
「ああ……うん。ぜんっぜん話が通じてないのはわかった。ならいいわ。私のことは救済とでも呼んで頂戴。その方がわかりやすいでしょ」
「何がどうわかりやすいのかわかりませんけど、呼び名があるのは有難いことです。自分に話しかけているわけじゃないって安心できます」
「やっぱりわかってないのね。私ってこんなに鈍かったのかしら。おかげで私がこんなに人間性を残してるのかもしれないけど」
救済を名乗る鏡像は苦笑いで己の姿を見回す。
どうも馬鹿にされているような気がして、ミラベルはやや棘のある語調で言った。
「救済。正体と目的を」
「はいはい。正体ったって、さっきから説明してるんだけどね。目的もいちいち説明する必要ないと思うわ。すべて私が望んだことのなのだし」
「私が? なにをです」
「福音の獲得。つまり境界を越えるってことをよ」
鏡像の、本人と全く同じ色をした翡翠の瞳が怪しく光った。
ミラベルは固唾を呑む。
昨日。現界から異界へと渡った際に、何かが変わった感覚はあった。しかしそれは、はっきりとした自覚を伴うような変化ではなかった。話に聞く叡智の福音や剣の福音のように知り得ない知識や技術を得ることもなく、自身の体に異変が起きているわけでもない。強いて言えば、今見ている幻覚くらいなものだった。
「私の福音とは……一体、何なのですか」
分からない。自分は何を得たのか。
越境から丸一日。ヒメジと過ごす最中も、ずっと言い知れない不安を覚えていた。もしおぞましい変化をもたらすようなものであったのなら、どうすればいいのだろう。死ぬことができないと聞く生命の福音のように、もし永劫の辛苦を強いられるようなものだとしたら。とても、耐えられる自信などなかった。
――その答えを、幼い鏡像は薄笑いで口にする。
「愛よ」
ミラベルは放心した。
ぽかん、と口を開けたまま完全に停止していた。
愛。愛と言ったのか。
愛て。
「なんで?」
崩れかけた精神の均衡を必死に維持しながら、ミラベルは思考する。
おかしい。既存の福音とあまりにも毛色が違い過ぎる。
剣や盾、生命の福音などは実に英雄らしい性質を持っている。伝説という脚色を差し引いても、代償として背負う艱難辛苦さえ含めても、神の力と呼ばれるに足る品性があるとミラベルは勝手に思っている。
福音を嫌う素振りを見せる門番の少年に直接口にしたことはなかったが、やはり尊敬はしていた。当人の願いと関連すると考えられている福音の性質が、戦いに拠ったものである事実をだ。それを以て災厄を払う姿勢そのものが、彼の心からの願いと遠くない証だからだ。
それなのに、自分は――こんな手前勝手な――
「私の福音が司るものは愛」
「や、やめて……!」
「つまり愛の福音ね」
「……やめてってば!」
「私はもはや、完全無欠の愛され皇女よ。喜びなさい」
「やめろーッ!」
赤面する自分の顔が見えないのは確かに幸運だった。
鏡には薄笑いで追い打ちをかける救済しか映っていない。両掌で顔を隠して羞恥に耐える自分の姿もきっと映らない。
「う、嘘でしょ……え、え……それじゃなに? 私がそんなに……あ、愛が欲しかったとでも!? 誰かに好きになって欲しかったとでも……!?」
「うん、そうね」
「もう生きていけない……! こんなの誰にも言えない……!」
羞恥は既に過ぎ去り、ミラベルは顔面蒼白で慄いた。
愛の福音。そんな風に周知された自分がのうのうと生きていられるとはとても思えない。大人ぶって色仕掛けをする方が遥かに容易かった。いや、自分の本心を周囲に喧伝するよりは何だって楽かもしれない。
「そこまで恥じることかしら。愛や慈しみは人の根幹を成す美徳のひとつだと思うけれど」
「確かにそうでしょうけれどね!? なんか……なんか、私がすごくはしたない人間みたいじゃないですか!」
「はしたない? 愛がはしたないのであれば、地に人が満ちることもはしたないということになりかねないわね。それに、愛は男女間の愛だけじゃない。思いやりや友情、親愛……敬愛や慈愛までも否定することになるわよ」
「それなら愛じゃなくて慈愛とでもすればいいでしょ!?」
「いいえ、私は愛よ」
「もうやだ……!」
幼い自分の姿をした鏡像が「愛」を連呼する度に形容しがたい羞恥に襲われる。何より、どこかで否定しきれない自分がいる。理解できるがゆえに恐ろしいのだ。救済の語っていることは正しい。事実なのだと。
「もちろん、私は愛をなによりも上に置くような人間ではないし、それがすべての人間でもない。でも人の心なんて単純なものではないでしょ。これさえあれば満たされるという、根源にある渇望。それが私の場合、愛だったというだけ」
「そんな身勝手な望み……私は……」
「……身勝手? なぜ身勝手なの?」
救済は鏡の向こうで首を傾げる。
「もしそこに僅かにでも支配欲や色欲が混ざっていれば、純粋な大径である愛と同調することもなかったでしょう。でもそうはならなかった。私はただ愛されたかっただけだもの。その先もそれ以上も求めなかった。人が、他者を愛することで救われるはずなのだと無邪気に、無自覚に信じていただけ」
大径――愛とは何か。ミラベルはその疑問を口にすることができなかった。鏡像が語る自分の姿が、やはり身に覚えがあるような気がしてならなかったからだ。
会合に至る前、他の皇子達にも互いに情はあるのではないか。そう期待したのは確かだった。あまり自覚がない、まったく合理的でも論理的でもない、ただの期待ではあったものの。だって、そうでなければおかしい。継承戦について自分はこんなに頭を痛めているのに、他の皆がそうでないのは変だ。そんな筈がない。本当はみんな嫌に違いない――そんな、些か以上に子供っぽい思考があったのは否定しきれない。
「親族はおろか、私は愛する男にさえそうだった。自ら強引に手に入れるのではなく、ただ相手に自分を好きになって欲しかった。そう仕向ける努力だけをした。身勝手どころか、奥手過ぎてちょっとどうかと思うわ。私のことながら」
「……やり方がわからなかっただけです。恋の仕方なんて、誰も教えてくれない」
救済の非難を困惑で受け流し、ミラベルはそっぽを向いた。
人並みの欲くらい自分にもある。聖人ではないのだから。今にもそんなことを口走ってしまいそうだった。
しかし、救済はどこか、非人間的な魅力を湛える妖艶な笑みを浮かべて祝福の言葉を口にする。
「よかったじゃない。おかげで私は最強の愛され皇女よ」
「……」
何一つよくはない。
門番の少年が語るとおり、やはり福音というものはどこかズレている。本人の希望を叶えるようなものではないし、何らかの意図のもと、往還者達の使命を助けるために渡される祝福などでもない。
一つだけよかったことがあるとすれば、情報源らしい情報源がなかった福音について、救済という強力な情報源を得られたこと。それくらいだ。信頼性には大いに疑問が残るところではあるが。
「救済、慈愛の福音はどんなことができるんです? あなたは他に何を知っているのですか?」
「随分と即物的な質問ね。どちらも答える必要がないわ。前者はじきに理解できることだし、後者は必要に応じて、私が知るべきことを私が知る」
「……それでは答えになっていません」
「答えてないもの。知恵じゃあるまいし、なんでもかんでも教えるわけないでしょ。私は私の辿り着く先がより明るくなるよう、遠くから声援を送るだけ。知るべきことの判断は私がする」
「え、情報源ですらないの……?」
「終端の私は過去を変えたいなんて思ってないから」
違和感のある言い回しだった。
それではまるで、未来の――
思考がひとつの推測に到達しようとした瞬間、洗面所のドアが開いた。
開いたドアの向こうには小柄な女性が立っていた。
「ミラベルさん、先生そろそろ病院に戻るけど……もしかして電話とかしてた?」
「え……ええ、そうですね」
電話とはなんだろう。分からないなりに話を合わせながら横目で鏡に視線を戻すと、救済の姿は消えていた。そこには自分の姿が映っていない、ただの鏡があるだけだった。
――それはそれで異様である。見られるとまずい。ミラベルはどう見ても妹くらいの年齢にしか見えない年上の女性を頑張ってさりげなくドアの向こうに押し戻した。
「す、すみません。お見送りします」
「えー、大げさだよ。高梨くんが今日も起きなかったらまた迎えに来るからね」
「……お、お気遣いありがとうございます」
「お安い御用だよ……って、さっきからなんで先生の背中を押すのかな」
ミラベルは再び襲い掛かってきた羞恥と格闘していた。
顔が火照ってしょうがない。
救済の姿と声が他者にも知覚できるものなのかどうかは分からなかったものの、あんな話を他人が居る場所でしてしまっていたと思うと、本当に頭がどうにかなってしまいそうだった。
愛の福音――いや、慈愛の福音のことは当分、誰にも明かさないことにしよう。特に門番の少年には。ミラベルは見た目通り軽いヒメジの背中を押しながら、そう心に決めた。
4章は当部分までになります。
お気軽にご感想等頂けますと今後の参考にさせて頂きます。
お付き合い頂きありがとうございました。




