ex.いずれ潰える寄る辺
07話 n巡目
つい先日までは忙しくも平穏な日々だった。
平日と戦い、金曜日を追い詰めて打倒し、土曜の訪れに歓喜し、日曜を謳歌して、月曜に憂鬱を覚える安寧な毎日。そのサイクルの繰り返しがひたすら永遠に続くとさえ思える。社会の一員であるということはそういうことで、それは世俗から隔絶したように見える教職員であろうとまったく例外ではない。
当時の来瀬川姫路も例に漏れなかった。忙しい毎日の中、ふた月前の日曜日は特に楽しい一日だった。休学していた高梨明人と偶然会って、カフェで話をした日だ。
今となっては、もしまたあの日に戻れたら――と考えない日はない。
彼と会ったのはあの日が最後で、次の機会は永遠に失われた。
高梨家の異変に最初に気付いたのはマンションの管理会社だった。管理人が放置されていた郵便物を部屋に届けに行った際、ドアノブに黒い汚れを発見した。
玄関は施錠されておらず、中は無人。部屋の廊下には大量の血痕が残っていたという。高梨家に以前と変わらず居住していたとされる高梨明人の行方は杳として知れず、高梨家だった四〇二号室は売却されて今は空室になっている。警察の捜査は一応まだ続いているとは聞いていたが、ほどなく打ち切られるだろうと姫路は予想していた。
本人が見つからないかぎり、よほどのことがなければ事件としては扱われない。そういうものらしい。警官に伝手のある大家の女性から遠回しにそう告げられた日、姫路は退職願を書いた。彼女のサイクルは終わった。
彼とはさほど親しい間柄だったとは言えない。
仲のいい教師と生徒。関係性は他にない。それ以上ではなかったし、それ以上になる可能性もなかったと思える。ただ、それでも姫路の世界は明度を落とし、色彩を完全に失った。取り返しのつかない過ちを犯してしまったと、何度も自分を責めた。
教職に留まることもなく、技能を生かして民間の企業に転職した。それもただ単に糧を得るためで、いつまで続くかは分からなかった。
かつて鮮やかだった世界は、遥か過去へと遠ざかってしまった。
だがそれも、時と共に癒える傷だろうと周囲は無責任に言う。姫路が挫折するのは二度目で、その過去を知る人々は彼女がまた乗り越えると勝手に信じている。
否定も肯定もできなかった。
答えてしてしまえば、彼まで過去になってしまう。
どこか、そんなふうに思えてしまったからだ。
***
地図アプリの機械的な音声が到着を告げる。
冬の訪れも近く、分厚いダッフルコート越しでも肌寒さを覚える空気に眉をひそめつつ、来瀬川姫路は住宅街の一角で足を止めた。
トートバッグから取り出したスマートフォンのディスプレイに表示された目的地表示が現在地点の光点と重なっていることをぞんざいに確認し、目の前の建物を見上げる。
比較的築年数の浅い、五、六階建ての分譲マンション。ガラス張りが多い凝った外観デザイン。季節柄、植樹された木の葉はすでに落ち、エントランスのガラス戸に厚着した自分の姿が映る。姫路はその姿を愉快だと感じて目を細めた。
そこに何もないと知りつつ足を運んでしまった自分が、ひどく滑稽に見えた。
貼られている「オープンハウス実施中」の張り紙が少し色褪せているのを横目で見ながら、姫路は淡々と歩を進める。
管理人室に内見希望だと端的に告げると、エントランスドアが無言で開いた。不愛想なのはお互い様なので何も思わず、やはり淡々とホールを抜けてエレベーターで四階へ。
人と遭遇することもなく到着した四〇二号室には案内係が居るわけでもなく、鍵すらかかっていなかった。玄関収納の上に案内看板が置いてあるだけで、中も無人だった。
気兼ねの必要がないのでむしろ好都合だ。人と話したい気分でもなく、居てもらっても煩わしい。がらんとした玄関に無言でブーツを脱ぎ、しかし、いざ足を踏み入れる段になって勝手に口が動いた。
「……お邪魔します」
当然答える声もなく、ただ何もないフローリングの廊下に呟きが響いただけだった。
こんなにはっきりした自分の声を聞いたのは、いったい何日ぶりだったろうか。関係のないことを考えてフローリングから視線を逸らす。そこに万が一なにかの跡でも見つけてしまったら、きっともうここには居られなくなると自覚していた。
歩みを進めてリビングに。すべて処分されたのだろう、人の痕跡はなにひとつ残されてはいなかった。天井には電灯すらなく、ソケットがむき出しのまま放置されている。
高梨家だったはずのそこは、とりたてて変わったところのない、新しめのマンションの一室でしかなくなっていた。
姫路も特に何かを期待していたわけではない。何もないのは分かっていた。
ただ、長い間換気されていないのか空気が悪いと感じた。
事件にはなっていないといっても、醜聞そのものは隠せない。内見希望者も多くはないのだろう。換気されていないのはそのせいだ。案内看板に書かれていた金額も安くない。この部屋が売れるのは当分先に思える。
バルコニーへのサッシ窓を開けると、それなりに灰色の市街地が一望できた。
冷えた風がふしぎと心地よく、埃っぽい空気を攫っていく。そうして多少なり不快指数を下げたおかげか重苦しかった気分が少し楽になった気がした。
悪い部屋ではない。姫路はそう思った。
内見というのは訪れるための建前、方便だったが、現実的に考えて、今住んでいるアパートより新しい職場に近く利便性は悪くない。生活を一新するためにも引っ越すのも悪くないかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えて、すぐに打ち消す。
元教え子がここでどんな目に遭ったのか分からない。それを思えば、こんな場所は人知れず朽ち果てていって欲しいとさえ感じる。居るだけでささくれだった気持ちになる。どう考えても、そんなところで落ち着いて生活できるはずがない。
しかし、いずれはここも人手に渡る。一年か。半年か。いや、もっと早いかもしれない。
彼を知らない誰かが住まい、家具を置いて、すべて塗り潰してしまうのだろう。
ここには過去に、あんな少年が居たのだとは知らない、どこかの誰かが。勝手に。
「……やだな」
どうしようもないやるせなさに力無く笑い、姫路はサッシ窓を閉じた。
これ以上は売主の怠慢の尻ぬぐいをする気になれず、ただ単純に中を見て回った。
どこもそれなりに綺麗に清掃されていて申し分がない。キッチンやシステムバスといった水回りにいたっては新品が入っていて、壁紙も新しく張られているように見えた。
こういう努力はしているくせに、と穿った感想を抱きながら黒い鏡面のエナメル壁に指を這わせる。浴室は広々としていて快適そうに見えた。
部屋数としては多くも少なくもないが、それぞれが広く余裕のある作りになっている。ひとりでは持て余すかもしれない。そんなことを考えながら、寝室として使えそうな広い間取りの居室を覗くと、やはりがらんどうの空間があった。
壁の二面がクローゼットになっており、換気の為か片面の扉はすべて開け放たれている。しかし、反対側のもう一つのクローゼットはなぜかぴったりと閉じられていた。
少し違和感を覚える光景だった。
リビングなどの他の部屋の収納は、やはりすべて開け放たれている。なぜ寝室の、しかも一枚だけクローゼットが閉じているのか分からなかった。
壊れているのだとすれば水回りと同じく交換されそうなものだ。そう思って近寄って見ても、そもそもその一角だけが清掃された気配すらない。
玄関に戻り、看板に添えられた間取り図を再確認する。片側のウォークインクローゼットは確かに記載があった。しかし、閉じている方のクローゼットは図面ではただの壁として図示されていた。
姫路は首を傾げた。
施工業者が書き忘れて、清掃業者も記載がなかったため見落とした――のだろうか。しかし、部屋をちゃんと目で見れば見落としようがない。故意のサボタージュでもなければ、業者にはクローゼットが見えなかったということになってしまう。
まさか。ありえない。首を振り、部屋に戻る。そこにはやはり閉じたクローゼットがある。薄く積もった埃の他に見た目に変わったところはなく――嫌な感じもしない。
嫌な感じとはなんだろう。
自問したものの、姫路は明確な答えを自分から引き出せなかった。自分に霊感めいたセンスが一切ないのはよく知っているので、その類ではないのだろうとは分かる。もし幽霊が居るなら逆に会ってみたい。会いたいとさえ思った。
ゆっくり歩み寄ってもただの掃除されていないクローゼットでしかなく、思い切って手で押すと、扉は普通に開いた。
少し驚いたのは中に物が残っていたことだった。いくつかの段ボール箱と、立てかけられた棒状のもの。不動産会社が内見の際に使うものが置かれているのか、と段ボールのひとつを覗き込もうとしたとき、微かに、箱の中から音がした。
光る球のようなものがふたつ、蓋の隙間から見えていた。
ふた月前の頃の姫路なら飛び上がって慄いたかもしれなかったが、もう、色褪せたこの世界のどこにも恐ろしいものはない。何を見ても古ぼけたフィルムを上映しているかのようでしかなく、たとえ箱から何か恐ろしいものが飛び出してきて自分に襲い掛かって来たとしても、おそらく、好きにすればいいとしか思わない。
しかし、箱に入っていたのは赤い首輪をした白黒の仔猫だった。蓋を開けた姫路の顔をじっと見詰めて、鼻を少し上下させている。姫路はふっと息を吐いて、猫の黒い鼻頭を指先でこすった。
「……よーしよし。きみ、いつからそこにいたの?」
猫は当然答えず、姫路の指に額をこすりつけるばかりだった。
首輪をしているものの、飼い猫ではないはずだと姫路は思った。無人の空き物件で猫を飼っているなどと、そんなおかしな話はない。かといって、高梨家で飼われていた猫とも考えにくい。どんなペットだってふた月も放置されれば無事では済まない。
人慣れしているのか、触ってもおとなしい猫を優しく抱き上げ、首輪を確認する。ガルガンチュア。辛うじてそう読める文字が刻まれていた。
「うわあ……やけに大きくなりそうな名前だね」
箱の中に餌皿や猫砂などがないかを確認し、どこにもないことをしっかり確かめてから姫路はふわふわの猫を抱いたままクローゼットを出た。
このまま連れ帰ってしまうつもりだった。こんなところに放り出していった心無い人間には文句は言わせない。
そうしてクローゼットから出た瞬間、誰かの声がした。それは本当に一瞬のことで、見回してみても声の主は分からなかった。そこにはやはりがらんとした部屋があるだけで、振り返った不思議なクローゼットにも何もない。
手に当たる猫のひげがこそばゆく、意識が現実に引き戻される。姫路は猫の顎をわしゃわしゃと撫でつつ頭の中で計算を始めた。
予防接種に猫グッズ、猫の餌代。それと、この部屋の購入資金。新しい職場は実入りがよかったが、それだけで賄えるかどうか。すこし頑張らないといけない。
「でも、きみが一緒ならこれくらいの広さがちょうどいいよね」
猫のふかふかの背中をさすり、姫路は微笑む。
ふしぎそうに姫路を見詰める猫は、細くひと声だけ鳴いて舌なめずりをした。
もしかすると、ここには区切りを付けに来たのかもしれない。
姫路は唐突にそう思った。
思いがけない奇縁を経て、また頑張ろうと思えてしまったから。
小さな積み重ねの先で、自分はきっとまた笑えるのだろうと思ってしまったから。
そうして、すべては過去になる。どうしたって現在の方が重い。未来の方がきっと長い。だから、こうして振り返るのは最後にしよう。この先はこの部屋で、ずっと待ってだけいよう。彼を忘れずにいよう。そう思った。
だけど、もし。
もしも、またあの日に戻れるのなら――自分でなくてもいい。誰でもいい。この声が届くのなら。もし、そんな奇跡が許されるのなら。
どうか彼の手を取ってあげてほしい。もう、遥か届かない場所に居る私の代わりに。少しだけ手を伸ばして、大丈夫かと声を掛け、もう大丈夫だと笑いかけてあげてほしい。あの悲しい作り笑いを、悲しいままで終わらせないであげてほしい。それだけでいい。そうすれば、きっと。




