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誰かが異界に来ていることは分かっていた。でなければ、そもそも来瀬川教諭が施錠されている俺の家に入ることはできなかったはずだからだ。
カリエールさんとの戦い以降の記憶がないのは、一時的な記憶の混濁などではなかった。以降の俺の意識がなかっただけだとも薄々分かっていた。だとして、俺の傷の治療を誰が行ったのか。候補は限られるし、それ以前に、最有力候補があの場には居た。
来瀬川教諭のおすすめのラーメン屋で彼女が来ていると聞かされた時、はたして俺はどんな顔をしていたのだろう。少なくとも先生が黙り込んでしまったのはたしかで、しかし、彼女は黙って俺の背中を強く叩いた。「もうあんな子を泣かせちゃだめだよ」彼女はそう言って俺の家の鍵を返してくれた。
にっこり笑って送り出してくれた。
そうして、俺はお土産の餃子を片手に自分の家の扉の前に立っている。
なにをどう言っていいのか。道すがらずっと考えていた。俺なんかの為に人間を捨ててしまった彼女に、どう詫びていいのか分からないでいた。到底、贖えることではないのだと俺の千年が叫んでいる。
それでも、背中がすこしヒリヒリした。
子供先生の小さな手の跡が、俺の錯誤を優しく指摘していた。
俺が独りだったのは、結局、俺が誰の手も取れなかったからだ。千年前、家族や仲間達の手を取れていれば何もかもが違っていたはずなのだ。怒りや後悔や絶望にばかり目を向けていた俺には、大事なものが何も見えてはいなかった。
両親とちゃんと喧嘩をすれば良かった。
妹を暗い部屋から連れ出してやれば良かった。
乞われても遺物から手を離さなければ良かった。
カレルを友達として、思い切りぶん殴ってやれば良かった。
アリエッタのところにも、もっと顔を出してやれば良かった。
マリアと一緒に行けば良かった。無理にでもくっついていけば良かった。
きっとそれだけで、俺達はなにか違っていたはずなのに。
でも、そうはならなかった。
だから俺は今、ここに至って理解できている。今、ここにある大事なもののかけがえのなさ。その重みを。扉の先にいる子に何を言うべきかすらも。
「ありがとな、ミラベル」
かといって、舌がうまく回るかとは別だ。
暖かい色の電灯に照らされて玄関に立っていた彼女は、ぎこちなく笑いかける俺に、ひどく驚いたような顔で固まっていた。カタリナが用意していた服を発見していたらしく、リボン付きのブラウスにタイトなロングスカートという新鮮な異界風の装いだった。
「……あ」
しばらく止まっていたミラベルが、緑の目を瞬かせて俺をはっきり見る。
首を傾げると、彼女はわたわたと両手を振った。
「……ご、ごめんなさい。なんだか見間違えたというか……見違えてしまって……」
「な、なんだ? どういう意味だ?」
「顔色がよいというか、その……とてもお元気そうというか」
「ああ、なるほど。それはもう、かつてないほど寝たからかもしれないな」
軽くガッツポーズなどをしてみる。
しかし、ミラベルは沈痛な面持ちで俯いた。
「それに……お叱りになるか、悲しまれるかと思ってました」
「え?」
「勝手に往還門を使ってしまったので……」
「……ああ。そんなわけないだろ。俺の為にそこまでしてくれたのに……ああいや、人命救助というか、緊急避難的な意味で」
自分でも自惚れが過ぎると思えるようなことを口走ってしまい、慌てて訂正する。
ミラベルは黙って首を振るだけだった。
その意味するところが非常に気にはなったが、彼女はそこにはもう触れなかった。
「あの……ヒメジさんは?」
「帰っちゃったよ。君に宜しくってさ。ひーちゃん先生と仲良くなったんだな」
「ひーちゃん先生?」
「来瀬川教諭のあだ名。どうも昔の俺は彼女にお熱だったらしい」
「……ええ、素敵な人ですものね」
室温が二度ほど下がった気がした。
それはさすがに錯覚だったが、ミラベルは少しむくれたような顔をしていた。
不覚にもどきりとしてしまう。
ミラベルは今までも似たような顔はしていたように思える。
しかし、どこかが違っている。わざとらしさのない、とても自然な表情に見えた。
「……こりゃ敵わないな」
剣聖とは別の意味で、来瀬川教諭には永遠に勝てそうにない気がする。
苦笑いで靴を脱ぐ俺を、ミラベルは不思議そうに覗き込む。銀色の綺麗な髪がさらりと降りてきて、どうにも心が落ち着かなかった。
とはいえ、俺だって負けるわけにはいかない。今はこの手に剣がなくても、お土産がある。よくよく考えればチョイスがおかしい気もするし、それしかないのは非常に心もとないのだが――
「あ、あのな……ミラベル」
「はい」
「現界に戻る前に、お茶にしないか。その……なんだ。ケーキはないけど、助けてくれたお礼というか……個人的に」
湖面のような輝きを湛えた瞳が、不思議そうに俺の顔を見る。
どうも照れくさくて視線をそらしてしまうのだが、ミラベルは更に顔を近付けて覗き込んでくる。ほとんど息がかかりそうな距離にあった。
「個人的に?」
「……個人的に」
まるで別の生物かのように脈動する心臓の音が自覚できた。
さぞみっともない顔をしていることだろう己への羞恥でも死にそうだった。
いや、視界の半分を埋めているミラベルの澄ました顔も、どこかおかしい。頬のあたりが紅潮し、僅かに引き攣っていた。
そもそも、この心臓の音は俺だけのものだろうか――俺が悶死する寸前、同じく限界に達したらしいミラベルがバッと身を翻して俺から離れた。
「おっ、おちゃ! いれきてますね! アキトさん!」
――――なんて?
訊ねるより早く、綺麗な銀色が廊下を駆けていく。
俺はもう限界だった。
追撃は不可能だ。仕切り直さなくては。
胸に詰めていた息を吐き出し、脱力し、靴を脱いで我が家へと帰還する。キッチンの方へと引っ込んだ皇女様のあとを追い、よろよろと歩いた。
水音と茶器の鳴る音がする。ささやかな幸福の音。そして、
不意に、ノイズのような不気味な音が鳴った。聞き覚えのある音。歪な音。
キッチンから膨れあがり、
不可避の速度で迫り来る無色の歪みを、俺の目は捉える。
現象攻撃――――!
***
かつては俺も学生生活というものを送っていた普通の学生だったはずなのだが、まことに遺憾ながら、また通うようになって三日経ったというのにまったく馴染む気配はない。復学初日などは学校までの道が完全に初見であるような気すらしたし、下駄箱の位置も分からなかったうえ職員室までの道のりも不明で、そこいらに居た運動部らしき生徒に道を尋ねるという転校生ばりの奇行を晒したほどだった。
来瀬川教諭はたいそう驚いた様子で、なぜか俺を強く心配するそぶりを見せていたのだが、その理由に見当はつかない。いまだに心配されているのだが、不思議だ。彼女は俺が復学するのがそんなに意外だったのだろうか。
そういえば、往還門は機能しなくなっていた。現界の皆との唐突な別れはそれなりに悲しかったが、いつまでも過去に引きずられていても仕方がない。俺たちは前を向いて今を生きていかなければならないのだ。それに、俺にとって最も大切な人は異界に居てくれている。その事実の前ではすべてが霞む。他に大事なことがあろうか。いや、ない。
彼女が往還者になってしまったと聞いたときは奇妙なことに悲しかったのだが、今では喜ばしいことだと思っている。
要は前向きに考えればいいのだ。実に単純だ。時間がたっぷりあるのだと思えばいい。彼女にふさわしい人間になるための時間だ。真っ当な努力を重ねて教養を身に付け、最終的には彼女との暮らしを維持できる社会的地位を手に入れる。残念ながら俺の福音は学生としては何の役にも立たないので、そこに近道はない。復学は当然の帰結だ。
同時に、彼女の愛を勝ち取らなければならない。これはいまだかつてない難題といえるだろう。俺のような凡人が、あの地上に舞い降りた天使のごとき彼女とひとつ屋根の下で生活できていること自体が奇跡のようなものなのだ。そのうえで好かれるなどと、欲が過ぎるというものだろう。実におろかしく無謀な挑戦――
ぼん、と頭に何かが当たって思考が中断される。
痛くもかゆくもないのだが、見やれば板張りの床にバスケットボールが跳ねていた。
「お、おま……大丈夫か!? ぼーっとしてんなよ、高梨!」
「……ん、ああ。すまん」
周囲を見回して状況を思い出す。
体育館のバスケットコート。体育の授業だった。
球技がいったいどういった効果のある授業なのかは分からないのだが、もしかすると協調性や判断能力を培うカリキュラムなのだろうか。だとすると意外と有意義な――
「ああ、じゃねえよ!? はやく拾ってくれ!」
いかにも男子高校生、といった風情の少年が何事かを熱く述べている。たしか名前は橋本。下の名前はまだ覚えていない。
と言われても俺には球技の心得があるわけではないし、そもそもバスケットボールのルールがうろ覚えだ。まさか魔力を使うわけにもいかない。
だが、この程度の授業で敗北を喫するような男が、はたして彼女の愛を受けるに値するだろうか。いや、ない。
無難に、魔力は使わず転がったボールを拾って――ドリブルする自信がなかったのでゴールに向けて投げた。コートを縦断したボールは相手側ゴールを直撃してリングを激震させる。
衝撃音で体育特有の賑やかな空気が凍り付いた。
俺はといえば、真上に跳ね上がったボールを追いかけて既に跳んでいる。タイミングを合わせてゴールリングに叩き込み、着地。がっしゃんがっしゃんと残響が響いた。
しん、と辺りが静まり返った。
振り返ると、目を点にした来瀬川教諭の口から笛がぽろりと落ちるところだった。
試合はダブルスコアで勝った。
悲鳴と歓声の中、俺は拳を振り上げる。どこか、微かな違和感を抱えたまま。
5章に続く。




