50.往きて還る
病院には消灯時間というものがあるらしい。この大学病院では午後九時から午前六時半までの間は館内の照明が一部を除いて落ちる。各病室の照明は任意消灯で強制ではないらしいが、巡回の看護師に見つかると消されるそうだ。病院なので当然といえば当然なのだが、おそろしく健康的な就寝環境といえるだろう。
門番稼業に精を出していた普段の俺はといえば、完全に真逆。夜型の生活を送っていた。寝ているのも朝から昼ないし夕方までで、睡眠時間自体ももっと短かった。現代日本の感覚で言えばとんでもないブラック職といったところで、いくつかの法律にもひっかかるような気がする。そんな俺からすれば、これだけ寝ればどんな病気もたちどころに快癒するのではないかという気さえしてしまうものだ。そんなわけはないが。
消灯時間まで十数分。俺は来瀬川教諭を病室で待っていた。
入院患者であることを喧伝するような患者衣を脱ぎ、シックな色合いのクルーネックシャツにカーディガン、スリムフィットなジーンズという、実に異界らしい服に着替えている。来瀬川教諭が俺の学生鞄に詰めて持って来てくれていたものだ。彼女が家にあった服からチョイスしてくれたと考えると、ある意味、来瀬川コーディネートとでも言えるだろうか。どうもくすぐったいような、複雑な心境だった。
俺に家族はいない。父親や母親、妹のことすらも殆ど覚えていない。彼らを思い出そうとしても一様に首から上のピントがまるで合わない。ぼやけて人間と判別できない絵になる。それでいて、断片的なビジョンはある。口論する両親。部屋の隅で小さくなっている妹。出来の悪い人形劇のような映像がいくつか。どれも朽ちかけていて、自分のこととはまったく思えない。やはり俺に家族はいない。
それでも、もし俺に姉が居たとするなら、来瀬川教諭のような感覚なのだろうかと夢想することはできる。あんな人がずっと傍に居てくれたら。両親の不和も、妹の孤独も、もしかすると癒されたのかもしれない。彼女には、そんなふうに思わせてくれる優しさがある。或いは、俺なんかが剣の福音になることもなかったのかもしれない。もしそうなら、それは福音の権能なんかよりもよほど凄い力だと俺は思う。
だが現実は違う。そんなことは起き得ず、彼女は俺の姉でもなんでもなかった。
ただの学校の先生だ。
そして俺は、ただの高梨明人として、ある意味で最強の敵である彼女と対峙しなくてはならない。規則違反を発見された学生のように、ただ神妙に指導を受け入れてやり過ごすわけにはいかなかった。現界に戻るために。
引き戸が開く。
消灯時間前に戻ってくるという俺の予想は的中した。来瀬川姫路はタートルネックのニットにキャミソールワンピースを合わせた装いに変わっていた。教師らしさはかなり薄れたものの、よく似合っている。ただ、彼女が宣言通り入浴してきただけなのかどうかはそれだけでは判断できない。
病室に足を踏み入れた来瀬川教諭は俺の姿を見るなり、困惑――落胆の色をあらわにした。
「高梨くん……その恰好なに? いまから出掛けるの?」
「病院食が微妙だったので外に食べに行きませんか、って言ったらどうします?」
「……えー、言われてるほどじゃないって聞いたけど」
「どうかな。ま、ちょっと薄味ではありましたね」
検査によってお墨付きを得ている健康体の俺には、入院患者用の献立が少々物足りなかったことはたしかだ。
来瀬川教諭は俺の減らず口に肩を揺らして笑った。
「あはは、それは高梨くんがふだん不健康な食生活を送ってるんじゃないかな」
「否めないっすけどね。これでも自炊してるんですが」
俺も苦笑しながら、横目でスマートフォンの時計を見る。
消灯時間まであと八分。
「自炊っていったってピンキリでしょ。お肉ばっかりとか味付け濃かったりとかしてるんじゃない?」
「洋食寄りではありますね。パンが多いかもしれない」
「和食の方がいいよ。おだしを効かせれば塩分も抑えられるし」
「塩分て。そこを気にする歳でもないですけどね。俺は」
「ぎゃっ、歳の話はやめよう!?」
「いや先生だって二十代でしょうに」
「はいこの話題おわり! 終了でーす! お疲れ様でーす!」
俺は若いから、ではなく何百年も適当に生きてきて大病を患ったことがないがゆえの開き直りなのだが、来瀬川教諭は両手を振り上げて終了宣言する。かく言う彼女もよくて十代半ばにしか見えないので傍目には奇妙な会話であったことだろう。
あと五分。
「なら炭水化物の話でもしますか。ひーちゃん先生は和食派っぽいので米の糖質の話とかいかがです」
「炭水……化物……? 糖……質……? うっ……あたまが……!」
「なんでそこで唐突に記憶喪失みたいになってんすか。反応するワードもおかしいでしょうが。秘められた過去が気になりすぎるわ」
「壮絶な糖質制限ダイエットの果てに心を壊してしまったのかも」
「自爆じゃないですか!? つーか単なる低血糖ですよ!」
「あはは! 一日一合くらいはお米食べたいよね!」
「しかも制限ってほどでもないじゃないですか」
必要があるようにも見えない。
少なくとも、太ってはいない。子供先生の重量はだいたい四十キロくらいだろうか。色々ちょうどいいというか、今は好都合だった。
そこまでは口にしなかったのだが、来瀬川教諭は目を細める。
「あーあ。高梨くん、とんだハラスメントボーイになっちゃったね。純粋だったあの頃の高梨くんはもういないんだね……先生は悲しいよ」
「え、いまのでハラスメントですか?」
「きみが思うより人のハートは繊細なの。うん、そこのところはきっちり補習しないとだめです。きみはちょっと鈍感です」
「難しいな……」
あと一分。
俺はスマートフォンをポケットにねじ込み、病室の電灯のスイッチを切った。
暗闇に面食らった様子の来瀬川教諭が俺を見上げた。
「えっ、ほんとに食べに行くつもりなの?」
「もちろん。この辺でいい店知りませんか」
「いやいや、だめに決まってるでしょ。もう消灯だし、明日にしなよ。外出とか許可がいるだろうし怒られるよ」
「正面から出ればそうでしょうね。ああ、先生。ちょうどいいんでバッグに詰めてるそのマクラ貸してください」
「マクラじゃなくてクッションだよ」
どっちだって同じではなかろうか。ふんすと鼻息荒く抗議する来瀬川教諭だが、トートバッグから引っ張り出したクッションを貸してくれた。俺は弾力に富んだそのクッションをベッドのシーツの下に仕掛け、微妙に誰かが寝ているように見えないこともない形に成形した。来瀬川教諭の反応は渋い。
「いやー、無理があるんじゃないかな……」
「いいんですよ。巡回の人もわざわざ個室の中まで確認しないでしょうし、ぱっと見でそれらしけりゃ十分です」
言いながらカーテンを開け放すと、ちょうど消灯時間になったらしい。
窓から見える病棟の明かりが一斉に減った。中庭も照明が消え、一気に夜闇の割合が増す。廊下なども非常灯など最低限の照明しか点っていない。
これなら人目もないだろう。あったとしても、こんな時間に上を見上げている人間はいないはずだ。
俺は静かに窓を開け、無言で来瀬川教諭に手招きをする。疑問符を顔に張り付けながらも、彼女はとことこと窓際まで来てくれた。
「なに?」
「ちょっと失礼します」
軽く足払いをかけると来瀬川教諭の小柄な体が一瞬、宙を浮いた。すかさずキャッチして抱えると、腕に収まった子供先生はきょとんとした顔で俺の顔を見上げていた。
「へ?」
「暴れると危ないんで、じっとしててください」
「ちょっと――ッ!?」
そのまま、俺は窓枠に足をかけて手前に向き直り、外へと出て上に跳んだ。
魔力による身体強化は異界でも十全に機能していた。
慣性と重力を無視するかのように飛び上がり、上階の外壁にせり出した梁に足をかけるや、また垂直に跳ぶ。二度繰り返すと屋上のフェンスに到達したので、適当にその上に腰掛けることにした。
屋上は夜闇に満ちる空が広がっていた。
六階建ての建物にしては思ったよりも見晴らしが良い。市街の夜景が一望できた。
「――……え、ええ? なに? なんで? いま……」
来瀬川教諭は茫然自失の様子だった。
人ひとりを抱え、三階から屋上まで外壁を駆け上がる。そんな芸当は異界の人間には到底できない。
「こういうことです、先生。話すより見せる方が早いかと思いまして」
「……こういう……え、なんなの!? な、なんかすごいクモにでも噛まれたの!?」
「アメコミですか。いや、残念ながら手首から糸は出ないすね」
「そ、そっか……残念」
苦笑して肩をすくめると、ひーちゃん先生はつられたように少し笑った。
現実に思考が追い付いていない。そんなふうに見えた。
「そんなこんなで色々あって、まあ、かなり危ないこともしてます。すみません」
素直に頭を下げる。
いままでのことに、ではない。その意図は来瀬川教諭にも伝わったらしい。
顔色が驚きから呆れの色へと変わりつつあった。
「色々って……そんな説明で終わらせるつもりなの?」
「聞かない方がいいですよ。荒唐無稽ですし、巻き込みたくもない。楽しい話でもありません。実際、アメコミではないので」
現実はコミックとも違う。もっと複雑だ。悪役を倒せば終わるストーリーなどではないし、そもそも悪役などどこにも居ない。立場と思想が異なる個々が在るだけだ。なにもかもを解決する英雄もいない。銀の銃弾なんてないし機械仕掛けの神もいない。争乱は形と質を変えて繰り返される。たぶん永遠に。人の歴史が続く限り終わらないのだと俺は思う。
「たしかに俺にできることは大してないんだと思います。だから、そういう意味でもひーちゃん先生の言うことは正しい。別に俺じゃなくてもいい。俺がやる必要はたぶんない。先生も、そんな義務は俺にはないって言いたかったんですよね」
「……うん」
剣一本でできることは、やはり無きに等しい。
それが現実だ。平和なんてとても作れやしない。しかし、それを無理やり叶えるのが剣の福音だった。いつかの子供が願った理不尽や不条理の打破という願いが、まかり間違って不自然で歪な奇跡を生み出してしまった。今となってはそんなふうに思える。
それでも。
「それでも、俺は行きます。義務じゃなくて俺がそうしたいからです。そうするのが俺なんです。そこはもう切り離せない、全部をひっくるめて俺だった。理由とか答えなんて、たぶん、最初からそんなものだったんです。ここで行かなきゃ俺じゃない」
だから今なら、素直に、心から認められる。
この歪な奇跡もまた、俺から生み出された俺の一部なのだと。
――そう考えた途端、なにか、あらわしようのない感覚があった。転移街アズルで現象攻撃を取り戻した時と似た感覚。
掛け違えていたボタンを正したような、ズレていた焦点が合ったかのような。曖昧だったが、しかし確実に何かが変わった。ぼやけて見えていたすべてが鮮明になった。
これは――
僅かな思案は続かなかった。
腕の中に収まる来瀬川教諭がついた大きな溜息によって中断された。
「そっかー……まあ、そうだよね。高梨くんならそう言うよね」
「なんか、すみません」
「ううん。そんなスッキリした顔されちゃうと、先生はもうなにも言うことないです。なーんか超人みたいになってるし。応援するしかないでしょ。ここで引っ張ったら先生わるものじゃない?」
仏頂面でなぜかペチペチと頬を叩かれる。のみならず、軽くつねられたり捏ねられたり指で押されたりしたした。
分からない。気安すぎる。俺は超人ぶりを試験されているのだろうか。実際は全然超人ではないのでくすぐったくて仕方がないのだが、両手が塞がっているのでされるがままだった。
しばらく無言でペチペチされていたのだが、ややあって来瀬川教諭は、ぱっと唐突に笑った。それだけで、暗い夜でさえも明るくなるかのような、大輪の笑顔だった。
「でもね、高梨くん。ひとつだけ約束してください」
「なんでしょう」
「なにがあっても生きて帰ること」
思わず息が詰まった。
彼女にはまるで似つかわしくない、穏やかでないその内容に面食らった。この人が人の生死に言及すること自体が意外だった。そんな出来事とは無縁だと思っていた。
違うのかもしれない。異界にだって悲劇は無数にある。交通事故や病気、人との死別は決して遠い世界の出来事ではないのだろう。生きていればそういうことに遭遇することもあるのかもしれない。
もしかすると来瀬川姫路が内包する宇宙にも、過去、それはあったのかもしれない。
「きみを心配するひとを傷つけないように。きみ自身を傷つけないように。それだけは約束してください。できる?」
笑って小指を立てるその人に、可笑しくなって俺は笑った。
こういう所作は子供っぽい人だった。
「もちろん」
左手の小指を絡ませる。
そうしてみると来瀬川教諭の小指は細く、手は小さかった。けれど、彼女が俺に与えてくれたものはあまりにも大きい。またしても増えた約束。でも、いままでとは少し違う。これは決して、悲しみや諦めに染まった後ろ向きなものではなかった。おそらく、これがある限り、きっと。
「俺はもう負けません」
「うん」
しっかり、ゆびきりをする。
来瀬川教諭は満足そうに頷き――
わずかな間を置いて、吹き出して笑った。
「ふっ……ぶふっ。ほんとにヒーローかなにかみたいなこと言ってる……!」
「ぐえっ!? おかしかったですか!?」
「ううん、違う違う! おかしくはないけど、おかしいっていうかなんか……すごく可愛くて……ぷふーっ」
「ひ、ひでえ! あんまりだ!」
こっちは大真面目だったというのに、来瀬川教諭は俺の嘆きを聞いて更に大笑いし始めた。片手しか使えないというのに笑い転げるせいで、バランスが崩れそうになる。
さすがに六階から地上に落ちたら無事では済まない。剣がないので剣技が使えず、魔素の足場も作れない。洒落にならない。
来瀬川教諭も俺がぐらぐらし始めるとさすがに肝を冷やしたのか、必死で俺にしがみついた。ふたりして抱き合うような格好でバランスをとり、均衡を取り戻して胸を撫で下ろす。
そんな自分たちの様子が滑稽で、結局、フェンスから降りて大笑いした。
こんなに笑ったのは、本当に久しぶりだった。




