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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
四章 竜殺し
192/321

49.ほどける境界③

 日暮れを過ぎると異界(クリフォト)の異様は鮮明になっていた。火や魔力灯の光量とは比較にならない明るさの灯りがいたる所にちりばめられ、夜闇を縦横に切り裂いている。密集した家屋を仕切るように敷かれた黒く硬い街路にさえ街灯は等間隔に並び、一般市民の家屋だろうそれらの民家も漏れなく煌々とした明かりに彩られている。

 異界(クリフォト)の高度な技術が市井にまで隔てなく行き渡っているのは明白だった。バルコニーからの眺めで、高梨家が高層の集合住宅の一角にすぎないと察してはいた。見える限りの異界の街には似たような造りと思しき建築物も無数にみられた。つまり高梨家はとりたてて上流の身分ではないはずで、そこでさえミラベルの想像が及ばない技術の器機が多くあったことも踏まえると、異界では高度な技術そのものが一般に普及していると考えるのが自然だった。

 

 その点だけでも、魔道を含めた先端技術について貴族などの特権階級が優先的に恩恵をあずかる現界の有様とは雲泥の差である。

 支配体制の維持には向かないスタンスではあるが、技術の発展速度や基礎的な国力の上昇速度は比較にならないほど速いはず――

 

「あんまり外には出掛けなかったの?」

 

 白地の座席に収まったヒメジが不思議そうに覗き込んでくる。

 ミラベルは思惟から顔を上げ、ぎこちなく微笑みかけた。

 

「そうですね。あまり」

 

 高梨家を出るなり、ヒメジはいきなり金属の車を呼び寄せた。

 金属といっても磁器のような光沢のある塗装が為されていて、外観からはそれと分からない。乗り込む、というよりヒメジに押し込まれる際に手を触れて魔力を浸透させたときにようやく気が付いた。鉱石類に関わる魔術に長けたミラベルは車の構成部品の大半が複雑な合金であることを読み取り、大いに困惑することになった。

 

 装甲というより骨格として強度を追求した結果、材質が金属になったのだと思われた。でなければ同じような車があちこちを走り回っている理由が分からない。戦闘用の車が日用品になっているのでなければそのはずだった。

 

 常識がまるで通用しない。

 

 前方の座席に同乗する御者らしき男性は言葉少なだが黙々と仕事をこなすタイプのようで、最初にヒメジと僅かなやり取りをした以外は沈黙を保っている。皇国語に通じないのかもしれない。ヒメジに仕えているという様子でもなかった。信用に足るのかも判断できなかったので、ミラベルは声を潜めた。

 

「……あの、憲兵の目はもうよろしいのでしょうか」

「え? あー、大丈夫大丈夫。警察の人もタクシーの中なんて見ないし。もし見つかっても先生と一緒ならだいたい大丈夫です」

 

 首を傾げるミラベルに、ヒメジは胸を張って腕を組む。

 

「先生は信用が厚いので」

「個人的に?」

「……職業的に」

 

 へへへ、とヒメジはばつが悪そうに笑う。そろそろミラベルにもヒメジがそう身分の高い人物ではないということは分かってきていたので微笑を返すだけだ。というより、異界は社会階級の構造自体が比較的フラットなのだろう。技術が普及しているのと同じく。

 

「それでヒメジ様、この車はどちらに向かっているのでしょう」

「私んち」

「……ヒメジ様の?」

「うん。えー、まさかあのまま高梨くんの家に泊まる気だったの?」

「い、いえ……特に考えていませんでした。もう帰るつもりでいたので……」

「どうやって?」

「それは……」

 

 分からない、とは言えない。

 往還門のことを口にしていいかどうか判断が付かなかった上、迂闊なことを言えば引き留められそうな気がした。

 

 門番の少年とはもう会わない。彼には頼らない。

 それらは既にミラベルの中で決定事項だった。

 必要であれば彼を置き去りにして往還門を破壊するつもりでいた。

 すでに目算も立っている。

 

 聞くところによれば、門番の少年は往還門を壊すことができないと思っているらしい。現界側にある鉄扉が不可思議な状態にあるのは間違いない。触れたものを直ちに異界(クリフォト)に送る。それは即ち、いかなる干渉も受け付けないことと等しい。確かに壊すことなどできないだろう。

 

 

 でも、異界側は(・・・・)

 

 

 ミラベルには門番の少年の家、あの寝室そのものがそれほど頑強だとは思えない。あの部屋のどこかに往還門があるのなら、部屋ごと破壊してしまえばいい。それに足る威力を持った時限式の術式を仕掛け、周囲から人を払い、彼より先に現界に戻る――大掛かりになるが、決してできないことではないとミラベルは考える。手段さえ選ばなければ十分に可能だ。彼をまた危険に晒すよりは遥かに良い――

 

 ばかみたいだ。

 

 ミラベルは思考を切り替えて自嘲した。

 結局、堂々巡りしている。議場での自分の決断は結果的に彼を殺しかけただけだった。

 それなのに、こうして現実的に彼を永遠に遠ざける方法を検討しながらも、即座に行動には移せないでいる。ヒメジの厚意におとなしく押されている。彼女の言動に有無を言わせないなにかがあるのは確かだったが、断りきるのは難しくないはずだった。なのに。

 

 辞退の意を告げようと口を開きかけたとき、車は止まった。

 車窓から見える景色は鮮やかだった市街からは遠く、静まり返った郊外のものへと変わっていた。周囲の明かりも乏しく、代わりに虫の声と緑が増えた。門番の少年の家からどれだけの距離を移動したのか見当もつかず、車を降りたミラベルはやはり、おとなしくヒメジの後を追うしかなかった。

 

「ふだん人とか呼ばないし、あんまり綺麗にしてないから。驚かないでね」

 

 夜闇に在ったのは二階建ての質素なアパートメントだった。

 門番の少年の家のような巨大なものとは大きく異なり、デザイン性にも乏しい。見て取れる限り部屋も四つ。内部から明かりが漏れている部屋は皆無で、人の気配はない。周囲の人家も門灯はともっているものの、やはり明かりは点いておらず無音だった。

 

「静かなところですね」

「うん。このあたりはお年寄りのかたが多いから落ち着いてるね。昭和……半世紀くらい前は最初の住宅団地とかっていうのができたりしてフレッシュな感じだったらしいけど、よく知らないや。先生は静かなところが大好きです」

 

 ミラベルも無言で同意する。

 どことなくセントレアに似た空気があるような気がしたからだ。

 光に溢れた市街よりも好ましく思えた。

 

「ささ、どうぞどうぞー!」

「お、おじゃまします」

 

 招き入れられたヒメジの住居、質素なアパートメントの一室は、門番の少年の生家と比べると比較的生活感に溢れていた。

 居室とキッチンを兼ねたリビングしかない空間に、明るい色彩の家具類と生活雑貨が密に配置されている。ベッドの上には投げ出された衣類があり、ヒメジはそれだけをそそくさと片付けてミラベルに手招きした。

 

「今夜はうちに泊まってって。落ち着かないかもしれないけど、お風呂もベッドも自由に使っていいから」

「あ、ありがとうございます。でもどうして……」

「まー、高梨くんの家だといろいろ問題あるからね。ご家族が戻って来ないとは言い切れないし、人目が多いし。その点、うちは大丈夫。めったに人来ないからね」

「ヒメジ様のご家族は?」

「いないよー。ひとり暮らし」

 

 言うが早いか、ヒメジはバルコニーに繋がる開口部のカーテンとガラス戸を開け放したのち、浴室に繋がっているらしき脱衣所に引っ込んでしまった。着替えている様子はなく、風呂に湯を張っているのか水音が聞こえてくる。

 バルコニーからは木々が見えた。それなりに広い緑地になっているらしく、木々の間には夜闇しかない。極端に緑が少なかった市街に比べると空気も澄んでいた。

 魔素(マナ)も僅かながら存在する。

 ここなら、とミラベルは指を振った。僅かな魔素をかき集めて親指大の(ゴールド)を錬成する。残念ながらそれだけで魔素は枯れてしまった。

 

 現界では金の錬成が法で規制されている。

 主に大陸共通の貨幣である金貨の価値を担保するためだ。厳密に言えば、金貨に関しては緻密な意匠と術式を混ぜた特殊な合金を用いることで偽造を困難としているため、錬成規制や貨幣としてでのみ価値を維持しているわけではない。それに、観賞目的のほか錬金術の触媒適性や、腐食に強い素材としての性能などでも金は高く評価されている。流通量が管理されるのは自然な成り行きだった。

 

 が、ここは異界。現界の法に縛られる謂れはない。

 もうひとつくらい作りたいな、と緑地の奥に目を向けたとき、

 

「あ、また手品(イリュージョン)やってる」

 

 いつのまにやら浴室から戻ってきたヒメジが困ったような笑顔を浮かべていた。

 幻惑(イリュージョン)。現界では幻惑系魔術イリュージョンマジックを指すが、おそらく言語の壁だろう。ミラベルはそう理解した。

 

「それ、あんまりやらないほうがいいよ。人が見たらびっくりしちゃうから」

「やはり、こちらではそうなりますか」

「どこでも同じだと思うけどね!?」

「……とは限らないんです。こちらはお礼に差し上げます」

 

 少量の金塊(ゴールドナゲット)はおののくヒメジの手に握らせる。

 

「うわっ、こんなのどこに持ってたの……っていうか、お礼とかいいから」

「そういうわけにもいきません。恩には報いなくては」

「えー……お育ちが良すぎる。でも、だめです。先生こういうのは受け取れません。こんなのはいいからさっさとお風呂にでも入っちゃってください」

 

 またもぐいぐいと押されて脱衣所に押し込まれてしまった。

 ばたむ、とドアが閉じられてミラベルは嘆息した。

 テレス城の女中だってここまで世話焼きではなかったし無欲でもなかった。これでは交渉のテーブルにもつけない。だが悪しくも思えない。困ってしまう。

 辺境の地セントレアに住む善良な住民たちに似通う部分がある。あの地の農民にもこういった温かさがあった。

 断り切れない。観念したミラベルはブラウスのリボンを解いた。

 それに、怪我は治っても汚れまでは拭いきれていない。そんな折にあっては、お湯への誘惑はどうにもこうにも抗しがたかった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 家事は得意だ。

 姫路は洗濯機にベーキングパウダーと洗剤を流しいれ、洗濯ネットに入れたミラベルの衣類を置いて手洗いコースで回し始めた。パジャマはおそらく寸法が全然合わないので――深い悲嘆に暮れながらフリーサイズのバスローブを引っ張り出しておく。

 翌日の食事を準備して冷蔵庫へ。合間に階下の部屋に住む大家の女性に経緯をコミュニケーションアプリで報告しておき、ノートパソコンを開いて学校にある端末のメールチェックを済ませる。翌日のスケジュールを練りながら衣類を乾燥機へ。型が崩れそうなブラウスはアイロンがけ。ハンガーで壁のフックに掛ける。

 

 考え事をしながら、なかば無意識に必要なことをこなしていく。こちらは教職についてから身に付けた習慣だった。

 

 考えるべきは、街並みにさえ物珍しそうな反応を見せる、あの箱入りが過ぎた不思議な異人の少女ミラベルの素性――ではない。姫路にとって重要なことは別にある。

 どうなるのが子供たちにとって最もよいか。その一点だ。

 経験は浅くとも姫路は教師だった。その立場からしても、個人としても、ミラベルの帰国は正しい選択とは思えない。

 

 姫路の部屋は古いアパートだったが、セキュリティは意外としっかりしている。大家は警察にも伝手があり、周辺の治安も良好だ。明人以外にあてがなさそうな彼女をこのまま匿うのにも、なんら問題ない。

 問題は、どうすれば彼女を説得できるかだった。

 ただ意固地になっている、ともまた違うのだろう。思いつめてしまうほど明人のことを大事に思っているに違いなかった。それはそれで――姫路としてはどこか複雑な気持ちになってしまうのだが、それはがんばって考慮の外に追いやる。

 

 自身は事情に踏み入らず、それでいてミラベルを翻意させる。それには明人の存在が不可欠のように思えた。彼と会って話せば落ち着くはずだ。

 それから、明人が冒している危険から彼を遠ざける。この点だけで言えばミラベルと姫路の考えはおそらく一致している。

 

 人助けのためとはいえ、ただの学生である明人が危険に飛び込む必要はどこにもない。あえて厳しい意見を絞り出すなら、むしろ不適格とさえ言える。

 社会において子供が権利を制限されるのは、権利に見合う能力がまだ身に付いていないからだ。知識量、判断力、身体能力。もしあらゆる能力が不足したまま不条理な社会へ飛び込めば、結局傷付くのは彼ら自身になってしまう。

 その社会の理不尽から彼らを守り、高圧的に押し付けるのではなく、目線を合わせ、親身に導くのが大人の役割だ。姫路はそう思っている。

 

 やるべきことは決まっていた。トートバッグにお気に入りのマカロンクッションをぎゅむぎゅむと詰めながら、姫路は考えをまとめあげた。

 ちょうどそのとき、バスローブ姿の銀髪の妖精が脱衣所から出てきた。

 

「あの、お風呂空きました……ありがとうございました」

 

 濡れ髪で妙な色気がある。同性の姫路でさえ心がざわつくものがあった。くそう、スタイルがいいなあ――

 

「ヒメジ様?」

「……あっ、うん。栓抜いちゃっていいよ。先生はまた病院に戻るので」

「えっ、こんな時間にですか」

「高梨くん起きるかもしれないし、誰か付き添ってなきゃだからね。それに高梨くんにもう危ないことしないようによく言い聞かせないと。起きたらお説教」

「え、ええっ……タカナシ様に落ち度は……」

「あります。ミラベルさんだって高梨くんに危ないことしてほしくないでしょ?」

「それはそう、なんですが……」

 

 わざと鼻息を荒くする姫路だが、ミラベルは控えめに異議を挟もうとする。

 だからつい、言葉を重ねてしまった。

 

 

「ほんとはミラベルさんだって帰りたくなんてないのに」

 

 

 迂闊だった。

 

 

 姫路は口にしてからそう思った。

 ミラベルは目を瞠ったまま硬直していた。

 まるで自分でも気づいていなかった事実を指摘されたような、驚きの表情。

 いや。まるで、ではないのかもしれない。姫路はそう思った。

 

 しばらくの間、ミラベルは止まっていた。

 それから、笑いだした。

 

「あ、あはは……最低ですよね。ほんと最低」

 

 妖精の瞳から雫がこぼれる。

 姫路は声もなくそれを見上げた。

 

「帰らなきゃいけないって分かってるのに……みんな困るって分かってるのに、自分可愛さに帰りたくないだなんて。本当に、どこまで醜いんだろう……」

 

 姫路には、彼女が「帰らなければならない」と考えていたのは間違いないように見えた。けれど、それは義務(・・)であって意志(・・)ではない。

 抑圧や重責に長く晒された人間、あるいは極度に追い詰められた人間は、この境界が曖昧になってしまうことがある。状況によって強いられている事柄がまるで自分の意志であるかのように誤解、または錯覚をする。そうして無意識に自分の精神を守ろうとする。これはあくまで自分の選択であり、まだ自分の自由は保たれているのだ――と。

 

 この少女には最初からその気配が色濃くあった。責任感や優しさを持つ人間だけが負う、翳りの気配。澱みのようななにか。

 姫路は過去、彼女によく似た目を見ていた。その結末も知っている。鬱積した澱はやがて本人を窒息させた。

 すべてが変わった日のこと。途方に暮れるしかなかった遠い日のこと。だから来瀬川姫路は、その日に言えなかったことを言う。

 

「そんなことない。そんなことないんだよ、ミラベルさん」

 

 安心させるように、姫路は妖精を抱きしめた。

 すっぽりと収まってしまったのは姫路の方だったが、戸惑いの色で見返してくるミラベルの顔を見上げ、微笑を浮かべる。

 

「もっと身勝手でいいんだよ。辛いときには辛いって言っていいし、むやみに我慢しなくていいんだよ。我慢したからって辛いことが消えるわけじゃない。ひとりで立ち向かえるようになるわけじゃないんだよ」

 

 それは、かつて誰かが言っていた言葉。ある男子生徒が思い悩む別の生徒に、ぶっきらぼうに投げた言葉。それを聞いた姫路は、彼のことを目で追うようになった。

 のちに彼が休学するまで気が付かなかった。本当は、家庭の事情で思い悩む彼自身が一番、誰かにそう言って欲しかったのだろうと。

 

「頼ってもいいんだよ。あなたが辛いって言えば、助けてくれる人はきっといるよ。支えてくれる人がいるよ」

 

 思い当たる顔があるのだろう、ミラベルは悲痛な面持ちで視線を逸らす。

 

「でも、タカナシ様は」

「うん。倒れちゃったね。あなたが申し訳なく思う気持ちも分かる。受け入れられないかもしれない。でもね、それは高梨くんが自分で決めたことだったはずだよ。彼、あなたに笑ってほしいって言ってたから」

「え……」

 

 姫路が微かな痛みと共に形にした言葉は、妖精に驚きをもたらしたようだった。

 痛みの正体を想うより早く、続ける。

 

「ねえ、ミラベルさん。今は辛いかもしれないけど、お互いに支え合って、最後にありがとうって言って笑いあえれば、それでいいんじゃないかなと私は思う。きっと、それがひとりじゃないってことなんだよ」

 

 胸のうちに迫り上げる感情を言葉にしてしまってから、姫路は気付いた。およそ現実の存在とも思えなかった妖精は、もう、年相応の普通の子供のように泣いていた。抗弁することも取り繕うこともなく、嗚咽だけを漏らしてただ泣いていた。

 駄々をこねる子供のように、「一緒にいたい」と、ずっとそれだけを繰り返していた。静寂に響き渡る音はそれだけになった。それが本音なのは火を見るより明らかで、姫路にはもう、なにも疑問はなくなった。

 

 だから、きっとまだ間に合うのだと思った。きっと明人の目は覚めるし、取り返しのつかないことはなにもない。でなければ嘘だ。姫路は泣き崩れる少女の頭をずっと撫でながら、そうであるよう、ただ祈った。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 泣き疲れて眠ってしまった少女を部屋に残し、鍵をかけ、来瀬川姫路は深夜の冷えた空気を吸った。緑地公園が近いため、いつも緑の匂いがする。姫路はその澄んだ空気が大好きで、ずっとその部屋に住んでいる。

 頼りない、薄いコンクリートの階段を下りる音が骨組みの金属と反響する。そんな、どこかノスタルジックで古寂びたところも好きだった。

 

 お茶は緑茶が好きで、洋菓子より和菓子派。イチゴ大福を信仰している。海外ドラマよりは大河ドラマが好き。好きな色はパステルカラー。どちらかと言えば暖色が好き。好物は天ぷらそばとだし巻き卵。山よりは海が好き――

 

 好きと思えることをランダムに列挙してみて、姫路はなんだか可笑しくなって笑った。好きと思えることがこんなにも沢山あるのに、子供の頃のようにそれを口にする機会はめっきり減った。内容も変わってしまった。数が増えることも減った。

 

 

 いつしか、なにかを簡単に好きと認められなくなった。

 好きとそれ以外の境界は厳格になり、明確な理由と体裁を求めるようになった。

 大人になるということは、そういうことなのだと割り切った。

 

 だからそう。

 羨ましいのかもしれなかった。

 きっと、それだけだ。

 

 

 はあっ、と息を吐くと、信じられないことに吐息が白んだ。まだ十月なんだけどなぁとひとりごちて、姫路は街へとゆっくり歩き出す。

 まだ目覚めない少年のもとへ。まだ、ひとりの大人として。

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[良い点] ひーミラの楽園はここにあったんだ!
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