48.ほどける境界②
妹と同じくらいの年頃だろうか。ミラベルはその小柄な少女の横顔を呆然と眺めた。
柔らかく愛らしい顔立ち。それでも、不思議と幼さを感じない。所作も見せる感情も大げさで子供っぽいのに、若年特有の微かな残酷さだけが取り払われている。身なりも良く、現界の言葉を解し、異界の医療器具らしい箱を扱う手際からしても相応の教育を受けた身分の高い人物に見えた。
そして、箱から伸びた管を操りながら必死の形相で門番の少年に呼び掛ける姿が、彼との関係をおぼろげに示唆していた。異界の言葉はミラベルには分からなかったが、ひどく胸が痛んだ。
彼にも帰れる場所があった。その身を案じる人が居た。居てくれた。彼はやはり神の戦士でも天涯孤独でもなかった。それなのに自分達が――現界が彼に与えたのは、こんな、あまりにもむごい仕打ちだけだったのだ。その事実がどうしようもなく悲しかった。
少年が息を吹き返したのはそんなときだった。喩えようのない安堵が初対面のふたりの間に漂ったが、ヒメジと名乗った少女はすぐに表情を硬くした。
「あなた、身分証明書もってる? 保険証とか、パスポート」
よく分からなかったのですべてノーと答えると、ヒメジは呆れ返った様子を見せたのち、素早く動いた。少年の体を拭いて着替えさせ、ミラベルにも「血を拭いて着替えるように」と洗面所へと押し込んだ。家の中を漁ったらしく、びっくりするほど柔らかい手巾と概ねサイズの合った上品そうな異界の服を後から差し入れてくれた。
洗面所から出ると門番の少年はもう居なかった。ヒメジは少年を玄関先にまで引き摺って行ったようで、ややあって駆け付けてきた医療従事者らしい清潔な服装の男達に引き渡す様子が玄関扉の覗き穴から確認できた。
言葉は分からなかったが、彼女のオーバーな身振り手振りから推測するとヒメジは少年が玄関先で倒れていたことにしたようだった。彼女が身分を証明するような素振りを見せた後、男達は細かい説明は聞かず、少年を乗せた担架を押して去っていった。
疲れ切った様子のヒメジは屋内に戻るなりぼやいた。
「ふー……本人に怪我がなくてよかったよ。あったらぜったい誤魔化しきれなかった」
「誤魔化したのですか?」
「うん。ありのまま人に知らせたらたぶん大事件になっちゃうから。うーん、うまく押し切れるといいんだけど。それじゃ、あなたの傷も見せて」
せわしなく奥のリビングルームに押し込まれる。
そこでもヒメジは手際がよかった。頭と肩の傷の具合を見るなり「うわあ、縫わなきゃだめかも」と顔をしかめながらも、医療品を詰めた箱からてきぱきと綿と布を取り出してプリミティブな――非魔術的な手当を始めようとした。
隠すべきかそうでないかも分からなかったので、やんわりと辞退して治癒術を使うとヒメジは腰を浮かせてとても驚いていた。具体的には髪の毛を数分まさぐられた上、頭皮を穴が開くほど凝視され、わーわーと大層騒がれた。
その様子が少々意外で、なんとも微笑ましく、ミラベルはいつのまにか悲壮な心地から脱していた。
「ミラベルと申します。この度はタカナシ様を助けて頂き、本当にありがとうございました。ヒメジ様」
「様ってそんな……あ、来瀬川姫路です。高梨くんの担任教師です」
ミラベルが恭しく一礼すると、ヒメジはそう言ってぺこりと頭を下げた。
「え」
まるで雷にでも打たれたような衝撃がミラベルを襲う。
教師。教師と言ったのだろうかこの少女は。なにかの間違いでは。
だが、ヒメジはミラベルを安心させるかのように柔らかい表情を浮かべているだけだった。冗談を言ってるわけではないように見える。
文化の違いか。異界では優秀な人材は年齢に関係なく教職にまで徴用されるのか。あるいは、もしかすると言語の壁なのかも知れない。皇国語には堪能そうだが誰にでも間違いはある。無遠慮に指摘するのは失礼にあたるのでは。ミラベルは激しく動揺していた。
そんな彼女の動揺をヒメジは一笑した。
「あはは! 見えないよねー! よく言われるから大丈夫!」
「あ、あはは……」
愛想笑いを浮かべるミラベルだったが、頭の中はヒメジの年齢のことでいっぱいだった。きっと往還者だ。そうに違いない。ミラベルは早とちりをした。
往還者が加齢の影響を受けないのは門番の少年や生命の福音との一件で知ってはいたものの、ここまで顕著な例を目の当たりにするのは初めてだ――そこまで考えたところで疑問も生まれた。
ヒメジからは魔力がほとんど感知できない。門番の少年から、往還者が例外なく魔力使いになるという話は聞いていた。ヒメジは魔術も知らない様子だった。だとすると。いや、しかし。うむむ、と首を捻るミラベルをニコニコと眺めていたヒメジだったが、やがて唐突に席を立った。
「お話を聞きたいところだけど、ごめんね。高梨くんが運ばれた病院に行かないと。着替えとかも持って行かなきゃだし手続きも……それに、無事に目が覚めるかもまだ分からないから」
緊張が戻ってくる。
てっきり、異界の技術ならもう安心だと思ってしまっていた。
そんなはずはなかった。半死半生どころか彼が一時的に死んでいたのは確かなのだ。顔を強張らせるミラベルだったが、ヒメジはニコリと笑った。
「あ、ううん。きっと大丈夫だよ。高梨くん咳き込んでたし」
「咳? 咳が関係するのですか?」
「うん。脳幹反射」
難解な単語を口にしたヒメジは家のあちこちをひっくり返し始めた。革の財布らしきものや何らかの紙束、少年の衣類などを見慣れない鞄に詰め込んでいく。
病院に向かうのだろう。ミラベルも席を立った。
「あ、あの、よければ私も同行させて頂けないでしょうか。もしかするとご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが……彼がああなってしまった責任は私にあります。どうか同行させてください」
ヒメジが医療従事者達から自分を隠した理由を薄々察しながらも、そう願わずにはいられなかった。しかし、
「それは無理かな。というか、ミラベルさんはここから一歩も出ちゃだめだよ」
「えっ」
「だってなにか危ないことになってるんでしょ? 誰かともめてるとか。それで高梨くんの家に逃げ込んだのかな。ここならたぶん安全だから。違う?」
すらすらと並べられたヒメジの推論は当たらずとも遠からずだった。剣聖は少年を仕留めたと思っているだろうし、でなくとも異界まで追ってこれるとは思えなかったが。
「それにミラベルさん目立っちゃうから。申し訳ないんだけど、しばらくここにいて。警察沙汰にはならないと思うけど、万が一なっちゃったら庇いきれないし」
「警察?」
「通じない? えっと……治安維持……じゃなくて、行政機関……憲兵、かな? 見つかったら……不法滞在とかで逮捕になるかも」
「憲兵ですか……それはまずいですね」
街中に憲兵が目を光らせているとは思わなかった。ミラベルは嘆息した。異界の国家による支配体制は盤石らしい。密入国者扱いであることも事実なのだから仕方がない。露見してヒメジや少年に迷惑がかかるのは大いに問題だ。
「無理を言ってしまいました。申し訳ありません」
「ううん。ミラベルさんって育ち良さそう。好き」
なんとも脈絡がない。ミラベルは曖昧に微笑む。
ヒメジの方はもう準備を終えたようだった。やはり見事な手際だった。まとめた荷物を肩に担ぎ、向き直って告げた。
「それじゃ、しばらくしたら戻ってくるからここに居てね。たぶん誰も来ないと思うけど、もし誰か来ても応対しなくていいから。あ、そうだ。良かったらこれ食べて」
ヒメジは包装紙に包まれた紙箱と円筒形の物体を差し出した。つるつるした質感で薄いグリーン。正体不明の物品。おそらく食べ物。
おずおずと受け取る。
「その水筒、気に入ってるからちゃんと返してね」
返事を待たず、ヒメジは去っていった。
鍵を持ち出したらしく、玄関扉は外から施錠された。中から開けるのは容易だったが、もうそんな気は起きそうになかった。
どうやら水筒らしい円筒形の物体を観察すると、上部がねじのように回ることに気付いた。上蓋だったらしい上部を取り外すと、またもつるつるした内蓋らしいものが現れた。なぜか赤いボタン状の飾りもついている。分からないので内蓋も回して外す。すると、ようやく中の液体が見えた。
すんすんと嗅いでみると香木のような清涼な緑の香りがした。
「お茶……?」
紙箱の方は明快だった。
包装を解くと、不思議な愛嬌がある形の柔らかい焼き菓子が並んでいた。
躊躇いがちに口を付けると、優しい甘さが広がった。
見知らぬ世界でひとりになった。そんな経験は当然、今までに一度もない。
それでも、なぜだか少しだけ心細くはなかった。
***
姫路がようやく一息をつけたのは、教頭への報告と明人の入院手続きを終え、そして一向に電話が繋がらない保護者に内心で激怒したのち、彼の検査結果を家族の代理として医師から聞き終わった頃合いだった。
ばふーっと物理的に息を吐いて、病室で眠っている明人のベッドに突っ伏す。早朝からずっと目まぐるしかった。考えなければならないことも多かった。
「あの子、漫画って感じじゃないよね。あの中だとティーセットかなあ」
あどけない顔で眠っている明人に訊ねる。
返事はない。ないまでも、検査結果は良好すぎるほどに良好だった。血球数のほかに特に異常もみられないと聞いた。それらですら極度の疲労によるものではとの医師の所見も添えられていた。危機的状況は脱したと言える。いつ目が覚めてもおかしくはない。それ自体は飛び上がるほど喜ばしい結果だ。
しかし。
不明な原因で心停止した明人。ミラベルというらしいミッション系の恰好をしていた異国の女の子。高梨家には女物の日用品、あつらえたかのようにサイズが合う服と靴もあった。血濡れたふたりの服。傷を消す手品。多額の現金。断片的なピースだけ集めてみても、あきらかにただごとではない。
なにか、とんでもない事態になっている予感がする。
日曜日に話した明人は重大な悩みを抱え込んでいるように見えた。姫路は彼の家庭の事情とも絡むのかと思い込んでいたが――集めたピースでいくつかの絵を完成させてみるものの、どれもいまひとつしっくりこない。
安堵も手伝ってか緊張感のない想像ばかりが膨らんだ。
たとえば、いいところのお嬢さんと駆け落ち。同棲。むこうの家族に見つかって暴力沙汰に? いささか無理がある。時代劇ではないのだし。
「そんなに艶っぽい関係じゃないって話だったし……でも高かったよね、あのティーセット。やっぱりそういうことなの?」
眠りこける明人の頬をつつく。やはり反応はなかった。
事情は分からないまでも、彼が危険を冒しているのは間違いない。なんであれ教師としてはやめさせるべきなのだろうとも理解していた。
ただ、型どおりの対応が常に正解とは限らないという事実を姫路は経験として知っている。誰かが彼らの力になれるとしたら、まず自分しかいない。できうることなら力になってあげたい。姫路はそう思った。
とはいえ。
とはいえだ。当事者たちから歓迎されるかどうかは別である。いい歳をした大人が無遠慮に首を突っ込むのはどうなのだろう。それに、本当に真剣な恋愛騒動なら姫路の手にはまったく負えない。越えてはいけないラインを越えないかぎりは関知すべきではない気がする――
「ってもう変な方向に一線越えちゃってるよ! 入院だよ!?」
姫路はわあわあと頭を抱えた。
思考が堂々巡りしている。なんだか、おかしい。
「……」
気を落ちつけるべく明人の頬をつつく。
悩む理由はなかった。姫路は生徒たちの問題解決を手伝うだけだ。
とにかく無事だったのだから今はそれでいい。
そう納得することにした。
***
再びの高梨家。せわしなく戻った姫路が明人の無事を伝えるなり、
ミラベルは申し訳なさそうにつぶやいた。
「私は国に帰ります。タカナシ様によろしくお伝えください」
「え」
カウンターキッチンに立った姫路は、驚きのあまり買ってきたコンビニ弁当を袋ごと落とした。ペットボトルがこぼれて転がった。
「なんで」
「これ以上、彼に重荷を背負わせるのは……私には……ごめんなさい。出会ったばかりの方にこのようなお願いをするのは大変心苦しいのですが……」
「え、ええ……っと? それはいいんだけど」
こぼれたボトルを拾いながら、姫路は言葉を探す。
重荷ときたもんだ。
銀髪の妖精は消沈した様子でチェアに収まっているばかりだった。
帰国。遠い国の出身なのだろうか。姫路はタマネギを片手に想像を巡らせる。経緯は分からないまでも、それはどう考えても完全な別離。バッドエンドであるように思えた。
むむう、と目を閉じて懊悩する。
絶対悪い子じゃないな、と思いつつも姫路は心を鬼にする。
「ちょ、ちょっとちょっと、事情は知らないけど、すこし勝手じゃないかな。高梨くん、あなたが居ないときっとがっかりすると思うよ」
「そんなことありません」
自己評価が低すぎる、気の毒になるくらいの即答であった。
姫路は大いに混乱した。ふたりはいったいどういう関係なのだろうか。さっぱり見えてこない。
しかし、妖精はそのまま深刻な面持ちで黙りこくってしまった。
ため息をつく。
いい大人にはなれそうになかった。
これはもう、いよいよ話を聞かないことには始まらない。
「よかったらなにがあったか話してくれないかな? 出会ったばかりで心苦しいんだけど、お菓子のぶんってことで。少しは気が楽になるかもだし……」
「ヒメジ様……」
「な、なんてね! あはは!」
姫路の意趣返しにミラベルは感極まった様子だった。
涙ぐむミラベルにどきどきしつつ、姫路はペットボトルのお茶を差し出す。彼女はなぜか戸惑うばかりだったので、頑張って蓋を開けてあげると、ようやく口を付けた。
それから間をおいて、躊躇いがちに口を開いた。
「……私、昔から父と折り合いが悪くて……その、少し諍いというか……争いになってしまって……」
あれ?
微かに引っ掛かるものがあり、姫路は首を傾げた。
「ミラベルさん、ふだん眼鏡とかかけてる?」
「……いえ」
「そ、そうなんだ。遮っちゃってごめんなさい。そっかそっか、お父さんが厳しい人なんだね」
疑問はさて置き、とりあえず相槌を打つ。
ミラベルは首を振った。
「厳しい、とは違います。憎しみに囚われているんです。はるか昔に自分を陥れた人たちに復讐しようと……ずっと、そればかりを求めている人です。そのために家族が……大勢の人たちが犠牲になりました」
妖精の顔色は蒼白で、微かに震えているようにも見えた。
彼女は意図的に内容をぼかしていた。他人に聞かせられるような話ではないのだろう、と姫路は自分のペットボトルを掴みつつ、ぼんやりと理解した。
「うん」
もう話は読めてしまった。
高梨明人は高梨明人だった。
「……タカナシ様は父から私たちを助けようとしてくださいました。それだけでなく、私たちが撒いた種さえ拾おうとしてくれた。なのに、こんなことになってしまって……もう申し訳なくて……本当にごめんなさい」
そのまま消え入ってしまいそうな声。姫路はやり場のない感情をペットボトルの蓋にぶつけた。握力は二十キロなのでそれでも少し手こずった。
こくりと一口飲んで、頭の中を整理する。
これで話が終わったのは分かっていた。ミラベルは胸襟を開いて辛苦を他人に分けようとしたわけではなかった。ただ姫路に謝ろうとしていただけだった。
だから、彼女は率直に言った。
「あのね、悪いのはあなたのお父さんだよ。あなたじゃない」
見開かれた綺麗な緑色の目を見ながら、当たり前のことを当たり前に言い切る。当たり前のことを当たり前に言ってもらえないのは不幸だ。姫路はそう思った。
ごくごくとお茶を一気飲みして、大きく息を吐く。
それから、こちらの様子を神妙な面持ちで窺っていた妖精に笑いかけた。
「外、いこっか」




