47.ほどける境界①
地図アプリの機械的な音声が到着を告げる。
通勤通学の時間帯にも少し早い、肌寒さすら覚える早朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで気合を入れつつ、来瀬川姫路は住宅街の一角で足を止めた。
あたふたとトートバッグから取り出したスマートフォンに表示された目的地表示が現在地点の光点と重なっていることをしっかり確認し、目の前に聳え立つ建物を見上げる。
比較的築年数の浅い、五、六階建ての分譲マンション。ガラス張りが多い凝った外観デザイン。たっぷり植樹されたエントランスのガラス戸の向こうにはオートロックのパネルが見える。高級とまではいかないものの、その洗練された雰囲気は未だ学生気分の抜けきらない姫路を怯ませるには十分だった。
高等学校のカリキュラムに家庭訪問はない。一般論でいえば教師が生徒の家に押しかけることは稀で、初任者の姫路にとっては本当に初めての経験だった。
頼まれてもいない訪問。招かれざる客。
姫路の立場はそんなところだった。
胃が重い。
ただ、対象の生徒――高梨明人に関しては様々な事情が異なる。蒸発した両親の代わりに彼の叔母が保護者となっていた。もし同居家族が在宅だとすればその叔母であるはずで、両親と対面するよりはいくらか気が楽だった。
準備もぬかりない。服も持ち合わせの中ではフォーマル寄りのものを選んだし、いつもはメイクとも言えないような三分お手軽メイクで済ませているところを薄く化粧もした。いつもながら、親戚の結婚式に連れてこられた中学生くらいの女の子を彷彿とさせる自分の姿には鏡の前で消沈したのだが――それはもう仕方がない。
とにかく、乗り換え駅で菓子折も買って持参している姫路は、いまや不退転の覚悟であった。門構えごときでそれがしを止められはせぬ。最近見た大河ドラマの影響を多分に受けた心持ちで敵地へと突入する。頭の中では考えてきた挨拶を暗唱した。
おはようございます。明人君の担任をしております来瀬川と申します。
明人君はご在宅でしょうか?
「え……おはようございます、でいいのかな……? 朝早くから失礼いたします……? 早朝から恐れ入ります?」
自信が少しだけ揺らぐ。緊張が高まる。
オートロックのパネルの前に立ち、ぎこちない動きで部屋番号をプッシュした。四○二。固唾を呑む。しかし、コール音は鳴るもののなかなか応答がない。
留守。
そんな単語が頭を過ぎった。
考えてみればそもそもアポなしだった。当然その可能性もある。肩透かしのような気分になりかけたところで、姫路は頭を振った。
「……留守? 月曜の朝に?」
明人本人が復学すると言っていたのに、こんな朝から家を空けているのは少し変だと感じる。早起きしてもう学校へ行ってしまった――入れ違ったのだろうかとスマートフォンを取り出す。
トラブルの気配を探りたいのに事前連絡するのでは意味がない。そう思って使わなかったが、明人の電話番号自体は登録しているしコミュニケーションアプリの設定も済んでいる。メッセージの送信も可能で、過去に何度か他愛ないやり取りをしていた。
わたし、ひーちゃん。
いまあなたの家の近くにいるの。
都市伝説をオマージュした文面をするすると打ち込んで、ついでにお化けの絵文字をトッピング。送信。これで応答があればそれでよし。菓子折は他の先生方に食べてもらおう、と姫路は踵を返した。
その途中、目に留まる。
エントランスの壁面に備え付けられた一面の銀色と僅かなオレンジ色。
銀色はステンレスのポストだった。全世帯分。
自然と四○二に目が吸い寄せられる。
見れば、封筒らしき郵便物が受け口からはみ出していた。
おそるおそる近寄って見ると、公共料金関係の封筒に見えた。まさか触るわけにもいかず、受け口の蓋を押し込んでポストの中だけを確認する。
大量の郵便物が放置されていた。
「……高梨くん」
メッセージの応答はない。
姫路は辛うじて息を吐いた。
引き返すわけにはいかなくなった。
オートロックのパネルに向き直り、もう一度だけ部屋番号を押す。応答がないことを十秒で確認して切り上げると、姫路は視線だけで天井の監視カメラを確認した。マイクがない。音までは拾わないタイプ。
無断でマンションのエントランスドアを抜けても共用部分までなら不法侵入にはならない。大学の先輩の誰かがそう言っていた。パネルのカメラから見えない位置へ移動し、もう一度部屋番号を押す。四○三。高梨家の隣家。
『はい?』
中年女性らしき見知らぬ声がスピーカーから漏れた。
姫路はすかさず声を張る。
「た、宅急便でーす……」
思いのほか小声になってしまった。しかし、
『はあ。どうぞ』
訝しそうな応答と共にエントランスドアはあっさりと開いた。足早に通り抜けてエレベーターホールへ。早鐘を打つ胸を押さえつつ、ボタンを押してエレベーターを待つ。
なんて大胆なことをしてしまったのだろう。
動揺は少なくなかったが、同じくらいに嫌な予感があった。曖昧なその予感が、姫路の足を先へと進ませる。
少なくとも、高梨明人は保護者と同居していない可能性が高い。郵便物のあて名が蒸発した彼の父親のままだった。公共料金を支払っている何者かは契約名義を切り替えず、支払いだけ続けていることになる。
だが、常識的に考えればそれは有り得なかった。不動産の名義を変更する際には公共料金の契約変更も必須だ。考えられる可能性はひとつ。不動産に関する手続きが何も行われないまま、誰かが支払いだけを維持している。維持されている限り問題にも表ざたにもならない。
しかし、事件や悪意の気配は感じない。姫路はそう思った。なぜなら、こんなことをしても本来は誰も得をしないからだ。ひとりを除いて。
明人本人だ。姫路の勘はそう告げていた。
彼が生家を維持し続けた理由は判然としない。叔母との折り合いが悪いのか、センチメンタルな理由なのか。ただ単に一人暮らしがしたいのか。
いずれにせよ、姫路の目にこのマンションは中流家庭の共働きで維持できるかどうか、といった水準に見えた。大学生の一人暮らしとはわけが違う。その事実だけで、ただごとでないことはぼんやり理解できた。
「さすがに……過度な干渉かなあ」
降りてきたエレベーターに乗り込みながら、不安をかき消すようにぼやいた。
それでも胸騒ぎがするのだから仕方がない。
ただ非行に走っているのならそれでいい。こってり絞ったあとで笑いあえる。
でも、もしもそうでないのなら――
***
ひどく気分が悪い。ミラベルはまずそう思った。
初めての越境、世界の移動は苦い経験になったと確信した。門に触れた瞬間、意識と体が一旦ばらばらにされたような嫌な感覚が過ぎていった。
そうして再び意識が纏まったあと、彼女は見知らぬ場所に立っていた。
暗い、寝室というにはやや手狭な部屋だった。壁や天井のつくりからして皇国の建築様式とはまるで違う。漆喰壁ではなく上質な紙か布を張っているように見えた。
床も同様だった。起毛を用いているのか、柔らかい。土足を前提としない素材に見え、やや面食らってしまう。
切った頭の傷が、ぱたぱたと血を落とした。汚してしまった。思わずそんなことを考えてしまうほどにミラベルは朦朧としていた。それでも、自分の治療は後回しだ。
背負った少年は未だ動かない。
ひとつ、賭けに負けた。
ミラベルは自分が得た何かをまだ理解していなかった。
越境を果たして得られたはずの福音は、まだ彼の助けにはならなかった。
ベッドがあるだけの部屋のドアを蹴破るように開けると、やはり狭い板張りの廊下に行き当る。
左右を見回しても数部屋しかない。居間、洗面台、がらんどうの居室がふたつ。必死に確認して回ったそのいずれかに、異界の叡智が、高度な医療器具があるとは到底思えなかった。門の向こうにあるのは少年の生家だと聞いていたとおり、一縷の望みを託したその場所は、ただの無人の民家でしかなかった。
ふたつ目の賭けにも負けた。
負けてしまった。
「……どうすればいいの」
呆然と呟いた。
現界に戻ろうにも戻り方が分からない。
さきほどの寝室らしき場所を探れば分かるのかも知れなかったが、もうそんな猶予はなかった。じきに少年の霊体は崩壊し、彼は完全に死亡する。
呆然としたまま、魔素を感じない虚空を見た。
そして青ざめる。
大気中の魔素がある程度存在する現界では、霊体を構成する魔素の拡散が緩やかに進む。それは海水に塩を溶かす行為と似ている。しかし、異界には大気中の魔素が殆どないのだ。喩えるなら真水。これほど魔素の薄いと、霊体の崩壊など一瞬で進んでしまうのではないか。
両世界は死のプロセスが根本的に異なっている――それと知らず、致命的な罠に飛び込んでしまったような心地だった。
もう何もできない。
戻る道もない。
ここで終わる。
絶望のまま立ち尽くすミラベルは、音を聞いた。
大きな音だった。初めて耳にする類の、不自然な高い音。楽器――ピアノの鍵盤をふたつ弾いたような奇妙な音。
人の気配もあった。何者かの気配が廊下の向こう、玄関扉越しに現れていた。
訪問者だ。そう悟ったミラベルは僅かに躊躇した。
もし、この訪問者が悪意ある何者かであったら。未知の世界、見知らぬ場所で杖もない自分にいったい何ができるかと不安を覚えた。
躊躇いは刹那に消えた。
なにがあっても諦めきれないと思い知ったばかりだった。
戻れないなら進むしかない。
放置した負傷のせいか、もはやまっすぐにも歩けない足で扉へと向かう。装飾のない内鍵を回し、見慣れない形のノブを捻る。
開く扉の隙間から、アイボリーの暖かい光がこぼれた。
***
まるでフローリングの上を転げまわるかのような音がして、姫路は四○二号室のインターフォンに置いていた指をびくりと跳ねさせた。
部屋の中に誰かがいるのは明白だった。
明人がインターフォンに驚き、寝ぼけてベッドから転がり落ちたでもしたのだろうと姫路は祈った。いちおう筋も通る。でなければ尋常な事態ではないし、近付いてくる調子のおかしな足音の主が歓迎できる相手とは思えなかった。
もし暴力的な人物が出てきたら到底太刀打ちできない。日頃から生徒相手にだって手をあげられたら敵わない自信があった。なにせ小学生時代からあらゆる体育競技でビリを脱したことがない。何もかもが伸びなかったからだ。握力は二十キロ。五十メートルは十一秒弱――
菓子折とバッグを盾にするように身構え、震えながらそのときを待った。扉が開く。赤にまみれた細い指先が見えて、姫路は息を呑んだ。
薄暗いドアの隙間、微かにくすんだ銀糸のような長い髪が覗いた。
続いて、白い顔が見えた。
最初、それは人間には見えなかった。姫路の知る、人間の造形が成しうる美醜の範疇を大きく上振れて逸脱していたからだ。
もし妖精だと言われれば即座に信じたかもしれない。首を縦に振り、目に焼き付け、永遠に否定し忘れ去ることなどできないだろう魔力があった。思わず、息をするのも忘れて魅入ってしまった。
脱力した両手から、菓子折がぼとりと落ちた。
ひよこ型のおいしいお饅頭。
落としてしまって崩れたかもしれない。姫路はそんな思考で正気に戻った。
しかし、言葉は出ない。
「…………えっ……と」
深呼吸をする。
そうして一呼吸置いて見ると、妖精は人間の少女だった。
怪我もしていた。
血管でも切ったのか、頭から緑色の左目にかけてべったりと血濡れていた。まるで交通事故にでもあったかのような有様で、明らかに衰弱している。ひどく憔悴しているようにも見えた。
頭の怪我は怖い。そんな、現実に寄った思考が姫路を平常運転に近付けた。
身振り手振りをしながら語りかける。
「その、だいじょうぶ……? それ、怪我してるけど……」
「……お助けください。私より、廊下にもっとひどい怪我人が……」
見た目からしてそうだろう、と予想したとおり、妖精は日本語を喋らなかった。
英語。それも独特な強い訛りがある英語だった。
ヒアリングにもスピーキングにも自信はまったくない。だからといって怯んでいられる場合でもなかった。
「重傷なの? あ、あなたも相当だけど……救急車呼ぼうか?」
「……亡くなりかけています」
「えっ!?」
沈鬱な面持ちの妖精を抱きかかえるように優しく押しのけ、姫路は奥の廊下を覗き込んだ。目を凝らすと、暗がりにシルエットが見える。仰向けに倒れる少年の姿が、開け放たれた玄関から差し込む陽光に浮かび上がっていた。
息が止まる。
姫路は廊下へ転がり込むように走った。
靴を脱ぐ余裕もなかった。
「高梨くん!?」
悪ふざけかと疑った。悪ふざけだったらよかった。
しかし、倒れた少年のシャツは血塗れで。顔色はまるで死人のようだった。
まさかと思い首に手を当てる。まだ体温は多く残っていた。
しかし、脈はない。自発呼吸も確認できなかった。
あのときとおなじ。
「まっ、待って待って待ってだめだめだめ……!」
動転しそうになる気を落ち着け、投げ出したバッグのもとまで這いすすむ。ひっくり返してスマートフォンを取り、緊急通報をコールした。
火災ですか、急病ですか――悠長に聞いてくるオペレーターに暗記した住所と少年の状態をまくしたてる。喋りながら少年の顔に手を被せた。やはり呼吸はない。
スマートフォンに怒鳴りながら、傍で座り込む妖精にも怒鳴った。
「あなた! どれくらい時間たってるの!?」
「え……?」
「高梨くんがこうなってから何分経ってるの!? 三分!? 五分!?」
「お、おそらく……十分くらいです」
十分。青ざめた姫路はスマートフォンを放り出した。
伝えるべきことは伝え終えている。
救急隊の到着時間までは十分弱。もう数秒も無駄にはできない。
「心臓マッサージと人工呼吸! できる!?」
「は、はいっ」
「やってて! すぐ戻るから!」
姫路は玄関から勢いよく飛び出し、まだ留まってくれていたエレベーターに滑り込んで一階のボタンとドアの閉鎖ボタンを叩いた。自分の足なら階段を使うよりこちらが速い。嫌な鼓動を続ける胸に手を当て、大きく息を吐く。
長く感じる下降の感覚の中、姫路は思い出していた。赴任早々、二年に一度のある講習がたまたまタイミングよくあった。
だからよく覚えている。学校にも置いてあるオレンジ色。
マンションのエントランスで見かけたオレンジ色と同じだった。
駅や人の多い場所に置いてある、見慣れたオレンジ色。
エレベーターホール側からはドアは勝手に開いた。
姫路は一直線に走り、オレンジ色が覗く白い箱のレバーを持ち上げ、一気に開けた。けたたましいアラームが鳴る。引き出した装置を持ち、わき目もふらずに駆け戻った。AED――自動体外式除細動器を。




