45.アイボリーの寄る辺②
日本標準時、十月四日、火曜日。午後四時二十二分。
きっちり日時を確認し、俺は来瀬川教諭が持って来てくれた自分のスマートフォンをベッドの脇机に置いた。
俺が最後に往還門を使用したのは三日の早朝だった。とすると、ざっと丸一日以上が過ぎている計算になる。その間の記憶はやはりまったくない。
状況からの推測はできなくもない。
来瀬川教諭は俺のスマートフォンや財布、着替えなどを学生鞄に詰めて持ってきてくれていた。
もちろん彼女は俺の家の鍵なんて持っていないだろう。そして、来瀬川教諭がどれだけ優しい人だったとしても、その優しさが法と秩序を超越することはないはずだ。なので、勝手に高梨家のマンションに入ったとは考えにくい。今現在の俺の保護者となっている叔母が管理会社にでも手を回したのだろうか。
姿が見えない以上、叔母自身が動いたという線はないように思える。薄情だとは特に思わない。そんなものだろう。
とにかく、相応の緊急事態がなければこんなことにはなるまい。記憶が飛んでいる部分なので分からないが、復学した俺が学校でぶっ倒れでもしたのだろうか。だとしてもちょうどカリエールさんとの戦い以降の記憶だけが綺麗にないというのも妙な話で、やはり結論は出ないのだが。
「まあ、先生に聞けばいい話か」
医師と学校に連絡すると言い残して病室を出ていってしまった来瀬川教諭がいつ戻ってくるのかは定かでなかったが、ベッド脇の椅子に残された桜色のトートバッグが忘れ物でなければそのうち戻ってくるのだけは確かで、だとすると急ぐ必要はないだろう。
点滴を外してくれなどという些事でナースコールを押す気にはなれず、自分で針を引き抜き、固定に使われていたテープで跡を止める。
自己認識としては健康体そのものなので、どういう経緯で病院ぶち込まれたのであれ早々に退院させてもらうつもりだった。
何があったにせよ、早々に状況把握を済ませて現界に戻らなければならない。
身支度を始めるべく患者衣の紐をほどいたとき、病室の引き戸ががらりと開いた。
医師かと思えばやはり来瀬川教諭だった。悪戯を発見した母親のごとき口ぶりで唇を尖らせつつ、とことことやってくる。
「あっ、こら! だめだよ高梨くん!」
が、五歩ほど離れた距離で不自然にぴたりと止まった。
「……ま、まだ寝てなきゃ」
話をするにしては少し遠い距離で彼女は言う。
距離の理由はよく分からなかったが、着替えようと思っていたのでちょうどいい。
構わず答えた。
「もう平気ですよ。帰ります」
「だめだってば……きみ、心臓止まってたんだよ? ちゃんと診てもらわないと」
「……なんですって?」
思わず聞き返してしまう。
「高梨くん、おうちで倒れてたんだよ。もう少し発見が遅かったら危なかったかもって先生……お医者様も言ってました。だからだめです。きみは入院です」
ひーちゃん先生は両手でバツ印を作る。
そう言われても、やはりまったく実感は沸かない。
「心停止……俺が?」
「それでもね、高梨くんは運がよかったみたい。こういうのは後遺症が残ることもあるらしいから……でも処置のあと心臓にも脳波にも異常がなかったから、じきに目が覚めるだろうってお医者様にも言われてたの。ほんとに良かった……」
「運がいいかどうかはさておき、そりゃほぼ死んでたようなもんですね。道理で頭がだるいわけだ」
「だるいじゃすまないんだよ、普通。もー、先生のほうが心臓止まるかと思ったよ」
青い顔で身を震わせる来瀬川教諭だが、茶化す気にはなれない。
平和な――少なくとも生命の危険とは縁遠い社会を維持している現代日本で、身近な人間の不幸というものはまさしく最悪の部類に入る出来事だろう。たとえ不可避であっても、来瀬川教諭にそれを経験してほしくはない。その意味では、俺は生き延びることができて幸運だったのかもしれない。
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
深く頭を下げる。
すると、来瀬川教諭は少し心外そうな顔をした。
「あのね、高梨くん。心配するのは先生の勝手だからいいの。そうじゃなくて、こういうときは喜んでほしいな」
「……喜ぶ?」
「そう。申し訳なく思うんじゃなくて、喜んでほしい」
子供先生は難しいことを言う。申し訳ないものは申し訳ないのだが――俺は少し考え、適切と推測される言葉を口にする。
「ええと、ご心配……ありがとうございました?」
「うん」
違いがよく分からない。
分からないが、来瀬川教諭はひとまず満足したらしい。頷いて踵を返す。
椅子に置いてあったトートバッグを掴み、改めて俺に向き直った。
「もうすぐ看護師さんが来るから。たぶん色々聞かれたり検査したりすることになると思うけど、おとなしくお医者様の言うことを聞いて過ごすこと。いい?」
「それは……状況次第ですね」
「ええー? 素直な高梨くんはどこ行っちゃったのー?」
「ケースバイケースですよ」
「それ英語に言い換えただけだよね!?」
来瀬川教諭は驚愕の面持ちである。
この人はいちいちリアクションが大きいので愉快だ。
「で、お帰りですか?」
「えっ? えっと、あー……ううん、そうじゃなくて。帰るっていうか……さすがにね……」
またコロっと顔色が変わる。
声量が下がる語尾と共に大きな瞳が斜めにずれていく。言い難そうな言葉でも割とあっさり口にする印象があったせいか、少し意外だった。
事情はよく分からなかったが、身内でも何でもないのに泊りがけで付き添ってくれていた人を引き留めるような言葉を俺は持たない。
「俺はもう大丈夫ですから。本当にありがとうございました、先生」
「ええっ?」
再度深々と頭を下げると、来瀬川教諭はまたも心外そうな顔をした。
いや、違う。笑顔と渋面の中間、感情の機微が顕れた繊細な表情である。
羞恥だろうか。読み取るのが難しかった。
「ちょ、ちょっと……あのね、いったん家に帰るだけだから。一時間……は辛いから二時間くらいしたらちゃんと戻ってくるよ」
「いや、もう夕方じゃないですか。平日なのに今夜も付き合ってもらうわけには」
「学校のことなら心配ないよ。昨日は休んじゃったけど、今日はお昼までちゃんと授業してたから」
「余計迷惑かけちゃってるじゃないですか。やっぱり全然家に帰ってないんですね? そんな無茶は……」
一歩、歩み寄る。
すると、来瀬川教諭は慌てて一歩離れた。
「……」
さすがにあからさまだったので、俺はひーちゃん先生の目を見る。
彼女は気まずそうに目を逸らした。
やがて呟く。
「…………先生、汗っかきだから」
先生はぷるぷるしていた。
俺は頷くしかない。
「ああ、そういう……」
そういえば、女性は風呂に時間がかかるという伝承を聞いたことがある。人によっては髪を乾かすのにも一大事なのだと。そうか、二時間もかかるのか……とひとりで納得すると、来瀬川教諭はびくりと身を震わせた。
そもそも、この人は何を恥ずかしがっているのだろうか。不思議だ。
「んー、特に気になりませんけど」
「きみはよくてもこっちが気にするんだよ!?」
白目でも剥きそうな勢いの来瀬川教諭だが、夏ならいざ知らず気温も落ち着いた秋の時分にあって、小綺麗なボレロとワンピースを纏う彼女が汗をかいている様子などは特に見受けられないし、衛生的にも問題無いように見えた。
「……意外と繊細なんすね」
「そうだよ!? 意外と!? もう先生のハートはぼろぼろだよッ!」
無論、俺の言は冗談である。意外でも何でもない。ひーちゃん先生は無垢でありながら大人でもあるという、間違いなく繊細なバランスで成り立っている。
俺相手に気にしていることではないとは思うが、病院関係者と話しているうちに気になり始めてしまった、といったところだろうか。
「冗談はさておき、俺は本当に大丈夫なんで。ゆっくり休んでください。本当にご迷惑をおかけしました」
大人であるがゆえに、ここまではっきり言えば遠慮が伝わる。来瀬川教諭はそういう女性のはずだったが、僅かに考え込んだ彼女は、なおも引き下がらなかった。
「……やっぱりだめだよ。保護者のかたとも連絡が付かないし、放っておけないよ」
その言葉に強い違和感を覚える。
叔母と連絡が付いていない――?
「ひーちゃん先生、どうやって俺の着替えを取りに行ったんですか」
「……っ」
来瀬川教諭は顔を強張らせる。
今は無垢な部分が仇になった。この人は考えが表情に出やすいのだ。
そして、咄嗟の言い訳も出てこない。いい加減な嘘を吐けないし、吐かない。
何かを隠している。そう直感した。
だが、それが悪意に根ざしたものでないことは観察の必要もなく明らかだ。今の俺は来瀬川姫路を大して知らないが、今の俺が知っている来瀬川姫路は善性の光に満ちた人間だと断言できる。そんな彼女が何かを伏せているのだとすれば、それは間違いなく他者のためだ。
「あ、あのね……その……」
その彼女が狼狽し、表情を曇らせている。
迂闊で無遠慮な問いかけだった。強く自省し、硬くなった自分の顔を手で覆った。すぐに顔に出るのは、自分も同じなのかもしれなかった。
「……すみません。疑ってるとか、責めてるとかじゃないんです。ただ、なにか言いたいことがあるんだったら遠慮せずに言ってください」
「高梨くん……」
「先生は恩人です。俺は問題児かもしれませんが、これ以上、俺なんかのためにひーちゃん先生を悩ませたくない。少なくともそう思ってるのはたしかです」
可能かどうかは別として。
足さなかった言葉は、足さずとも来瀬川教諭に伝わっているだろう。それでも、「うん」という、いつもの温かい相槌があった。
ややああって、彼女は意を決したかのように顔を上げた。
「……ごめん。最初にきみを見つけたのは先生だったんだ」
「俺の家に来たんですか? なんでまた……」
「えっとね。日曜に話してから、どうしても高梨くんが気になっちゃって……あ、様子がって意味ね!?」
「わ、分かってますよ。でもそんなの隠すようなことじゃ……」
一瞬、微妙な空気が戻ってくるが本当に一瞬のことだ。
あどけない顔はすぐに憂いを帯びた。
「見つけたのはきみだけじゃなかったから」
来瀬川教諭はトートバッグから黒いビニール袋に入った布を取り出す。
それはシャツだった。俺が現界で着ていた、生成りのネルシャツ。ひーちゃん先生の手にあってきちんと折りたたまれていても、ひと目で分かるほどに切り裂かれ、血に塗れている――カリエールさんとの戦いによるものだ。
俺は瞑目し、嘆息する。
言い逃れはできない。
見る人間が見れば、酸化が進むその赤黒い汚れが血糊やケチャップではないことなど一目瞭然だろう。事件として警察に届けることだってできるのかもしれない。結果として俺自身の血であることが証明されるだけだとしても、そうなって然るべきだ。
だが、来瀬川教諭はそのシャツをバッグに入れて持ち運んでいる。つまり。
「……それは立場的に不味いでしょう、先生」
「ううん。高梨くんが悪いことをしたとは思ってないの。きみはそういう子じゃないし、心臓止まってたのに悪いことなんてできっこないでしょ。だから、この服は先生が預かっておきました。変な誤解をされるだけだと思うし」
ひーちゃん先生はわざとらしくぺろっと舌を出すと、そのままシャツをビニール袋に戻してバッグに納めてしまった。そのまま処分、というより隠滅する気なのだろう。
「……でもね、高梨くん。悪いことはしてなくても、なにか危ないことはしてるんじゃないかな? 違うとは思いたいけど……そんなふうに倒れちゃうと否定できないよ」
弾劾や詰問というより労りの色が強い声音だった。
生徒の問題行動を見つけ出して鬼の首を取ったかのように喜ぶような人では絶対にないだろうし、恩を売っておこうだとか、無難に見なかったことするということもない。そして見過ごすこともまた、ない。その結果が労りなのだ。
ぐうの音も出ない。出すべきでもない。
「してるかもしれません。危険というか、そうですね……ひとことでは説明できませんが、社会通念上、非常に分類が難しい状況にはなってます」
「やっぱり。で、なに……社会通念……? けむに巻こうとしてない?」
「まさか。簡単に説明できるものならしてます」
「なら難しくてもいいから説明して」
本心からの答えだったが、子供先生は困惑顔で唇を尖らせる。
ここでありのままを告げたところで先生の混乱を招くだけだろうし、まず信用はされない。具体的な説明はせずに乗り切るのが最善だろう。最難でもあるが。
無い知恵を捻っていると、
「……やめられない?」
「えっ?」
不意にかけられた言葉の意味が分からず、俺は上擦った声を上げてしまう。
来瀬川教諭は大きな目で俺を見据えていた。
確信に満ちた瞳だった。
「きみがなにをしてるのか……全部は分からないけど、もうやめた方がいいよ」
「どうしてです? 何も聞かないうちから……」
「あのね、高梨くん。気付いてる? きみ、自分が倒れたって聞いたときは驚いてたけど……一度も不思議そうにはしてないんだよ。まるでそれが当たり前みたいに、そうなることをとっくに受け入れてるみたいに。無事に目が覚めたのに安心も喜びもしてない。それなのにまた……戻ろうとしてるよね。どこかに」
ありもしない非難の気持ちをかき集めて、どうにか振り絞られたかのような、ほんの僅かな棘のある言葉だった。
それでも、俺の口を閉ざすのに十分な威力を持っている。愕然とする俺に、来瀬川教諭は滔々と語る。
「事情が言えないなら言えないでいい。でもね、考えてみてほしいんだ。それは本当にきみがやらなきゃいけないことなのかどうか。きみを心配してる人を傷つけてまでやらなきゃいけないことなのかどうかを。すこし立ち止まって、考えてみてほしいんだよ」
アイボリーの陽光に照らされる来瀬川教諭は子供っぽい容貌こそ変わらなかったが、ひどく落ち着いて見えた。そんな彼女の指摘は、確実に俺の矛盾を突いている。
決して、捨て鉢になっていたつもりはなかった。
負けていいとも思ってはいなかった。
それでも、いつかは負けるのだろうと覚悟もしていた。
しかしそれは、本当に覚悟だったろうか。
諦めではなかっただろうか。妥協ではなかっただろうか。
誰かの為という立脚点の上に成り立ちながら、自らが倒れることで曇る笑顔があるという事実を忘れていたとでも言うのか。俺にはそんな乏しい想像力しかなかったのか。
おそらく違うだろう。
己の不甲斐なさに呆れる俺の中に、そして、唐突に疑問が生まれた。
この人は――来瀬川教諭は本当に何も知らないのだろうか。何も知り得ないで、俺に、ただの教え子に、ここまでを言えるだろうか。異界の一般人が。一介の教師が。いったいどれほど深遠な宇宙を内包すればそうまでになるのか、いまだ浅薄な俺にはまったく想像できない。
成す術なく立ちすくむ俺に、来瀬川教諭はニコリと無理に笑った。
「……あとでまた来るから。ちゃんと居てね、高梨くん」
返事は待たず、教師らしい出で立ちの先生は引き戸を開け、するりと隙間に身を滑り込ませて行ってしまった。軽い足音は迷いない調子で遠ざかっていく。その信頼を裏切ることはできず、俺はベッドに座り込んで呆然としていた。
やがてやってきた看護師が点滴を勝手に外したことを咎める声も、今の俺の耳にはよく聞こえなかった。
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大橋と名乗った若い医師は問診と聴診器による検査を終えると、いまのところ異常は見つからないですが、念のため明日は重篤な疾患がないかどうか詳しい検査をしましょう。そんなニュアンスの話をどこか釈然としない面持ちでしてくれた。
適当に相槌を打って解放された俺は、院内の売店を発見して病室に戻り、来瀬川教諭が持って来てくれていた自分の財布を持って売店へと引き返した。コーヒーが欲しかったからだ。
その缶コーヒーの会計の際に気づいたのだが、俺の革財布にはまだ札がぎっしり詰まりっぱなしだった。来瀬川教諭はそれも見ただろう。その上であの態度だった。彼女からの信頼が俺の中で重みを増し、やはり、俺の足を病院内に留めた。
陽がアイボリーの表情を見せる時頃は、ほんの一瞬に過ぎない。オレンジに変わりつつある空を、俺は真新しい大学病院の綺麗な中庭から見上げていた。
プルタブを開けて口に流し込んだ缶コーヒーはとりたてて美味くも不味くもなく、いかにも缶コーヒーといった無難な味わいだった。
中身を半分ほど飲み下したところで、視線を落として病院内をまばらに行き交う人たちをぼんやり眺める。
立ち止まって考えろと言われたとおり、俺はただその場に停滞していた。この場の俺は単なる入院患者に過ぎず、この世界での俺はただの学生だった。
何の重責もない、保護される側の人間。
手に剣はなく、守るべきものも、仲間もいない。
また何もなくなってしまった。無感動にそう理解する。
だからこそ分かることもあった。
来瀬川教諭はどうしようもなく正しい。
人の為に自分が倒れたら元も子もない。もっと自分を大切にするべきだと彼女は伝えようとしてくれた。よく考えなくても当たり前のことだった。
生きていてよかった。病院で――人の生死に直結する場所で過ごしている人たちを見てようやくそう思った。
そして考えるまでもなく、俺は現界に戻る。
自分でなければできないことがあると自惚れているわけではなかった。剣技を破られ、カリエールさんに敗北した今の俺は、もはや元伝説の何某という虚飾ですら身に余る。自惚れるなどもってのほかだ。俺はただの高梨明人にすぎない。千年前そうだったように。千年前からそうだったように。
その上で、戻りたい。
戻らなければならないのではなく、戻りたい。関わってきたすべての人々を、関わっていくすべての人々を、理不尽や不条理からただ守りたい。
いつしか勘定から外してしまっていた自分のことさえも含めて。きっと、本当の意味で前に進むということはそういうことだったのだ。ひとりになって改めて自分と向き合い、開き直ったいま、素直にそう思うことができた。
そう決めたいま、来瀬川教諭が伏せているだろうもうひとつの事実にも、俺は向き合わないといけない。
彼女が見つけたのはシャツや財布だけではなかったはずなのだから。
ぬるくなった缶コーヒーを一気にあおり、オレンジを過ぎてブルーに染まりつつある空を再び仰ぐ。そこに霞んだ雲しかなくても、俺の目には答えが見え始めていた。




