44.アイボリーの寄る辺①
あるとき、すっと目が開いた。
どうにも不思議な感覚だった。外部から強烈な刺激があったわけでもなく、体内時計によって浅い眠りからゆっくり浮上した感じもしない。ごく自然に両の瞼が開いた。まるで滑らかな絹の布擦れのような澄んだ目覚めだった。
そこは白に近い、クリーム色の場所だった。冬であるはずが妙に暖かくて心地が良く、ぼんやりとした意識で推察するにはあの世。ないしは、それに近しい概念の場所ではないだろうかと一瞬、本気で錯覚した。それも目の焦点が合うまでの一瞬ではあったのだが、よくよく考えれば死後の俺が安らかな場所に招かれようはずもない。
次第に、壁と天井が像を結んだ。清潔感と温かみが同居したオフホワイトの壁紙。独特のビニル系質感を有している。おかげで、目線をずらして備え付けられた円形電灯を確認するまでもなく近代文明の気配を察することができた。
それから自分の居場所が異様に寝心地の良い、高度な工作技術で製造されただろうスプリング入りのベッドなのだと自覚したとき、遅まきながらひとつの答えが浮かび上がってくる。
異界。
しかし、部屋自体に見覚えはない。
やけに重い体を動かすことを厭い、首を回して視界の端に見える橙色の光源を向いた。艶消しのアルミサッシ窓が僅かに開いていて、穏やかな風と陽が差し込んでいる。揺らぐカーテンの透け影の角度から見て午後の四時過ぎだろうとは分かった。どうやら色彩がアイボリーに寄っている理由は壁紙のせいだけではないらしい。
ただ、当たり前ながらこの場所の正体までは分からなかった。
消去法で考えておぼろげな推測はたつのだが、微かな違和感があって確信にまでは至らない。どうにも思考にモヤがかかったような感覚もある。体も重い。明確な体調異常というよりは単に本調子ではない。そんな類の自己診断を下す。
いや。
最後の記憶が脳裏に蘇り、俺は――高梨明人は自身の存在に疑問を持った。
セントレア南門での敗北。あれは助かる見込みのない負け方だった。胴の中心を袈裟懸けに斬られたとはっきり覚えている。肺や心臓がある胴体を、時に音速を超える騎士の剣で正面から薙がれたのだ。その後の記憶は曖昧だったが、ほぼ即死だっただろうに違いない。
だというのに、負傷の感覚はなかった。ちら、と横たわる己の胴体。純白のシーツの下に収まる淡いブルーの患者衣に包まれた俺の体を見ても、何ら変わりない肌の色だけがある。傷はおろか傷跡もない。
――患者衣だ。
そう、俺は患者衣を着ていた。
「……病室か」
どうも頭の中で引っ掛かっていた違和感。消毒液の匂いがしないという一点で否定していた病院という候補が、実は正答であったらしい。
空調か空気清浄機か。どちらかの性能で保たれているだろう清浄な空気からは、病院はかくあるべきと思い込んでいた刺激臭が大部分取り除かれている。だいいち、窓が開いているのだから換気は十分だ。やはり本調子ではないらしい。
現状をおぼろげに把握しつつあっても、現実味がまるでなかった。
前後の状況がまったく繋がらない。現界の片田舎で死んだはずの自分が、異界の病院に居る。経緯に皆目見当がつかない。鈍い頭で考えても疑問符ばかりが浮かんでくる。
様々なものが不足しているような気がした。情報もそうだし、栄養も足らない気がする。怠いのは空腹のせいかもしれない――などと考えて、身を起こそうとした。
そうして、俺はまず左の腕に繋がった点滴のカテーテルに気付いた。目立った外傷もないのにオーバーな、などと煩わしく思って外そうと右手を動かそうとする。
そこでようやく、身体を苛む倦怠感とは別種の重みが右手にあることに気付いた。シーツの膨らみに隠れてしまっていたその重みは、しっかりと俺の手を握る誰かの手であり、もたれかかる誰かの体だった。その何者かは横たわる俺の腕に突っ伏しているようで、つややかなブラウン混じりの黒髪と頭頂部のつむじが見えた。
もしそれが往還者のうちの誰かであれば実感も沸こうものだったが、ヘアスタイルからして異界の気配を感じさせる。
妙な予感があった。
「来瀬川教諭」
俺が呼ぶや、見えていた頭頂部がフッと僅かに跳ねる。
二秒ほど静止した後、寝ぼけた様子のどんぐりを思わせる大きな両目がこちらを向いた。口許にはよだれの跡もあったが、彼女は眉根のあたりを掻きながら呟いた。
「……うあー……やだ、変な夢みた……おはよ、高梨くん……」
という言葉のような呻きのような声を発したものの、覚醒し切っていないらしい様子の来瀬川姫路は、しばし頭を上下させて舟を漕いでいた。
そののち唐突にくわっと目を開くや、居住まいを正そうとでもしたのか上半身を起こそうとし、
「わあっ!?」
自分が俺の手をしっかりと握っていることに思いあたったらしい。
りんごみたいな顔で弁明を開始した。
「こっ、これは違うんだよ!? 高梨くんから繋いできたんだよ!? 覚えてない!? 寝てたから覚えてないよね! だよねぇー!」
驚きたいのはこちらなのだが――来瀬川教諭の痴態を目の当たりにしても、どうも現実感がないので言葉が出てこない。
やはり俺はもう永遠に眠っていて、今はアイボリー色に染まった夢を見ているだけなのではないだろうか。
何処かそんなふうに考えてしまう。でなければ、目覚めて最初に出会う相手がこの女性なのはおかしいだろう。かつての高梨明人の願望を大いに反映した、脳が作り出すリアルな幻影を見せられているのではないだろうか。
だとすると、遠慮をするのもばかばかしい話だ。
俺は慌てる来瀬川教諭の手を離さなかった。だいいち、当の本人も慌てるばかりで自ら離そうとしないのだ。やがて彼女は自分の手が固まったままであることに気付き、自覚した様子で、徐々に落ち着きを取り戻して俺を見ているばかりになった。
胸が高鳴るような感情はお互いに存在しないはずで、それでも、ただただ安らぎを覚える時間が訪れた。
一方で俺は、そんな温かさと感触に、随分と都合の良い夢だなと自嘲もしている。
彼女が俺の手を取る可能性は皆無で、そもそも俺は此処ではない何処かで死んだのだ。再会など叶うはずがない。万に一つどころか億に一つにも有り得まい。あったとすれば、それこそ奇跡だ。
「起きぬけに申し訳ないんですけど、聞いてもらえませんか」
「……うん。なあに?」
どうせ夢なら素直になってもいいのかもしれない。
だから、彼女に伝えたかったことを口にした。
「俺、休学するより前のことをよく覚えてないんですよ。長い間ほかのことにばかり目を向けてて……あまり振り返らなかったせいかな。いつのまにか、色々なことを忘れたんです。先生のことも、自分のことも」
迂遠な言い回しだったが、十分に失礼な発言だっただろう。いくら夢でも幻滅されるか、呆れられるかのどちらかだと予想していた。
「うん」
それでも、夢の中の来瀬川教諭は俺のエゴイスティックな独白に、どこか納得したような顔で静かに相槌を打った。どのような思惟が巡らされたのかは明らかでない。ただ、握られた掌が促すように揺すられる。俺は苦く笑って、先を口にした。
「でも、先生に偶然会って……言ってもらえた言葉で、とても勇気づけられたし、思い出せもした。自分がどんな人間だったのか。少しだけ取り戻せた気がしたんです」
いつかの自分。千年前の高梨明人。彼はもう居ない。
歳をとらずとも俺は変わり、彼ではなくなった。違う何者かになってしまった。
それなのに、やはり分かることはある。
重なるものがある。俺達はやはり地続きだった。
「……あんがい普通のやつだったんだなって。そう悪くもないし、すごいやつでもない。気になる憧れのお姉さんにちょっかいを出すような、やっぱり、どこにでもいるやつだった。ただの子供だった」
来瀬川教諭は驚いたように目を瞠り、それから、微かな困惑の色を瞳によぎらせる。
言葉が過去形だからだろうか。だが、主旨はそこにはない。
俺は言う。
「だけど……それを思い出せたおかげで大事な時にちゃんと自分の言葉が言えました。だから、ありがとうございます、先生。本当に」
伝えるべきことではなく、伝えたかったこと。
純粋な感謝だった。
議場で俺が叫べたのは、紛れもなく、彼女の言葉のおかげだったのだから。
そんなものは来瀬川教諭にとって知る由もないことだろう。
それでも、伝えずにはいられなかった。この病室は、その為だけの夢なのだろうとさえ思えるほどに。
夢の中の子供先生は横たわる俺に視線を落としたまま、どこか落ち着かない――動揺した様子だったが、俺は既に満足していた。
かつての俺も満足したことだろう。成仏できる気がする。
だとして、このまま新たな目覚めを迎えるのか。あるいは、再び眠りに落ちればもう目覚めることもないのか。いずれにせよ、俺の未練で構成されていただろうこの夢は、じきに解けるのだろう。
そう思い、俺は満足のままに目を閉じる。
――だが。
いつまで経っても眠くならないし目が覚める気配もなかった。
しんと静まりきった病室に、来瀬川教諭の息遣いの音だけが聞こえる。いや、窓からのそよ風も心地よい音を奏でている。風が頬を撫でて、遠くから車の排気音が微かに聞こえた。夕立ちでも降っていたのか、雨の匂いも混じり――五感は、もはやあまりにも真に迫っていた。
夢?
本当にそうなのか?
まさかと思って目を開けても、見た目は中学生が良いところである子供先生の、大きくて印象的な瞳とばっちり目が合うだけだ。彼女はまだ動揺していた。
いまや俺も動揺していた。
「……先生」
「う、うん」
「そこに居るんですか、ひーちゃん先生」
「居るよ?」
マジかよ。
だんだんと脳が覚醒してくる。
眼球を動かして再度確認する。病室の壁面には真新しいテレビがあり、ソフトベージュの木目調の腰壁も色鮮やかで剥げが見当たらない。病院が儲かっているのか、単に新しいのか。部屋そのものの広さも十分でありながら病床はひとつ。複数人が利用する前提の大部屋の類ではないと思われた。個室だ。そんなばかな。俺はそんな待遇を受けるような特権階級ではないはずだ――
「高梨くん」
全力で無関係の観察を続ける挙動不審の俺に、来瀬川教諭は気まずそう、というよりは恥ずかしそうな微笑を浮かべていた。
俺は阿呆のように返事をするしかなかった。
「はい」
「えっと……寝ぼけてたのかな」
「そうですね」
肯定する。
それでこの話はおしまいの筈だった。
だが、子供先生は即座に追及の手を伸ばす。
「……って、それにしてはしっかり話してたよね!?」
「せめて逃げ道を用意してくれるのか追い詰めたいのかどちらかにしてくださいよ!」
逆上する俺に、ひーちゃん先生は口を尖らせる。
「だって……ね。うやむやにするのもちょっと違うかなあって……」
「待ってください。今のは……そういうんじゃないんですよ。純粋な感謝の気持ちというか……そう、よこしまな思いはないんです。一切」
「そうなの?」
「はい。当たり前じゃないですか。先生にそんな迷惑をかけるわけが……俺が先生に抱いている感情は恋とかそういうものじゃないんです。はい」
自分で言っといて相当に苦しい言い訳だった。色々な意味で苦しい。その苦しさの意味を深く考察するのは意識的に避けた。
「はあー!?」
「うわっ」
だが、聞くや否や、来瀬川教諭の顔は頬を膨らませて三倍ほどに膨張した。それはさすがに錯覚だったが、立腹は確かだった。繋いでいた手をぺいっと優しく放り出されてしまって俺は傷心する。
「ああ……そんな!」
「き、きみねえ、大人をからかっちゃいけませんよ! 本気かと思ってびっくりしたよ先生は!?」
「いやあ、概ね本気なんですけど」
「どっちなの!?」
ぼむん、となにか柔らかいものが投げつけられて俺の顔に直撃した。
どうやらそれは来瀬川教諭が持ち込んだらしい小ぶりの枕だった。泊まり込みだったのか。痛くもなんともないその感触に現実と彼女の優しさを実感しつつ、俺はやはり、苦く笑った。




