43.宵闇②
扉を開けると門番の少年が居たような気がして、サリッサはドアノブを掴んだまま、しばらくぼうっとしていた。
古びた民家の殺風景な表玄関には当然の如く、誰の姿もない。橙の魔力灯に照らされた廊下の奥にも、宵闇が溜まる階段の上にも、くたびれた少年の姿はない。ないのだろうと理解して、ようやく彼女は戸口を抜ける。
玄関を抜けて階段の上へ。
梯子を上って蓋を開け、頭だけをひょっこりと出して天井裏を覗く。
闇と埃に満ちた空間には、古家具や、やけに分厚いマットレスの輪郭だけがあった。
その上で、誰かが寝ているということはなかった。
あの少年がまたボロボロになって、もしかするとこんなところでこっそり休んでいるのかもしれないという期待は、ひどく簡単に潰えた。
次いで階下に降りて廊下の奥へ。
土間の上に水を張った巨大なブリキの缶が置いてある謎の小部屋や、ひどく殺風景な少年の私室を覗いてみても、黒髪の少年のやる気のない顔はどこにも見当たらない。
居たのはリコリスの飼い猫くらいだった。分かっているのかいないのか、サリッサの顔を見るなり「ナー」と一声鳴いて、机の上でとぐろを巻いて寝てしまった。
最後に、静まり返った寝室を覗き込む。
明かりの点っていない室内にも、やはり人の気配はなかった。木板の床を注視して見ても、地下室に続く蓋が外されたのかどうかなど、やはり分からなかった。
彼が、その奥に在る鉄扉に触れたのかどうかも。
門番の少年とミラベルが姿を消したことが分かるやいなや、サリッサとカタリナは勿論、門の存在を知るすべての人間が真っ先にそれを想像した。彼らが往還門を使用し、異界へと渡ったのではないかと。
しかし、それでは説明のつかないことがある。まず、世界間の移動は時点と時点の移動であること――仮に門番の少年とミラベルが何らかの事情で異界に移動したのだとしても、往路と復路は同日同時刻。つまり、他の人間達が気付いた時には既に戻って来ていなければおかしい。
だが実際には、湿気た地下室の何処にも彼らの姿はなかった。
そして、誰も門の向こうを確認できなかった。
往還門は、もはや誰が触れてもその機能を発揮することがなかったからだ。まるでずっと以前からそうだったかのように、それはただの錆びた鉄の板でしかなかった。
どれだけ強く叩いても、ただの朽ちた鉄の塊だった。
何度叩いても。
門番の少年と皇女はいったい何処へ消えたのか。
その答えを知る者は、もはやいない。
人ならざる遺物、永劫でさえ、未だ沈黙を保っている。
「だけど、他に考えようがないでしょ。今更あんたがくたばるわけないし。千年も生きといていきなりそれはないわ。そんなのばか過ぎじゃない」
サリッサは寝室に吹き溜まる宵闇に向けて笑う。
答える声はない。
「でもさ、よかったじゃん」
それでも、彼女は笑いかけておくことにした。
あの少年は門が閉じられることを望んでいた。
ずっと夢見ていたに違いない。
自身の戦いの終わりを。眠れる夜を。
だから、これでいいのだと思うことに決めていた。
「ふたりともそっちに居るんならさ……せいぜい、ふたりで仲良くやりなよ。こっちはこっちで何とかするからさ。そういえば、あんた学生だったんでしょ。学校にでも行って、ゆっくり寝て、ちゃんとご飯も食べて、元気でやってきなさいよ」
そうして、彼らはあの未知なる異世界で幸せに暮らしていく。
サリッサはそう信じることにした。二人がどこかで人知れず死んでしまったとするよりも、それは遥かに良い想像だった。もし本当にそうだったのなら、別に、自分がそこに居なくても寂しくなどはないと思えるほどに。たとえこの別離が永遠だとしても、きっと耐えられるのだと思えるほどにだ。
だから己に哀感も落涙も許さない。目に力を込めて後ろ手にドアを閉じる。
いつも眠そうにしていた少年へ、彼女は最後に微笑んだ。
「おつかれさま……おやすみ、タカナシ」
***
音がしない。
マリアージュはまな板に落としていた視線を上げ、窓から覗く宵闇の中に降りしきる白を見付けて納得した。いつの間にか日は暮れ、外で雪が降り始めていた。
ナイフを片手に背筋を立て、大きく伸びをした。野菜の皮むきにももう慣れたものだったが、慣れてくると今度は無暗なこだわりが生まれてくる。できるだけ薄く、それでいて一片も皮が残らぬよう芋の皮を剥く、などだ。
無心にそうしていると何かの極意が掴めるのではないだろうか――などと彼女は考えつき、既に二時間ほどそうして根菜を剥いていた。
しかし一向に極意を習得する気配がないので、切り上げて一息をつく。カップに門番の少年が残していった正体不明の褐色の粉末と粉糖をスプーンでドバドバ入れて湯を注ぎ、よくかき混ぜてからずずーっと啜った。
「うっ」
即座に、顔をしかめて粉糖をもっと足した。
「……やはり分からん。これのなにがおいしいのだ」
ここには居ない少年に抗議する。しながら、煮詰めたカラメルに似た味になった液体を啜りつつ、ぼんやりと窓ガラスの向こうを眺めた。
ふと、どことなく眠気が飛ぶような気がした。それは糖分とカフェインの作用だったが、皇女は知る由もなく、ただ単に納得をする。あの門番の少年がこの飲み物を愛飲していた理由の一端を察して、可笑しくなって少しだけ笑った。
「へー、お腹に穴が開いたにしては随分と元気そうじゃないの」
「ぬ?」
来訪を気配で悟っていたサリッサが、キッチンに現れるなり呆れ顔で言った。
「あんた座ってなさい。あとはあたしがやるわ」
「こんな塞げば塞がる程度の傷で大げさな……それに、もうだいたい終わってしまった。あとは鍋で煮るだけなのだ」
「ふうん? 献立は?」
「カレーだ」
またか、と口角を吊り上げるサリッサに、マリアージュは戸棚から長方形の紙の小箱を取り出して胸を張る。これも門番の少年が残していったもの。カレーのルウだった。
「このとおり、まだまだある。嫌というほど食べられるのだ」
「うわあ。勘弁してよ」
栄養を摂取する必要がないサリッサは趣味の意味でしか食事を摂らなくなっている。が、言葉とは裏腹に満更でもなさそうな様子で小箱を珍しげに眺め回していた。
随分と無理をしている。
マリアージュは目線の高さが変わらない友人をいじらしく思った。やはり少年の残していったものを自分ばかりが独占するのは間違いなのだろうと考える。
黎明。キッチンの壁に立てかけた少年の長剣も、今は己の剣を失ったマリアージュが預かっているものだ。
他にもある。
彼の残していった多くのものを、皇女は受け取っていた。
マリアージュは再び胸を張り、天を指して高らかに宣言をする。
「驚くがいい。保冷庫にはケーキもあるのだ」
「……は? ケーキ? この街に菓子店なんかないでしょ?」
「そうだ。しかしイチゴも乗っている」
「嘘でしょ!? この季節に!?」
驚くサリッサの声はほとんど悲鳴だった。
実は少年と自分で作ったものだと打ち明けたら、きっと更に驚くのだろう。そうだ、カタリナとリコリスにも披露してやろう。あのふたりもさぞ驚くに違いない――奇妙に気分が高揚したマリアージュはそのまま食事の支度を再開する。
そうしてあの少年の真似をして過ごしていると、不思議と彼に近付いた気がした。
むろん、人が急に成長をしたり変貌を遂げたりする例はごく稀だ。マリアージュはそう弁えている。ただ、たびたび大人ぶっていた彼の内面を、少しだけ理解できたような気がするのだ。
そのささやかな共感はこの皇女にとって救いだった。
もしかすると十年、二十年と歳を重ねれば、いつか自分も粉糖を入れなくても良くなるのかも知れない。そんな予感がした。
彼を彼たらしめていたものは、力でも千年でもなかった。誰でも持っているような、ありふれていて、あたりまえで、ささやかなこと。その全てだった。だから彼は、それらを大事そうに語っていたのだ。
そしてきっと、それは自分にも持ち得るものだ。
だから、彼方に遠ざかったまま消えてしまったあの背中にも、いつか。
いつかは追い付けるのかもしれない。マリアージュはそう思った。
それは、最愛の人達が去った、この壊れかけの世界の宵闇に。
この未だ小さな皇女が唯一見い出した、微かな希望だった。




