42.宵闇①
降臨節三日目の日暮れ。
翌々日になり、議場から始まった一連の戦闘被害の全容が明らかになった。
セントレア市街で発生した戦闘における死者は敵味方合わせて五十二名。行方不明者は二名。うち九天の騎士、水星天騎士団の被害は十二名に留まる。民間人の死傷者は無し。
襲撃側の皇国軍近衛師団、第二連隊五十名のうちおよそ半数が戦死。数名は敗走、残りは水星天騎士団の捕虜となった。
迅速な調査の結果、セントレアから山ふたつ超えたアズル領オーソムで近衛師団の活動痕跡が確認された。会合当日、近衛師団は飛行艦スキンファクシによってセントレアへ移動、上空から展開したものと思われる。なおオーソムの敵拠点は既に放棄されており、戦闘後のスキンファクシの行方は不明。
「こういうのも、双犬で調べているんですか?」
カタリナ・ルースは報告のメモに目を通し終えると、その紙片をエプロンドレスのポケットに突っ込み、赤い宝石細工のような異界の眼鏡を取って目頭を揉んだ。
ルースベーカリーの厨房。作業台を挟んだ向こう側に居るエプロン姿のバルトーは、パイ生地を折り畳みながら頷く。
「そんなところです。筆頭ならもっと効率的に情報を集められていると思いますが、さてさて今は何処におられるのやら」
「街には居ないようです。そのうち帰ってくると思いますが……」
「心配は無用でしょう。なにか無理をするならお嬢に一声をかけるでしょうし、単なる情報収集かと」
畳んだ生地を麺棒で伸ばしつつ、バルトーはカタリナの顔をさり気なく窺う。
しかし、眼鏡を掛け直した店主の少女は特に変わった様子を彼に見せなかった。
彼女は真新しいベージュのマフラーを首に巻き、簡単な身支度をする。
「少し出掛けます。続報があれば鳩で知らせてください」
「どちらへ?」
「殿下の様子を見てきます」
淡々と告げてカタリナはスイングドアを抜ける。
ドアの向こう、ベーカリーのカウンターで仏頂面のサリッサが待ち受けていた。
「あたしも行くわ」
「……はい。一緒に行きましょうか」
カタリナは微笑み、壁のハンガーに掛けていた赤いマフラーをサリッサの首に巻く。ぐるぐると巻き付けてから布地を整え、滑らかな長い黒髪をマフラーの外側へと出した。
「こうしていると殿下のお世話をしていた頃を思い出します。皇都の上層が大雪に見舞われたことがありまして。あの時の殿下のはしゃぎっぷりときたら……」
「へえ、上層って雪が降るんだ? ってそっか。そういや天井がないわね。下層と違って」
「でも、あそこまで積もったのは初めてだったかもしれません。皇都はこの街ほど冷えませんしね……はい、できました」
笑い、カタリナはサリッサの肩をぽんぽんと叩く。
たびたびカタリナの趣味による着せ替えの犠牲になっているサリッサだが、この赤いマフラーに限っては彼女の好みに合わせたものだった。
「……ありがとう、店長」
「いいえ。こちらこそ、あなたやクリストファにはあらためてお礼を言わないと。殿下を守ってくれてありがとう、サリッサ。あなたが居なかったらと思うとぞっとします」
「そんなこと……」
「ありますよ。殿下の恩人はわたくしの恩人です。本当にありがとう」
握手に加えてハグまでされてしまい、黒髪の少女は僅かばかり微笑んだ。
しかし、すぐに表情を曇らせる。
「なんにもできてないから。あたしなんて」
彼女のその呟きに込められた感情を、カタリナは察している。
サリッサの師と友人は深い爪痕を残していった。
「あなたの責任ではありません。もし誰かに責任があるとすれば、それはわたくしです。あのとき、強引にでもふたりに同行していればよかった。後悔は先に立ちませんね」
行方不明者は二名。
内々で秘されているものの、門番の少年と皇女ミラベルは忽然と姿を消した。
セントレア南門に大量の血痕を残して。
血は二人のもので、特に門番の少年の失血は致死量を遥かに超えていた。
カタリナは自身の目――権能でそれらの事実を確認した。
***
戦闘の爪痕は南の街区にも残っていたものの、民間人には被害が出なかったこともあり、セントレアの街は平時の穏やかさを取り戻していた。
破壊されてしまった家屋も殆どが空き家で、悩まされていた人口問題にかえって救われた形となった。よって騒動の前後で変化らしい変化はほぼない。
「あいつら、いつまで居るのかしら」
その数少ない変化のひとつを空に見上げ、サリッサは呆れ返った。
空に浮かんでいるのは群青色の飛行艦フリームファクシである。第一皇子が隠し持っていた切り札――という程のものではなく、万が一、第二皇子と事を構える羽目になった場合に備えて彼が抑えていた帰りのチケットである。
現在、マリアージュ以外の皇族は全員この二隻目の飛行艦に乗艦している。先の戦いを切り抜けた第一皇子、第三皇子、そして第七皇女だ。彼らに対する警備の都合上、艦は常に上空待機しているのだった。
「帰らないみたいです」
「え、なんで?」
「アーネストが持ち去った黒という魔法は、皇帝と馬車具の姫……つまり殿下に対しては使えないものなんです。逆に言えば、殿下の居るこの街以外で安全な場所は、皇都の上層くらいしかありません」
「なにそれ。ちびっこを傘にしようっての? 皇都に行けばいいのに」
「移動中も危険でしょうし、継承戦を放棄した現状、皇帝が恐ろしいのだと思います。あの戦いにマルト様が参戦したことも響いているのでしょうね」
「こっすい真似するわねー」
皇族に向けて露骨で端的な嫌悪感を示すサリッサだが、カタリナは困ったように微笑むばかりだった。
「確かに面倒というか、ちょっとアレな方々ではありますけれど、こちらとしても仲良くしておいて損はありませんから。機会があったら仲良くしてあげてください」
「……あたしも大概だけど、店長も相当よね。お偉いさんでしょ、あいつら」
「ですけど、こんな辺境じゃ身分なんてツリーの飾りみたいなものでしょう?」
言いながら、カタリナは街路を挟んですれ違う市井の婦人たちにひらひらと手を振る。彼女の家、ルース家も皇都トラスダンの中層に居を構える、立派な貴族のご令嬢だ。しかも、隠匿された皇家の血筋でもある。
サリッサは笑う。
「まあね」
「きっと穀類の相場の方がよほど重要ですわよ。知ってます? 少し前から急に上がり始めたんです」
「……それって前線に送ってるんじゃないの? 兵站の関係で」
「どうでしょうか。いまさら相場変動が起きるほど糧食が必要とは思えません。流通網の状態が最悪なので、単に供給が追い付いていないのかも」
「ふうん。お金の匂いがする話ね」
「やろうと思えば儲け話にもできますわ」
カタリナは飛行艦を指差す。
「あれで食料を輸送すればいいんです。馬を使うよりよほど速いですし、人件費とかモラルとか色々を無視すれば元手もかかりませんし」
「はー、ぼろ儲けじゃないの」
「ええ。飛行艦は冗談ですが、アズル領の破綻によって舵取りを失った北西部の都市は、じき各々の判断で似たような方針を打ち出すでしょう。そのうち競争になって、相場はしばらく上がり続けますわよ」
「うわー……」
ベーカリーを営むこの少女達にとって、穀類の相場価格は他人事ではない。とはいえ、語り尽さなければならないほど重要でもない。
あえて世間話を続けるのは、どう話しても暗くなる話題を互いに避けているからだ。身の振り方も含め、懸案事項は枚挙に暇がない。
姿を消した門番の少年と皇女ミラベルは、セントレアに形成されつつあった新たな勢力の主柱であった。継承戦を阻止する方針を打ち出し、成り行きと幸運に手伝われながらも、不可能と思われた目的をほぼ達成してみせた。だが、その両名ともを欠いた現状では、先頭に立って「この先」を示せる者が居ない。
「……なんだかんだ、あいつらって結構相性良かったんじゃないの」
「というと?」
「お姫様と騎士。騎士道物語じゃ定番でしょ」
「ふふ、どうでしょう。イメージが合わないですよ。全然」
「実務的な面で、よ」
影の皇女は苦く笑い、元騎士も白い歯を溢して笑う。
それでも、残された者たちだけで道筋を見い出さなくてはならない。
***
セントレア南門の詰め所。古民家を流用したという民家そのものの建物の前に、仮面を被った門番の少女が居た。
門番である彼女が詰め所に住み始めてからそれなりの日数が経っているというのに、カタリナもサリッサも、その新たなる門番の姿に違和感を覚えて複雑な表情を見せる。
門番、リコリスは手斧で薪を割っていた。
丸太の上に置いた薪に、こつこつとリズミカルな調子で刃を打ち込んで分割していく。色白の細い少女がそれをやっているのだから、どこか奇妙に映る光景ではあった。
当の方人はふたりに気付くやいなや、顔――宵の手前の時分にあってもなお白い、つるつるの仮面を上げた。
「おっ? どうしました、ご両人。今夜の宿をお探しで? でしたらお目が高い!」
「安宿みたいなノリで言わないでよ……」
「いやあ、今晩は皇女殿下手ずからの異国の料理が振る舞われますからね。お客人がたはラッキーですよ。私、今から楽しみで仕方がないんです」
「はいはい。あたしらは食べ慣れてるけどね」
人懐っこい調子で喋りながら手斧を片手に体を揺らすリコリスであったが、サリッサはすっかり白けた様子で詰め所へと入って行く。残されたカタリナはその背中を見送った後、揺らめく仮面の少女へと静かに問うた。
「以前、どこかでお会いしたことがありませんか」
「どうでしょう。なにぶん流れ者ですので」
「それでは、アキトとはどちらで知り合ったんですか」
「あれ、お話しませんでしたっけ? まあ、いずれお話しますよ。お食事の席ででも」
軽く受け流して薪を割るリコリス。
カタリナは溜息を吐いた。
「……いい加減、本当のことを教えてもらえませんか。彼はここには居ませんよ」
こつん、と澄んだ音を立てて薪が割られる。
リコリスは眼鏡の少女を一瞥し、割れた薪に視線を落とす。
「本当のこととは?」
「最初会った時からずっと気になっていました。私の目でも、あなたからは何も読み取れない。ただの人間にそんなことはできません」
「あはは。別に、私が妨害してるわけではないんですけどね。私にそんな力はありませんよ。本当にただの流れ者ですから」
一笑し、仮面の少女は己の仮面に触れる。
「このお面がそういうものなんです。私達は遺物と呼んでいました。もっとも、強力な道具という意味ではなく文字通りの遺物。何かの遺品です」
「往還者……なのですか?」
「そうですよ。ああ、まだ言ってませんでしたっけ」
仮面は首を傾げる。
「疑われるのも無理ない話ですが、あなたには一つしか嘘を吐いていません。私、人を騙すのがあまり好きではないんです。聞かれたらちゃんと答えますし、逃げたりもしません。聞かれてなければ話しませんけど」
「……私から見れば、疑わしいどころの騒ぎではないのですけれど」
「それはご自分の福音を呪って下さいとしか。とにかく、私もタカナシさんの行方は知りません。今度のことは私にもまだよく分からないんです」
「今度のこと?」
まるでそれ以外のことは知っている、と言わんばかりの口ぶりのリコリスに、カタリナは詰め寄る。しかし、仮面は首を振るばかりだった。
「剣聖と戦ってしまったのなら、もう亡くなってしまっているかもしれません」
「そんなことは分かっています……!」
身を乗り出し、カタリナはリコリスの肩を掴んだ。
細く華奢で、自分と似た体格だった。
「仮面の騎士がマルト様と争っているのを目撃した者達が居ます。だから、少なくともあなたが敵でないとは分かる。でも、それならどうしてあなたがアキトの行方を知らないんですか」
「勝てなかったからです。簡単でしょう」
答える仮面の奥の瞳が揺れる。
カタリナは息を詰め、俯き、手を離す。リコリスは左右で不揃いの薪を拾い上げると、肩をすくめ、微かに震えた声で呟いた。
「何もかも……すべてが思い通りになんてなりませんよ。少なくとも、神ならぬ私たちには」




