41.斯くて薄暮へと至る②
南平原を走るマリアージュは、遂に男の背を視界に捉える。
近衛の重騎士二名に支えられながら歩くその男、アーネスト・バッティ・ウッドランドは追いすがる皇女を定まらない目で振り返った。重傷の身でマリアージュの貪食の足枷を受けた彼は、もはや自力で立つことも叶わないほど衰弱している。
その彼が、まさかここまで逃げおおせるとは思わなかった。皇女は己の甘さに歯噛みをする。彼が他者に強いた苦難を思えば、己の信条を捨て置いてでも男を即座に殺すべきだった。己の力量で可能だったかは別としても。
「アーネストッ!」
激昂する皇女の怒声に、近衛の騎士達が振り返る。
容赦を捨てたマリアージュは、既に破壊の皇統魔法たる衰滅の角笛の詠唱を終えていた。騎士達が動く前に、集団に向けて掌をかざす。
貪食の足枷によって潤沢に供給された魔素の大半を動員して放たれた光線は、竜の息吹の如き極大の光線を成して騎士達に迫った。
「殿下を!」
アーネストを支える騎士の一人が叫び、その身を盾にした。
破壊魔法に対して堅牢な防御力を持つ甲冑が砂色に輝く。その輝きの性質を知る皇女は舌打ちをした。魔素の光に曝された騎士の盾が、そしてその鎧が、騎士の絶叫と共に次々と吹き飛ばされる。
それでも数秒、重騎士は確かに時間を稼いだ。皇女の放つ極大の光から、最後の近衛に支えられて遁走するアーネストを守り切った。その忠誠、その不屈が、すぐさま追走を再開する皇女を苛立たせた。
「この……大ばか者めらッ! 何を守っているのかわかっているのかッ!」
他ならない皇帝バフィラスから九鍵の存在を知らされているマリアージュには分かる。黒を始めとする一部の皇統魔法に仕掛けられた保護機構の効果は永久ではない。保護対象である馬車具の姫が離れれば、いずれ再び使用可能な状態になってしまう。
息の根を止めるつもりで放った衰滅の角笛を辛うじて生き延び、その場にくず折れる重騎士の傍らを駆け抜け、皇女は走る。
直後、死に体のアーネストを支えていた近衛が彼を突き放して反転した。剣を抜き、マリアージュを迎え撃たんと身構える。
「命じる! どけッ!」
「なりませぬ!」
「ならばよい!」
僅かの問答を終えるや、皇女は即座に抜剣する。
溢れる魔力を駆使して跳躍し、一息に近衛までの距離を詰めた。少なからぬ殺意をもって剣を打ち込み、受けた剣ごと重騎士の体を後方へ弾き退けんとする。
だが、近衛も手練れであった。
受けた剣の重みに圧されながらも、一歩も退かずに押し留まる。刃と刃が噛み合い、両者の魔力の干渉によって火花が散った。
埒が明かぬ。焦るマリアージュは身を翻した。王道たる正面からの攻めは捨て、門番の少年が度々そうするように、膨大な魔力を込めて騎士の膝に踵を叩き込む。
鈍い音と共に、朽ちた木枝を踏み抜いたような感触がした。更に、苦悶の声を上げて姿勢を崩す重騎士の兜へと鉄剣の柄頭を打ち込む。兜から砂色の魔力が散り、騎士がぐらりと揺れた。
しかし、倒れない。よろめき崩れた体勢からも、剣を持ち上げてまだ戦おうとする。死力を振り絞って剣を打ち込んでくる。足さばきも揃っていないというのに。
怒りのままに、マリアージュは敵の剣を打ち払った。
長く歪んだままであった彼女の粗末な鉄剣は遂に砕けた。それでも、刃を半分失った鉄剣で強引に鉄兜を殴り付け、騎士を漸く倒す。
もう障害は無い。
荒く息をしつつ、マリアージュは瀕死の男の姿を見ようとした。
しかし、息苦しさは増すばかりで訝しく、ふと見ると、己の腹から生えた剣の鍔と柄が見えた。
打倒した騎士の剣。格上の相手から強引にもぎ取った勝利の対価だった。気付かなかっただけで、冷えた刃が身体に潜り込んでいた。思い出したように灼けた激痛が走り、地に膝を付く。
死ぬような傷ではない。そう自分に言い聞かせて、皇女はそのまま立ち上がろうとする。しかし、痛みと消耗で咳き込むばかりだった。
涙が止まらなかった。
苦しみや痛みによってではなく、己の不甲斐なさに打ちのめされていた。
衰滅の角笛を生き延びた騎士が、とても動ける筈もない傷を負いながらも、背後から剣を持って迫って来ているのも気配で察していた。
外典福音の少女は言っていた。
戦って死ぬはいい、などと。納得できる、などと。
何一つ納得できることなどはなかった。
きっと、あの大楯の少女は強がっていただけなのだ。皇女はそう悟った。
叫ぶ。
滅茶苦茶に叫んで腕を振り回し、強引に魔素を動員した。
それが、偶然にも魔術の詠唱動作なるなどということは万にひとつも有り得ない。にもかかわらず、背後から迫っていた血塗れの騎士は見えない壁に弾き飛ばされるかのように凄まじい勢いで吹き飛んだ。殺してしまったかもしれなかった。
静まり返った原を、満身創痍のマリアージュは立ち上がる。
正しきを行えと、強く衝き動かされるままに歩を進める。それが果たして本当に自分の意思だったのかどうか、この少女にはもう分からない。
この世に生まれ落ちた瞬間からマリアージュは感じている。
世界には誤りが多い。
当たり前のことが当たり前ではなく、当然のことが当然ではない。
道理に合わない事象が横行している。
主に、人間の所業で。
そう聞こえる。声がするのだ。
人々の苦しみの声に混じり、それは聞こえる。
理に反している。
正さなくてはならないのだ、と。
大地を割るかのような轟音が響いた。
強引な着陸を果たさんとした飛行艦スキンファクシが、その途轍もない質量と慣性、そして灰色の船体で平原を抉りながら、地を滑って迫って来ていた。
艦は強引に第二皇子を拾う気なのだ。
朦朧としながらも、マリアージュは掌をかざす。たとえ使える魔素を総動員して衰滅の角笛を使っても、巨大な鉄の塊である飛行艦が相手では破壊はおろか、僅かに押し留めることもできない。
己の方へと滑走してくる飛行艦を捨て置き、マリアージュは魔力の探知を試みる。アーネスト。あの男を留め置くため。それだけを成せればいい。加減せず撃ち抜けば殺せる。その確信はあった。
だが――――見付からない。
隠形。アーネストは魔力の気配を完全に遮断していた。
有り得ない長射程から貪食の足枷を受けた彼は、或いは、魔力を抑えて微弱とすれば探知から逃れ得るかもしれないと学んでいたのだった。
飛行艦がもたらす嵐のような破壊を前にした僅かな時間で、微弱な魔素を広い平原から探すのは、この皇女には不可能だった。
当て推量で魔術を放っても結果は変わらない。
皇女は絶望に膝を折る。
途端、風が吹き荒んだ。
一度、二度。
迫り来る飛行艦スキンファクシの船首目掛けて放たれる不可視の鉄槌が、装甲に直撃して大鐘のような金属音を幾度も響かせた。
そしてマリアージュは信じ難いものを見る。大水が如き圧倒的な質量、飛行艦の進路が、僅かに変わる。その勢いを減じさせているのを、皇女は確かに見た。
魔術ではない。
剣技。
途切れかける意識で、マリアージュは一瞬、技を放つ人物の姿を門番の少年と見間違えた。その騎士は黒い外套を靡かせながら平野を疾走し、快癒したばかりの両の手で握り込んだ剣を振るっていた。
そして、ただ剣を振るうだけで破壊魔法に匹敵する威力の魔素の塊を撃ち出す。黒衣の騎士は不可視の鉄槌で、皇女に迫る艦の勢いを殺し続ける。
ベーカリーの騎士達、九天の騎士の一翼。剛剣の異名をとるクリストファである。走りながらも、目元まで伸びた髪で隠れた双眸で、彼はしっかりと皇女を捉えている。
撃ち込まれた剣技によって僅かに速度を遅滞させた飛行艦が皇女を押し潰す。
その寸前、クリストファは皇女を抱えて走り抜けていた。
背後を過ぎていく灰色の破壊を振り返ることなく、クリストファは抱えた皇女の傷を確認する。そして、怒りによって眉根を寄せた。
「……騎士殿……アーネストを……奴を止めねば…………」
うわ言のように声を発するマリアージュの顔色は蒼白である。
加えて、意を汲もうにも飛行艦は再び平原から飛び立って高度を上げようとしていた。この事実が意味するものはひとつである。この騎士に敵を空まで追う術はない。
「……」
クリストファは僅かに考え、結果として片手で剣を振るった。
最後に放たれた魔素の塊は、鋭く、空を裂く。そして飛行艦の後部に備えられた開閉扉を直撃して大きく歪ませた。
彼にできたのはそこまでだった。
無言の騎士クリストファは踵を返す。
彼は終始言葉を発することなく、気を失ったらしい皇女を抱えて、街へと走った。
***
クリストファの不愛想かつ一言の思念報告を受けた白衣の女は、自らも街路を走りながら指で弾いて伝声術の光球を消した。やや頑張り過ぎたようだったが、末の皇女が無事なら、この女としてはさほど悪い結果ではない。
残る関心事である門番の少年に関しては、もはや心配する方が馬鹿馬鹿しい。もしあの少年を殺せる人間が居るとすれば、それはもう人間とは言えない。バルトーや自分のような怪物、そして憐れな不死者たちをも優に超えた、桁違いの化け物だろう。喫煙と運動不足によって困難な呼吸でそんなことを考える。
「げっほ……ごほっ。あーくっそ、あたしゃ肉体労働は専門外なんだがね……!」
肺が酷く痛む。
自身の体を酷使するのは随分と久しぶりだった。彼女は長命の種だったが、怠慢によって衰えるものは衰える。双犬が使えればこんな苦労をせずとも済んだのだが、壊してしまったものは仕方がない。
裏路地をひた走ってその場を目指す。
新たなる外典福音。あの哀れな少女の棺も閉じてやらなくてはならない。霊体を繋げていたアウロラの喪失によって、白衣の女の魔力も大きく削がれている。伝声術による伝達網の維持すらできなかったが、やりようは他にもある。
バルトーに加勢をしなければならない。
「ひひっ、ようやく僕の出番かい、ドネット?」
そのやりようのひとつ、背後で隠匿している棺が少女の声を発した。
女は咽ながら虚空へと言葉を投げる。
「まだ静かにしてろ。お前の出番は人を払った後だ」
「やれやれ。また随分と回りくどい真似をさせるね。僕は不思議だよ。どうして君はいつも裏でコソコソしてるんだ。騎士らしくもない」
「あたしもお前も、とっくに騎士なんかじゃないだろうよ。あたしらみたいな怪物は人目を避けるもんさ。とっとと怪物らしい振る舞いを覚えな」
「そうだねえ……この蓋を開けてくれたら考えるよ……くひひっ」
棺はお伽噺に出てくる邪悪な妖精のような台詞を言う。
女は辟易して足を進めた。
怪物とは夜闇に紛れて動くものだ。
いたずらに本性を現してあの子供達を怖がらせてはならない。
ましてや、こんな昼間からなどと。
やがて女は目的の街路に出る。
その瞬間、鋭く息を飲み込んだ。
「……ああ……こりゃさすがに予想外だ」
街の一区画が破壊され、瓦礫の山になっていた。
破壊の中心には黒く焼け焦げた槍使いが居る。東洋の血を感じさせる黒の髪も相まって、女には黒い影のように見えた。
それでも、風で揺れる度に黒の隙間から肌の白が覗く。焼けたのは服だけで、本人はまったくの無傷らしかった。
白槍を手に寒空を見詰めるあの少女は、この破壊を齎した大楯の外典福音を仕留めることができなかったのだろうか。色のない表情からはなにも読み取ることができない。ただ、いつまで経ってもその場を動こうとはしなかった。
「取り越し苦労だった……ってわけでもないな。この有様じゃ」
街路に倒れているバルトーの無事も確認した女は、溜息を吐いて煙草を咥える。
やりきれない事ばかりが続く。
女が人間達の争いに口を出す筋合いはなかったが、本当にうんざりしていた。
白衣を脱ぎ、打ちひしがれているだろう少女のもとへと歩き出す。
気配を探るが、街のあちこちで起きていた戦闘も既に収まりつつある。
消耗が激しい今の彼女にはそれ以上のことは分からなかった。
しかし、飛行艦は去り、外典福音も去った。事態が収束したのは確かだった。
「一体なにやってんだ、坊や。こいつはあんたの仕事だろ」
女はぼやき、紫煙を吐いた。




