39.選択②
南の街区を半ばまで進んだ時だった。
急に、ドネットの伝声術の光球が消滅した。
断りなく術を解くとなると、それなりの急用なのだろう。彼女が何処に居て何をしているのかは不明だったが、彼女は戦闘要員ではないし、事情を知らない者が見ればただの医者、或いは学者だ。近衛との戦闘に巻き込まれた可能性は低い。
とはいえ、俺もドネットという人物について詳しいわけではないのだ。医術と学術と錬金術を修める謎の女。改めて考えると得体の知れなさはリコリスに匹敵する。
碌な報酬もないのに手を貸してもらっているだけ有難いというもので、おおよその指示を出し終えている現状、仮に彼女の助力がここまでであったとしても文句はまったくない。
「ミラベル、君ってたしかドネットのパトロンやってたんだよな。学者と聖職者っていったいどういう知り合いなんだ」
「え……ご存じなかったんですか」
隣を走る俺の問いに、皇女は目を瞬かせてきょとんとした顔する。そんな顔をされても俺としては「知ってるわけがないけど何で?」といったレベルである。もしかするとドネットも著名人なのだろうか。だとすると、こんな辺境によくもまあビッグネームばかりが出揃ったなぁ、などと自分を棚に上げて感心するところなのだが。
「まさか有名な学者先生だったりするのか」
「いえ、そういうわけでは。神学の研究をしていた頃に少し縁がありまして。ある種の権威ではありますが……そうですね。とてもマイナーな分野の研究をされている人なので、名が通っているわけではありませんよ」
「気を遣って濁さなくていい。知ってるよ。竜種の研究だろ」
「……はい、そうです」
苦虫を噛み潰したような顔をするミラベル。
「私、竜種についても調べていた時期があるんです。その頃に城に出入りしていた彼女の目に偶然留まってしまって、根掘り葉掘り……」
「ああ……」
幼いお姫様の手を取り、目をらんらんと輝かせながら巨大トカゲの話をする女医の姿がありありと想像できた。まさかそんな出会いで皇族を金づるにしたのか――ん?
「城!? あの人、皇都の上層に入れるのか!?」
皇都トラスダンの上層は皇族の居城や魔導院といった重要拠点が並ぶ、まさに聖域と言って良い場所である。普通、流れ者みたいなフィールドワークをやっている一介の学者が入れる場所ではないだろう。
「もちろん入れますよ。ルース卿やトビアスも入れるくらいですし……」
「……ちょっと待ってくれ、なんで比較対象が古参の騎士なんだ?」
「え、だって……ぬむっ」
嫌な予感もするので、立ち止まって話そうとするミラベルの唇を人差し指で塞いだ。
アイスブレイクはここまでらしい。
街路に堂々と立っている半裸で禿頭の巨漢を視認し、その姿を観察する。
九天の騎士の一人、ヴォルフガングである。彼は俺達の方を向いて腕組みをした。縄のような筋肉が絡み合い、見るからに暑苦しい。
「来たか、門番」
「なんだ、ヴォルフか」
彼の野太い声にも奇抜な容貌にも、もう慣れたものだ。
俺は緊張を解き、ミラベルの唇から指を離す。
「こんなとこでなにやってんだ、あんた。新手かと思ったぞ」
「議場内の警備をカタリナ様から仰せつかっていた。が、貴様が居れば近衛ごときの十や二十は問題になるまいよ。故に、俺は外の敵を蹴散らしていたのだ」
「ああ、なるほど……ご苦労様です」
身体を傾けて見やれば、ヴォルフガングの背後には近衛の重甲冑が中身入りでうず高く積み上がっていた。彼らも結構な手練れのはずなのだが、やはり九天にかかればこうなってしまう。他の九天、毒蛇やバルトー、アウロラ達も同じように自分の裁量で事態に対処しているのだろう。頼もしい限りだ。
「俺達は逃げたアーネストを追う。あんたはそのまま適当にやってくれ」
「ふん、言われるまでもない。が、その前に……ひとつ聞かせてくれ」
ヴォルフガングは組んだ両腕を静かに解く。
その所作に、俺は僅かな気配を感じて眉を寄せた。
戦意や敵意には満たないながら、ピリピリとした感情が巨漢から感じ取れる。
「何をだ」
「貴様は……竜種を倒せるのか。倒せないのか。どちらなのだ」
問う彼の目には迷いがあった。
議場内に居た、ということは会合での一連の話を聞いていたのだろう。その上でこうして俺達を呼び止める意味は、ひとつしかない。
「前も言ったろ。無理だ」
彼がどういう返答を期待しているのかはおおよそ察しはつく。
ついた上で、俺はそう答えた。
巨漢は落胆を隠さない。肩を落とし、目を伏せる。
彼を気の毒そうに窺うミラベルの方は、まったく見ようとしない。
顔向けができない。
当然だろう。
彼は僅かな望みをこの会話に賭けるしかなかった。
俺はらしくもなく消沈する巨漢の肩――は高かったので、二の腕あたりの筋肉を拳で軽く小突いた。筋肉の感触は出鱈目に硬い。俺は肉体作りに興味がないので想像でしかないが、相当の鍛錬の賜物なのだろう。
そんな立派な男が張った小さな賭けを、俺は言葉で切り裂く。
「でもまあ、やってみようと思う」
「……なに?」
「竜種退治になるかどうかも分からないが、この戦いが終わったら俺はロスペールに行くよ。何とかしなきゃいけない。そう思うから」
「それは……まことか?」
「ああ。だから、あんたももう、自分で納得できないような真似はしなくていい」
俺とミラベルがここで足を止めれば、或いは、アーネストは逃げ延びるかもしれない。そして彼はロスペールを焼き、竜種は倒される――かもしれない。そんな僅かな可能性。その為に、ヴォルフガングは俺に問いを放ったのだ。
もし仮にそうなったとしても、この男は苦しむ。そんな形で皇女アデリーヌの仇を討ったとしても。大勢の無関係の人間を代償に事を成したとしても。
誰の何の救いにもならず、何の慰めにもならず、ただ悲劇がばら撒かれるだけだと彼自身がよく分かっている。でなければ、ヴォルフガングは俺達に牙を剥いただろう。
「門番……お前……」
「いいから戦ってくれ、ヴォルフガング。こっちは俺に任せろ」
巨漢は歯を食いしばり、罪悪感を滲ませながら瞑目する。
そうしてようやく、彼はミラベルへ向き直って頭を垂れた。
「姫殿下……申し訳ございません。私は……浅ましい真似を……!」
「いいえ、構いません。私も、アデリーヌ姉様にはとても良くしてもらいましたから。偲ぶ気持ちは同じと信じます」
語るミラベルの声は優しく、それだけでもアデリーヌという女性の人柄が分かる。もし土星天騎士団が健在だったなら、継承戦が終息しつつある今、どれほど頼もしい味方になってくれただろうか。本当に残念でならない。
「……土星天を離れる私に、アデリーヌ様は命じました。殿下をお守りしろと。もしかすると、あの方は継承戦の真実を知っておられたのかもしれない」
ヴォルフガングは顔を上げ、今は亡き皇女を語る。アルビレオとの戦いで彼が身を挺してまでミラベルを守ったのは、そういう事情だったらしい。
思い返せば、ヴォルフガングは常にミラベルを支持していた。彼女寄りの立場を崩したことが一度もないのだ。一時、切り捨てられていた時期でさえも。
「本当にお優しい方でした」
アデリーヌの気遣いは時を超え、妹を守った。その事実に感じ入るものがあったのだろう。ミラベルは瞼を閉じ、小さく頷く。
そして目を開いた皇女は、怜悧な眼差しを取り戻していた。
「その命は解きます、ヴォルフガング・イージスペイン。以降は己が敵と定めた者と戦い、民と皇国の財産を守りなさい。自由に」
恐らく、それはミラベル自身が敵となる場合も含めた言葉なのだろう。
彼女が道を踏み外したら止めろ、という。
巨漢は面食らった様子だったが、すぐに強張った顔を綻ばせ、傅いて受命する。
だが、彼がミラベルと敵対することは恐らくないだろう。
彼女が道を誤ることは、もうない。もしあったとしても俺がさせない。
そうすると決めていた。
俺とミラベルはそのままヴォルフガングが仁王立ちする街路を走り抜け、南の街区の半分以上を踏破した。
約千年を過ごして勝手知ったる田舎街セントレアだが、現在は魑魅魍魎が跋扈する魔都と化している。どこから敵が現れてもおかしくないのだが、今のところ障害らしい障害には遭遇していない。
南下しているらしいアーネスト、それを追うマリーとサリッサにもだ。この事実から推測して、アーネストは全く足を止めていない。彼の狙いは完全な撤退であり、その為に飛行艦に乗り込む――艦を着陸させるに十分な空間が確保されている、セントレア南平原を目指しているのだろう。
艦から近衛師団の指揮を執って戦闘を継続しようとする可能性もあるが、あの深手ではやや無理がある。そんなハイリスクな賭けをするとも思えない。
だが、かといって降下している近衛師団を全員切り捨てて撤退するだろうか。
――するかもしれない。
そう思わせるほどの闇と前科が、あの皇子にはあった。
「いずれにせよ、スキンファクシに逃げ込まれると俺達にはもう手が出せなくなる」
「では、やはり行き先は南平原ですか」
思案からの唐突な呟きに、横を走るミラベルがもう見え始めている平原を睨む。
「だと思う。あの艦ってどれくらいの速さで着陸できるんだ?」
「私も詳しくは知りませんが……数分かと。あまり急な動きは無理だと思います。制御役の術者の腕前にも依るのでしょうが、十数人で機構を操作をしていると聞いたことがありますから」
「それは……普通に考えると、よほど息が合わない限りはスムーズに動かせないか。よくもまあそんな危うい代物で空を飛ぼうと思ったもんだ」
などと言ってから、乗った経験があったのだったと思い出す。
魔導院に突入した時も、セントレアに着陸した時も、着陸に要した時間はミラベルの言うとおり数分といったところだ。それが限界なのかが不明である以上、参考程度にしかならない。
とはいえ、走りながら空を仰いで見る飛行艦は、心なしか高度を落として南平原寄りに動いているように見える程度の変化しかなかった。
俺とミラベルが南平原に到達するまで、もう十分はかからない。
間に合う。先行しているだろうマリーとサリッサも考慮すると、ほぼ確実にアーネストの撤退を阻止できる。彼を捕えて火葬――黒を奪取し、破壊してしまえばひとまずは丸く収まる。
安堵に緩みかける気持ちを引き締めるべく、俺は自分の額を親指の背で小突く。
そんな間抜けな様子を見てか、ミラベルは小さく笑って訊ねた。
「ロスペールに行かれるんですか」
俺としては以前から決めていたことだったが、ミラベルは先程のヴォルフガングとのやり取りで初めて耳にしたからだろう。再確認するかのような問いだった。
「そうだな」
「おひとりで?」
「いや……」
急激に歯切れが悪くなった俺を、聡いミラベルが見逃すはずもない。
翡翠の瞳でジッと視線を向けてくる。
言うべきことを言えばいいのだろう。
しかし、俺の口は重い。感情と思考はデッドロックに陥りつつある。
全ては選べない。
「……実はケーキを焼いたんだ」
果たして、俺はどんな顔をしているのだろう。
やっとのことで絞り出したのは、そんな言葉だった。サプライズにするつもりだった存在をわざわざ暴露して、俺は必死で言葉を繋げる。
「だから、まあ……全部終わったら、詰め所に来てくれないか。一緒に食べよう」
もうガタガタの俺は、ミラベルがどんな顔をしてそれを聞いたのかを確かめる勇気もない。ただ走りながら、彼女の返答を待つ。
呆れられたか。それとも怒っているのか。いくら待てども訪れない返答に悪寒を覚え始めた時、俺とミラベルは詰め所の前を抜けて南平原を目前としていた。そして、
セントレア南門。
その前に立つ老婆の影を認めて、立ち止まる。
剣聖マルトは微笑みながら其処に立っていた。あたかも、立ち塞がるが如く。




