37.双犬
その男は、一度だって自分が英雄だなどと思ったことがない。
素直に、実直に生きていけば世界が明るくなると信じていた。
己の剣こそが未来を拓くのだと信じていた。
騎士として生まれ、騎士として生きていくことこそが全てだった。
戦場に出るまでは。
その槍で、敵を刺し貫くまでは確かにそうだった。
ただ皇国の敵であるというだけで、まるで無価値であると値付けをされたかのように蹂躙される命を見た。そこに疑問を差し挟まないでいられる人間などいないだろうと男は思う。男自身もその一人だった。
ただ、男は突出して優れた騎士であっただけ。余人にできないことができただけ。風のように駆け、異能を用いて敵を討った。討つことができたというだけ。
一を殺し、百を生かした。十を殺し、千を生かした。
多くを殺し、より多くを生かした。
もしも数字が逆であったなら。男は誰にも顧みられることもなく、ただ異端の思想を抱くだけの男として生きたのだろうと回顧する。
数字。数字だ。
数が彼を英雄にした。
なら利益が損失を確実に上回ればいいのだ。
戦術という計算のもとで得られる戦果が、犠牲よりも大きければいい。
それを繰り返せばいつか、
遠い未来、積み上がった利益が人々を幸福にしているはずだ。
そう、疑問を抱く己に言い訳をした。
でなければ生きられなかった。
殺めた貴人の少年の眼差しが、脳裏にこびり付いて離れなかった。
切り捨てた損失が彼を苛み続けていた。
戦が終わってなお。
数字。数字だ。
数字で損失を補填できればどれだけいいだろうと男は思った。
平穏を取り戻した自治領で、男は人知れず商いを始めた。
最初は上手くいかなかったが、徐々に金が集まった。集まった金で更に商売をした。商売を広げ、十分な基礎を築いてから戦災で憂き目にあった者達へ譲った。罪滅ぼしを気取った。喜ばれはしたが、切り捨てた損失は金では戻らなかった。
数字。数字だ。
なぜ命は金で買えないのか。
皇都に戻って剣を振るった。結局、男は浅ましい騎士だった。
刃は変わらず命を奪い、金は変わらず人の腹を満たすだけ。
それでも、利益は人を幸せにするのだとまだ信じたかった。
数字で全てを救えればいいと男は思った。
金が命を買えればいいと男は願った。
もしも神が居たとして、なぜそのように世界を作らなかったのかが不思議でならなかった。取り返しのつくものだけで世界が満ちていれば、それはきっと優しい世界だったに違いないのだと男は祈った。
金が全てなら良かった。
数字が世界を作っていれば良かった。
金が全てだと信じたかった。本当にそうあって欲しいと男は願う。
双犬、バルトーという男はそういう騎士だった。
■■■
勝てない。
どう計算しても収支が合わないとバルトーは結論を出す。
大楯を自在に操る外典福音、おそらくは皇帝の手の者だろう少女に突撃槍を向けながらも、彼は限界だった。
不意を打たれたことを差し引いても、幾十もの騎士の霊体を取り込んでいると聞く恐るべき不死者、外典福音は、かつてバルトーや彼と同格の騎士達を一蹴した門番の少年ですら激戦の末に辛うじて勝利を掴めるかどうか、という脅威である。敵、という表現は妥当ではない。もはや災厄だ。
左腕は折れている。肘の上、上腕骨の下部だ。
役に立たない左手から死重と化した鉄盾を捨てる。兜も脱ぎ捨てて僅かばかり身軽になった。淡紫の炎の向こうで嗤う不死者を、溜息交じりにぼんやり眺めた。
「また子供ですか……また」
莫大な魔力を振るう大楯の少女は、まだ末の皇女と同じ年頃に見えた。
まさか死人だとは。
自嘲と共に事実を噛み締める。
死者が生者のように歩き回っているという、この世の終わりの如き現実。かつて死を金で贖おうとした男は、ある種の救済ともとれるその現実を否定する。
死んだ騎士の集合体。忌むべき人造の福音。
あれは救済ではなく負債である。撒かれた死を拾い集めて鋳型に詰めた、人型の死。死を知り、知るが故に死を撒く。存在そのものが負の数だ。
それでも、彼の槍は空を切った。
穿てた筈の厄災を穿つことはなかった。
千載一遇であった筈の機会を、彼はみすみす逃した。
いつかの損失が、少女の形をした厄災と重なってしまった。埋められない借金が、巡り巡って遂に取り立てにやって来たのだと錯覚してしまった。そんな道理がある筈もないと分かっていても。
かつて、末の皇女を殺せと命じられたバルトーは従うふりをしてこの辺境の地へとやってきた。表面上は主命に忠実な騎士を装ってはいたが、遠くから末の皇女を見た瞬間にやはり無理だと諦めてしまった。
従わなければ全てを失うと分かっていても、切った張ったの先に何の利益があるのだろうとやはり疑問に思った。王を決める戦いが重要でないとも思わなかったが、だからといって、故郷である皇都から遠く離れたこの田舎町で、土埃に塗れても健やかに笑っているだけの少女を斬るほどの意味は、ついぞ見い出せなかった。
そうして、バルトーは門番の少年に敗北した。手を抜いていたのは確かだったが、たとえ全力であったとしても一太刀浴びせることすら叶わなかっただろうとバルトーは思い返す。
門番は虚ろな少年、あるいは青年であった。年寄りにも見えた。人でない何かが人だった頃の記憶だけで辛うじて動いているような、なにか途轍もなく危ういものだった。
同様の洞を抱えたバルトーにはその片鱗が分かる。違うのは負債の金額だけだ。彼の負った借金は、おそらく、人の身にあっては認識することすら危うい。
英雄とはああいうものを言うのだ。全て背負ってなお前に進む、救い難きものを。
深呼吸をする。
そうして、考えを纏めた。
逃げるか。英雄たり得ないバルトーはそう考える。
勇猛果敢だった騎士はもう居ない。
収支が合わないなら撤退する以外に何があろうか。惜しい命ではなかったが、まだ負債を返していないバルトーには死など許されてはいないし、傷付くような誇りだの名誉だのは最初から存在しない。それに、自分なくして誰が店の帳簿を付けるのか。
『……全力でやれって言ったろ。何やってんだ』
不意にアウロラの声が届き、バルトーは顔をしかめた。大楯の少女の魔力攻撃で押し潰され、爆散させられたはずの女は変わらない調子で声だけで在った。
「やっても無駄だったでしょう。あれはとても倒せるものじゃない」
『時間くらい稼げるだろうさ。ったく、おかげさまでアウロラはもう駄目だな。可哀想な九天騎士アウロラさんは戦死だよ。どうしてくれる』
「渋々貸していたものなんですから文句を言われる筋合いはありませんよ。直すにしたって粘土を捏ねるのとは訳が違う。双犬はこちらで元の形に修復します。あなたは、そろそろご自分で体を張ってくれませんか」
『あん? 退かないのか?』
「そうしようかとも思いましたが、状況が変わりました。見えているでしょう」
アウロラの声が沈黙する。
鎧を鳴らして突撃槍を構え直すバルトーの視線は、裏路地から現れた新たな人影達――二人の少女に注がれている。
末の皇女マリアージュと、同僚の槍使いサリッサである。
なんと間が悪いことか。バルトーは心中で頭を抱えている。最悪と言って良い場面とタイミングで彼女達は現れてしまった。
『こりゃ不味い――』
慌てて途切れるアウロラの声にまたも溜息を吐き、バルトーは向き直る。
外典福音は闖入者である二人の少女を見ていた。踏み付けていたアウロラの死体から足を下ろして一歩踏み出す。
ああ、とバルトーは口内で呟く。大楯の少女は愉快そうな笑顔から一転、白地の磁器の如き無味な表情へと変わっている。現れた少女達、特にサリッサを見止めて。その貌は、その変化は、狂人の類のそれではない。
ああ、あの娘は正気なのだ。
怪物などではないのだ。
そうと気付き、バルトーは唇をきつく閉じる。
どこまで酷な世界なのか、と。言葉にならない罵倒で得物を強く握り締めた。
「アニエス」
静かに歩みを進めてきた黒髪の少女が音を放った。
音は抑揚のない呼びかけであった。それは彼女がこの場を視認した時の驚きの表情からすれば、ひどく不自然に聞こえる音であった。
「よう。こっち来たのか。大人しく議場に居てくれりゃ良かったのにな」
アニエスと呼ばれた大楯の少女が言葉でだけ気軽に返事をした。
だが盾を下げることも、歩みを止めることもない。
対するサリッサは、バルトーが一度たりとも見たことがない表情――まるで幼子のように、くしゃくしゃに顔を歪めていた。
バルトーの知る限り、この俊英たる若き槍使いがそんな顔をしたことはない。今の彼女が何らかの災難によって幼く縮んでいることを差し引いても、これほど弱い娘ではないと思っていた。
バルトーはおおよその経緯を察する。
おそらく、アニエスという名の外典福音はサリッサと知己の関係だったのだろう。だからこそ遠く、距離を置いた。戦いが始まってしまえばどのような形であれ、ああいうものに成り果てた己の姿を晒すことになるからだ。
或いは、サリッサもそれは承知していたのか。孤独な男であるバルトーには窺い知れないことだったが、友とはそういうものだったかもしれない。
そして、やはり、黒髪の槍使いは弱い娘ではなかった。
炎の中に頽れている人影に深紅の瞳を向け、強く瞼を閉じてから、問うのだ。
「……バルトー」
男は迷わず応える。
「知りませんね」
「なら周りの死体は? アンタがやったの?」
「そんなわけないでしょう」
彼は保護者でも庇護者でもない。
もし何かの感情があるとすれば、それは仲間意識だけだ。思いやりなどは抱くべきではないのだと弁えている。同格の者に対してそんなものを抱くのは失礼だろう。
バルトーはサリッサの保護者ではない。同僚だ。
故に、返答も事実だけを選んだ。その答えが彼女達の訣別に繋がると察していても。
「そう。わかった」
頷き、サリッサは透き通るような白の長槍で敵を指す。
「行き当っちゃったら……だったら、もう放ってはおけない。こんなことは嫌だけど……でも、それよりもっと嫌なことだって沢山あるから」
対する大楯の少女は、仄暗い落胆の色を見せた。それはほんの一瞬に過ぎず、サリッサは気付かずバルトーは気付いていて触れなかった。
「ハッ……ご立派だぜ。せっかく猊下が誘って下さったってのによ。師匠の言うことは聞いとくもんだぜ」
「悪いけど、願い下げよ。視準器だか何だか知らないけど、あたしがウッドランドの為に働くわけがない。あんただって……あんたはウッドランドに……」
「だから何だよ。言っとくが、あたしは自分が憐れだなんて思っちゃいねえ。戦って負けるのは手前の責任だ。手前の力が及ばねえのは誰のせいにもできねえ。戦るってのはそういうコトだろ」
温度のない唇で少女は言う。
「手前はさんざ殺っておいて、自分だけは殺られねえとでも? そりゃさすがにおめでてえ話だろ。敵なら良いのか? 異端者なら良いのか? 害獣なら良いのか? お題目があれば良いのか? 何の違いがある。いったい何の違いがある。要するに、だ。戦うってのは、我を通すために他を思いっきり否定してやるってコトだろ。殴りつけて、殴りつけて、動かなくなるまで殴りつけて、黙ってろ。永遠にな……ってよ。理不尽だろ」
負の数は暴力を語る。
「そんな理不尽はな、許されることじゃねえんだよ。最初っから。誰も彼も一切合切。武器持って相手をぶっ殺してやるなんて思った時から。お澄ましした騎士様も。キーキーうるせえ新兵も。どいつもこいつも全員クソなんだよ。戦るってのはそういうコトなんだよ。だって……だって」
大楯の少女は虚空を見ていた。
泣き笑いのような顔で、言う。
「死ぬってことが、あんなに何もないとは知らなかったんだ」
呪いになる光景がある。
人を、致命的なまでに蝕む言葉と表情というものは、ある。実在する。
バルトーには理解できる。
青白い顔で戦慄くサリッサの耳を、聞かせてしまう前にどうにか塞いでおけば良かったのだと後悔した。もう、この娘は戦えない。アテにしていたわけではなかったが、言いようのない寂然とした思いが胸を過ぎる。
「お嬢さん」
だからこそ、バルトーは大人である自分が静寂を優しく割った。
突撃槍を下げ、武器を挟んで向かい合う少女達に告げる。
「私は下衆です」
死人は眉を寄せ、唐突な独白をした男を見た。
「はっきり言って殺人鬼です。頑張って人間の真似事をしている怪物です。だからね。お嬢さんの語る死というものは、正直、とっくに見飽きているんですよ。随分と積み上げたものです。なので、御託はもう結構ですよ」
「……へえ?」
「いいからもう、かかってきなさい。子供の駄々を窘めるのは、やはり大人の役割だ」
痛む左手を強引に動かして手招きをして見せる。
安い挑発。安いアピール。
実際にはもう、左腕は使い物にならない。
「正気かよ。あんたとあたし達じゃ虐殺だぜ」
「そんなことを言ってしまうあたりが子供なんですよ。お嬢さん、私がどうして双犬などと仰々しく呼ばれているか、分かりますか」
「知らねえよ。片割れが死んだから、今はただの犬か」
「いやいや、違いますよ」
バルトーは気楽に笑って訂正をする。
「私が双犬なんです。私達ではなく。さっきも言いましたが私は怪物です。あなた程度の小娘が暴力を語るなど、片腹が痛いというもの」
「おまえ、何言って……」
訝る大楯の少女の背後、人影がある。
無音で近寄った甲冑の男の影。
「……ッ!?」
気取って振り返った直後、アニエスは横凪ぎに振るわれた突撃槍の直撃を受けた。骨を破砕する音が耳に届き、バルトーは心を痛める。
いや、真に心を痛めている人間がこのような真似ができる筈もないのだろう。
思い直しながら、バルトーは背後からの奇襲を行った男――己と全く同じ姿、全く同じ造形のもう一人のバルトーと共に、石畳を吹き飛んでいく外典福音へと恭しいお辞儀をした。
「はじめまして、お嬢さんがた。双犬のバルトーと申します」
驚愕のまま転がり、しかしすぐに体勢を立て直したアニエス。そして、驚きに声も出ない様子のサリッサへと、二人のバルトーはそれぞれ向き直る。
「は、いや……え? どう……なってんの、それ?」
「ああ。そういえば、サリッサにも見せたことがありませんでしたね。まあ、気軽に見せびらかすようなものでもないんですが」
目を瞬かせて二人の男を見比べるサリッサだったが、無意味な行動だ。
バルトー達は折れた左腕すらも完全に同一であった。
触れても同じ。どちらも同じ意識を共有し、同じ性能の肉を持つ、同じ人間である。
「げ……幻術の類、でもない。貴公、本当に妖怪なのか?」
今の今まで一言も発さずに居た末の皇女が目を丸くして問いを投げてくる。
できれば目立たず、そのまま最後まで喋らずいて欲しかったのだが、先刻までの外典福音の怨嗟すら腕組みをして神妙な顔で清聴していたのだから恐れ入る。バルトーは苦笑いで答えた。
「ただの人間ですよ。分裂するのが特技なだけの」
「それで納得する者はおるまいよ」
「と言われましても、今ご説明できるのはそれが全てです」
端的に答え、バルトー達はそれぞれに突撃槍を構えてアニエスと対峙する。彼女は鬱陶しそうに向けられる一対の槍を睨め付けた。
「チッ……どういう仕掛けだ……めんどくせぇな……」
軍服を改造したと思しきワンピースは肩から破れ、右の腕はだらりと下がる。
が、そもそも不死者であるこの少女がその程度の傷で倒れる筈もない。
双犬。
魔素から自己の完全な複製を造り出す、特異体質。
これは魔術ではない。故に、理論は存在しない。
それが自然な生態であるが如く、バルトーは自在に己の分身を精製する。
これは、この男ただ一人が生まれ持った固有の異能である。単一の意識下において完全な連携を実現する二個の騎士。この異能は戦闘において絶大な威力を発揮する。
一よりも二が強い。絶対に。明朗な理屈だ。
しかし、彼は自治領の叛乱を鎮圧して以降、この異能にある意味での封印、或いは擬装を施していた。
分身などと、平時においてはただの異様。怪物の生態でしかない。技や術であればともかく、世界にも彼にしかない体質なのであれば、それはやはり恐怖の対象なのだと自覚していた。門番の少年への共感は、ここにもある。
負債を背負い、力を持たされ、それでも何も成せず、ただ生きていくだけの苦悩。
さぞ生き辛かろうと理解できる。
力も負債も、生を縛る。その重みで歪んでしまう。
生きていたくなど、なくなる。
「とはいえ……やはり勝てませんね。私では」
どう計算しても収支が合わないとバルトーは結論を出す。
長く秘匿していた双犬を使ってさえ。
数字。数字だ。
再び二対一に見えるこの構図でも。
或いは、末の皇女と槍使いを数に加えて四対一だとしても。
その実、
大楯の少女の内側に、いったい何人が蠢いているのかバルトーには読み取れない。
偽装していた双犬の死に際に受けた攻撃の威力から、少なくとも十や二十ではあるまいと想像するのがやっとだった。怪物としての格が違う。
大楯の少女はそういうものに成り果てたのだ。人間のまま。
深呼吸をする。
そうして、考えを纏めた。
逃げるか。英雄たり得ないバルトーは再び考える。
勇猛果敢だった騎士はもう居ない。
収支が合わないなら撤退する以外に何があろうか。
自分なくして誰が店の帳簿を付けるのか。誰が、あの店の。
その時、ふと、店主の顔が頭を過ぎった。
背に負った少女達のことを考え、自然と足が前を向いた。
自分でも不思議な行動だった。
ああ、そうなのか――男は初めて納得をする。
門番の少年が何故ああまで懸命だったのかを真に理解する。
要するに、彼が負っていたのは負債だけではなかったのだ。
だから強く、だから自分達は負けたのだ。負しか背負わず、前を向かなかった自分達は敗北したのだ。精神論などではなく、数字で負けたのだ。
だったら、やってみるのも悪くはないのだろう。
彼がそうしたように。もう一度。
一銭にもならない戦いなれど。
己にできるかできぬか、そんな小賢しい計算もさて置いて。
ただ守るため、手負いの双犬は炎を走る。




