18.侍女と雨④
俺は雨水と泥に塗れたレザーコートを脱ぎ捨て、ぬかるみから膝を引き抜いた。
日は沈み、悪天候に加えてボコボコに殴られたせいもあり、視界は非常に悪い。ぼんやりと像を結ぶ人影がまだ立っていることを認識した俺は、鉛のように重い両手を持ち上げて拳を固める。繰り出す力は、もう身体のどこにも残っていない。
だが、ジャン・ルースもまた満身創痍だ。
体術において俺の二段は上を行く彼だが、致命傷に近い傷を負っている身では本領には程遠い。むしろ、彼がここまで立ち続けていることは驚嘆に値する。
何発殴り、何発殴られたか定かではない。互いに一歩も譲らず、ただひたすらにお互いを叩きのめそうと躍起だった。
そうだ。
この男は、俺の手で打ち倒さなければ気が済まない。
「おう……こいよ、糞野郎」
切れた唇を動かすと、鉄の味がした。ここまで叩きのめされたのは久しぶりだ。
一歩を踏み込む力すら残っていない俺は、膝を笑わせながら手招きをした。
「さっさとかかってこい。こねえなら、こっちから行くぞ」
「見え透いた誘いだな」
言葉とは裏腹に、騎士はひどく緩慢な足取りで一歩一歩近寄ってくる。
他に選択肢はない。
もう彼にも余力は残されていない。負傷による消耗もある。あまり時間が残されていないはずだ。罠だと分かっていても正面から仕掛けざるを得ない。
「なんでそこまでするんだ。騎士の矜持か」
「……違う。貴様には分からん」
足を引き摺るような一歩を踏みしめ、騎士は言う。
「この国は狂っている」
凄惨な笑みを浮かべ、言うのだ。
「俺はこの国に生まれ、この国の王に剣を捧げた。大陸最大の皇国に君臨する絶対の王にだ。そして命じられるまま諸国を巡り、知った。この国がどれだけ異常なのかを」
ウッドランドは、そのルーツとなった帝国の時代から相も変わらず、大陸の統一を目指して領地の拡大を続けている。隣国のアイオリス、イオニア都市同盟、ドーリアを相手取って戦っている七年戦争も、この国是の一環だ。
決して小国ではない三国を相手にしながらも、ウッドランドは揺るがない。それどころか優位に立っている。この千年近い歴史の中でそうであったように、恐らく今回も皇国は勝利を迎えるだろう。
多くの屍の上に築かれる勝利だ。
そしてまた、次の領土を見定めて戦争を始める。そんな国は、他国の人間から見れば悪夢でしかない。ジャン・ルースが国の外で何を見たのかは分からないが、同じものを見たいとは俺は思わない。
「その王が死ぬ」
俺は息を止めた。
「ウッドランドという悪魔の機械を操っていた魔王が、ようやく滅びる時がきたのだ。一介の門番には分かるまい。これが一体どれだけの価値を持つ好機なのかが」
「……あんたの目的は、帝政の打倒なのか?」
「俺はそこまで夢想家ではない。この国が瓦解すれば、皇国が押さえている北の魔族どもは勢力を取り戻し、皇国が併合してきたかつての国々は蜂起する。戦争などとは比較にならない災禍が生まれるだろう」
俺の知る限りの事実を照らし合わせても、騎士の言う地獄絵図に間違いはない。
今、皇国が倒れれば、比喩でなくこの世界は滅びる。
「皇国には新しい王が必要だ。国を正しく導く王が必要なのだ」
騎士が吐露したものは、紛れもなく信念と呼べるものだった。
「皇帝は継承戦を勝ち抜いた皇族に帝位を継がせると嘯くが、実質的な後継者――操り人形はもう決まっている。奴は自分の選んだ後継者以外を片付ける腹積もりで、継承戦などというお遊びをでっち上げたに過ぎん」
ウッドランド帝の意図を挫くため、信頼の置ける人物を継承戦で勝ち抜かせる。
そして、何百年も戦争を続けているこの国を正す。
「それがあんたの理由か」
きっと、それしかなかったのだ。
彼ほどの騎士をして「魔王」と言わしめる皇帝を出し抜くには、恐らく、そんな手段しかなかったのだろう。実の娘を敵に回してでさえ。
ジャン・ルースは懊悩の色を濃く残した顔を更に歪め、雨を腕で払った。
「それを貴様が、何も分からぬ門番如きが邪魔立てをするとはな」
怒気を多分に含んだ声を聞きながら、俺は逆に頭が冷えていくのを感じていた。
怒りが過ぎ去ったわけでは、決してない。
「あんたの言う通りだ」
「何?」
「御託に意味なんてない」
俺は、これ以上ないほど腹が立って仕方がなかった。
「あんたは何で律儀に敵の決めたお遊びに付き合ってるんだ。馬鹿なのか。相手が間違ってるだろう。皇帝と戦えよ」
「浅慮なことを。それができれば……」
「やってるって? おいおい、よしてくれ、筆頭さん。あんた強いよ。今まで戦ってきた何千何万の中でも屈指だ。できない訳ないだろ」
俺は拳を解き、脱力した。
ジャンが殴りかかって来るところに合わせてカウンターを入れる作戦だったのだが、もうそんな気はさらさらなくなった。
「勝てない戦いは避ける。逃げも隠れもする。ねちっこく弱点を見定めもするし、周到な作戦も練る。あんたの強さの根幹は、小手先の技なんかじゃない。信念からくる徹底した合理主義だ。そんな強くてタフな男が、怖い王様から裸足で逃げ出した挙句、いちいち小奇麗な理屈をこねて、いたいけなお姫様をぶっ殺そうとしてる」
「それがどうした」
「かっこ悪いんだよ」
俺は苛立ちのあまり、ガリガリと頭を掻く。
「あんたさ、最高にかっこ悪いんだよ。騎士ってもっとこう……違うだろ。お姫様のピンチとかに馬に乗って颯爽とやって来たりするもんだろ。剣でばったばった悪い奴を倒してさ……そんで、お姫様と恋仲になったりするんだ。ああ、畜生。かっこいいな。くそ」
言いながら、心底そう思う。
そんな絵に描いたような騎士は、残念ながらここには居ない。
ここに居るのは、泥まみれのガキと、ただの弱い男だけだ。
「ところが、あんたは何だ。あんたが騎士だと? ふざけるな。俺は認めない」
「貴様は何を……そんなものは、愚かな子供の夢想に過ぎん」
唖然とするジャンに、そこらの泥濘に転がっていたブロードソードを投げる。
彼はその柄を、僅かに戸惑いながらも器用に宙で取った。
「あんたの言う通り、子供の夢だ。夢から覚め切れなかった、馬鹿な子供だ」
俺は泥の中から折れた長剣を蹴り上げて取り、そのまま初老の騎士へ投げる。
飛来した長剣を、ジャンは剣で弾いた。
その動きはひどく緩慢だ。
もはや身体強化すら覚束ない両手に、ブロードソードは重過ぎる。
ジャンはそこで俺の意図に気付き、即座に剣を手放す。
だが、遅い。
「その馬鹿な子供には、あんたをどうしても許せない理由がある!」
俺は剣に振り回されて死に体となった男の前に滑り込み、身を翻して加速させた拳で男の顎を突き上げた。
くぐもった短い悲鳴と共に、男の頭が凄まじい勢いで打ち上げられ、背中から倒れ込む。
そのまま、泥の上で動かなくなった。
俺は肩で息をしながら、ようやく一発くれてやった男を見下ろして言う。
「カタリナはな、あんたを撃った時、俺が見たことのないような顔をしてたんだ。してたんだよ、そんな顔を。眉ひとつ動かさないなんて、そんなことあるわけないだろ」
俺ももう本当に限界で、泥に突っ込むような形でその場にへたり込んだ。
聞こえているかも定かではない言葉を、だらだらと紡ぎながら。
「なんで父親が、そんなことも分からないんだ。この糞野郎が」
「……そうか」
返事があるとは思わなかった俺は、上体を起こそうとして、諦めた。
少しも動きたくない心境だった。
彼はもう、立たなかった。




