33.戦火①
大の字に倒れた細い男が居た。
黒を基調とした軍服は胸から裂け、鮮やかな赤の切創を露わにしている。しかし血と埃に塗れてもなお、彼は落ち着いていた。
少なくとも自分の目からはそう見えることに、割れた扉を踏み越えてきたマリアージュは内心では少々驚いた。彼が死んでしまったのではないかと彼女は危惧していたのだが、規則正しく上下する彼の胸を見るに杞憂だったと安心もした。
「うむ、何よりだ。余罪の方は知らんが、破壊魔法の使用は極刑にあたるほどの罪ではない。死んでもらっても困る」
男は笑う。
「は……ひどく杓子定規だし、その感覚は根本的に狂っているよ。君は、自分がどれだけおかしな人間なのか自覚がないのかな」
「と言われても、わたしからすれば貴様たちのほうがどうかしている。本当に大事なことは、本当は誰にでも見えているはずなのだが」
「……君にとってのそれはなんだい」
「今は貴様を逮捕することだ。だから死なせん。おかしなことではないだろう」
「は、は……それはまた」
男は再び咳き込むように笑った。
「……おかしいとも。ここは既に戦場だよ」
「いいや、ここは街だ。誰が何をしようと」
言い切り、マリアージュは最後まで折り合わなかった男を縛るべく縄を取り出した。
「それだけ喋る体力があるのなら手当も要らんな。わたしはともかく、あのふたりを相手にしてよく戦ったものだ」
「……挑むのも悪くないと思ったのさ。意地だよ、私の。君と英雄と、お姫様への」
「らしくもないことを言う」
「確かにね……もう懲りた。まともに相手をしていては私の身がもたないらしい」
不意に男は立ち上がる。
瀕死の重傷であるはずの男が見せた機敏な動作に、マリアージュは携えた鉄剣を僅かに持ち上げる。しかし彼が深手を負っているのは間違いはない。笑みを刻んだままの顔は青白く、血の気が薄い。動き続ければ命に関わる失血量に達するとマリアージュにも理解できる。
「ばかな真似はよせ」
「ああ、懲りたと言ったろ。また会おう、馬車具の姫」
男の姿が掻き消える。
僅かな魔素の光を残して、広間の中心から影も形もなくなった。
「……転移魔術」
マリアージュは眉を上げ、魔素の痕跡を僅かに目で追った。戦いに疎いこの少女はただ一つ、魔術への深い知識のみで考察を始める。
「アーネストに扱えはせんだろうし、使えるなら最初から使っていたはず……となると別の術者か付呪器具だが……他者の転移は転移門がなければ距離が稼げない。なにか条件が変わったのだとしたらあの馬か、でなければ飛び降りてきた者たちか。しかし、異界が関わっていたらわたしには手に負えん……ふむ」
上を見上げてみるが、そこには当然天井の木板があるのみで、空に浮かんでいるだろう船の姿は見えない。
そうしていても仕方がないので、彼女は片目を閉じて魔力を使った。
最近は低位魔術にそれ以外の詠唱動作が不要なので用いない。頭に思い浮かべたいくつかの選択肢の中から伝声術を選択。通話の対象は勿論、門番の少年だ。
フッと浮かび上がった青い光を指先に載せて語りかける。
「タカナシ殿、アーネストが消えた。おそらく転移魔術だろう」
『……あの傷でか?』
「さほど遠くには行けまい。まだ街にいるはずだ。でなければ兵を展開などさせんしスキンファクシが撤退している。そうだろう?」
『ああ。分かった、すぐに合流するからそこで待っててくれ』
「いや、わたしがあやつの後を追う。飛び降りてきた者たちの相手を頼みたい」
『は!? 無茶するんじゃない! 俺が行くまで待て!』
「わたしが捕らえると決めたからにはわたしがそうするのが筋だ。適任でもある。話は以上だ」
説明する時間が惜しい。反論が聞こえてくる前に光の玉を指で弾いて消す。
男の居た床に視線を戻す。耳を澄ませば多くの囁きが聞こえる。魔素関して鋭敏な感覚を持つという門番の少年にもそれは聞こえない。流れを読めても彼には声が聞こえない。魔素そのものが残っていない現状、彼にアーネストは追えない。大径に接続していない彼には樹への経路が無い――
考えるのを止め、眩暈を伴った頭痛に頭を振った。彼方から滾々と湧き出る知らないはずの知識には、まるで自分のものではない思考を流し込まれているかのような強い違和感がある。
掘り起こすのは必要な分だけで留めるべきだと、その知識自身も告げている。
マリアージュはやや歪んでしまっている剣を無理やり鞘に納め、広間から街路へと飛び出した。
街路でも既に戦闘が始まっていた。
議場と同様に降りてきたと思しき近衛師団の部隊と、周辺を固めていた水星天騎士団の小隊とが衝突していた。
切り結んでいるのは十数名程度とマリアージュは目視で見て取ったものの、魔素に働きかけて周辺を把握してみると、議場のあるセントレア東部地区のあちこちで同規模の戦闘が勃発している気配がした。
既に石畳の上に数人が倒れているのも見え、皇女は激昂する。
「ばっ……ばか者どもめ! 皇国の騎士ともあろう者が!」
その罵声は戦闘による剣戟の音に掻き消されてしまったものの、戦火の中にあってもこの少女の容貌は目立った。近衛師団の甲冑騎士を蹴倒した黒髪の槍使いが彼女に気付き、風のように駆けてくる。サリッサだった。
「……ちびっこ! 外は駄目、中に戻って!」
「ならん! アーネストを追わねば……あやつに騒ぎを収拾させねば死人が出る!」
「なに言ってんの!? そんなのもう手遅れ……」
轟音が生まれた。
息を詰まらせて目を向けると、ほんの数十ヤード先の街路で破壊魔法の炎が暴れていた。水星天の騎士と近衛の甲冑が紅蓮の中でもがいているのが見え、マリアージュは反射的に脳内の声を遮断する。
火に包まれた騎士たちの断末魔を聴いてしまうのは自分の精神が危険だと判断したからだ。奥歯を欠けんばかりに食いしばりつつも、皇女は火に向かって歩き出そうとする。その手を、サリッサが掴んで制止した。
「やめなさい、マリアージュ。もうこの戦いを止めるのは無理よ。決着がつくまでは止まらない。人助けをしたいならその後にして」
「しかし」
「聞き分けて。でなきゃあんたがここで斬り伏せられるだけよ。悠長に倒れた奴の手当なんかをしてる背中を敵が斬り付ける。なんの責任も望みも果たせないまま、あんたはここで終わる。それでいいならそうしていいけど、違うでしょ」
そう語る槍使いの少女の赤い瞳は真摯な光を帯びていた。
数多の戦場を渡っただろう彼女の言葉の重みに、マリアージュは歩みを止める。
「だが、戦端を開いたのはわたしだ。責任がある」
「そう。でも、しなきゃいけない理由はあったんでしょ。それは忘れないで」
「……どうすればよい」
「このまま戦って近衛を全員撃退するか、アーネストを捕まえるか。もしアーネストを捕えても近衛に出した命令を撤回するとは思えないけど、近衛に投降を呼び掛けることはできるかもしれない」
「撃退できるのか?」
「うちの連中が来てるし、師匠……国教会も近衛を抑えてるから、放っておいてもいずれそうなる思う。結果の良し悪しはあってもね。ただ、時間がかかる」
サリッサが述べる注釈付きの推測に、マリアージュは爪を噛む。
問題が分かっているからサリッサもわざわざ補足をした。
「では駄目だ。時間をかければ被害が広がる。アーネストを追わねば」
「そうね。そう言うと思った」
赤のエプロンドレスを纏った少女は槍を振り、水星天騎士団と交戦する近衛の陣列に穂先を向ける。
「逃げた方向は分かるんでしょ。あたしが突破するからあんたは援護」
「おまえ……」
「ひとりで行かせたらタカナシたちに合わせる顔がなくなる。それに、あんたも友達だもの。あんた自身がどう思ってようとね」
「……すまん。力を貸してくれ」
「そう言ってるでしょ」
頼もしく頷く槍使いの背中を見ながら、マリアージュは左右の手を同時に振るって大魔法の使用を検討する。
マリアージュが習得している大魔法――皇統魔法は五つ。しかし、破壊的な性質を持っている魔法は一つしかない。その唯一の魔法、衰滅の角笛は直線状の効果範囲を持つ単純な破壊魔法で、敵味方が入り混じる複雑な状況に向いているとは言えない。考えた末、彼女は広域支援の大魔法を選択した。
「貪食の足枷を使う。目立つから守ってくれ」
「合点」
七百ほどの文節からなる詠唱文のほぼ全量と詠唱動作を省略。魔素に直接命令を下す。その行為の不自然さを自覚することなく、マリアージュは意志のみで大魔法を展開した。
貪食の足枷は任意対象の霊体から魔素を削ぎ落とし、術者に還元する特殊な支援魔法だ。性質は呪いに近く、地に足を付けている限り逃れる術はない。
最大まで拡張して効果範囲を設定――そこまで魔術の構築を進めた途端、マリアージュはまた眩暈に襲われた。
最大という言葉の意味がよく分からなくなる。どこまでだって魔素の声は届くのに、なぜ限界などがあるというのか。
そんなものは無い。
術式も詠唱も要らない。軽く手を合わせて魔力を練り、パッと軽く開いて意識と共に広げる。議場の周囲から東部地区、もっと広げてセントレア全体に。全ての人間の霊体と表層思考を把握する。思考から大まかに敵味方を識別。ついでに指を振って頭の中の像を拡大し、特定の個人を探す。砂利を混ぜ合わせるかのような雑音が頭に響く。二秒ほどそうして走査すると覚えのある霊体を捕捉した。まだ東部地区に居る。南へ向かって移動中。
「南か」
呟き、俯瞰視点からの走査を切り上げて全ての敵に足枷を発動した。男にだけは念入りに、辛うじて命に別状ない程度に魔素を削ぎ落とす。霊体から離脱させた魔素には別の命令を下し、己の霊体に合流させる。それらはひどく簡単にできてしまったため、マリアージュは周囲の変化に気付かなかった。
近衛の甲冑たちに押され気味だった水星天騎士団が巻き返しているのも、自身の周囲に渦巻く魔素の光も。それらが起き始めてから数秒経ってようやく目に入ってくる。いつのまにか思考が加速していたことを自覚すると、マリアージュは苦笑した。
「……タカナシ殿じゃあるまいし」
敵が弱ったと見るや早々に突撃していったサリッサの背中を追い、末の皇女は戦火の中を走り出した。
■■■
闘争の坩堝と化した街を悠々と歩く老婦人は、余裕を残したその足取りとは裏腹に、心中に生まれた疑念を否定する材料を探して視線を彷徨わせていた。
想定されていた規模を大きく上回る戦闘が始まっている。
このような未来は語られていない。ならばこそ、視準器たるこの身が派遣された。
「解せないわ。いったい何が起きているのかしら」
王が予言を外すとは考えにくい。かの身に宿った神の力は、この千年絶対であった。
なら王は嘘を語ったのか。
無意味である。王とこの老婦人の間にある信頼は絶対的な利害に基づいた強固なものだ。指示に嘘を用いる必要はない。
いずれにせよ、この想定外の未来は非常に由々しき事態である。絶対であるはずの王の力か、老婦人と彼との信頼関係、そのどちらかに翳りが生じているということだからだ。
「時の福音の力の一端、無限遠は確かに未来を知る力ではあります。でも、その効果は絶対なんかじゃありません」
鈴が鳴るような少女の声がした。
老婦――マルト・ヴィリ・カリエールは顔を上げる。
「だってそうでしょう、視準器? もし予知が絶対に外れないものであるなら、その予知を使って未来を都合の良いものに変えるなんて真似はできないはずなんです。変えられた時点でその予知は外れたのと同じですから。ロジックエラーですよね」
視準器。王の予言を基に正しい歴史を紡ぐという使命を帯びた者達。国教会でも秘中の秘であるその名を知る者は、ごく限られている。
だというのに、軽々しくその名を口にしたと思しき少女の姿に、マルトは全く覚えがなかった。長い金の髪に青の衣装、そして際立って異質な白い無貌の仮面。
奇妙な少女は指を立てて言う。
「つまり絶対の予知なんてものは、実は何の役にも立たないんです。だから有効活用するには確度を下げなきゃいけない。無限にある可能性の中から確率の高い未来だけをピックアップして垣間見る、みたいに。近似時間線予測とでも言いましょうか。無限遠の正体はそれです」
「あなたは……」
「すみません、名乗らなくともお分かりでしょうが別口の福音です。こうやってペラペラとお喋りをして貴方の足止めをしています」
「あら素直」
マルトは柔らかく微笑み、手にした旅行鞄を街路に置いて長剣だけを持った。
しかし、抜こうとまでは思わない。まだ。
福音を名乗るその少女が敵に値しないわけではない。どころか、凡百の騎士とは比較にならない戦闘経験を持つマルトでさえこの少女の力量が見極められない。王やあの門番の少年と同様、尋常の人間ではないことだけが辛うじて肌で分かる。
力を持つということは、それだけで尊いものだとマルトは考える。
敬意を払うべき相手なのだと。
沸き起こるのは畏敬の念と、純粋な興味だ。
己の内に敵意はなく、異様な仮面の少女にもそれは感じられない。
「ですけれど、わたくしの足止めをするということは……場合によっては剣を交えるのもためらわないのでしょう、名も知れぬ使徒。この身の思い上がりでなければ、此れの刃は御身にさえ届き得ましょうが」
「剣の腕、という一点で言うなら肯定です」
「光栄の至りですわ」
「……はあ。武芸者という人種はこれだから困ります。本心では実際に試したいって考えてるのが見え見えですよ」
仮面の少女は困ったふうな調子でそう言うが、マルトは穏やかに笑うのみだ。
少女には恐れの感情も見て取れない。そんな相手は久し振りで、やはり興味が勝った。王以外の福音と相まみえる機会もそうはないだろう。
人の生ではまず叶わない。相当の幸運に見舞われなければ。
「今でこそ聖職などに就いていますが……わたくしは骨の髄まで剣客なのです。老いても退いても考えることはひとつだけ。理法の先は。剣の果てはいずこにあらんや」
「立ち合いの先に答えがある、と……ありませんよ、答えなんて。戦いとは手段であって目的ではない。望むのなら応じますが、得られるものは多くないかと」
「道筋は如何様にも。あなたか、それとも門番の彼か。わたくしはどちらでも」
「……そうですか。では仕方がないです」
少女の声が僅かに固くなり、マルトは目を細める。
門番を引き合いに出した途端、少女の態度は変わった。会話という手段を選択する程度には厭っていたはずの戦いを辞さないというのだ。
団結したのが千年前の一度だけと伝わるとおり、福音を持つ者達は性質として徒党を組まない。門番の周囲に他の福音が居るという情報はなく、王も関知していない。
ならばこの少女は何者なのか。
実に興味深い。
ブロードブリムの帽子をゆるりと脱ぎ捨て、マルトは手の中の愛剣を逆手で握る。
対する仮面の少女は、無形に近い自然な姿勢のまま剣の柄頭に手を置くのみ。無論、その体勢からでは抜き打ちの勝負にはならない。そのまま口火を切れば勝利するのはマルトだ。しかし、仮面の少女は事も無げに告げる。
「本当に、得られるものは多くないと思いますよ」
「あら」
違和感に視線を落としたマルトは、己の足元を見た。
注視しなければ気付けない、霜の柱のような微細な氷によって靴と街路の石畳が張り付いてしまっていた。軽く足に力を込めてみるも引き剥がすのは難しいように思える。
だが魔術ではない。少なくともマルトには拘束系の術式を感知できず、仮面の少女もそんな素振りを全く見せていない。
「いつの間に……?」
「剣であなたのお相手をするのは無理があります。半端な魔術で攻めても防がれそうですし、とはいえ大袈裟な魔術を使うのも市街地では憚られますから」
魔法使いか。マルトは急激に少女への興味を失った。魔術師はつまらない。見え見えの飛び道具しか持たず、懐に飛び込むと脆い。
どれだけ本人が練達の剣士であろうと、戦闘に魔術を織り交ぜた途端に隙が生まれる。詠唱、無詠唱にかかわらず思考の分散はそのような結果を招く。
戦士と術師は両立しない、というのがマルトの持論だ。
殺人に魔術は必要ない。人体を破壊するに必要なものは派手な炎や氷の礫ではない。刃物すら過大だ。間隙を縫う知識と技量があれば徒手でも問題がなく、それがなくとも指先程の木枝があれば十分である。故に戦技の深奥に至った戦士はあれこれと攻撃の種類を持たない。磨き抜いた一で敵を穿つ。
翻って魔術師は様々な魔術を学び、賢く使いたがる。それは無駄な隙を生む性癖だ。思考と選択の過程はシンプルでなければいけない。敵の喉笛を噛み千切るという暴力行為にスマートさは必要ない。突き詰めれば、強さとはそこにこそある。
この意味で魔術師は弱い。
「あくまで足止めに徹するおつもり?」
「ええ、まあ。とはいえ、そう都合よくいかないとも思ってます。ですから……ご自由になさってください、剣聖マルト。全霊でお相手しましょう」
ぽんぽん、と少女は柄頭に置いた手を上下させる。それは絶妙に緊張感のない仕草ではあったものの、相当の自負を感じさせる少女の態度に剣聖は笑みを深めた。
仮面の少女は自身の剣腕がマルトに及ばないことを弁えているが、その上で勝ちの絵を既に描いているらしい。霜柱による小細工も布石なのだろうと考えると、失われた興味が再び首をもたげ始める。
工夫や計略も強さと言える。弱者の戦略ではあるものの、その程度を斬り伏せられぬようであれば、所詮、己の剣もそれまでと言えよう。
「こうこなくては嘘だわ」
配された布石も霜柱だけではあるまい。二重か、三重か、或いはもっと多くか。笑みと共に逆手の刃を抜かんとするマルトに、仮面の少女は冷ややかな声で応じる。
「真実は酷なものですよ」




