29.渦より来りて①
冷たいと思しき風が吹いた。
だが分からない。本当に冷たいのだろうか、と赤い少女は首を捻る。
彼女は、少し離れた位置に立っている水星天の若い騎士ふたりのうち、男の方がくしゃみをしたのでたぶん冷たいのだろう、という推測をしただけだった。
風に黒髪を靡かせて立つ少女、サリッサには気温がよく分からない。魔力を用いて冷気を遮断しているわけでもなく、今の彼女は自然体でそうなのだ。
意識すれば何となく肌寒いような気はするものの、その曖昧な感覚すらも長く維持は出来ない。すぐにまた、温度のない風が吹いているように感じられてしまう。
この冬はしもやけに悩むことはなさそうだ。
前向きにそう考えてはみたものの、人から離れるのはやはり気持ちの良いことではない。どんよりした気分で身長に見合わない白い槍を担ぎ直すと、ややあって脳裏を声が過ぎった。
――肌荒れとも無縁だよ。
弾むような声色の幻聴に、サリッサは顔をしかめる。
その声は、紛れもなく愛用の槍から伝わったものである。
武具が喋る、という話は皇都で聞いたことがあった。なんでも疑似的な霊体を用いて鋳造された魔法の武具だそうである。同じ騎士見習いの少女からそれを聞いた当時のサリッサは「あはは、趣味悪いわねー」などと一刀両断したものだった。
しかし、まさかその数年後に喋るどころか脳内に直接声を届かせる槍を手にするとは夢にも思わなかった。
永劫。
穂先から柄、石突に至るまでの全体がひとつの不思議な素材で出来ている奇妙な長槍。サリッサには純白の石を長槍の形に削り出したか物のように見えているのだが、手触りは木とも石とも鉄とも違う。門番の少年によれば彼らを現界に送ったと思しき何かが寄越した道具――遺物だと説明したが、それ以上のことは彼にも分からない様子だった。
そんな彼に向けて「喋るのが普通なのか」という質問はできずじまいだった。聞こえないはずの声が聞こえてしまう感じの気の毒な子扱いなどをされたら立ち直れない。
とはいえ、
「んな歳じゃないわよもともと……!」
永劫はいつも一方的に語りかけてくるばかりで意思の疎通は取れない。なので憤慨するだけ無駄なのだが、それはそれとして腹立つものは腹立つのでサリッサは地団太を踏んだ。
そうしてドスドスと大地を踏み鳴らしていると、水星天の若い騎士達が気の毒そうな顔でこちらを見ていたので、いよいよ惨めったらしい気分になった。
嗚呼、あたしはいったい何をやっているのだろうか。
自問の答えは明白だ。
サリッサは建物の警備をしている。長く使われていなかったらしい、廃墟の手前といった感のある議場の警備だ。中では皇族達が顔を付き合わせて何やら話し合いを行っているのだと聞いてはいたが、建物の外、目立たない街角に陣取る彼女が知っているのはそこまでだった。
あまり興味もなく気乗りもしない。それでも上司であり友人でもある赤毛の少女に頼まれたので、粛々と従ったまでのことだ。彼女の頼みでもなければ、降臨節だというのに寒空の下で立っているだけの仕事など引き受けたりしない。
自分の出番などないと、サリッサは考えていた。
話し合いがまとまるかどうかは難しいのでよく分からなかったものの、少なくとも昼間、しかも街中で何者かの襲撃があるとは思わなかった。そんなことをするのは素人で、そんなことをするような相手はあまり怖くない。やるなら夜だろうし、人目に付かない場所が最低条件だろうと彼女は考える。
つまり、お呼びでないのだ。荒事しか取り柄のない自分は。
それは喜ばしいことだったが、なにもこんな日でなくてもいいだろう。
サリッサは肩を落とす。
こんなことなら部屋に引きこもってボードゲームでもしていた方がマシだった。が、よく考えてみたら皇女達と赤毛の少女は議場に居るし、幼馴染の青年とケープの女の子はもう居ない。他に気軽に遊べそうな相手は思い浮かばないので、どっちにしろ遊び相手が居ない。
はあっ、と溜息を空に吐いてみた。
そうしてみると、きちんと息が白く霞んだ。気を良くしてふうふうと息を弾ませていると、視界の端、街路の上に人の影が増えた。
同じように視界のギリギリで捉えていた水星天の騎士達がペコペコと頭を下げるのが見え、サリッサはぎょっとして首を動かす。
すると、身なりの良い温和そうな老婦人が立っていた。ワインレッドの婦人服。立派な飾り羽のついた鍔の広い帽子――手には長剣と旅行鞄――
「……げぇっ!」
災厄の接近に勘付いたサリッサは短い悲鳴を上げ、踵を返して逃げ出そうとした。
が、老婆の傍に立っている盾を背負った軍服の少女に気が付き、思わず足を止めてしまった。一目散に逃げるべきだと本能で理解していても。
しまった、と思った時にはもう何もかも手遅れだった。
「サーリーッサー……?」
ぬるぅっ、と滑るような不自然な動きで迫った老婆の笑顔が、視界いっぱいを埋め尽くした。老婆は恐怖に身を竦ませるサリッサの頭を、木枝のような細い右手でぐわし、と力強く掴む。
来訪を聞いてからこっち、全力で接触を回避し続けてきた師、マルトがそこに居た。
「ぎゃッ!? 師匠!?」
「うふふ、やっと捕まえたわ。あらあら、こんなに小さくなって……あなたもこの街に居ると聞いていたから、この数日ずーっと探してたのよ? いったいどこに隠れていたの?」
「助けて!」
サリッサは命乞いをした。
軽やかな言葉と白い息を吐く眼前の師に。この老婦人に対する恐怖の念が、彼女に師事していた僅かな期間で骨身に染みていたからだ。
彼女は、神職の身でありながらかつては騎士だった。大陸で最も剣術に優れると認められた者に対して授与される剣聖号。史上四人しか存在しないその称号の受有者である。
孤児上がりに過ぎないサリッサがそれほど高名な人物の指導を受けたのには訳がある。その事情はサリッサがまだ路上で生活していた頃にまで話が遡るのだが、今現在において頭部を鷲掴みにされて吊り上げられている彼女には回想する余裕がなかった。逃れようとジタバタと手足を動かすが、マルトはビクともしない。彼女は人の形をした恐怖だった。
助けの手は昔なじみの軍服の少女から伸ばされた。
「猊下、あまり余裕はありません。お戯れは程々に」
「あらいやだ。もうそんな時間なの? うーん、やっぱり歳を取ると駄目ね。すっかり時間の感覚がおかしくなっちゃったわ。一日があっという間に過ぎちゃうのよねえ」
時計を手にした軍服の少女が諌言するや、マルトは呑気な調子で笑いながらサリッサを解放した。
「……? 師匠?」
師のその様子は流血沙汰――今の彼女が実際に流血するかは別として――を覚悟していたサリッサからすれば拍子抜けを通り越して違和感を覚えるほどであった。彼女の知るマルトは、どんな些細なことでも弟子の行動が気に入らなければ縛って馬で引きずり回すくらいのことはやる人物だった。
その常軌を逸した傍若無人ぶりが完全になりを潜めている。
理由を求め、サリッサは軍服の少女を見た。
師と同じくその少女、アニエスも、どこか知っている人物とは違って見えた。
容姿自体は変わらない。彼女は気性が荒く、それは顔つきにも顕著に表れている。可憐な目鼻立ちをしているのに目が釣っていて、サリッサは彼女と出会った頃から野良猫みたいだなという感想を抱いている。その見た目は変わらない。しかし、何かが異なっているとサリッサは思った。堅い態度をとっているからかとも考えたが、それだけにしては胸がざわつく。
小柄な体格でありながら大型の盾を背負っているのも変わらなかったが、以前に比べると盾が倍ほどの大きさになっている。サリッサからすれば、これはもう人間が扱うサイズ感ではないように思える。いったいどう使うのだろう。
そもそも第二皇子アーネストの懐刀であるアニエスが、マルトの付き人のようなことをしているのも妙である。
アーネストが魔導院を襲撃したのはつい二月ほど前のことだ。明確に皇帝を弓を引いたと言ってもいい。その場にはサリッサも身を置き、実際に皇帝本人とも一戦を交えた。苦い記憶である。
とにかくそこまでの挙に出てしまった以上、第二皇子の一派と門番の少年、そしてサリッサは叛逆者としてお尋ね者になってもおかしくはない立場だと思っていた。今のところその様子はないが、それでも、少なくとも皇帝派と第二皇子一派の対立は決定的なものであるはずだった。
国教会の長でもあるマルトは当然、皇帝派の人間だ。それも重鎮である。師から逃げていたのはその意味もあった。
つまり、個人同士の関係はどうあれ敵方の人間なのだ。どういう経緯を辿ればそのマルトの傍にアニエスが居るようなことになるのかが、サリッサには分からない。
加えて二月前。サリッサは「過去に戻って未来を変える」という現実離れした出来事を経験している。これに関しては主導した門番の少年と違い、サリッサには未だに全容が呑み込めていない。過去のアーネストに忠告を行い、皇帝と戦って死ぬ運命にあったはずのアニエスや月天騎士団の騎士達が生き残ることになった、とだけ理解している。
こうしてアニエスが生きている以上、うまくいったのだろうとも分かる。しかし、未来を変えたことで魔導院での戦いがどういったものに変化したのかがサリッサには分からない。サリッサ自身は変わった後の戦いを経験していないからだ。
ややこしい。
分からないことだらけだ。サリッサは辟易していた。
アニエスにどう声をかけるべきかも分からない。
無事でよかった、というのは違うだろう。彼女にとって自身の死は起きていない出来事のはずで、しかしサリッサはこのアニエスと自分が二か月前にどう別れたのか知らない。だからどう接すればいいのか分からない。
そもそも、死んでしまったあのアニエスはいったい何処へ行ってしまったのだろう。消えてしまったのだろうか。いや、考えてみればアニエスだけではない。死んでしまった騎士達は何処へ消えたのだろう。今生きているだろう彼女や彼らは、彼女や彼らと本当に同じものなのだろうか――
深淵に到達しつつあった思考を切り上げ、サリッサはかぶりを振った。
考えても仕方のないことだ、と納得をすることにして笑顔を作った。
それから、無難な言葉を選ぶ。
「……ひさしぶり」
すると、軍服の少女の眼球と唇が動いた。
抑揚のない返事があった。
「ああ」
返事があったことに安堵の気持ちはあった。
じわりと実感が込み上げ、サリッサは熱くなった目頭を自覚した。
しかしその一方で違和感が拭えない。直感が警鐘を鳴らしている。アニエスの態度や雰囲気だけでない、はっきりとした異常がどこかにあるのだと。そんなサリッサの漠然とした疑問は、続くアニエスの一声によって中断された。
「他の九天の騎士はどこだ。居るんだろ。何人かここに集めた方がいいぜ」
サリッサは眉を寄せる。
意味は分かる。九天の騎士、ルース・ベーカリーの他の面々も確かに議場の警備に駆り出されている。指揮者であるカタリナの采配によって、あらゆる状況に対応すべく街や建物の内外に散らばって配置されていた。
「……どういう意味?」
「もうすぐ鉄火場になる」
唖然とするサリッサに、マルトが穏やかに告げた。
「あの子達の話し合いは上手くまとまらないのよ。ミラベルが火葬の使用を決断することになって、門番の彼と決裂する。最終的にはレオナールとイヴェットもそれぞれ反発して、それなりの規模の戦闘になるのよねえ」
「は?」
「結果としてまだ戦力を温存してるアーネストが独り勝ちをするのよ。でも、それは陛下の望む結果とは少し違うわ。だから彼を押さえなきゃいけないの」
話し合いの内容を知っている筈もないマルトが断定口調で語った。
サリッサは驚愕する。
ちょうど二月前の自分達が行ったことをなぞるかのような師の言動とその内容に。
マルトは未来を知っている。
「師匠……それ、時の福音の予知能力で……?」
「あら、そうよ。よく知っているわね。陛下は無限遠と名付けていらっしゃるわ。わたくしたち視準器は、陛下が無限遠で得た未来を正しい形に調整するために働いているのよ」
「視準器……? わたくしたち……?」
白い息と共に述べる師、マルトに問い返す。
返事はなく、代わりに軍服の少女の唇が動いた。
「第二皇子はあたしが殺す」
鐘の音の如き轟音が響いた。
アニエスが背負っていた巨盾の革紐を解いたのだ。
地に落着した鋼の盾は街路の石畳を突き破り、直立している。
それはもはや、防壁と形容すべき異様だ。
「……え?」
「というわけだからサリッサ。良い機会だから、あなたも視準器になりなさい。あなたも陛下と皇国のために力を尽くすのよ。ご安心なさい。陛下にはわたくしからとりなしてあげましょう。あなたくらい出来の良い弟子なら、陛下もきっとお許しになるわ」
冗談じゃない。
師の戯言は完全に無視し、サリッサは反射的に昔なじみの少女の肩を掴んだ。
月天騎士団のアニエス、そして姉のエニエスとは騎士学校からの付き合いだ。
ふたりの事をサリッサはよく知っている。
座学が優秀だったエニエスとは対照的に、妹のアニエスは実技が得意で座学の成績が悪かった。しかし下には下が居るもので、それが孤児上がりのサリッサであった。
当時のサリッサは字の読み書きすら覚束ない有様で、貴族出身者が多い騎士学校では特に浮いていた。代わりに実技がずば抜けていたのだが、良い意味でも悪い意味でも目立ってしまった彼女はアニエスに目を付けられ、校内で乱闘騒ぎを起こしたのだった。
以来、似た者同士だったサリッサとアニエスはお互いを敵視し、いつしか姉のエニエスも含めた三人は競い合うライバルとなっていた。
その腐れ縁は、臨時で教鞭を振るっていたアーネストを強く慕う姉妹が月天騎士団に所属するに至るまで続き、ふたりのオマケとして入団したサリッサが九天として団を離れるまで保たれていた。
あの時のアニエスはサリッサを散々罵ったものだ。裏切り者だの、なんだの。
しかしアーネストに何の関心もなかったサリッサからすれば、ちょっと見た目の良い教師にコロッとやられて人生を捧げつつある同期達の方が物好きに思えた。いったいどうすればそんなに男に入れ込めるのか。
サリッサの中で、アニエスという騎士はそういう少女だった。
故に、納得ができない。それほどアーネストを慕っていたアニエスが、あの悪辣な皇帝に寝返るわけがないのだ。
刹那の追想から脱却したサリッサは、肩を掴んで引き寄せた軍服の少女の、やけに情感のない顔を見た。
また唇が動いた。何色を吐き出すこともなく声が漏れた。
「手は出すなよ、サリッサ。邪魔するなら容赦はしねえ」
「ちょ……ちょっと待って? なんであんたがそんな…………」
また、冷たいと思しき風が吹いた。
だが分からない。
本当に冷たいのだろうか、と赤い少女は疑問を抱く。
思考が違和感の正体に触れる。
喋るアニエスが吐いている筈の息には、色がない。
師や自分のように、白い呼気を吐いていない。
あるべき筈のものがない。それが違和感の正体だった。
「そんな……そんなはずない! だって助けたはずだもの……! そんなの違う!」
何も信じられず、サリッサは震える指先でアニエスの頬に触れた。
強く意識しなければ分からない曖昧な感覚は、確かに温度を伝えていた。
あるべき筈のものがなかった。
冷たい。
千々に乱れた心で、サリッサは呆然と呟く。
「…………アーネストは何をしたの」




