27.くすんだ銀②
ミラベルが初めて命を殺めたのは、十二歳になった年の晩夏のことだ。
その生き物は人の形をしていて、その日のその時までは居城であるテレス城に勤めていた侍女のひとりだった。人間と同じような名前が付いていたのだが、彼女はそれを口にした事がない。だってあれは人間ではなかったし、だとすると憶えておく必要はなかったはずだと彼女は述懐する。
真夜中のことだった。寝所に現れたその生き物は、ベッドで寝ていたミラベルの肩口に短剣を突き立てた。首であったなら即死だったかもしれない。運良く、或いは運悪く急所は外れていた。ミラベルは魔道の実習に使う真鍮の長杖で、その生き物を殴り殺した。
別に生き物の殺し方を知っていたわけではない。
激甚な痛みと、果てしない恐怖と、どうしようもない怒りだけがあり、気が付けば無我夢中でその生き物の頭蓋に魔力を込めた杖を打ち下ろしていた。五度もそうすれば生き物は動かなくなっていた。飛び散った血で部屋は使えなくなってしまった。
絶対に安全なはずの皇都の上層で、なぜこんなことが起きるのだろう。執事の怒号と侍女の悲鳴とを混乱する頭で遠くに聞きながら、ミラベルは疑問の答えを探した。
生き物の検死を行った女医師によれば、その生物は人によって造られた人間――錬金術師の言うところの人造人間とのことだった。肉体の構造としては人間とほぼ同一ながら、器具から生まれた別種の生命なのだと彼女は言った。
構造として同じなら、それはもう人間として扱っても良いのではないかとミラベルは思ったが、違うと言うのであれば別にそれでも良かったので反論はしなかった。
本当にどうでも良かった。
身の回りの世話をする者にそんな生き物が混じっているくらいなのだから、遅かれ早かれ自分は殺される。だとすると大抵の物事はどうでも良いし、そういう生き物を躊躇なく殺せる気持ち悪い自分からもさっさと解放されたかった。
傘を差さずに雨を歩いて、肺でも患って死んでしまいたいような気分だった。そうすれば少なくとも、哀れな生き物の中身を床に溢さなくて済む。
そうして茫然と過ごして、秋になった。
秋になったら行きたい場所があったのだった、と思い出しても周囲に強く反対されたので諦めざるを得なかった。
鮮烈に刻まれていたあの夏の日は、遥か遠ざかってしまった。
冬になった。
その頃には人を疎んじて、使用人の殆どを余所へやった。たまに会いにくる妹と、彼女に関連付けられて記憶されている人物だけが心の拠り所になっていた。
妄想と空想を積み重ねながら、寝食を忘れて神学の研究に没頭する毎日を過ごす。それは現実逃避そのものだったが、気が付けば歴史神学の領域を網羅していた。
年が明けて、歴史の欺瞞に気付いた。
山積みの古書の海で唐突に気が付いてしまった。神代から続くウッドランド皇家の系譜が不自然なまでに一直線であること、記録上の没年こそ改変されていたものの、直系以外の皇家の血筋が現存しないこと。
それを教母に打ち明けたのが、ミラベル・ウィリデ・スルーブレイスの再誕の日だった。そうして継承戦を知って以来、彼女はひたすらに戦い続けた。
抗う力を集める為に、顔面に張り付けた笑顔がいつしか剥がれなくなっても。多くの人々から恨まれ恐れられることになっても。
全ては元凶である父を倒すため、彼を永遠に滅ぼすためだ。そうしてようやく、皇国の人々も自分達も、あの怪物の手から逃れることができるのだと自分に言い聞かせた。
もっともらしい嘘だ。
奥底にあるのは、何も難しい真実ではない。
戦わなければ死するのみ?
だとしても、自分を殺さなければ戦えない。自分はそんな風に戦えない。
だったら自分は、最初から死んでいるのと同じなのだ。
あの哀れな生き物が振り下ろした短剣は、正しくミラベルを殺したのだ。
虫さえ殺したことのない少女を、永遠に変えてしまった。
本当は、あの生き物の名を今も憶えている。
まだあの夜を逃げ続けている。
杖を振り回して叫びながら、いやだいやだと、ただ逃げて走り続けている。
そんな少女に、現実が追い付いて来る。
議場に集まった兄弟姉妹たちが、その従者たちが向ける視線は、一様に疑問を帯びているように思えた。容易で、確実で、今すぐにでも実現可能な解決策を決断しないのは何故かと。皆がそう問い掛けている。聡く冷静な吸血姫が何を迷っているのか、と。
火葬を使ったら剣の福音、あの門番の少年が反発するだろうと忠告は受けている。だがミラベルの葛藤はそれとは何の関係もない。
そもそも、できるわけがない。
火葬――異界の炎でいったい何人の命が犠牲になるのか分からない。もし聞いているとおりの威力なら、十や百では済まないかも知れない。もしかしたら千だって超えるかもしれない。それを、敵だからとか居るか分からないからだとか、そんな風に言ってしまえるわけがないのだ。
嘘と強がりで塗り固めたこの吸血姫は、本当は、ただひとつ命を奪ってしまったことにさえ向き合うことができない有様だというのに。
しかし、拒絶できない理由が同時に存在する。
もし異界の、始祖の皇帝の脅威を証明できず、竜種の脅威を排除できず、このまま会合が終わってしまったら。
いったい誰がそれらと戦うのか。
答えは決まり切っている。
門番の少年だ。彼しかいない。千年を経てなお、戦いの渦中に飛び込もうとしている朽ちたる剣。人々の守護者。本物の竜殺し。
だが、彼はどうなる。いったい誰が彼の命を保証できるというのか。ただの人間の騎士団相手に命を賭さなければならないほど衰えてしまった彼を、また死地に送り出すというのか。
誰よりも大切な彼を。
できない。できるわけがない。
もしそんなことをしなくていいのなら、しなくてもいい手段があるのならそれに縋りたい。何百何千の命を足蹴にしてでも、当の彼本人と敵対するとしてもだ。
――そうだ。
人並みの幸せなどを、いつから夢見ていたのだろう。
ミラベルは赤い立方体を凝視する。
血のような赤。おぞましい異界の炎。
これを使って全ての敵を焼き尽くしてしまえば良い。その果てに魔女として歴史に名を刻まれようが、大切な彼の刃に斬られようが、それで良いのではないだろうか。
むしろ、この上ない結末なのではないだろうか。
ミラベルはいつしか癖になってしまった動作をした。
そっと、指先で自分の顔に触れる。そうして自分の面の皮を計って、壊れていなければ嘘が吐ける。自分にも、他者にもだ。悲しいだとか苦しいだとか、そういった弱い自分を隠し通せるのだと彼女は学んでいた。
触れた自分の顔は、いつも通りの感触だった。
だから言えると確信した。
たった一言、火葬を使うと。
カタリナ・ルースはこの展開を予期していたのだろう。
皇国の人間ならば、火葬をどう扱うか。その結果として門番の少年と敵対するとしても、ミラベルがその決断を下すのだと分かっていたのかも知れない。
ミラベルの、彼に対する気持ちさえ計算に入れて。
やはり少し癪だった。
妹達はいつだって小憎たらしい。
ミラベルよりもずっと長く彼の傍に居て、彼のことをとても深く理解している。
でも、だからこそ自分なんかが居なくても大丈夫なのだろうともミラベルは思う。
いつか見ていた悪夢のように、ミラベルには死んでいてもおかしくない機会がいくつもあった。哀れなあの生き物に短剣を突き立てられたあの夜も、もしかするとそれ以前にもあったかも知れないし、それ以後は数えきれないほど沢山あった。
アルビレオを引き連れて門番の少年と戦った夜も、そうだ。
あの時に自分は死んでいてもおかしくはなかった。不思議とそんな実感がある。何かの幸運で先送りにされただけで、本当はあの日、自分は死んでいるべきだったんじゃないかとすら思えてしまうほどに。それを正すだけだ。正しい順番に。
いやだいやだと、ただ逃げて走り続けてここに至った。
そんな自分の命が、そう使えるなら、
きっと、悪くない。
だから大丈夫。
ミラベルは息を吸う。
段取りを頭の中で組み立てる。仮に門番の少年がこの場で反発し、直接的な行動に出たとしても押さえられるように。
議場の皇族達は味方にできる。さしもの剣の福音も、この場の全員を相手取って自分を止めることなどできはしない。
決意が鈍らないように、彼の方は見なかった。
そうして短い一言を発しようとした。
そのとき、音があった。
乾いた、大きな音があった。
少女は息を止め、振り返る。
いつだって彼はそうだ。
こちらの都合を完全に無視して、言いたいことを好きに言うのだ。
この瞬間も。あの夜も。
あの遠い、夏の日も。




