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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
四章 竜殺し
169/321

ex.バカヤローのパンケーキ④

 主街区といっても辺境の街だ。華やかさとは無縁な広小路が一本ほどあるだけで、それも商店の類がちらほらあるかないか、といった程度で人の姿も殆どない。

 これなら人を探すにも苦労はしないだろう、と思った矢先に目当ての人物の姿を見付けた。番兵の少年ではなく、妹の方だ。

 市井の酒場(バー)というものを見るのは初めてだった。軒先に申し訳程度にぶら下がっている看板がなければそれとは分からなかったかもしれない。外観は木造の民家とさほど変わらず、差異はスイングドアの向こうに覗いている広間と、そこに並んでいる丸テーブルくらいだった。

 そのテーブルのひとつに所在なさげに着席している妹へと歩み寄る。

 木床が軋む音に気付いたのか、妹が顔を上げた。

 

「姉上?」

「こんなところでなにしてるの……まったく!」

「いえ、その……先程の者に一言文句でもと思ったのですが……話していたら……なぜか、こんなことになってしまいました」

「はあ? どんな話になったらこんな場所に迷い込むのよ……!」

 

 酒場という場所はあまり治安の良い場所ではないと伝え聞いていた。

 幸いにも他の客の姿はない。が、唯一、奥の厨房には人の気配がする。

 珍しく感情の色が濃い、困惑顔の妹を置いて厨房を覗き込むと、例の黒髪が居た。

 

「ちょっとアナタ」

「ん? ああ、君も来たのか。何か用か」

「用か? じゃないでしょ。妹をこんなところに連れ込んで……!」

「こんなところって……随分な言い草だな。追ってくるんだから仕方ないだろ。俺の家にまでついて来られても困るし」

 

 関心の薄そうな顔で言う黒髪の少年はボウルを片手に抱えていた。

 もう一方の手には泡だて器(ホイッパー)

 少女には状況が分からない。本当に、どんな話になったらこうなるのか。

 

「……なにしてるの?」

「ああ、ちょっと小麦の偉大さを知らしめようかと思って。お菓子とか好きだろう、子供ってさ。小腹を満たせば満足して帰ってくれるかもしれんし」

「どういう理屈よ……」

 

 この少年は妹を野生の小動物か何かと勘違いしているのではないだろうか。

 まさかいつもそんな酔狂なことをしているのか、と黒髪の少年の横顔を眺めつつ、少女は彼に歩み寄った。焜炉には鉄のフライパンが乗せられていて、薄く油が敷いてあるのが見えた。すん、と匂いを嗅ぐと特有の香気がする。牛酪(バター)だ。

 

「ふうん、焼き菓子ね」

「だな。君もどうだ?」

 

 少女は失笑する。

 少年が使うだろう材料が粗末な木のカッティングボードに並んでいる。小麦の粉に包装紙に包まれた油脂、小瓶に入った琥珀色のシロップ、香料らしき小さな枝、卵に砂糖。少女の知る限り、何の変哲もない材料だ。

 クリームやチョコレート、生のフルーツをふんだんに使った絢爛豪華な菓子ですら飽きているのに、田舎町の番兵が作る品にいったい何の期待が出来ようか。

 

「はあ、そんなの食べるわけないでしょう。お菓子なんて皇都の菓子職人のものでも食べ飽きてるっていうのに……素人料理なんて」

 

 だが、そんな斜に構えた反応をしてしまってから、少女は後悔をした。

 妹を探しに来たのも間違いなかったが、そもそも彼女はこの少年に少なからず興味があるのだ。夢の記憶はおぼろげではっきりしなかったが、この少年には()の面影がある。それだけは分かった。

 話がしたい。他人相手にそんな気持ちになったことは初めてだった。

 

「へえ、そいつぁすごいな。タルトとかかね」

 

 少女の心配をよそに、番兵の少年はへらっと笑いながら聞き返す。

 機嫌を損ねた様子はなく、ホッとしながら少女は言葉を選んだ。

 

「……かな。あとはケーキとか」

 

 衛星都市の温室で栽培されている季節を無視した果物や、南の辺境領から取り寄せられる希少品のチョコレートなどを引き合いに出しても嫌味なだけだろうと、ややぼかして伝える。どれも平民には想像もできないような高級品ばかりだ。察して欲しいものだ――と少女は考えたものの、少年はやはりどこか疲れたような笑顔のままだった。

 

「なるほど。だったら少しは期待してもらってもいいかもしれない」

「どういうこと?」

「どうだろうな。まあちょっと待ってろ」

 

 少年はフライパンが十分に温まった頃合いで緩い生地を広げると、そのままフライパンをほったらかして戸棚から慣れた様子でカトラリーや皿を取り出し始めてしまう。

 生地にふつふつと気泡が出てくると、おもむろにフライ返しでひっくり返す。そこでようやく、この生地は少女も知っている食べ物と近い見た目になった。

 

「もしかしてクランペット? アナタさっき焼き菓子だって……」

「なんだそりゃ。これはパンケーキだ」

「……パンケーキ? これが?」

「ああ。俺の故郷ではホットケーキとも言うかな」

 

 少女は唇をへの字に曲げて押し黙る。

 東洋の呼び名なのだろうか。温かい塊(ホットケーキ)。安直なネーミングだ。

 何にせよありふれた菓子パンの一種だろう、と少女は理解した。わざわざ味を確かめるまでもない。

 

 ――はずなのだけれど。

 

「うーん?」

 

 少年が手際よく二枚焼いて皿に盛り付けた頃には、なんだか試してやっても良いのではないかという気持ちになっていた。

 白い皿の上に重なった彼が言うところのパンケーキは、まだ熱々だ。無造作に乗せられた牛酪(バター)が溶け、その上から琥珀色のシロップがたっぷりと注がれて光っている。厨房には香ばしく甘い香りが充満していた。

 普段口にする菓子のような洗練された見た目ではない。地味で、シンプルで、大味。それでも何か、抗いがたい不思議な魅力があるように見えるのだった。

 

 勧められるままにナイフとフォークを手に取る。

 生地はふんわりと焼き上がっていて、ナイフで容易に切れてしまった。フォークで持ち上げると溶けたバターとシロップがたっぷりと皿の上に零れる。少女は喉を鳴らした。

 いや、しかしこんな面白みのない材料で、ただ焼いただけのチープな菓子が――

 

「美味しい」

 

 それは、この少女には鮮烈な体験だった。

 口に運ぶと、まずシロップの心地よい甘みがあった。蜂蜜ではない。もっと軽やかな、別の香気があるさっぱりしたシロップだ。それを吸った甘めの生地がほろほろと口の中で崩れ、バターのはっきりとしたコクを残してスッと消えていく。

 しかし、少女は二口目を下段の生地、まだシロップを吸っていない部分から切り取って味わうことで確信する。この菓子は生地が素晴らしいのだ。絶妙な弾力。細かな気泡による口解けの良さ。何よりも、この香ばしさときたら。

 

「……何か特別な材料を使ってるの?」

「ははは。いやいや、特別な物なんて何もないよ。こんな街にあるわけないだろ」

「そのシロップは?」

「メープルシロップ。知らないか」

「知らないわ。(メープル)?」

「樹液だよ。楓の木の汁を煮詰めたやつ」

 

 少年の言葉に思わず吹き出しそうになりつつも、淑女としての自覚が辛うじてそれを押し留める。まさか木の汁とは。

 とはいえ、皇国(ウッドランド)では樹木とは神聖なものだ。そう思えばありがたいシロップなのだろうし、何より甘くて美味しい。香りも蜂蜜より好みだ。

 だが、ありふれた甘味料なのだろう。少女は乏しい見識でそう推測する。

 

 首を傾げる少女に、番兵の少年はフライパンを片手に得意げな顔をした。

 

「君たちみたいな貴族の子って、広い屋敷で料理人の作ったものを食べてるんだろ?」

「……うん。それで?」

 

 正確には城だったが、少女は口にせず先を促す。

 

「そうなってくると、冷めてるとまでは言わないが……料理でも菓子でも、どうしても出来たてってわけにはいかないんじゃないかと思うが、どうだろう」

 

 言われて思い返してみれば彼の言うとおりだった。

 少女の住む皇都のテレス城はそれなりに大きい。食堂から厨房までは五分、いや十分はかかるかもしれない。スープは少し温くなっているし、温かい菓子などそもそも提供されない。常温か冷製の品が常識だった。

 

「つまりまあ、単に焼きたてだから美味しいってわけだ」

「……そんなことでこれだけの違いが?」

「そんなことで、だな。何でも……ってわけじゃないが、少なくとも焼き菓子は出来立てでしか味わえない美味しさがあると俺は思うよ。これがナッツやドライフルーツ入りのチョコレート生地とかだと馴染ませた方が美味しい場合もあるし、一概には言えないんだけども。ああ、でも果実酒とか入ってるとまた微妙に変わってくるのかも。酒がドライフルーツに絡んでる場合もあって……」

 

 番兵の少年はすらすらと似合わない菓子の知識を並べる。

 少女は曖昧に頷くしかなかった。

 そう、皇都の菓子職人が間違っているわけではない。彼らは環境や食材に合わせて最適な品を考えているだけで、結果として暖かい焼き菓子を提供しなかったのだろう。

 ただ、この少年は自分とは別の角度で物を知っていて、それを分かりやすく示して見せただけだ。特別な技巧や材料を必要としない、素朴な菓子で。平凡でありふれた物の価値を。

 

 だいたい、小麦なんて日常的に口にしているのだ。

 こんな風に言われなくても分かっていなければいけなかった。感心したような呆れのような、反省のような。表し難い気持ちになった少女は、ナイフを動かしながら笑う。

 

「変な人」

「悪かったな」

 

 番兵の少年は憎まれ口に笑顔で返す。

 その瞬間、少女は大人ぶった彼の顔に年相応の少年らしさを見た気がした。

 元々さして変わらない年頃だ。四つか、五つか。何十年もあるだろう長い人生からすれば数年は誤差みたいなもので、その程度の差で子ども扱いされるのはやはり心外である。

 なにかのリズムが狂う。奇妙な気持ちになる。

 心中を表現できずフォークを動かしてひたすらモグモグしていると、皿が空になって我に返った。なんてはしたない真似を――という今更ながらの後悔は目の前に差し出された二皿目によって中断された。

 

「一人でがっついてないで妹さんにも持ってってやってくれ。というか元々はあの子に食わせるつもりだったんだが……」

「が……がっついてないわよ! バカじゃないの!?」

「ああ……うん。貞淑さが足りないな、お嬢ちゃん(リトルガール)は。教育係の人の苦労が偲ばれるよ。ほんとに」

 

 どうでもよさそうにそう言うと、番兵の少年は後片付けを始めてしまった。

 カーッと顔が紅潮するのを少女は自覚した。

 腹立たしい態度だった。

 また女児(リトルガール)と言った。二度もだ。

 持たされた皿を手に大股で広間に戻る。怒れる姉の様子に唖然としている妹のテーブルに皿を置いて、その最中もやはり腸は煮えくり返る。本当にムカつく。

 

「あ、姉上……?」

「何!?」

「この食べ物はいったい……?」

温かい塊(ホットケーキ)よ!」

 

 訳が分からない、といった当惑顔の妹だったが次第に――徐々に表情を柔らかくした。その様子はまるで自然で、どこにもぎこちなさはなかった。

 どこか器械仕掛けのようだったはずの妹は、何かを思い出したように笑った。

 

「おかしな名前ですね。あの男が作ったのですか?」

「そ、そう。あのヤローが作ったの。東洋ではこれがパンケーキなのだそうよ」

「そうでしたか……なるほど」

 

 頷くや、妹は迷いなく温かい塊(ホットケーキ)を頬張った。

 一口、二口と無言で平らげていく。

 生き生きとした目で、まるで普通の子供のように。

 

 分からない。

 姉には何も分からなかった。

 果たして妹に何が欠落していたのか。何がそれを埋めたのかも。

 あの奇妙な黒髪の少年の素性も。

 

 それでも、彼女は弾かれたように踵を返し、足早に厨房へと向かった。

 何も分からないまでもそうすべきだと思った。

 ただ必要だと感じたのだ。彼のような人間が自分達には必要なのだと。

 

 平民なら使用人にでも取り立ててやればいい。

 それくらいの我儘は許される立場だ。それで何が変わるかはやはり分からなかったが、誰にとってもいい結果になる気がした。妹にも、自分にも。

 

 

 

 厨房の戸口に立ち、少年の名を呼ぼうとした。

 呼ぼうとして、彼が名乗らなかったことにまで思いが及んだ。

 自分が名乗らなかったことにも。

 

 

 がらんとした厨房に彼の姿は無く、

 綺麗に片づけられたキッチンには、ただ甘い香りだけが少しだけ残っていた。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 そういえば、人に興味を抱いた経験があまり無いのかもしれない。

 

 

 

 車輪のたてるゴトゴトという規則的な音を聞きながら、銀髪の美しい少女は頬杖をついて馬車に揺られていた。

 車窓からは夕陽が差し込んでいる。結局、その後は老執事に散々怒られた。こってり絞られた後、そのままあの田舎町を後にすることになった。番兵の少年を探す時間もなく、そもそも探そうにも少女には何の手掛かりも無かった。

 

「トビアス」

 

 車窓に視線を向けたまま、少女は向かいの座席に座っている執事を呼んだ。

 

「はい」

 

 老執事は目を伏せたまま応答した。見やれば、古木の年輪を思わせる皺を刻んだ顔は滅茶苦茶に疲れた顔をしていた。やっぱり愛想がないが、彼の無愛想はいつものことなので気にせず、少女は翡翠の瞳を車窓へ戻しながら言葉を紡いだ。

 

「勉強するわ」

「は?」

「ちゃんと勉学に励むと言ったの。そうしたら秋にはもう一度連れて行ってくれるのでしょう? あの街に」

「それは……姫様の努力次第でもありますし、果たして都合が付くかどうか」

「付けるのよ。さもないとアナタの失態を宮中に言いふらして回ることになるわね」

「ご勘弁を」

 

 やれやれ、と老執事は肩をすくめる。幼い皇女が何を触れ回ったところで大人達は本気にしないだろうが、そこはお互いに分かっている。

 なんだかんだ彼は甘いのだ。不自然なよそよそしさはあっても、態度の裏に幾ばくかの思いやりや情が見え隠れする。その彼が必要だと言うのなら勉学は必要なのだろうし、武器にもなるのだろうと素直に思えた。何に使うのかまでは分からないまでも。

 

 少女はお伽噺の本、世界樹の書(ワールド・ツリー)を夕日の中で広げた。

 

 母の荷物に紛れていたものを借り受けたのだ。同じ本を既に与えられてはいたが、生憎と皇都の城のどこかに投げっぱなしでちゃんと読んだこともなかった。

 勉学に励むアピール、ではない。単純に、道すがら読んでみてもいいかもしれないと思っただけだ。その程度には神学に興味が出てきた。

 

 その書に、例の東洋人らしき御使いも登場するのだとも知っている。

 

 あの番兵の少年がその御使いだとは思わない。

 それはあまりにも馬鹿げた空想で、あんな意地の悪そうな――くたびれた印象のある少年がまさか、そんな。

 

 しかし、少なくとも夢で見た彼はあの少年なのだと、少女は信じることにした。本当のところは分からないし、世界には分からないことがきっとまだ沢山ある。

 もしかしたらまかり間違って、何かの奇跡が重なった末にそうなったということも、なくはないのかもしれない。万に一つ。そして、また会えるかもしれない。

 

 そうしたらそれはもう、きっと運命に違いない。

 

 世界樹の書(ワールド・ツリー)のびっちりと文字で埋まった最初の頁に顔をしかめながら、少女――ミラベルは座席の隅で眠っている妹の寝顔を見た。

 少し不気味だすら思っていた妹の顔は穏やかで、見ている自分まで暖かな気持ちになれるものだ。次も妹と一緒に来よう、とミラベルは思った。

 

 もっと日常的に会う機会を増やしても良いかもしれない、とも。

 

 

 あと、貞淑さを身に付けよう――

 もう少し礼法の授業にも精を出そうと、彼女は心に決めた。

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