16.往還門
異世界人が家のリビングで新聞を読んでいる。
カタリナ・ルースを現世に連れて来てしまって二日目の朝、ソファーで目覚めた俺が見た最初の光景がそれだった。昨日、ショッピングモールの本屋で買った英語の新聞だ。
昨夜遅くに使い方を教えたテレビは相も変わらずCNNなんぞを映しているし、同様に使い方を教えたパソコンには、ウィキペディアや辞書のウインドウが開きっぱなしだ。
いくらウッドランド人が英語に堪能であるとはいえ、朝早くから異文化について勉強する熱心さはちょっと理解できそうない。
遥か昔、俺が異世界に飛ばされた最初の日にやった事と言えば、モンスターを探したり真水の確保に勤しんだりしたくらいだった。残念ながら、殺せば金目の物をドロップする生物はどこにも見当たらなかったし、やっとのことで見つけた川はとても飲めるような色をしていなかったのだが。
とにかく、まず生きる術を確保するのに必死だった気がする。
仮に、真っ先に街を見つけたとしても本を読もうという気にはならなかっただろう。俺が転移した頃のあの世界では、現地で独自発達した言語が用いられていたため、そもそも現地人との意思疎通が成立しなかった。通訳なんて都合の良い存在もない。
当時の俺にとって「街」とは、見たこともない粗雑な建築様式の建物が並び、異様な服装をした、言葉の通じない人々が住んでいるような場所でしかなかった。
とてもではないが、異世界の文化に興味がそそられるような状況とは言えない。
その点、カタリナ嬢は大変に肝が据わっている。
結局、彼女が取り乱したのはこちらの世界で目覚めた直後だけだ。
男物のワイシャツを着て新聞を広げる姿には、何だかよく分からない凄みのようなものすらある。
「時に東洋人、銃という武器を知っていますか」
「……ああ、知ってる」
朝から耳にする第一声としてはあまりにも殺伐とし過ぎていやしないだろうか。
重い瞼をどうにかして持ち上げようと努力していた俺は、コーヒーを啜りながら応答した。
「鉄の礫を飛ばす兵器。こんな仕組みの武器はウッドランドには存在しません。銃だけでなく、こちらの世界に存在する兵器は、悉くが我々の世界の常識を凌駕しています。もしこれらを入手して戦力とできれば、他の皇族達に対する大幅なアドバンテージ……いえ、うまくすれば皇国をひっくり返す事だって可能かもしれませんわ」
「いや、それは難しい」
そもそも日本じゃ銃は手に入らないし、万が一そんな事になったら俺は止める。
が、それ以前にカタリナの目論見には致命的な読み違えがある。
「この世界の武器じゃ騎士は倒せない。魔力障壁があるからな」
ウッドランドの平均的な騎士階級にある人間は、たいていは魔素を操作して身体能力を強化しているため、銃を構えたところで避けられてしまう。
よしんば当てたとしても、身体強化の一環として魔力の障壁を身に纏っている彼らに銃弾は届かない。魔素で構成されているこの障壁の突破は、単なる物体でしかない銃弾には不可能だからだ。
これを貫通するには武器を手で持ち、人の手から魔素を通す必要がある。
だからこそ、あの異世界では武器としての飛び道具は全く発達していない。弓を除けば、ほぼ皆無といっても良いだろう。
とはいえ、さすがに大口径の対物火器やミサイルなんかを撃ち込めば倒せるかもしれないが、試したことはないので断言はできない。
「なるほど、こちらの世界の武器は障壁を突破出来るものとばかり思っていましたが、そもそも魔法が存在しない世界であることを失念していましたわ」
「まあ、毒ガスだとか地雷だとかを持っていけば別かもしれないが、素直に考えれば役に立たないだろうな」
或いは、銃弾一発一発に手で魔素を込める、とかそういう運用はできるかもしれない。だが、世界間の技術バランスを憂慮して往還門を守っている身としてはそんなものは絶対に許容出来ないので口にはしない。
「残念ですわ。妙案だと思ったのですが」
「妙案? 国家転覆のプランにしか聞こえなかったが……」
「殿下が今のような状況にあるのも、元を辿ればウッドランド帝が元凶です。不穏当な考えを抱いてしまっても不思議はありませんわ」
「お前には国への忠誠心とかはないのか」
「まるでありませんわ」
「ああ、そう」
この元侍女なら毒ガスくらいは執念で作ってしまうかもしれない。念のためパソコンの電源を落としておこう。
画面にメイドカフェのサイトが映っていたような気がしたが、なるべく見ないようにしてシャットダウンする。個人の性癖について詮索するのはよそう。
「しかし、やる事がない」
カタリナの具合は見た目の上では快復しているように見えるが、さすがに一日だけでは療養期間としては少々心もとない。もう一日くらいはこちらの世界で過ごした方が良いだろうか。
たまには部屋の掃除でもしておくか、と思ったものの、どうやら半年前の俺も同じ事を考えたようで部屋は綺麗なままだ。俺の体感と実際に経過した時間が乖離しているだけで、この部屋はつい先日掃除されたばかりなのである。
「あなた、こちらの世界では学生だったのでしょう。学校に行けばよろしいのでは?」
「もう場所も覚えてないから遠慮しとくよ」
頬杖をついて呆然と外の景色を眺めていると、思わず自分が異世界に来ているような気分になってくる。
セントレアでならやる事は山ほどある……かどうかは疑わしいが、少なくとも皇女殿下に飯を作ったり皇女殿下に纏わりつかれたり、皇女殿下の話の相手をしたりしていたら時間なんてあっという間に過ぎてしまうものだった。
考えてみれば、マリーと全く顔を合わせない日なんてただの一度もなかった。同じ詰め所で暮らしているのだから当たり前だが、彼女が門番になってからは常に一緒に居たような気さえしてくる。
それで情が移らないわけがない。
冷静な自分が、冷めた声で指摘する。
情が移ってしまったから、
マリーに肩入れをして、彼女に敵対する者を全員始末する?
いやいや、実に有り得ない。そこまで行くともはや狂気だ。
一体何人斬らなくてはいけないのか見当もつかない。そもそも実現するかも疑問だ。
そんなものは門番の仕事ではない。
だったら、どうする。
どうすれば何もかもが丸く収まるのだろうか。
「またそんな顔を」
言われて顔を上げると、カタリナの顔が目と鼻の先にあった。
吐息がかかりそうなほど近い。
「飄々としているようでいて、そんなに図太い人ではないのですね、あなたは」
「……そう言われると逆に否定したくなってくるな」
「しても構いませんわよ。信じませんけど」
遠回しに女々しいと言われているような気がする。
目の前でにっこりと笑う赤毛の少女は、俺の思考を見透かしたかのように言った。
「あなたの悩みは、恐らくわたくしに解消できる類のものではありません。ですが、その悩みの原因を明確にすることはできますわ」
「ほう。言ってみろ」
「それは、ずばり……愛です!」
俺は即座にカタリナの鼻を摘んだ。
「なにをするんですか」
「お前はお脳にまで精霊が回ってる気の毒な人なのか?」
「失礼な。わたくしは正気です」
「尚更悪いわ」
意外と摘みやすい鼻を軽く引っ張る。
「俺にそういう趣味はない。むしろ子供は嫌いだ」
「ふ……語るに落ちましたわね」
「何?」
「わたくしは殿下のことだとは一言も言っていませんわ」
したり顔がイラついたので今度は両頬を引っ張る。
「あまり伸びないな」
「照れ隠しにしては斬新ですわね」
「実態は憂さ晴らしだから、そりゃ斬新だろうよ」
「では大人の女性が好みだとでも言うんですか?」
好みの女性。
無意識に思い浮かべたのは、遥か昔に別れた仲間の少女の顔だった。顔とは言っても、もう殆ど思い出すことは出来ない。僅かに覚えているのは、口元や、瞳と髪の色くらいなものだ。金髪で碧眼。マリーと同じだ。
「……おかしい。余計にモヤモヤしてきた」
「へえ?」
「いや、でも歳は、歳は確か同じくらいだったような気がするから違う。違うはずだ」
顔を押さえて苦悩する。
無様ながらに数百年を生きてきたというのに、自分がまるで信じられない。
「まあ、あなたのような朴念仁が女性とどうこうなるというのは考えられませんけれど、殿下に惹かれる気持ちはわたくしにもよく分かりますわ」
「ちょっと待て。それマジで違うから。違うから」
「あのつぶらな瞳、雪のように白い肌……ああっ、もう食べてしまいたい!」
「聞いちゃいねえ」
唐突に喚きだしたかと思えば、自分の胸をかき抱いて身悶えし始めるカタリナ。
本当にこの女はどうかしているんじゃないだろうか。
「はぁぁ……と、まあ、要するにもう少し素直になってもよろしいのではないかと言いたいわけです」
「何でもいいけど俺のシャツでよだれ拭うのやめてくんない?」
■
その後、カタリナはちょっと横になるとだけ言い残してベッドで熟睡してしまった。何だかんだ元気そうに見えながらも、やはりまだ本調子ではないのだろう。
今は休ませてやりたい。
一方の俺はといえば、その寝室のクローゼットの前で棒立ちしている。別にカタリナの寝息に興味があるのではなく、考え事をしているだけだ。
何の変哲もないクローゼットの扉の向こうは、どういう理屈かは分からないもののセントレアの詰め所の地下室に繋がっているのだ。もう何百何千と行き来を繰り返したので、最初は戸惑ったその事実も今はすんなり飲み込めている。いくら考えたところで仕組みが分かるとも思えないので、それはいい。
だが、どうしても腑に落ちない点がひとつだけある。
それは、片方の世界に居る間はもう片方の世界の時間が経過しない、という点だ。
仮に、セントレアでの一年がこちらの世界での一秒に満たないのだと仮定する。これだけなら、まあ、全然納得は出来ないが、まだ分からないでもない。
問題は逆のパターンだ。俺がこちらの世界で何日か過ごしたら、先程の仮定を踏まえた場合、戻った時には何十万年か経っていることになるはずなのだが、実際にセントレアに戻っても、あちらの時間は一分も経過していないのである。
これは矛盾している。時間の流れ方が違うとか、そういう次元の話ではない。
俺が片方の世界を離れた瞬間、離れた方の世界の時間が静止しているということになってしまう。そんな馬鹿げた事はありえない。いや、異世界の存在自体が馬鹿げているのだが、今更それはいい。
往還門が開いてからというもの、出入りとは別に何百回かの実験も行っているが、この結果が変わったことは一度もない。
だが、今回はいつもと違う点がある。
カタリナの存在だ。
俺はセントレアの詰め所から彼女を背負って門をくぐった。俺と彼女はほぼ同時に門を通ったと言っていいだろう。なのでクローゼットから出現した時も、カタリナは俺の背中に居たままだった。
では、戻るタイミングをずらしたらどうなるのだろう。
カタリナに先に門をくぐってもらい、数分待ってから俺も門に入る。この場合、俺達は一体どれだけの時間差であちらの世界に出るのだろうか。
或いは、やはり二人同時に門から出現することになるのだろうか。
俺は往還門を単なる世界間の移動手段としてしか見ていなかったが、それは大きな勘違いだったのかもしれない。
もしかすると、もっと別の意味がある存在なのではないだろうか。
もうすぐ矛盾の答えが出るかもしれない。
俺は言い知れない予感を覚えながら、何の変哲もないクローゼットの前で、やはり棒立ちのまま扉を見つめ続けた。




