19.巨茴香の種火④
かつて異界で生活していた高梨明人は、決して真面目な学生ではなかった筈だ。それは、彼の成れの果てである俺が千年を経てさえ大した教養を持たないことからも容易に推測できる。田舎門番暮らしの中で勉学を行う機会が数年に一度くらいはあったとしても、本能レベルで忌避してしまう程度に俺は勉強が好きではない。
だが、そんな俺でさえプロメテウスの火くらいは知っている。異界ではどこぞの国の神話の一節、或いは、暗喩として特定の技術を指す語である。
元々は天上の神々のものだった火という概念を、プロメテウスという神様は慈悲深くも人間に与えて下さったのだそうだ。まあ、それが果たして善行だったのか悪徳だったのかは、正直、俺の知るところではない。俺はギリシャ神話を信じてもいない。俺が知る神のような何かは腰布を巻いて髭を生やした半裸の男ではなかったし、そもそもが人の姿をしていなかった。
人が火を手に入れたのは、結局のところ単純に人が知恵を持つ生き物だったからに他ならないと俺は思う。少なくとも、神とやらがくれて寄越したものではない筈だ。自分の子供に料理を教えたいからといって、いきなり火の番を任せる親は居まい。神々がそこらの主婦より向こう見ずでもなければその筈だ。
つまりプロメテウス氏は順序を間違えている。火を人間に与えたいのなら、巨茴香に仕込んだ種火を渡すのではなく、単純に火の起こし方を教えるだけで良かった。おおよその物事がそうであるように、ちゃんと順序どおりに。ひょっとするとそうしてくれたから旧石器時代の原人が火起こしを習得したのかもしれないが、だとしてもやはり俺の知るところではない。
俺が知っているのは、かくて文明と光を得た人間達が、火を思うさま活用した果てに自分達を何回か滅ぼせる程度の武器を生み出したという事くらいだ。が、それだって別に詳しいわけではない。実物をこの目で見たことがあるわけではないし、実際に使われたのも俺が生まれる遥か以前の話で、歴史上にしか登場しなかったと記憶している。
異界の人々は自ずからその武器を封印したのだ。神の火の末裔を。
しかし今、俺の前にはその武器の動作原理が魔術式という形で事細かに記載されている。生まれた世界ですらない、別の世界の片田舎で。パン屋の上階で。答えを識る少女の私室で。黒板とチョークなどという、何かの冗談としか思えない方法で。
「本当に、悪い冗談だ」
端的な感想を述べた俺を、赤い眼鏡の少女が意味ありげな様子で見守っていた。彼女が何を懸念しているのかは察せられるが、すぐさま事を起こそうという気は今のところ無い。ただ、半刻後も変わらずそうである自信も全く無いのだが。
怒りのような呆れのような、言い難い感情が腑の底から湧き上がってきている。
「……いったいどうやって作ったんだ。現界にも似た元素があるのか?」
「原理は同一ですが、使用されているのは異界で一般的に使用されているものとは別の元素です。火葬は異界の定義でいう九十三番目の元素を生成して爆縮、分裂反応を誘発させます」
元素番号で言われても分からないが、知りたくもないので触れない。
要は分裂反応が起きる鉱石であれば何でもいいのだろう。現界中の鉱脈を掘り起こして少量でも見付けてしまえば、魔素を同じ組成に物質転換して幾らでも増やせる。好きなだけ実験ができる。魔素から水や石を生み出すのと理屈はそう変わらない。推測だが――この魔法で消費する魔素も、そういった基礎的な破壊魔法と同程度だろう。寒心に堪えない。
改めて考えてみれば、現界では重力の操作やら限定的ながら瞬間移動まで魔術で実現している。根元の方向性が異なっていただけで、発想さえあれば辿り着けない地点ではなかったのだろう。現にそうなった。
「射程と威力は?」
「威力に関してはある程度調整できるようですが、最低でも一撃で都市が消えるのは間違いありません。単体の射程は……約二十マイルほどのようです」
つまり三十キロメートル強だ。人類種が行使可能な破壊魔法としては異例の長射程だが、異界の兵器と比べれば遥かに劣る。むしろ、威力を考慮すれば欠陥魔法と言っていいくらいだ。余波で術者が危険な距離である。
「……不幸中の幸いか」
僅かに安堵して額に手を当てると、この季節だというのに汗ばんでいた。
構わずに前髪を掻き上げ、大きく息を吐く。
猶予はある。
そう、強く自分を説得する。
「朗報はまだあります」
元凶たる赤い立方体、火葬を掌に載せた少女――カタリナは、黒板の術式にチョークで幾つかの丸を描いた。
「分裂反応を引き起こす部分の術式が不安定なんです。この完成度では数回……いえ、数十回に一度程度しか想定の結果を得られないと考えられます」
「つまり……不発する? 未完成ってことか?」
「そう捉えて構わないと思います。これでは、まだ実験の段階を出ていない魔法と言えるでしょうね」
「そうか。十分な脅威に違いないが……最悪の一歩手前ってところだな」
俺が即断的に解決を図ろうとはしなかったからか、カタリナはチョークを置くと、安堵のため息を漏らした。
「……最悪の手前、ですか。最悪だとどうなると思いますか?」
「異界が滅ぶ」
結論から述べると、彼女は眉をひそめた。
「今までの皇国の戦争で使われてない……というか、使おうとした形跡もない以上、そもそも現界で使う為に作ったわけじゃないんだろう。皇帝もそこまで見境をなくしたわけじゃないらしい。そもそも現界の人間相手にはあからさまにオーバーキルだし、この大陸を汚染するわけにもいかない」
「では……例の予知ですか? 現界と異界が繋がるという未来に備えたものだと?」
「恐らくは」
皇帝と相まみえた際、奴は俺にそんな未来を語った。
両世界で戦端が開かれ、現界側が敗北する、などと。確かに現時点で両世界が戦えば、そうなるだろうことは想像に難くない。しかし、火葬が長距離攻撃能力を備えたら話は全く違ってくる。
「異界の技術じゃ破壊魔法を迎撃できない。そもそも探知することすら不可能だ。何が起きてるのかも分からないまま一方的に攻撃されるだろう」
しかも、異界の兵器と違い火葬は魔法――無尽蔵だ。魔素がある限り好きなだけ放つことができる。皇帝がどこまでやるつもりなのかは分からないものの、仮に先制攻撃するなら反撃の余地が残らない程度にやらなければ応酬になる。奴はそこまで抜けていない。
「カタリナ、頼みがある」
珍しく眼鏡を取り去った赤毛の少女は、首の動きだけで先を促した。
俺は一瞬だけ思考を走らせると、最大限、現状に配慮した対処を口にする。
「術式を改変してくれ。生成する元素を別のものに変えるだけでいい」
「……それでは皇族を説得する材料にならない可能性があります」
「分かってる」
いくら言葉を尽くして火葬が恐ろしい破壊魔法だと語っても、なら試しに撃ってみろと言われてしまえばそこで話が終わってしまう。
しかし、たとえ現状では不発の可能性が高いとしても、こんな術式を拡散させるわけにはいかない。今は未完成の術式でも、着想が存在する限りいつか誰かが完成させてしまうかもしれない。根本部分を隠蔽する必要がある。
本当は今すぐに破壊してしまいたい。一刻も早くこの世から完全に抹消したいという欲求は否定し切れない。だが、今すぐにこの魔法を誰かが使用しようとしているわけでもない。その一点だけが、俺の剣をギリギリのラインで留めてくれている。
ならば、火葬は必要だ。まだ。
そんな俺の考えを理解してくれたらしいカタリナは、今度は呆れたような溜息を交えて頷いた。
「……承りました。この触媒だけでなく、会合に提出する資料もできるだけぼかした表現に置き換えておきます。記録も処分しましょう」
「悪い」
「いいえ。何となく、貴方ならそう言うんじゃないかとは思ってましたから」
散々面倒を掛けておきながらこの始末なのだ。
もっと文句を言ってもいいところだが、彼女はさっぱりしたものだった。
頭が冷えてきたこともあってか、今更になってカタリナに申し訳なさを感じる。
もし彼女が居なかったらと考えると、ぞっとする。
叡智の福音なしには火葬の解析は出来なかっただろうし、これほど俺の考えを理解してくれている人間は他に居ない。だから頼りにしていると言えば聞こえはいいが、都合よく甘えてしまっているのが実情なのかもしれない。
ここのところ彼女がピリピリした様子だったのも無理からぬ話だ。一方的にこんな魔法を押し付けられて、当の俺は能天気に過ごしていたわけだ。腹も立つだろう。
「本当にすまん」
「なんです? 急に」
「全部任せっきりにしちゃってただろ。いくらなんでもあんまりだった。すまん」
素直に頭を下げると、カタリナは少々慌てたように眼鏡を掛け直した。
「い、いえっ……別にいいんですよ、これくらい。アキトだって忙しかったわけですから……お仕事とか、色々」
「深刻さの桁が違うだろ。何か手伝えることだってあったかもしれないし……」
街の移民問題が火葬より軽いと言い切るわけではないが、移民問題の為に可処分時間の全てを働いて過ごしたわけでもない。本当に能天気に菓子などを焼いていたりしていたのだから、申し開きの言葉もなかった。
改めて冷静になって見回してみれば、カタリナの私室は何もなかった以前に比べると異様に雑然としていた。黒板に紙束の山、魔導書の類が乱雑に積まれていて、ベッドや椅子が埋もれてしまっている。人家らしい痕跡は床に置かれたマグカップくらいなものだった。普段どこで寝ているのだろうか――と視線を彷徨わせると、部屋の隅に毛布と着替えが投げ出されていた。
「……寝不足にもなるわな、そりゃ」
「お恥ずかしい限りで……」
女性の部屋を不躾に観察しておいて失礼極まる感想だったが、顔を赤らめて俯く仕草が少し可愛らしくもあった。
「異界で寝てくるなら付き合うぞ」
「大丈夫です。どうせなら一気に資料を仕上げてしまいたいので……会合の席にも出させて頂くつもりですし、しばらくは……明日の夜くらいまでは頑張ります」
「そうか? でも、あんまり無理はしないでくれよ」
「ええ……? なんだか……今日のアキトは妙に優しいですね……ちょっと気味が悪いというか……らしくないというか」
カタリナは持病持ちなのでその点も本気で心配ではあるのだが、本人は俺の心配を信じてくれてはいないようだった。普段の行いが悪いのかもしれない。
「申し訳ないとも思うし、本当に感謝してるんだ。これでも」
「なにを水臭いことを」
「はは……本当は日頃の感謝の意味も兼ねて、お前を誘いたかったんだけどな。明日」
「……えっ?」
俺が未練ったらしい台詞を吐くと、カタリナは目を瞠って硬直した。
「しかし色々とそんな場合じゃなくなってきたからな……残念だが、一旦見送りだ」
「…………そう……ですね。残念です」
どこかぼうっとした調子で相槌を打つ様子を見るにも、やはり体調が心配である。
気安過ぎる所作かとは思いつつも、やや呆けているカタリナの頬に手で触れた。瞬間、カタリナは僅かに――ほんの僅かに跳ねるように身を強張らせた。が、怒りはせず、眉と口端の角度を微妙に傾けるだけだった。
触れても羽毛か何かのように感触が薄い滑らかな肌だったが、やはり少々熱を帯びているようにも思える。
「本当に大丈夫か?」
「だ、大丈夫……ですよ?」
疑問形だ。
そんな言葉を素直に受け取っていいものか――思案していると、カタリナは己の頬に触れる俺の手に自分の手を重ね、優しく頬を寄せた。
途端、心臓が跳ねた。今更、自分のやっていることがとんでもなく大胆な行動だったと気付かされる。かといって手を引っ込める気には全くならない。
理由は分からない。
「大丈夫なので……頑張りますので。今はちょっとだけ、こうさせてください」
「……あ、ああ」
狼狽えて頷くくらいしか、できなかった。
それからの数分間は、正直よく覚えていない。
気が付けば俺は扉の閉じたカタリナの部屋の前に居て、後ろ手に扉を閉めただろうカタリナの気配だけを、木板一枚挟んだ向こう側に感じ取っていた。
今は、互いにやるべき事がある。
未練を引き剥がすように、俺は足を動かして床板を踏む。今この瞬間も俺を助けてくれているカタリナの為にも、俺は俺の成すべき事を成さなくてはならない。
そう強く心に決めて歩き出した俺の背後、扉の向こうの気配も、迷いなく同時に動き出していた。




