17.巨茴香の種火②
大陸北西部のこの地方は、気温の低さについてだけは折り紙付きである。
午後の早い時間だというのに妙に暗いと思ったら、外では細かな雪が降っていた。
酒場から出てようやく天気に気付いた俺は、ふと思い出して外套の懐から褐色の革手袋を取り出し、すぐ隣でぼんやり歩く小さい皇女様に差し出した。
「冷えるから」
「む……ああ、えっと……お借りする」
「おう。サイズは我慢してくれ」
風邪でもひいたかのように赤ら顔で呆け気味のマリーはおずおずと手袋を受け取ると、たどたどしい動作で手袋をつけた。
「ふふっ、本当だ。すごく大きい」
傍目にも寸法が合っておらずブカブカで、色も青や白を基調としている彼女の服装に全くマッチしていない。が、手のひらを握ったり開いたりするマリーの表情はどこか満足げな微笑みを湛えている。
不思議だ。
こんな小さな出来事にさえ、俺は表しようのない充足を感じるのだ。
もし、仮に。仮に親愛の情というものがこんな俺にも存在するのなら、彼女に対するものこそがまさにそれなのだろう。
最初からそうだったわけではない。尊大な子供だとか、迷惑な子供だとか、彼女が門番になった当初はその程度にしか思わなかったように記憶している。
仕事に真面目に取り組むさまや、おっかなびっくり素振りなどをしている様子、美味そうに人の作った飯を食らう姿を見ているうちに、徐々に変わっていった。徐々に、この小さな皇女様の存在は俺の中で大きくなっていった。
彼女に対しては相変わらず保護者のような心持ちでいる。
この子が俺やカタリナ、ミラベルと同じくらいの年頃になれば、やはり驚くような美人になっているんだろうなとか。いずれは年上になるんだろうな、とか。永久に大人に成り切ることのない俺を置いて、先に大人になるんだろうなだとか。思わずそんなことを考えてしまうくらいには保護者気取りだ。
できればずっと傍で見守り続けたい。
この街で。同僚として。相棒として。そう思う。
思う反面、それが不可能であることを俺は知っている。
俺達を取り巻く状況がそれを許さない。
決心が鈍らないうちに切り出す。
「マリー」
返事はなかった。
俺を向いた碧の両目が、焦点をこちらに合わせただけだった。先んじて俺の顔を眺めていたらしい少女は、何かを予感したかのように表情を少しだけ硬く変える。
期待、恐れ。
それらに近しい感情が見て取れた。だが、この子が俺に何を期待するというのか。
馬鹿馬鹿しい。
「降臨節が終わったら……まあ落ち着いたら、しばらく街を留守にする」
「…………なに?」
「ちょいと野暮用だな。戻るのは……そうだな。早くても年明けにはなるか」
「なんだそれは。いったい何処へ行くのだ」
全くの意外、といった顔でマリーは肩の力を抜く。
彼女がどんな言葉を想定していたのかは分からない。
ただ俺は、決めたことだけを彼女へ告げる。
「ロスペール」
やはり返事はない。
代わりに、信じられないほど強い力で腕を引かれた。彼女が俺なんぞよりよほど膨大な魔力を持つ魔力使いであることを差し引いても、驚くべき力が腕を掴む手に込められている。
マリアージュという少女は子供だが、子供らしく生きてはいない。ロスペールが戦場であることも、どういう状況で、今何が起きているかもちゃんと把握している。
その上で俺にかけるべき言葉を探し、見付からず、こうやって態度で示すしかなかったのだろう。俺も「痛い」とか「離して欲しい」とか、何か言えることはある筈なのだが、何も言えないでいた。
以前、彼女を置いて皇都に向かおうとした時。
マリーは俺に剣を向けてまで己の力量を示し、その道程に同行した。もしまた彼女を置いて街を離れようとすれば、近しい反応が返ってくるだろうことは想像に難くない。
だが違う。
あの時とは何もかもが違う。
普段のこの皇女様では絶対に有り得ない――今にも泣き出しそうな顔で俺を見上げる少女に、言う。
「一緒に来てくれないか」
悲しみが驚きに変わる、鮮やかな瞬間を俺は見た。
唇が開いて吐息が言葉に変わるより早く、畳み掛けるように、言い訳のように、俺は言葉を重ねる。
「い、いや別に一緒に戦ってくれとか、そういう話じゃないんだ。んな危ないことをさせるつもりは全然ないんだが、こう、なんだ。セントレアに居ても安全じゃないってことが前回のことで分かったし、やっぱり近くに居てもらわないと守れるものも守れないだろ? 仕事だってリコリスがやってくれるだろうし、往還門だって……」
自分で言っておきながら僅かに言葉に詰まった。忘れていた。
少しだけ考え、俺は声を張る。
「ああ! あんなもん、とりあえず一旦埋めちまおう! 埋めちまえば誰も近寄れないだろ! 大丈夫大丈夫!」
ぐっと拳を握り、熱弁を振るう俺の姿がよほど可笑しかったらしい。
「っふ」
マリーは吹き出し、
「ふあははははっ! 埋める!? 埋めるのかっ!? あなたが、たった一人で何百年も……千年も守ってきたものを!? そんな、そんなにあっさり、埋めるって!? あははははっ!」
腹を抱えて爆笑した。
俺は呆気にとられる他ない。
考えてみれば、この子がこんな風に爆笑する姿を俺は見た事がなかった。気負う顔や、悩む顔。笑顔や怒った顔。色んな顔を見てきたつもりだったが、涙を滲ませんばかりの勢いで笑い声を上げる姿など、想像したこともなかった。
ひと通り笑ったマリーは目尻を拭いつつ、未だ込み上げる笑いに言葉を途切れさせながらも、何度も頷いた。
「……うん、行く。一緒に行くよ。勿論。わたしはタカナシ殿の相棒なのだから」
「そうだな……ああ。そうだった。ありがとう、マリー」
自分の目線よりも随分低い位置に居る皇女様に、俺は心の底から感謝の言葉を述べる。守れるものも守れない、と言ったばかりの口の中に、まだ言葉を残したまま。
本当は彼女の為じゃない。俺自身の為に彼女が必要なのだ。
マリーだけじゃない。この街にある全てのものが、関わってきた全てのものと出来事が、今の俺を形作っている。支えてくれている。離れるなんてことはもう出来ない。
そうである限り、俺には何だってできる気がするのだ。
立ち上がってまた戦える。
何度だろうと。何者とだろうと。
そう口にしたら、もしかすると俺とこの子の関係も変わるのかも知れない。しかし保護者気取りの俺は、やはり本音を口にはしなかった。
「……でも驚いた。あなたがそんなことを言ってくれるとは思わなかった。なにか心境の変化でもあったのだろうか」
「まあ、色々と……な」
「竜種とやらと戦うにせよ、それなりの算段があるのだな」
「ああ。君や他の連中に迷惑をかけるつもりはないが、協力して貰いたいことは結構出てくると思う。申し訳ないが……」
「分かっている。わたしにできることなら何でも言ってくれ。できることは……あまりないが……」
語尾が小さくなる。
明るかったマリーの表情が、再び沈み込んでいく。
「本当に……わたしの力など、たかが知れているな……」
「そんなことないだろ。アズルの時だってマリーが居なかったら大勢の人が困っただろうし、間違いなく死人が出てた。誇って良いことだ」
俺は直接見たわけではないのだが、信じ難いことにマリーは単独で傭兵数人を無力化している。その行動の結果として、フェオドールやアズルの衛兵が命を拾っていた。
言うまでもなく、これは何にも代え難い功績だ。人の命以上に重いものなどありはしないのだから。
「でも……わたしには姉上のような卓越した魔法の才能はない。カタリナのように人を動かすこともできなければ、サリッサのように武芸に秀でているわけでもない。あのふたりのように……あなたのように、福音を持っているわけでもない」
揺れる声に、俺は不穏な響きを感じ取る。
まさか、この子は――
「わたしは…………本当は……カタリナやサリッサが羨ましい。そんなふうに考えるのは間違っていると分かっていても、ひどく浅ましい考えだと思っても……そう考えない日はないくらいに」
絶対に駄目だ。
考えてはいけない事なのだと、そう切って捨てるべき場面だった。
「…………こんなこと、本当は言うつもりなかったのに」
だが彼女自身、自分の考えが間違っていると理解している。
でなければ俺の目を盗んで――既に往還門に触れていただろう。しかし、もしマリーがもう往還者になっていたのなら、まず叡智の福音を持つカタリナが真っ先に気付く。根拠はないが、俺にも分かるような気がする。
そんなことにはなっていないのだから、それで良いはずだ。敢えて厳しく切り捨てるようなことを言わなくても良いはずなのだ。
いや、或いは――俺は、心のどこかで――
やめよう。
自分がそれ以上馬鹿なことを考えないように、自戒の意味を込めて明るく切り出す。
「俺は、大人になった君と酒が飲みたいけどな」
「…………なに?」
「異界ではお酒は二十歳から飲むもんなんだよ。だから俺も昔は麦酒とか飲む大人に少し憧れがあったりしたんだ。酒場で酒飲んでるのが、なんか大人って感じがしてさ」
今思うと馬鹿馬鹿しい話である。
別に、大人であることと酒を飲む行為に因果関係はない。
唖然としているマリーに努めて明るく言う。
「でも俺は……たぶん麦酒を美味いと思うことはないんだろう。味覚がな、どうも子供舌のままなんだ。不思議なことに何百年経っても変わりゃしない。農夫のおっさん達がなんであんなもんを有難がってるのか、ついぞ分からないままだ」
「タカナシ殿、それは……重要なことなのか? ただの嗜好の話ではないのか?」
「重要だ。とても重要なことなんだよ、マリー。俺にとっては」
それを聞いたマリーは、意味を考えるようにゆっくり瞬きをした。俺は関係のない話をしているようでいて、その実、大事なことを伝えようと試みている。
「前に往還者が失うものの話をしたことがあるよな」
「……福音が司っているものの価値が分からなくなる、だったか」
「そうだ。俺は剣の、アリエッタは命の価値を見失った。皇帝も恐らく同じだ。君の父親は、たぶん時間の価値が分かっていない。だから千年も妄執に囚われ続けてる。今の一瞬一瞬にある大事なものに気付けない。目を向けることができないんだ。きっと」
「……父上」
マリーは憐れむように、悲しむように、呟いて目を伏せる。
「俺達は全てを得たから全てを失った。矛盾しているように聞こえるかもしれないけど、そういうことなんだ。剣の全てを得た俺は己で研鑽する可能性を失ったし、意義も分からなくなった。アリエッタは人として命を作る機能が備わっていないし、死ぬことができない。全知を得た人間は未知を失い、終いには感情も無くした。盾を得たはずの男は、最後には何を守ることもしなくなった」
ただ与えられただけの神の力は、俺達から少なからず人間性を奪った。
かつて俺達が辿った道筋は、そういう結末に続いていたのだ。
カタリナやサリッサも往還門に触れた瞬間、きっと大切な何かを失ってしまった。
「もし得ることが失うことと同じなら、きっと失われることで得られているものもあるんだ。たとえそれが汗でも涙でも、仮に血だったとしても、無くしてしまった俺達から見ればそれは凄く眩しいものなんだよ。だから俺は、君にそれを失って欲しくない」
伝えるのはとても難しい。
失っていない人間には理解し難いことだ。身近な人を失って初めて気付くことがあるように、身近であればあるほど見えなくなることもある。満腹の人間は買い物も控えめになる。腹が減らなければ食べ物の有難みを感じることもない。
マリーは思いを巡らせるように雪の降る空を見上げていたが、ふと思い当たったように俺へ目を戻した。
「……タカナシ殿にとっては、それが麦酒の味ということなのか」
「ひとつの例ではある。正直に言うと、実は葡萄酒の類も好きじゃない。何が美味いのかさっぱり分からないぜ」
辟易した顔でそう告げると、マリーは少しだけ笑顔を取り戻してくれた。
「ふふっ……そうか。やはり……やっぱりわたしには、まだ早いのかな」
「マリー?」
「……うん、わたしも麦酒は好きじゃない。葡萄酒も嫌い。分かるよ、少しだけ……分かった気がする」
肩をすくめてそう言う皇女様は、恐らく俺なんかよりも余程大人びた表情をしていた。寂しさや切なさに、ほんの僅かな喜びを混ぜたような微笑。
不思議と、視線が吸い寄せられた。
子供相手に何をやってる――などと思う反面、目を離せない自分を否定できない。心臓の鼓動も調子がおかしく、今になってじっとりとした手汗に気付く。自分が緊張していたのだと、俺はそこでようやく思い知った。
己に驚愕しながらマリーの顔を見つめていると、彼女はほんの一瞬だけ不思議そうな顔をしてから、俺を安心させようとでも思ったのか白い歯をこぼして笑った。
その様子からは、少なくとも危うさは感じない。
逸った真似はしないと思えた。俺の緊張の原因とそれが関係あるかは、別としても。
だから俺は、そう。きっと油断をしたのだろう。
不意に伸びてきた細い腕が自分の首に回されるのにも、サイズの合わない手袋がうなじに添えられるのにも、身体が全く反応しなかった。
頭一つではきかない高低差を、マリーは優しく緩やかな動作で零にした。気が付けば俺は前屈みになって、眼前にある目を閉じた皇女の細面を、焦点の合わない視界いっぱいに捉えていた。
柔らかな唇の感触があった。
他の全てが消し飛び、ただそれだけが、俺の世界の全てになった。
もはや我が目を疑おうと無駄な足掻きだった。
そして理解する。逃げようとも避けようともしなかった俺にはもう、保護者を気取る資格がなくなったのだと。最初からそれが逃げの口実に過ぎなかったのだとしても。
滅茶苦茶なリズムで早鐘を打つ心臓を黙らせることは、ちっぽけな俺の福音にはできない。かといって、背伸びをし過ぎてつま先立ちになってしまっている少女を抱き寄せることも、意気地も勇気も甲斐性も欠いている俺の、情けなく強張った手ではできない。そうすべきかどうかすら定まらない。
永遠にすら届きそうな葛藤の時間は、少女が街路に踵を落とす音で終わった。
彼女は――マリーは、自分でやっておきながら、自分のとった行動がまるで信じられないといった面持ちで口許を手で覆い、何もない地面に瞳を向けていた。
「…………いや……これはその…………えと……」
みるみるうちに羞恥に頬が染まっていく。
いや、事に及んだ瞬間から朱が差すなんてものではなかった。単に拍車がかかっただけだ。きっとそれは俺も同じで、夏の日差しに照り付けられたってこうはならないだろうという勢いで自分の顔が熱いのを自覚している。
なにか気の利いたことを言えと、俺の中の良心のようなものが主張する。主張しているのだが、かつて夢想したどのシチュエーションにもこんな場面はなかった。ただただ頭が真っ白になるばかりで、何も思い浮かばない。舌は動かない。
そうしていると、辛うじて考えを纏めたらしいマリーが潤んだ瞳で主張した。
「…………これは…………そう、前借り。前借りなのだ」
「前借り」
思考力を大半奪われている俺は、アホみたいにオウム返しをするしかない。
然るべき段階を三つか四つは飛ばされて行われた行為を指しているのは明らかなのだが、つまりどういう意味なのか。俺の脳は動作不良を起こして理解できないでいる。
「……お借りする」
そんな俺をどこまでも置き去りにして、尊大な口調に戻った皇女様は手袋を受け取った時とちょうど同じように告げるや否や、雪の舞う街路を一目散に走り去っていってしまった。あっという間に見えなくなってしまう。
「後で返すってことか?」
ひとり、本当にアホみたいに反芻する。
違うだろう。
降臨節を通じてほんの少しでも楽しい時間を過ごして欲しいと、俺はただそれだけを考えていた。間違いではないと今も思う。しかしそれは、俺の側から見た一方的な見方でもあった。願望と言っても良いかも知れない。
他方で変化を望んでいる人間だっている。その可能性にまで考えが及ばなかった。或いは、無視しようとした。答えの出ない、デッドロックに陥ることが分かっているからだ。
動悸はしばらく収まりそうもない。
うっすらと雪の積もった街路に視線を落としていた俺は、霞む息を吐いて踵を返す。詰め所に戻ってもマリーが困るだろうという、気遣いなんだか保身なんだか分からない考えが足を別の場所に向けようとしていた。
しかし、熱の冷めやらぬ耳で風切り音のような、あまり聞かない類の音を聞いた気がして雪空を仰いだ。すると、雪に混じって暗雲の隙間から降りてくる大きな影が見えた。
強く見覚えがある。
誰もが、一度目にしたら忘れないだろう。
全長百メートルはあろうかという、鮫を思わせる造形の灰色の船体。飛行艦などという、現界には似つかわしくないカテゴリーを持つ稀有な船。
――スキンファクシ。
第二皇子アーネストが運用している、世界でたった二隻しかない飛行艦のうちの一隻が、この田舎町に再び降り立とうとしていた。




