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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
四章 竜殺し
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14.乱戦④

 スポンジケーキを上手く焼くコツはいくつかあるのだが、うっかり見落としがちなのは器具に付いた水分や油分だ。卵を泡立てる際にこれらが残っていると卵の泡立ちが悪くなるのである。

 泡立ちが悪くなるということは、すなわちスポンジ生地の膨らみも悪くなるということだ。そうなったスポンジ生地の悲惨さといえば筆舌に尽くし難く、最悪の場合ぺしゃんこのピザ生地のような炭水化物とタンパク質の塊が焼成される羽目になる。

 

 かつて製菓のイロハも理解していなかった俺は、そのピザ生地の出来損ないに生クリームを塗りたくって食したことがある。ヤケクソだった。生地の荒熱も抜けていないのに塗ったクリームは当然ながら熱で溶け、ピザ生地モドキはぐちゃぐちゃのクレープじみた奇怪なデザートと化して俺の胃袋に収まった。結構な胃もたれと共に。

 

 以来、俺は菓子作りの際には実験に赴く科学者の如き心構えで臨むことに決めている。分量や温度は確実に守り、各手順にも抜かりはない。粉類は執拗にふるいにかけ、泡立てはしっかりと角が立つまで念入りに行う。混ぜ合わせる際は切るように。混ぜ過ぎず、泡を潰さず、それでいて粉が残らないように混ぜる。

 そして、オーブンの予熱は生地を型に流し込むまでに絶対に終えておく。スピード――手際の良さは重要だ。モタモタしていても生地の泡が潰れていくだけである。

 

 そうして型に流し込んだ生地を手早くオーブンに入れると、ようやく一息つける。いや、このスポンジ生地を焼いている最中こそが最も心安らぐ時間と言えよう。バター生地のような香ばしい匂いこそないが、卵と砂糖の焼ける仄かな甘い香りも悪くない。

 

 いや良い。

 

 焼き上がったら型を裏返して網の上に置いて冷ます。十分に冷えたら盛り付けが可能だが、今回は試作に過ぎないので生クリームを用意していない。綺麗なきつね色に焼き上がったスポンジ生地をナイフで両断し、断面のきめ細かさや膨らみ具合を確認する。

 

 ――良し。良いだろう。合格だ。

 

 昼下がりの詰め所のキッチン。

 誰に知られるでもなく、俺は鷹揚に頷いた。

 食するまでもなく分かる。俺の製菓スキルは全く錆び付いていない。これなら本番の降臨節も問題なく迎えられるだろう。小さくガッツポーズをする。

 生クリームの盛り付けも意外とコツが要る作業ではあるのだが、そちらは復習しなくとも自信があった。となるとこのスポンジケーキにもう用はない。食する必要もないのだが、せっかくだから食べるのもやぶさかではなかろう。

 

 と、いつもなら匂いを嗅ぎ付けたマリーが南門から戻って来たりするのだが、今日はその様子が無かった。何やら遠くでギャイギャイと話し声が聞こえなくもないので居ないということはなさそうだが、彼女もあれで年齢的に遊び盛りではある筈なので色々とあるのだろう。友達付き合いとかが。

 

「おや、この匂いはジェノワーズですね」

 

 代わりにリビングルームからひょっこり顔――というか仮面を出したのは、今日から同居し始めたリコリスだった。失礼極まりない感想だが、仮面を被っている印象しかないので食べ物に反応されること自体が少々新鮮である。

 

 ジェノワーズは仏語でスポンジケーキの意である。皇国の公用語――その基となった英語には含まれていない。現界(セフィロト)では異界(クリフォト)由来の様々な単語が乱雑に入り乱れているのだが、仏語の単語を多用するのはウッドランド内でも中央から東側辺りの地域くらいだったと記憶している。出身はその辺りかもしれない。

 などと、彼女の言葉の端から素性を探ろうとするのは止め、皿に乗せたスポンジケーキをリコリスに見せる。

 

「あー……本当にジェノワーズだけとは思いませんでしたよ」

「降臨節用の試作品だ。贅沢言わないでくれ」

「でも少し侘しい気がします」

 

 落胆、だろうか。

 口元も仮面で見えないので語調からリコリスの感情を推測する。

 

「ジャムでも添えるかね?」

「では杏子(アプリコット)をお願いします。ホイップクリームはありませんか」

「なくはない」

「お願いします。無糖で。お茶も」

 

 それだけ言い残すと、仮面はヒュッとリビングに引っ込んだ。

 

「……結構厚かましいんだな、新しい居候さんは」

「三食昼寝付きと町長さんから聞きましたー」

 

 率直な感想を漏らすとリビングから元気な声が聞こえてきた。

 なに吹き込んでんだあの眼鏡は。少量のクリーム立てるの意外と面倒くさいんだぞ。そんな悪態は飲み込み、茶とクリームの支度をしてリビングルームに向かうと、外套(マント)を脱いだ仮面の少女がテーブルに着いて飼い猫を撫でていた。

 

「ガルガンチュア殿にも餌と水を用意しないとだな」

「手作りの干し肉(ジャーキー)ならありますけど」

「おお、意外とちゃんとしてる。肉に慣れてるなら鶏のささ身とか炊くと喜ぶかもな。あとで試して頂こう」

「よしなに」

 

 ふわりと述べるや、リコリス嬢は茶のカップを手に取った。

 

 ここだ。俺はカッと目を見開く。

 彼女が仮面を外すとすれば、それは食事の時だ。他に考えられるのは風呂か就寝時あたりか。いずれにせよ俺には敷居が高い。

 さすがに仮面をしたまま飲み食いはできないだろうと踏んだ通り、リコリスは無貌の仮面を少しだけ上にずらした。露わになった口元には、かつて彼女が語ったような火傷の気配は痕跡すら感じられない。白雪もかくやという白い肌に、山茶花の花弁が如き桜色の唇――

 

 瞬間、俺は何か、非常にいけないものを見てしまったような気がして咄嗟に目を逸らした。魔術や何某かの力による動きではない。単純な後ろめさだけがあった。

 ヘタレ。チキン。そのような単語を想起しながらも、もう一度注視しようという気には不思議と全くならない。

 

「ふむふむ、なるほどなるほど」

 

 とはいえ、当の本人はしきりに頷きながらスムーズなフォーク捌きでスポンジケーキを貪っているので色気もクソもない。

 視界の外縁で捉える限り、仮面をずらした状態では前が見えないらしく都度元の位置に直している。その様は若干コミカルですらあった。

 嗚呼、俺の周囲はどこまでいっても変な子ばかりだ。まったく嘆かわしい。

 

「ごちそうさまです」

 

 スポンジケーキを綺麗に平らげたリコリスは合掌するや否や――これは東方の文化だ。また素性が分からなくなった――仮面をきちんと掛け直して囁くような声を発した。

 

「非常に美味でした。器用ですね、タカナシさん」

「一日にして成らず、だ。聞くも涙語るも涙の苦労話を聞きたかったりしないか」

「いえ、想像はつきますので」

 

 にべもねえ。

 表情が読めないので、とりあえず茶請け程度に言葉を続けることにする。

 

「小麦が街の名産のひとつでね。というか、この街には昔から食い物くらいしかないんだが……まあ、安くて質の良い小麦粉が手に入るわけだ。薄給暮らしには助かるってもんさ。でも粉だけあっても微妙に持て余すんだよな」

「それでお菓子作りですか?」

「手慰みって面もある。最近までどうしようもないくらい暇だったんだ。マリーが来るまでここいらも静かなもんだったし」

 

 窓の外に目を向けても、今は麦畑もどこか物足りない。秋播きの新芽の緑が土を鮮少に彩っているくらいで、初夏からの隆盛に比べれば閑散として映る。

 それはそれで季節の趣きではあるのだが。

 

「おかげで今じゃ何でも作れる。焼き菓子なら作れないものはないぜ」

「……へえ、面白いですね。本当に何でも作れるんですか?」

「ああ」

 

 胸を張る俺だったが、途端、リコリスの発散する空気が少し緊張した――気がする。

 挑発的な響きを含んだ呟きからしても、何か仕掛けてくる予感がする。

 

「リクエストでもあるのか」

 

 新たな居候と相互理解を深める為にも、敢えて乗ることにする。

 さて、どんな難題が飛び出すか。自慢ではないが、俺は洋菓子の類であれば本当にあらゆるレシピを網羅している。負けるつもりはない。

 頬を緩ませる俺に、仮面の少女は猫を撫でながら素っ気なく言った。

 

「ではパンケーキをお願いします」

「パンケーキ……? そんなもんでいいのか?」

「ええ、パンケーキです。簡単でしょう?」

 

 思わず問い返してしまう程度には簡単である。

 

 パンケーキ。日本人としてはホットケーキと言っても通りが良い。円盤型で厚みのあるファストブレッドである。

 材料はシンプルだ。小麦粉に砂糖、牛乳、卵。加えて膨張剤、つまりベーキングパウダー。強いて難点を挙げるなら、膨張剤に魔術で精製された重炭酸ナトリウムを使うと味のバランスが少し難しい、といったところだが、我が門番詰め所は異界(クリフォト)製のベーキングパウダーを常備している。その点がリコリスの罠なのだとすれば、やはり気負うほどの勝負ではないだろう。

 

 とはいえ手は抜かない。

 俺は実験に赴く科学者の如き心構えでキッチンへ戻ると、存分に我が神業を以て生地を錬成するや、焜炉で早々にフライパンを温め、こぶし大のふわふわパンケーキを三枚ほど焼成した。

 そして備え付けの氷室から異界産のイチゴさえ一粒引っ張り出してスライスし、クリームや粉砂糖と共に皿へ盛りつける。

 もはやスポンジケーキの試作より気合が入っているような気がしないでもなかったが、カフェで出るような品と比べても全く遜色のない出来栄えに、俺は再びガッツポーズをした。もはや戦うまでもなく勝利している。

 

「待たせたな」

 

 確信と共にリビングへ戻り、リコリスの前にパンケーキをサーブする。

 てっきりお褒めの言葉でも頂けるかと思ったのだが、俺が改めて新しいカトラリーをナプキンの上に添えた時、彼女は代わりに信じられないことを言った。

 

「なんですか、これは」

 

 ぞくり、とする。

 まるで戦いの最中、まんまと敵の術中に嵌った時のような不気味な感覚。

 

「……パンケーキだが」

「なんと、これがパンケーキですか。私はてっきりクランペットかと思いましたよ」

「クラ……何だって?」

 

 未知の名詞だ。

 恐らくホットケーキ状の食べ物なのだろうが、俺の記憶には無い。

 

「はあ……私は残念です、タカナシさん。パンケーキが分からないからといって他の品でお茶を濁すとは……」

「待て。パンケーキと言えばこれだろう」

「全然違います。これは本物のパンケーキではありません」

 

 などと言いながらも、リコリス嬢はナイフとフォークを巧みに操って俺の芸術レベルにまで昇華されたパンケーキを口に運んでいる。

 せめて美味いとか不味いとか言って欲しいものだが、それよりも我がパンケーキがコケにされていることの方が気になって仕方がない。

 

「何ィ……!? そこまで言うなら作ってもらおうじゃないか! 本物のパンケーキとやらを!」

 

 ドカッとテーブルに着席し、腕組みをする俺。

 仮面の少女はナプキンで口を拭い、俺の挑戦に応じてスッと立ち上がる。

 

「……良いでしょう。あなたにも見せてあげますよ。本物のパンケーキをね」

 

 

 

 

 ■■■

 

 

 

 

 十数分後、俺の目の前にはクレープがあった。

 

 ただし生地だけだ。

 トッピングは粉砂糖と、何故かレモンが添えられている。見る限り生地は薄く、ちりめん状の焼き目は黄金色に近く、皿の上で綺麗なドレープを成している。フォークで掬ってみても、やはり生地は薄かった。膨張剤の類が使用されていないのは明らかで、俺の知るパンケーキとは似ても似つかない。

 というかクレープだ。どう見てもクレープであった。

 

 一息つく。

 精神が落ち着いた頃合いで考えを整理する。

 

「……これはクレープでは?」

 

 やはり我慢ができず、根本的な疑問を口にした。

 

「パンケーキです」

 

 傍らに立つリコリスが手を手巾で拭いながら即座に言い切る。

 あまりにも淀みなく言い切るので、「そうかも……」などと自信がなくなってくる。もう一度だけフォークで皿の上のクレープを掬い上げてみる。

 しんなりと垂れ下がる薄い生地。

 

「いやこれクレープだわ」

「パンケーキです」

 

 再びの訂正が入るが、もはや疑念の余地はないので無視する。

 大体、食べるにしたってまず添えられたレモンの解釈に困る。絞るのだろうとは想像がつくが、そういう食べ方をする菓子を俺は知らない。柑橘を絞るのは揚げ物か、魚介の絡む料理くらいだろう。この段階で既に巨大な違和感が口を広げている。

 

 いや、よくよく考えたら現界(セフィロト)は異世界である。馴染み過ぎていて忘れていたが、異界(クリフォト)出身の俺が違和感なく溶け込めていること自体おかしな話なのだ。異界(クリフォト)から流入したクレープのレシピが、千年を経ていつしかパンケーキへとその名を変えた――ということは十分に考えられるだろう。

 

「クレープはこうです」

 

 しかし、リコリスはカットしたイチゴやホイップクリームを生地の上に盛り付け、俺に指し示してみせた。

 ――分からん。どうやらトッピングが異なるだけでパンケーキからクレープに再定義されるらしい。

 例えるなら握り飯の具が梅干しからシーチキンに変わるだけでおにぎりではなく寿司になる、といったニュアンスだ。全く理解し難いセンスである。

 いや、或いは――味噌汁に豚肉を入れたら豚汁になる、みたいなことなのか。しかし豚汁は料理として別物と言っていいほど作り方も材料も異なる。味も大きく変わるので違和感が少ない。やはり別の料理と解釈するのが妥当だ。

 

「腑に落ちねえ……だが……!」

 

 食べて判断すればいい。

 脇道に逸れまくっている思考を強引に修正し、俺は粉砂糖で化粧されたクレープ、もといパンケーキにレモンを絞った。リモネンの爽やかな風味が鼻腔をくすぐる。悪くない。違和感こそ完全には拭えないものの、試してみてもよいという気分にはなる。

 ナイフは要らない。薄い生地をそのまま一口で頬張る。

 

 正直、味に期待はしていなかった。

 菓子としてはシンプル過ぎるのだ。焼き目を見るに砂糖の量も少なく、薄い生地だけで十分な満足感が得られるとは思えなかったからだ。

 確かに甘みは薄い。菓子らしい華美な風味も華やかさもない。だが、間違いだったと言わざるを得ない。

 

「…………美味い」

 

 ちゃんと焼けた小麦の味がする。焦げたバターの香りも絶妙だ。

 つまり純粋に生地としてよく出来ているのである。香料などを使わずに限られた材料でこれを実現するには、材料の最適な配分量と熱変化を熟知する必要がある。

 トッピングがどうとかはあまり関係がない。それ以前の話だ。

 リコリスは小麦粉の扱いに相当慣れている。

 

「これがパンケーキかどうかは別として、確かに本物だ。恐れ入った」

「恐縮です。タカナシさんが作られたものとは趣きは異なりますが、これが本物のパンケーキというものです。降臨節で皆さんにジェノワーズを振る舞うつもりなら、これをよく理解した上で挑まれることをお勧めしますよ」

「ぐうっ……!」

 

 ギリィッ。

 俺は歯噛みする。

 リコリスは恐らく、俺の作ったスポンジケーキを上回るジェノワーズを作れるのだ。この自称パンケーキからしても、小麦粉の扱いに差があることは俺にも分かった。

 だが決して埋められない差ではない。差がどこにあるかは見えている。生地の焼成度合い、つまり焼き加減だ。

 

「見てろ……! 吠え面かかせてやるぜ……!」

「ふっ、せいぜい降臨節を楽しみにしておきますよ」

 

 リコリスは外套(マント)を羽織り、バッサァと翻して去っていった。

 去っていくも何も彼女も詰め所に住むことになったので別に本当に何処かへ行ったわけではない。あてがわれた二階の部屋に戻っていっただけである。

 

 妙なノリはともかく、彼女の言うことも一理ある。異邦人である俺には上出来に思えても、小麦に慣れ親しんだ皇国の人間からすれば詰めの甘さがあるのかもしれない。せっかくの機会に半端なものを出すわけにもいかないだろう。

 

 スポンジケーキの焼成についてあれこれと検討しようとしていた俺は、ふと、彼女が自室では仮面を外しているのではないかと思い至った。

 だからといって部屋に乱入して強引に仮面の下を見よう、などとは思わない。そこまで常識やデリカシーを欠いてはいないし、意気地もない。ただ何となく、落ち着かないような気分にさせられる。

 彼女に懸想をしているなどということは微塵もないのだが、なぜここまで意識してしまうのか。

 

 多感な年頃の少年でもあるまいし。

 

「浮かれてんのかな、俺」

 

 菓子の焼ける匂いが未だ残るリビングでひとり呟く。

 テーブルの上のガルガンチュア殿は何も答えてはくれず、呑気に欠伸をした。

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[一言] イギリス式のパンケーキかな Helltakerでくってるのみたわ
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