13.乱戦③
アパルトマンの薄暗い一室。
カタリナは並ぶ無数の黒板のうちの一枚にチョークを走らせる。インプロ―ジョンレンズと記載して久しいボード上に複雑な術式を追記していく。が、チョークの残りが僅かになり手を止めた。
ボード上の空白も残っていない。術式を要約して紙の帳面に記録し、乱雑に重ねた同様の帳面の山に戻した。
「さすがにそろそろ製本しないと場所を取りすぎですわね……まさかこんな形で魔導書を執筆する羽目になるとは思いませんでした」
眼鏡を外して目頭を揉むカタリナ。
一方、並ぶ黒板の前に立つ銀髪の皇女は書かれた術式を険しい顔で黙読していた。
面倒を人に押し付けているわけではない。単純に、自身も魔術に精通しているこの皇女ミラベルであっても、書かれている術式の一割も理解できないのだ。
魔術は力の源泉たる魔素に対する命令の組み合わせで構成される。
火を起こすなら魔素に対して火属性に変化するよう命令。その火炎を前方に放つなら指向性を持つよう命令を重ねる。この単純な数工程の術式が基礎的な破壊魔法、火長刀を構成する要素の全てである。
一方、ミラベルが最大の信頼を置いている高位破壊魔法である銀弓ともなれば工程数は百を超える。魔素を変化させる属性も銀。燃料と熱とを発生させるだけの火属性とは生成難易度からして大きく異なる。
しかし、今カタリナが書き記している術式の工程数は黒板一枚で千に届こうとしている。命令の発動順序、実行時間指定の緻密さも比較にならない。この魔術が最終的に何を実現する魔術なのかすら、ミラベルには全く理解できないのである。
辛うじて読み取れるのは、術式の冒頭の部分。魔素を鉱物に変換している箇所くらいなものだ。しかし、生成される鉱物の組成には見覚えがない。そもそも破壊を目的とした魔法と考えれば、生み出した鉱物を撃ち出しでもしない限りは不自然といえる。
火葬。
皇女が知っているのはその術式が破壊を目的としているということ、
そして、術式の凡その威力だけだった。
「……こんな術式を読み解ける人間は他に居ません。書にまとめて頂けるなら相応の報酬をお支払いしますよ」
「いえ、報酬は不要です。元々はアキトに頼まれたことですから……そうですわね、何か頂くとしても彼からたっぷりと頂くことにしますわ」
「まあ」
ミラベルは上品に小さく笑う。
――猫被りである。
内心では地団太を踏んで悔しがっている。
門番の少年がカタリナに火葬の解析を依頼したという話は彼自身からも聞いていた。それはいい。ただ、この魔術の重要性を考慮すると、カタリナに対して相当の信頼がなければ成立しない話である。
魔術師として負けるのはいい。人としても魔術師としても、とうの昔に正道を捨てているこの皇女には、そもそも傷付くような誇りなど持ち合わせがない。
しかし、こと門番の少年からの信頼という部分で後塵を拝するのは我慢がならなかった。たとえ他の何が劣っていてたとしても、その点だけは譲る気がない。
とはいえ、この狡猾な少女は現状を正確に把握してもいる。
カタリナやサリッサが自分よりも遥かに先の位置にいることを。単に水星天騎士団の若者達がそう話していたのを聞いてしまっただけだったが、認めるのはどことなく間抜けなのでそれは意識の外に追いやる。
とにかく、今は分が悪いのは確かだ。
劣勢時に争う姿勢を見せるのは下策である。当たり障りのない姿勢でやり過ごすのが無難だ。そうミラベルは冷静に考える。
彼女は帳面を纏め始めたカタリナに遠慮がちに問いかけた。
「……ところで以前から気になっていたのですが、ルースさんはどうしてタカナシ様のことを名字で呼ぶのですか?」
パキ。
硬質の音を立て、カタリナが持ち出した新しいチョークが割れた。
ぎこちなく振り向いたカタリナは明後日の方向を見ながら答える。
「あ……いえ、それはですね……文化の違いと言いますか……」
「文化?」
「アキトが普段名乗っているタカナシという名は……実は名字なのです。どうやら彼の国では姓名を逆に表記するみたいで……」
「まあ」
――貴女はそれを知っていて自分だけ名前呼びしていたのですか? 何故? どうして?
ミラベルはやはり上品に微笑みながら、続く言葉は怨嗟と共に飲み込んだ。
劣勢時に争う姿勢を見せるのは下策である。当たり障りのない姿勢でやり過ごすのが無難だ。そうミラベルは冷静に考える。
「でしたら早々に教えて下さったら良かったのに」
実際には全く冷静ではないのだが、彼女は自分を客観視できなくなりつつあったので自覚は無かった。染み付いた慣習によって辛うじて笑顔を維持しているに過ぎない。
気まずそうに目を逸らすカタリナにも負い目はあるらしく、応じる言葉の歯切れは悪かった。
「申し訳ありません。あまり殿下とお話しする機会に恵まれませんで……」
「私もルースさんとはきちんとお話させて頂きたいと考えていたのですが、目先の状況に対処するばかりでなかなか時間が取れませんでした。こんな用向きで少し申し訳ないですが、良い機会だとも考えていたんですよ」
「……恐れ入ります」
「ぜひ仲良くしましょう。この件に限らず」
意識的に対抗意識を抑え込み、ミラベルは透き通った赤の立方体を窓から差し込む陽光にかざした。火葬の術式が編み込まれている宝石だが、ミラベルには微細な術式を視認することができない。
「殿下は……」
「ああ、せっかくですからミラベルと呼んでください。敬称も結構です。私達はどちらが年上かも分かりませんし」
遮るように述べると、カタリナは一瞬虚を突かれたような顔をした。
それは本当に一瞬の変化ではあったが、ミラベルからすればようやく一本を取った格好だ。彼女の驚きはミラベルの気安さが原因ではない。
「木星天騎士団との戦いを分析すれば容易に理解できることです。かつてジャン・ルースと木蓮が描いた絵にも見当がつきました。あなたが精霊憑きにさえならなければ、もしかすると今の状況もまた違ったものになっていたのかもしれません」
「……やはりあなたは油断のならない人ですね、ミラベル」
「お互い様ですよ、カタリナ。九天に加えて福音までもを手にしたあなたは、順当に考えれば私より帝位に近い唯一の皇族と言えます。もっとも、あなたにそんなつもりがあればタカナシ様もこれを預けたりはしなかったでしょうが」
ミラベルが手の中の立方体を放ると、カタリナは見もせずにそれをキャッチした。
血統的に同一でありながらも、身体能力は騎士として鍛えられたカタリナが勝る。近間で立ち合えば万に一つも勝てないだろう、とミラベルはやはり何の感慨もなく捉えた。遠間ならそれがそっくりそのまま逆転するという自負も、特に意味のない情報として処理する。
カタリナは誰よりも手強い競争相手であり、何にも代え難い姉妹であり、何よりも得難い味方であるからだ。ミラベルはそう理解することに決めていた。
当の眼鏡の少女は赤毛を編んだお下げを指で弄びつつ、憂いの表情を見せる。
「よほどアキトを信用しているんですね」
「あなたは違うのですか?」
「勿論、信頼しています。だから少し困ってもいるんですが……」
「……というと?」
カタリナの口にした困りごとの内容に推測がつかず、先を促す。
ミラベルが見立てる限り、カタリナは門番の少年を決して疑うことのないパートナーとして見ている。この先も絶対の信頼が揺らぐことはないだろう。
それが逆に困るとは、一体――
「実のところ、わたくし……私の福音は既に火葬の仕組みをほぼ解析し終えています。いえ、ひと目見た時から……個々の術式の詳細や意図は分かりませんでしたが、結果として何を引き起こす魔法なのかは理解できていたんです」
今度はミラベルが驚く番だった。習慣として顔には出さなかったものの、僅かに身を固くしてしまう程度には想定外の事態であった。
「……タカナシ様に話さなかったのは何か理由があってのことでしょうか」
事実を伏せる。
それは必ずしも裏切りとイコールにはならない。
「私は異界の知識……常識や技術をある程度理解しています。異界の人間は……火葬がどれほどの脅威になるものなのか、恐らく一言二言で理解できてしまう。アキトも例外ではありません。彼が知れば、恐らく……この魔法の開発に関わった全てを滅ぼしにかかるでしょう」
「……全て、とは?」
「皇都に攻め込むかもしれません」
話が飛躍している。
ミラベルは驚愕を以てカタリナの双眸を見詰めた。
嘘のない瞳だった。少なくとも、ミラベルが見る限りは。
「それが……彼に可能だと?」
「できる、と思いますよ。アキトは……まるで自然なことのようにそうしているので皆勘違いをしていますが、彼は手加減をしています。お忘れかも知れませんが、神代に存在した竜種の時代は彼が終わらせたんですよ。もし竜種と同等の脅威があるのなら、その力を完全に振るうこともあり得ると私は考えます」
千年前の彼に有って、現在の彼に無いものは、幾つかある。
同等の力量を持つ仲間。そして、伝承の中で剣の福音が持つと伝わっている白い剣。
遺物だ。
「……タカナシ様は今も持っているんですか? 自分の遺物を」
「分かりません。人間相手に使うことを厭っているのか、もう持ってはいないのか……でも私に一つ言えることがあるとするなら、火葬は竜種と同等以上の脅威であるということだけです」
ミラベルは黙考する。
彼女も火葬の威力を知っている。
威力だけは。
大陸の最北部、北の山脈の向こうには魔族や亜人種の住まう国々がある。
あるのだと、今も現界の人類種の間では信じられている。
真実は少し異なる。
かつてはあった、とするべきだ。火葬の開発実験によってそのことごとくが人類種の知らないうちに滅びた。一般に信じられているような異郷は既に存在しない。北の山脈の向こうは瘴気と毒の大地だけが広がっている。
それより北の領域とは全てが断絶した。
人の扱える魔術の限りにおいて、そんなことが本当に可能だとはミラベルは思わない。人類種が個人の現界まで魔術を行使したとしても、一度の魔術で破壊できるのは、せいぜい街の一ブロックといったところだ。それでさえ十も繰り返せば魔素が不足する。
半信半疑だった。
だからこそ、ミラベルは火葬の実物を欲した。
もし本当にそんなものが皇帝の手によって秘密裏に存在するのなら、皇国の全ての民に対する裏切りだ。兵が死に、経済的な負担を強いながら行い続けてきた領土拡大戦争の全てが茶番になる。
それを使って敵国の一つでも吹き飛ばしてしまえば事足りるからだ。竜種も、東方の諸国も、まるで問題にならない。一発で十分だ。逆らう国など永久に現れない。
だが皇帝はそうしなかった。
ただそれだけで、帝政に対する致命の武器になる。
そして、恐らく異界の技術が使われているだろうそれは、皇帝が人でないもの――神代から生き続けている人外の者であるという証拠にもなり得るのだ。
「ミラベル」
呼び掛けによって思考から立ち戻ったミラベルは、カタリナの声音に含まれる深刻な響きに固唾を呑む。
「火葬のことを多くの者に明かすのは避けられないことと思います。ですがその時、私たちは大きな選択を迫られることになるでしょう」
「選択、ですか」
「はい。その選択次第ではアキトが皇国の敵になるということも十分にあり得ます」
「……まさか」
「考えたくはないことですが、よく覚えておいてください。彼は私たちの……人々の守護者なのであって、決して、この国の味方ではないのだということを」
■■■
思惟に耽るミラベルが自室を辞去してからも、カタリナはしばらくの間、黒板にチョークを走らせ続けていた。
叡智の福音、知恵と名付けた権能が齎す回答を、半ば自動的に筆記していく。ただそれだけの簡単な作業。余人に理解できるように翻訳するだけの作業だ。
暖を取るための器具は部屋にない。チョークを置いて、僅かにかじかんだ指先をエプロンドレスのポケットに入れる。
そうして一息つくと、自室の惨状を改めて確認してまた溜息を吐いた。
部屋が埃っぽくなりつつある。
自分の時間を限りなく切り詰めてまでこの作業を行っている理由は、正義感や使命感などではない。姉妹――皇女たちの為でもない。知る人々の誰でもない、知らない人々の誰でもない。
ひとえに自分自身の為。自分自身が最大に信じている者の為だ。
見返りは無い。
無いと理解している。しかし、
「たまには少しくらい何か要求しても良いですよねー……」
ぼやいて頭を掻いた。
掻いてから、指先が石膏で汚れていることに思い当たった。まあいいか、と気にしないことにして赤毛をバサバサと掻きむしる。
そうしてから、先程まで自室に居た皇女ミラベルの美貌を思い返して暗澹たる気分になった。見目が全てだとは思わないまでも、あれほど魅力のある外見であれば多少展望も明るいかもしれない。
ミラベルには深刻な――近しい将来に訪れるだろう危機について助言をしたが、それはそれ。これはこれである。降臨節に何か仕掛けるだろうことは容易に想像がつく。
門番の少年がどう動くにせよ、それは本人の自由だ。ミラベルに応えようとサリッサに応えようと、カタリナが口を挟む問題ではない。
けれど。
一応――本当に一応は、自分にも参戦する程度の権利がなくもないのではないか、などとカタリナは非常に遠回しに考えた。
知恵の回答は是である。
「……最近、あなたに人格があるんじゃないかと疑っているんですが」
知恵の回答は否である。「でしょうね」と投げやりに独り言を済ませ、はた、と思い付く。
「アキトの欲しいものとか……分かりませんか」
知恵の回答は否である。
薄々分かってはいたものの、カタリナは肩を落とす。叡智の福音では人の考えまでは読み取れない。嘘や本心を見通す、といった使い方は出来ないのだ。
誰が誰に対してどのような感情を抱いているか、といった情報も教えてはくれない。人の胸の内は人には観測できないからだろう、と門番の少年は推測していた。
やはり福音は願望を叶えてくれる奇跡などではないのだ。
深い溜息を吐き、カタリナは書棚の片隅に仕舞っていた木箱を引っ張り出した。
「……自前の観察力で勝負……します? 本当に?」
知恵の回答は是である。
「まったく……」
果たして、この回答はいかなるロジックで導き出されているのか。
少し怖くなってきたので、カタリナは深く考えることなく木箱を開けた。収まっていた上等な布の手触りを少しだけ確かめ、蓋を閉じる。喜んでもらえればそれだけで良いと、少女は素直に願った。




