08.長い一日④
俺は常日頃の睡眠不足が限界を迎えた場合、異界に移動して寝るという手段で解消していた。が、もしかするとその行為は、微妙な差分が存在する平行世界を迂闊に大量生産してしまっていたのかも知れない。
いや、改めてそう考えると感覚的には納得し難いものがある。俺が出たり消えたりする程度で平行世界が生まれるんじゃキリがないだろう。俺自身、自分が世界というものに対してそこまで大きな要素になり得る存在だとは思わない。
いずれにせよ、往還門を通常使用する分には何事も起きない――少なくとも、そう見える――限り、検証もできない。真実は変わらず闇の中だ。
いや、厳密に言えばできることはできるのだが、それは俺にとって許容不可能な喪失を伴う恐れがある行為で、実行する気は全く無い。それは不可能と同義だろう。
来瀬川教諭と話をした翌日の早朝、俺は往還門を使って現界へ――田舎街セントレアの愛すべき我が家、南門の番兵詰め所の地下に戻った。
薄暗くカビ臭い地下室の壁に、最近になって備え付けた柱時計がある。短針と長針の位置を異界に移動した時の記憶と照合し、時間の差異がないことを確認して一息つく。時刻は午後三時ジャスト。二十四時間きっかりのズレでもなければ、やはり何も起きていないということだ。
こんな調子で移動の度に身構えなくてはならないのは、少々煩わしい。
「……これ以上面倒かけさせてくれるなよ」
俺は若干忌々しさもある鉄扉を振り返り、僅かな毒を吐く。
そして、ささやかな時間を一緒に過ごした小柄な女性のことを一瞬だけ考えた。
それでも俺はもう、真新しい灰色の革コートに着替え、愛剣の収まった剣帯を腰にぶら下げている。住む世界が違う。正しく、文字通りに。
貰った言葉だけを大切に胸に仕舞い、俺は地下室の魔力灯を落とした。
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睡眠不足は綺麗に解消され、体力的には充実している。階段を上って詰め所の粗末な床板を踏む頃には、俺の思考は完全に現界でのそれに切り替わっていた。
切り替わってはいたのだが、リビングのテーブルで黙々と黒パンを齧っている非常識な髭の男を見るなり、さすがに鼻白んだ。
人の家で何をやってるんだこのオッサンは――
「どうした門番。座らんのか」
着流しに似た紅色の衣装を纏うその男は、全く悪びれずにそんなことを言った。
俺は呆れ果てて頭を抱える。
「ジャン、頼むから無断で人の家に入り込むのはやめてくれないか」
「易々と侵入を許す側に落ち度がある。どうも自覚が足らないようだな」
「ぐっ」
男、ジャン・ルースは黒パンを食べ終えると、茶まで啜り始める。
詰め所の台所で勝手に淹れたのだろう。
「……何の自覚だよ。ここに金目のもんなんざ無いし、そもそも戸締りならしてる」
「価値の無いものを守り続けているわけではあるまい」
「どうだろうな」
家主のプライドが許さないので俺も向かいに座るが、そこには既に俺の分の茶が用意されていた。余計に腹立たしい事この上ない。
どうにもこの男は好きになれない。
「まあいい」
ジャンは茶を啜り、瞑目する。
彼が指すものが往還門のことなのか、それとも別の何かなのかは興味が無い。
彼もそれ以上は追及せず、違う話題を切り出した。
「だが、いつまでも日陰に居られるとも思うな。既にお前の存在は皇国内に留まらず大陸中の国々に知れ渡っている。好ましく思わん者も居るだろう」
「そりゃ随分と大仰な話だな」
「アズルでの一件はそれほどの影響を及ぼしたということだ」
頷ける話ではある。ある程度覚悟もしていた。
あの日、転移街アズルで起きた戦いには様々な勢力が関わっている。アズル領の兵、ミラベルの水星天騎士団。木星天騎士団――夜の者とランセリア領の嫡子エリオット。彼らの裏で糸を引いていたと思われる『皇子』。
そして――
「ドーリアか」
皇国と戦争状態にある隣国ドーリア。
その宮廷魔術師アリエッタと、アルテリア傭兵騎士団と名乗った騎士集団。撃退こそしたものの、もし彼女らが本国にまで逃げ延びていれば、東方の諸国にまで情報が伝わる可能性は十分にある。
「無用の恨みを買ったな」
「どのみち避けられない戦いだった」
端的に答え、俺も茶を啜る。
「そうか」
ジャンは鼻で笑いながら続けた。
「アズルの英雄、皇女ミラベルの懐剣にして、ロスペール失陥の元凶たる魔獣と同種の魔獣を討伐した謎の東洋人。悪名高き夜の者をも打倒せしめたその無名の騎士を、夜明けの騎士などと呼ぶ者も中には居るらしい。ふ、それなりに話題性はあるな?」
「絶対馬鹿にしてるだろアンタ」
「いいや? 名声とはそんなものだ。早く慣れておけ」
元皇国最強の騎士様は素知らぬ顔で湯飲みの茶を啜る。
夜明けの騎士?
徹夜ばかりしていそうな異名だ。たしかに俺は夜勤従事者だが。
「ひと月ほど前、東方諸国がドーリアを盟主とした新たな同盟を結んだ」
再び話題が変わる。
俺は手近の皿から焼き菓子を一つ摘まみながら脳を回転させる。
「東方三国……イオニアとアイオリスは元々ドーリアの同盟国だろ?」
「諸国と言っただろう。既存の三国の枠を超え多くの国が参加する大規模な同盟だ。名は東方連合。ドーリアの残存正規軍を母体とし、イオニアの傭兵騎士団、アイオリスの冒険者ギルド、諸国からの派遣騎士団を統合した軍を占領したロスペールに集結させているようだ」
東方連合とやらの規模感を掴もうとイメージしてみるが、上手くいかない。どうにもスケールが大き過ぎる。
ウッドランド皇国は大陸の過半を占める超巨大国家だが、大陸東側にはまだいくつもの国々がひしめいている。連合にどれだけの国が参加しているかは分からないが、参加国の数によっては皇国に比肩する勢力に成り得るのかもしれない。
「どの程度の戦力なんだ、それ」
「不明だ。九大騎士団の一個と同等か、僅かに劣ると俺は見ている」
「……皇国側の対応は?」
「皇国軍三個師団の他、火星天騎士団が展開していると聞いた。例の魔獣が居なければ十分な戦力だろうが居る限りは攻めることもできん。膠着する以外なかろう」
「だろうな」
聞きながら、焼き菓子を齧りつつ考える。
長きに渡る戦争で追い詰められていた東方三国だが、竜種を得たドーリアが国境を回復した事で状況が大きく変わった。圧倒的だった皇国の侵略攻勢に対し、たとえ化け物頼りだったとしても反攻の目があるなら賭けたくもなるのだろう。
仮にドーリアが同盟の主権を完全に握ってしまうとしても、皇国に国土を好き勝手蹂躙されるよりは遥かにマシだ。で、思惑を同じとする三国以外の東方諸国が便乗――そんなところだろうか。
「まさか、そんな一大事に俺が関係してるなんて言わないだろうな」
「無い。が、転移街アズルの魔獣が討伐されたことは無関係ではあるまい。ドーリアが例の魔獣だけでは皇国に抗し得ないと考えた可能性は低くない」
「間接的に影響している、と?」
「貴様自身、無関係だとは思わんだろう。ドーリアの術士は貴様と同じ福音の使徒、生命の福音だと聞いている」
「さあな」
俺は否定も肯定もせず、咀嚼した焼き菓子を茶で飲み下す。
ミラベルか、それともマリーか。あの二人がジャンに事情を伝えるとは考え難い。
ジャンの情報源は分からなかったが、言っている事自体は間違っていない。東方連合周りの情勢も、ほぼ正しい情報なのだろう。
皇国と連合の戦争自体は今に始まったことではない。とはいえ竜種が絡んでいる以上、座視もできない。
「それで、俺に何をして欲しいんだアンタは」
彼が何の狙いも無しに情報を提供するとは思えない。
そう思ってジャンに問うが、当の本人は至って淡白な反応を返した。
「聞き流すもよし、参考にするもよし。好きにするといい」
「なに?」
「貴様には木蓮の件で借りが出来た。礼だ」
俺は、炎の夜に消えていった女性の顔を思い出す。
彼女との戦いをジャンに対する貸しだとは思わない。
あれも避けられなかったことだ。
言われてみれば、あの一件以降、ジャンと話をするのは初めてだった。ここのところあまり姿が見えなかったのは連合の情報を探っていたからか。
手段こそ分からないが、戦乱の地からは遠いこのセントレアで他国の情報を集めるのは随分骨が折れただろうことは間違いない。
「ひとつ聞いていいか」
「何だ」
「木蓮とは、本当はどういう関係だったんだ」
訊ねると、ジャンは表情に僅かな変化を見せた。
しかし何も答えることなく、静かに席を立つ。俺も無理に聞き出そうとは思わないので黙って見送る。去り際に彼は一言だけを放っていった。
「ケイトだ」
何の事か分からず問い返そうとするが、
振り返った時には彼は既にドアの向こうへ消えていた。誰かの愛称だろうか、と茶を飲みながらぼんやり考える。
温くなった茶を飲み切るまで、俺は考え続けていた。
本当は考えるまでもなかったが。




