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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
四章 竜殺し
146/321

07.往還門

 結局、カフェでのプレゼント問答は俺の圧倒的劣勢に終始した。

 

 ひーちゃん先生はよく笑い、よく怒り、時に俺をからかって遊ぶ人だった。そんな彼女を見ていた俺も、たぶん、笑っていたのだろうと思う。おかげで何か、遠い場所に置き忘れていた物を少しだけ思い出したような気がしていた。

 思えば、俺が高梨明人として振る舞うのは随分と久方振りのことだ。別に意識して別人になったつもりなどないのだが、異世界での俺と元の世界での俺は、もう、あまりにもかけ離れてしまっている。

 ホクホク顔でカフェから出る来瀬川教諭と、いつの間にか日が暮れてしまった外界の冷たい空気。色とりどりの電灯に彩られたモール。道行く人々の喧噪。近くのレストラン街から漂ってくる食事の香りも、見上げた星の無い夜空も。

 今の俺は、こちらの世界の何もかもに異物感しか覚えていないのだ。

 

「いやーっ、面白かったねー!」

 

 まるで映画館から出てきたばかりかのような感想を漏らし、来瀬川教諭は大きく伸びをした。鑑賞対象だったらしい俺は、僅かばかりの思惟を捨て去って苦笑を作る。

 

「はは……飲み物だけで何時間粘ってるんですか」

「これくらい普通普通! いやー、それにしても若いって素敵だよねー! 青春だねー! 見てて飽きないよ、高梨くんはさ!」

「俺のこと、芸人か何かと勘違いしてませんか?」

「ノーフューチャーだねー!」

 

 意味はよく分からないが、来瀬川教諭はとにかくご機嫌であるらしい。

 どちらともなく歩き出す。向かう先は無論、帰路だ。

 

「それにしても、お友達は良かったんですか? 夕方どころかもう完全に夜ですけど」

「うん、大丈夫大丈夫! 遅れて顔出すって伝えたから!」

 

 いつの間に。記憶を探るが、来瀬川教諭が俺の前でスマートフォンを操作したことは一度もなかったはずだ。確か一旦離席していたので、その間に連絡したのだろう。

 今度はマナーだ。要所要所を押さえてくる子供先生である。やはり侮れない。

 

「で、あとのふたりには何をあげるの?」

「うわ、もう勘弁してくださいよ。俺が悪かったですから……」

「あはは! ちょっと興味あるだけだから、もう変に弄ったりしないよ。定時も過ぎてるしね。採点屋さんはもう閉店でーす。ガラガラ」

 

 来瀬川教諭の心のシャッターは閉まったらしい。

 日曜日も営業している良心的なお店だったな。俺、赤点しかとってないけどな。

 もはや挽回は期待せず、マリーにと考えていた案を披露する。

 

「ふたりのうちの片方には漫画です。大長編バトル漫画」

「うわあ。ごめん、ダメ出ししたい。ウズウズしちゃう」

「もう閉店したでしょうが」

 

 来瀬川教諭は歩きながらプルプルしている。

 

「実は、その子の好きな漫画なんです。でも彼女、日本語が読めなくて。英語版を取り寄せようかなと思ってます」

「なるほどね。外国の子なんだ」

「ええ」

 

 嘘ではない。

 真実でもないが。

 

「もう一人は紅茶が好きみたいでして。だから紅茶に関係するものがいいかなと」

 

 俺は三度スマートフォンを操作し、最後の選定品を表示させる。

 ティーセットだ。つま先立ちで強引に俺のスマートフォンを覗き込んだ来瀬川教諭が、即座に短い悲鳴を上げた。

 

「ぎゃっ、こんなの買えるの!? 先生の月給飛ぶよ!?」

「大丈夫です。俺お年玉貯金してるんで」

「どうしてそんなすぐバレる嘘つくのかな!? 先生悲しいよ!」

 

 俺は茶器に詳しいわけでもなく、しかも相手は異世界の皇族である。できるだけ上等な物を選ぶくらいしかできなかったのだ。

 よよよ、と子供っぽいカットソーの袖で涙を拭う来瀬川教諭をよそに、俺も上品なティーセットの写真を再確認する。それから、ぼんやりとミラベルのことを考えた。

 

「まあ、とりあえず喜んでは貰えると思うんですよ。一応は好みも考えてますし……でも、何だろうな。どうもあの子だけはしっくり来なくて……」

「うん?」

 

 いつしか俺は、ずっと感じていた朧げな違和感を口にしてしまっていた。

 つれだって歩く来瀬川教諭が、僅かに速度を落とす。

 どうやら話を聞いてくれるらしい。

 言葉を整え、俺は口を開く。

 

「笑ってるイメージないんですよ、その子」

 

 ミラベルのその様子について、明確に言葉にしたのは初めてだった。

 来瀬川教諭は聞くなり、丸い目を瞬かせて俺を見上げた。

 

「普段ニコリともしない訳じゃないんです。ちゃんと笑う場面では笑ってる。でも、目は全然笑ってない。あれは、ただ表情筋を動かしてるってだけで、先生みたいに心の底から笑ってる訳じゃない。少なくとも……俺にはそう見える」

「うん」

「喜んで貰いたいっていうのは勿論ありますけど……それだけじゃ違うというか……本当に何だろうな……」

「うん」

 

 俺は何故、この人に――来瀬川教諭にこんな話をしているのだろうか。

 分からない。彼女が聞き上手なのか。それとも彼女が現界(セフィロト)と関係のない一般人だから、単に油断しているのだろうか。

 分からないながら、一度始めた言葉は止まらなかった。

 

「彼女達が抱えてるものは、俺のそれの何倍も辛くて厳しいもので。自分達だけじゃ、とても解決できない。でも俺にも助けになれるほどの力はなくて……本当はもう、どうしようもないのかも知れない。でも……いや」

 

 言葉を強引に切る。

 これではただの愚痴だ。或いは、最初からそうだったのか。

 

「……はは、何言ってんでしょうね、俺。訳分からないですね」

 

 笑って誤魔化す。

 静かに相槌を打っていた来瀬川教諭は、いつしか歩みを止めていた。

 笑顔は去り、子供のような容貌には、どこまでも真剣な色が現れはじめている。

 

 ああ。

 そうか、と一人納得する。

 この人は――来瀬川姫路は、真面目で善良な人間なのだと。

 

 俺の言葉を聞いた上で、教師として、或いは大人として、助けになれるかどうかを測ろうとしている。或いは、既にいくつかの事態を想定しているのかもしれない。

 だが、彼女の心が読めなくても断言できる。

 真実は想定のいずれにも該当せず、彼女は俺の助けにはなれない。絶対に。

 

 ここは境界線だ。

 現界(セフィロト)異界(クリフォト)

 本来交わるべきでない二つの世界を分ける壁だ。

 

 だから、俺は笑ってみせるしかない。

 心配は要らないと。差し出された手を、遠回しに遠慮する。

 

「俺は結局、ちゃんと笑って欲しいだけなのかも知れませんね。あの子や、みんなに」

「……そっかぁ。うん、そうなんだね」

 

 来瀬川教諭はおとがいに指を当て、何事かの考えに結論を出したようだった。即座に何かしらの提案をしないあたり、俺の遠慮が正しく伝わったのだろう。

 立ち止まっていた彼女は、思い浮かべている悪い想像を振り払うかのように軽く頭を振り、歩みを再開した。俺の元に追い付いた彼女は、既に笑顔に戻っていた。

 

「あはは、ごめんね、高梨くん。先生ちょっと勘違いしてた。てっきり普通の恋バナだと思ってたよ」

「遠からず、ですけどね」

「でもきみは、別にその子や他の子と関係を進めたり、無暗に仲良くなりたいわけじゃないんだよね。ただ大切な友達だから……なんとか元気付けてあげたいし、繋がりを大事にしていたいんだよね」

「そう……すね」

 

 こうまでストレートに表現されると些か気恥ずかしいが、当たっている気がする。

 彼女の言は、俺自身でも掴みかねていた己の心情を的確に突いているのだ。俺の方が遥かに長く生きているはずなのだが、どうにも情けない限りだった。

 

 経験の差か、それとも勘の良さの差なのか。

 小さな人生の先輩は、不意に俺を指さして微笑んだ。

 

「あのね、高梨くん。さっき、きみは私みたいに心の底から笑ってーって言ってくれたけど、先生にだって意外と悩みはあるんだよ。ほら、先生こんなだし!」

 

 彼女はそう言うと、両手を上げてバンザイしてみせた。

 上がった指先はちょうど俺の目線の辺りであり、俺は、彼女の言わんとする事を理解する。同時に、彼女が会話の中で率先して自分を先生と称するのかも、何となく察した。

 明朗で溌溂とした女性だが、彼女が過剰なほどにそう振る舞っているのも、おそらく相応の由来や理由があるのだろう。

 

「……なるほど」

「あはは。そりゃね、高梨くんの……ご家族の事情とかとは比べものにならないくらいちっぽけな悩みだけど、これでも先生、深刻に悩んでた時期があるんだよ。ちょうど、きみくらいの歳のころかな」

 

 俺はただ黙っていた。

 言葉が続くことを予期できたからだ。

 

「……うん、強がりだよね。実は、今もそう。さすがにもう身長は伸びないからねー、あはは。嫁の貰い手がないよー!」

 

 仄かな翳りを含んだ笑顔のまま、来瀬川教諭は己の強さと弱さを等分に吐露した。

 こうして自分の弱みを躊躇なく誰かに共有できるのは、紛れもなく、

 心の強い人間だけだろう。

 

「ねえ、高梨くん。悩みのない人なんて、たぶん居ないんだよ。どこにも。悩みの要らない場所も、きっとどこにもない。だって生きてるんだもの。辛いことや苦しいことは、どうしたってあるよ」

 

 意見を挟もうと俺が口を開きかけた時、彼女は諭すようにそう告げた。

 その通りだと俺も思う。だが――

 

「それでも私が笑えるのはね、きっと今が楽しいからだよ」

 

 ――ああ、そうか。

 俺は、自分が難しく考え過ぎていたのだと気付く。

 

「難しいことなんてないんだよ。悩んで悩んで、もし傷付いて……心に隙間が空いちゃったとしても、だったら楽しい時間で埋めちゃえばいいんだよ。言葉にしちゃうと当たり前のことだけどさ、そんなので良いんだと先生は思うよ」

 

 やはり明朗に言い切った彼女の顔に、翳りの色はもう微塵もない。

 

「だからね、プレゼントなんて心がこもってれば何でもいいんじゃないかな。ロマンチックなのも勿論良いけど、そんなのはついででいいんだよ。きみはただ、きみ自身が誰かの楽しい時間になればいいんだよ。それで、時には少し話を聞いてあげたり、時には力を貸してあげたりしてさ……支え合って、ゆっくり歩いていけばいいんだよ」

 

 かつて。

 その、当たり前の筈の事ができなかった人間が居た。

 両親が消えた時も。九人の仲間が散り散りになった時も。

 己の半身を手放した時も。

 俺には、できなかったのだ。

 

「高梨くん、きみはそれができる人だよ。きっとね」

 

 買い被りだ。抗弁しようと息を吸う。

 だがその人の優しさは、俺の言い訳よりもずっと速かった。

 

「だって先生は今日、心の底から笑ってたんでしょう?」

 

 目を細めて見上げる幼いその笑顔に、

 俺は、返す言葉もない。

 

 理解した。

 来瀬川教諭の連絡先が何故俺のスマートフォンに登録されていたのかを。

 

 いくら担任とはいえ、普通は教師を登録しない。わざわざフルネームで、誕生日まで記入されていた。そのくせ本人は来瀬川教諭を苗字で呼ばず、字面だけで恥ずかしくなるような渾名で気安く呼んでいたという。その理由はなんだ。

 

 高梨明人。彼は、本当に馬鹿な奴だったに違いない。

 身の丈に合わない相手に挑もうとした愚か者だ。

 ほんの少しだけ気持ちは分かるが、残念ながら、最初から勝ち目は無かったと言わざるを得ない。

 

 

 

「ありがとうございました。先生と話せて良かったです」

 

 ほどなく訪れた岐路を前に、俺は来瀬川教諭に頭を下げた。

 彼女は繁華街へ向かう。俺は自宅へ帰る。

 往還門を使うのは、明日で良いだろう。今は睡眠をとっておきたい。

 

「あはは、ごめんね! なんだかお説教みたいなことばっかり言っちゃったね!」

「いや、マジで助かりました」

「そっかそっかー! なら良かったよー!」

 

 バシンバシン、と来瀬川教諭は俺の背中を思い切り叩く。

 彼女式の激励なのだろうか。

 少しだけ嬉しくなる。変な趣味に目覚めたわけではないが。

 

「まあ、そうですね。差し当たって……頑張って気合の入ったケーキでも焼いてみますよ。俺にはそれくらいしか思い付かないんで」

 

 俺は照れ臭さを押し殺してそう言った。

 楽しい時間とやらを作らなければならない。出来るかどうかは分からなかったが。

 そう決めた俺を、子供先生は無邪気な顔で指差し、笑う。

 

「おっとぉ、高梨くんってところどころ部分的に女の子みたいな趣味してるよね!?」

「それ偏見ですよ。パティシエだって男女関係ないでしょう」

「自覚ないのかー! そっかー!」

 

 あちゃー、と額を押さえつつ、

 子供先生はその場でくるりと回り、俺と正面から向かい合った。

 別れの時だ。背筋を正す俺だったが、来瀬川教諭はフランクなままだった。急に思い付いたかのようにポンと手を打つと、軽い調子で言う。

 

「あ、そうそう。もう復学するんだったら先生が話通しておくけど、どうする? サボりたいなら……うーん、多分あと一カ月くらいは引っ張れるよ!」

 

 言われて思わず計算する。

 計二カ月の休学か。

 

「って、俺それ進級できませんよね?」

「あはは、ギリギリくらいかなッ!?」

「普通に復学しますよ……ちょうど明日は月曜だし、キリも良いでしょう」

「もったいないなー」

 

 どういう教師だよ。

 頭を抱える俺に、来瀬川教諭は優しく微笑んで告げた。

 

「それじゃ、次はまた学校で、かな?」

 

 

 

 

 果たして、俺はなんと答えるべきだったのだろうか。

 現界(セフィロト)に戻れば、この世界は――異界(クリフォト)は、俺の主観的に言えば停止することになる。再び往還門を使うまで、同じの日の同じ時間であり続けるだろう。

 なら、どう答えようが別に構いはしない。

 実際にどうするかは別として、学校に復帰することも、復帰せずに変わらず過ごすことも可能だ。次に往還門を使って時に異界(クリフォト)に来た時に考えればいい。

 

 今までは――そう思っていた。

 だが、違う可能性もあるんじゃないかと今の俺は考えている。

 

 往還門は、前回の通過時間に確実に合わせて対象者を転移させる。

 現界(セフィロト)での滞在時間、異界(クリフォト)での滞在時間を無視して。

 時間を無視して、通過する者を送り届けている。

 

 

 ――あの(ゲート)は、最初から時間移動を行っていたんじゃないか?

 

 

 ただ一度だけ起きたと思っていたあの時間遡行は、

 実は往還門が最初から備えていた機能の誤作動に過ぎなかったんじゃないだろうか。

 

 俺が気付かなかっただけで、あの(ゲート)は毎回、タイムトラベルを行っていたんじゃないだろうか。だから片方の世界に居る間はもう片方の世界の時間が経過しないように見えていただけ(・・・・・・・)なんじゃないか。

 

 だとしたら、俺が居ない間も世界は止まってなんかいない。

 

 単純に俺が出たり消えたりして――俺の有無という差分がある世界が作られるだけだ。俺が往還門の向こうへ消え、永遠に戻ってくることはない世界だ。ただ、それを俺自身が観測することはないというだけで。

 往還門という装置(タイムマシン)を使う度、世界は僅かな変化と共に無限に分岐していく。往還門の使用者にだけ明かされない、同時に存在する別の可能性。平行世界。

 

 そこには使用者の姿だけが無い。

 

 単なる憶測、いや妄想だ。そう切って捨てるのは簡単だ。

 だがもし、本当にそうなのだとしたら?

 そんな世界が俺の知らないどこかで続いていくのだとしたら?

 

 休学中に行方不明になった俺を、来瀬川教諭はどう思うのだろう。

 最後に会って話をした自分を、強く責めるだろうか。或いは、ただ名簿に一本の斜線を引き、データの行を一行消して、半年もすれば思い出すこともなくなるのだろうか。

 

 そうして欲しいと思った。

 身勝手だが、そうだったらいいと思った。

 今まで俺は異界(クリフォト)のことを何一つ顧みてはいなかったのだ。

 そんな俺に、この人が心を砕く必要など欠片も無い。

 

 拳を固め、強く願う事がある。

 

 もしも今、失われてしまったあの大魔法――唾棄すべきと断じたあの外法、忘却(オブリビオン)を使うことができたのなら、俺は迷わず、来瀬川教諭に使っただろう。

 

 

 

 

「ええ、また学校で」

 

 結局、俺は最後まで、彼女に本当のことは何ひとつ言わなかったのだ。

 

 

 

 

 

 ■■■

 

 

 

 

 

 来瀬川姫路は夜を行く。

 夜といっても午後七時半を少し過ぎたくらいで、成人であれば別にどうということはない時間帯だ。日曜の夜だというのに繁華街の人出もそれなりに多い。食事や飲み会といったところだろう、と姫路は考える。彼女自身と同じように。

 週明け辛くないのかなー、と姫路は己を棚上げにして口の中で言葉を転がした。月曜日の朝は辛い。アセトアルデヒドが加わるなら尚更だ。

 正直に言えば、日曜の飲み会には気乗りがしない。高校時代からの親友の誘いでなければ絶対に断っている。

 姫路は道路脇の防護柵に体を預け、バッグから取り出したスマホに指を滑らせた。指定された居酒屋の場所を再確認するためだったが、コミュニケーションアプリの通知が表示されていたので習慣的にそれをタップする。

 すると、飲んだくれた友人たちの笑顔が並ぶ写真を受信していた。

 早く来い、という意味合いのメッセージと共に。

 

「あはは、しょうがないなー」

 

 まだ七時台だというのに出来上がっている友人たちに苦笑し、姫路は返信のメッセージを滑らかに打ち込む。最後に急いで走る人間の絵文字を盛り付けると、送信ボタンをタップして端末をしまい込む。それからバッグを掛け直して、歩き出そうとする。

 

 そうしてから、来瀬川姫路は呆然と動きを止めた。

 

 足を動かそうとしても、根でも張ったかのように動かなかった。

 慎重に息を整えてみても結果は変わらず、姫路は、諦めてその場に屈み込んだ。

 いつも通りの自分を維持することを、彼女は諦めた。

 

「全然……駄目だよ、高梨くん……作り笑いが下手すぎるよ……」

 

 時間を置いてやってきた情動が、今になって唇から漏れる。

 なす術なく手のひらで顔を覆っても、瞼に焼き付いてしまった姿があった。

 意識から音を遠ざけても、耳に残ってしまった言葉があった。

 

 先程まで共に過ごしていた教え子、高梨明人は、本来ああではなかった(・・・・・・・・)

 少なくとも、姫路の知る高梨明人は年相応の少年の範疇に収まる。よく笑い、よく怒り、時に姫路をからかって困らせるような、ごく普通の男子生徒だった。

 姿は同じでも、今の彼は全てが異なっている。姫路の顔を忘れていたかのように振る舞い、砕けた敬語を使い、まるで見定めるかのような眼を人に向ける。

 

 あれ(・・)はいったい誰なのか。


 特に、別れ際で見せた悲しい作り笑顔が、姫路の脳裏を離れない。

 あの瞬間、形容しがたい凄絶な感情に襲われた。彼をこのまま放っておいてはいけないと、どこか遠い場所で、誰かが叫んでいる気がした。

 変え難きを変えるために、振り絞った悲痛な叫びを。誰かが、遥か届かない場所に居る姫路に浴びせているかのような、奇妙な感覚。

 

 しかし、彼自身は姫路に何も求めていない。彼は会話の中で拒絶を意思を示していた。

 だとすれば、姫路にできることは多くない。

 

 元々、高梨明人については学校から過度の干渉が禁じられている。

 家庭内の問題はプライバシーに関わる。彼の事情は非常にデリケートだ。学校はそもそも教育機関に過ぎず、手出しが出来ない。権利上も、学校の風評の意味でも。

 故に、教員も粛々と上の決定に従うしかない。それが誰にとっても無難な選択だからだ。現に姫路も、高梨明人について何らかのアクションを起こしたことはなかった。仲の良い生徒だったにもかかわらず。

 今日、偶然彼に会わなければ、恐らくこれからもそうだっただろう。

 

 腹が立つ。

 沸々と怒りが込み上げてくる。

 

「過度じゃなければいいんでしょ、要は……! 過度じゃなければ……っ!」

 

 自身の不甲斐なさに怒る姫路は、再びスマホを取り出して普段絶対に使用しない連絡先を力強くプッシュした。

 幾度かのコールの後、不機嫌そうな声の中年男性と通話が繋がる。

 

『はい?』

「お疲れ様ですー、来瀬川ですー。教頭先生、いま学校ですよねー?」

『ハァ……来瀬川先生、今日何曜日だと思ってるんですか。普通なら自宅でしょう』

「でも教頭先生は学校ですよねー? 普通じゃないからー!」

『言い草ァッ!』

 

 ちょっとうるさいな。姫路はスマホを少し耳から離して会話を続ける。

 過酷な労働環境に置かれて久しいこの男性は、日曜でもこんな時間まで校舎に居残っている。姫路には最初からその確信があった。

 

「それでですね、ちょっとうちのクラスの高梨明人くんの住所が知りたいんですけど……確認してもらっていいですか? 本人から復学の意向を確認したので、手続きの書類を渡したくて……」

 

 雷が落ちるな、と多少覚悟していた姫路だったが、

 返ってきた言葉は意外なものだった。

 

『……構いませんよ。少し待っていなさい。メールで送ります』

「えっ!? いいんですかっ?」

『たしか、先生と仲の良かった生徒でしょう? いえ来瀬川先生のことですから……大きな問題になるような行動はなさらないかと思っていますが、違いますか』

 

 うぐっ、と姫路は声を詰まらせた。

 信頼の切り売りが前提である、と教頭は暗に告げているのだ。

 

「あ、当たり前ですよ! やだなー、あはは」

 

 その程度で怯んではいられない。

 姫路は承諾する。

 

『なら問題ないでしょう。使途も明白(・・・・・)だ。受け持っている生徒の住所程度であれば、むしろ請求に応じない方が問題になりかねない』

「で、ですよね! そうですよね!」

『ええ……では、もういいですかね。仕事が溜まってるので』

「あ、はい! お疲れ様ですー!」

 

 ブツリ、と不愛想に通話が切れた。姫路は大きく息を吐き、メールが届くのを待つ。

 語調からして、彼は姫路の作った口実の矛盾に気付いていただろう。本人から復学の意思を確認したのであれば、住所など本人に聞けばいいだけのことである。

 終始不愛想だったが、教頭の対応には幾ばくかの善意が含まれているのではないか。姫路はそう信じることにした。

 

 ――明日の朝一番、彼の家に行こう。

 

 姫路はそう決め、繁華街の喧噪を再び歩き始めた。

 そこで何らかのトラブルの痕跡を見付けられなければ、それに越したことはない。きっと、ごく普通の教師と生徒に戻れる。そうに違いないと、姫路は考えた。

 

 誰かの叫びは、もう聞こえなかった。

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