05.灰色の寄る辺①
日本標準時、十月二日、日曜日。午前十時六分。
往還門を使った際の異界における日付を、今の俺はしっかりと覚えることにしている。
既に生活基盤を現界に移して久しい俺にとって異界の暦などは無意味なのだが、無意味だからといって無視はできない。残念ながら、できなくなってしまった。
日本標準時、十月二日、日曜日。午前十時六分。
やはり記憶と寸分違わない日時が表示されているスマートフォンの待ち受け画面をじっくりと確認し、俺は大きく息を吐いた。ただ一人、異界、俺の生まれ育った世界にある、自分のマンションの寝室で。
体感で二カ月前、往還門で世界間の移動を行った何千回のうち、ただ一度だけの異常が起きた。最後に往還門を通過した際、俺と同伴者が――時間を遡ったのだ。この事実は、ただ異界と現界を往復するだけの通路だと思っていた往還門に、何か別の機能があるのではないかという疑問を俺へともたらした。
タイムトラベルだ。
先の一件で偶然にその恩恵を受けずとも、無視できるはずもない。
しかし、幸か不幸か、こうしていつも通り往還門を再び使用してみた限りではタイムトラベルと呼べるような機能が発現することは一度もなかった。
往還門を通過した経験がある人物を連れた状態でも結果は同じで、今回でちょうど三度目になる。
もし仮に往還門に時間移動を可能とする機能があったとしても、何か特別な条件が必要であるのなら、恩恵を受けることも脅威に曝されることもない。
ならば無視しても良いのではないだろうか――と、考える一方で、俺は酷く落胆している自分を自覚している。
叶えたい望みがあったから、だろう。
実際に叶えるかどうかは別として、それが可能な状態なのか不可能な状態なのかでは心の置き所が多少変わってくる。
つまり俺はまだ、遥か昔の想い人にどこか縛られたままだということなのだろう。
「いずれにせよ今回も収穫はなし、か」
薄暗い寝室の中で伸びをした俺は、体感的には久々に戻ってきた異界での住処に視線を彷徨わせる。
特筆すべきところのない、何の変哲もないマンションだ。
かつて自分がそこに住んでいた、という名残が覚えのある家具などから見て取れるものの、相変わらず今の俺に実感はない。
千年近い歳月は俺から殆どの記憶を削り落としてしまった。何かしらの思い出が想起されることも感慨を覚えることもない。自室でかつての自分の服に着替えてみても、ただ違和感があるだけでどうにも落ち着かない。
数時間の睡眠をとってから起き出し、音がない空間に落ち着かずテレビを点けてみても、やはり内容は頭に入ってこなかった。
そう。
ルースベーカリーを出てからというもの、水星天騎士団の野営地で――もう何カ月も野営している彼らが少し不憫だ――剣術指南をしていた間も、ずっと頭の片隅をぐるんぐるんと駆け回っているワードがあるからだ。
――降臨節――普通は恋人と過ごす。
「そうだったのか……っ!」
頭を抱えて机に突っ伏す。
いや無論、俺に恋人が居るわけではない。居ない。
残念ながら居たこともない。つまり未知の領域だ。足を踏み入れる予定もない。ないのだが、異性の顔が全く思い浮かばないというわけでもないのが難しいところだ。
通常――そう、通常の人類であれば、何も難しいことはないのだろう。実にイージーだ。思いの丈を何か、婉曲的な表現で伝えたり、ありのまま吐露したり、或いは、物品やらに込めて渡したりして、誰かと共に年に一度のイベントとやらを満喫したりすれば良いだけなのだ。
ハードル高過ぎないか。
高過ぎてバーが見えないぞ。
しかし、文化や慣習を全く意識せずに何の行動も起こさないのは、少し不義理な気もする。明確に好意を持たれていると互いに理解しているにもかかわらず、もし特別な日にも何も無ければ、傷付くんじゃないだろうか。普通。
恋愛的なアレコレはさて置くにしても、日頃の感謝を込めて――何か贈り物をするというのはどうだろうか。
それなら俺にもハードルが見えてくる。
遥か天空に見切れていたバーが、頭頂部くらいにまでは下りてきている気がする。
「さしあたって買い物だな。そうしよう」
買い出しに必要なものはソファーのクッションの間に隠してある。
これも何の変哲もない普通の革財布なのだが、中身だけはいささか変わっていた。
紙幣が数十枚。ずっと見ていると金銭感覚がおかしくなる。
異界において一介の学生が持つ金額としては異常だ。
しかし、自室の木棚に隠してある通帳にはもっと桁の多い数字が記されているし、この家のあちこちには似たような代物が色々と隠してある。
合計すれば、数回は人生を遊んで過ごせる金額になるだろう。
現界における過去の冒険――と言うと抵抗がある――千年前の戦いにおいて、俺は様々な報酬を手に入れていた。
価値の分かりやすい金銀財宝ではなかった。珍しい石だとか、奇妙な金属のインゴットだとか、まあそんなレベルのものだったと記憶している。
当時の現界では高値が付く代物ではなかったので、保管するだけ保管して持て余していたのだが、当時の往還者の一人がそれを異界に持ち込んで換金するというアイデアを思いつき、実行した。
その結果が、この異常な額の金だ。
彼が言うには、両世界の地層は組成が大きく異なっており、現界ではありふれた鉱物でも異界では非常に希少な物質だったのだそうだ。だからといってそれらを全て換金する知識や伝手は普通の人間にはないのだろうが、その辺りの事情を彼が詳しく語ることはなかった。
かつての仲間たち――九人の往還者の中でただ一人、現界に戻った彼の連絡先は、今もスマートフォンのアドレス帳に残っている。現在も連絡が取れる唯一の往還者ではあるのだが、実際に連絡をとったことはただの一度もない。
もう現界には関わるまいとして帰還した彼の意向を汲んだのもあるが、大きな理由が別にある。
彼が帰還したのは異界の暦で言えば八月の暮れだ。
この千年の間、俺は度々異界に戻っていたのだが、それぞれの滞在時間はごく僅かだ。長くても一日がせいぜいといったところか。なので実のところ、俺が現界で千年を過ごしていた間、異界ではひと月程度しか経っていないのである。
彼の主観で言えば別れたのはつい最近の話で、わざわざ連絡をするのも憚られる。連絡を取る理由も特にない。なかったが、いずれは検討してみても良いのかもしれない。
そんなこんなで軍資金を手にした俺は、買い出しの下準備としてスマートフォンのブラウザを起動する。
が、電池ゲージが心もとなかったので充電器を突き刺して放り投げつつ、パソコンを起動して検索エンジンにキーワードを打ち込んだ。
女の子、クリスマスプレゼント。
オルゴール、熊のぬいぐるみ、お人形等々といった検索結果がモニターに居並ぶ。
俺でもひと目で分かるほどに微妙である。これは父親が子供に向けて送るプレゼントのチョイスだろう。キーワードが悪かったのか、と早々に打ち直そうとするものの、ふと思い当たって指を止める。
マリーにはちょうど良いくらいの加減ではないだろうか。いや、少し幼いか。
数秒考え、やはりキーワードを打ち直す。いくら彼女に対しては保護者のような心持ちでいるとはいえ、流石に親子ほど離れているわけではない、気がする。
それが年齢的な話なのか距離感の話なのか、それとももっと別の何かなのかは深く考えず、俺は次なる検索ワードを打ち込んでいく。
恋人未満、クリスマスプレゼント。
今度は意識し過ぎだ。自分でも思いつつ、表示された「オススメの5選」だの「引かれないプレゼント!」だのの検索結果を順に眺めていく。
色々な情報を漁ってみるが、とりあえず身に着けるものは重過ぎる、らしい。重量の話ではないだろう。気持ち的な意味合いの重みの話であるはずだ。記事を読む限り、関係性に沿った重みの物品でなければお互いに不幸な結果になるという。
「……そうだろうか」
今ひとつピンと来ない。
頭の中で想像を膨らませてみる、例えば、俺がカタリナやサリッサから服だのベルトだのを貰ったとしたら、だ――いや、滅茶苦茶嬉しいし、普通に使うだろうと思う。
これは男女で異なる話なのだろうか。
それともアクセサリー類に限定した話なのか。記事を最下部までスクロールしてみるが、より詳細な解説の記述やリンクは見当たらない。
困った。別に贈り物で好感度を稼ぎたいわけではないのだが、決して悪印象を与えたいわけでもない。失敗はしたくなかった。
できれば。
いや、絶対に。
■■■
そうして決意と共に買い出しに出掛けたショッピングモールで、ちょっとした珍事が起きた。
それは、俺が血眼で女性向けのショップを歩き回り、降臨節のプレゼントを選定している最中の出来事だった。
「……あれ? 高梨くん、だよね?」
シアバターを原料にして作られているスキンケア用品を手に取って吟味していた俺は、全く想定外の事象、人に声を掛けられるという事態に遭遇してギクリと硬直した。
なにせ数百年単位で異世界に入り浸っている身である。元の世界、異界の住人と話す方が珍しいのだ。
それに、声の主に見当がつかない。声からして女性なのは分かったのだが、今の俺には異界時代の記憶が殆ど残っていない。
学生だった俺にも同級生の類は大勢いる筈で、友人も居たのではないかと思う。その線であれば、こんな場所で、こんな風に声を掛けてくる可能性もなくはないだろう。
だが全ては推測の域を出ない。
今の俺はボーダーのTシャツにテーラードジャケットを合わせている。決して、腰に剣を下げていたり、分厚い革のコートを羽織っていたりはしない。違和感のある出で立ちではないはずだ。などと、一瞬で自分を説得しながら、ゆっくり振り返る。
小柄な女の子が立っていた。
まるでクルミのような形の、ぱっちりとした栗色の瞳が印象的な童顔の女の子だ。服装は、十代前半の子が着るようなキャラクターブランドのカットソーに、ピンクのフレアスカート。ブラウンを含んだ肩までの黒髪は、ふわりと広がる程度の緩いウェーブがかかっている。
手にはパステルピンクのガーリーなショルダーバッグを抱えていて、それを愛らしく揺らしながら、大口を開けて俺を見上げていた。
正面から俺の顔を見た瞬間、彼女はパッと破願した。
「あー! やっぱり高梨くんだー! 久しぶりだねー!?」
誰なのだろうか、という疑問が喉から出かかるが、俺は言葉をグッと飲み込んだ。
若い。
というか、俺の目には子供にしか見えない。
学校の同級生、或いは後輩か。このどちらかだろう。まさか先輩ということはあるまい。態度の気安さからして、同級生と見るべきだ。
再び一瞬にして思考をまとめた俺は、ジャケットの襟を正しながら――そんな必要はないと思い直して動揺に震える指を止め、咳払いをする。
「オホン……あー、えーっと……お久しぶりです、えー……と」
なんで同級生に敬語で喋ってるのか自分でも分からなかった上に、名前を言い淀んで目を逸らしてしまう始末だった。非常に恥ずかしい。
そんな俺の痴態を見て、冗談だとでも受け取ったのか。女の子はくすくすと笑って肩を揺らした。
「あはは! やだなー、いい加減、担任の苗字くらい覚えてよー!」
「ッ! 担任ッ!?」
思わず声を荒げてしまう。
異国語のテストで見慣れない単語を目にした時の学生が如く、俺は脳内で再確認を行う。担任。担任と言えば、クラス担任の教師を指す単語だったはずだ。
軽く恐慌状態に陥る俺だったが、本当に驚いたのは女の子の方だろう。ぱっちりの目を更に丸く見開いて停止している。
「あ、ああ、急に大声出しちゃってすいません。随分と久しぶりだったもんで、なんかもうビックリしちゃって」
「そ、そうなんだ」
「ええ、はい。ホント久し振りですね、先生」
ニコニコと謝って誤魔化しつつ「いつ振りなのかは知りませんし、あなたの名前も存じ上げませんけどねーあははー」という言葉はやはり飲み込む。
こんな小さい子が、担任の教師。こんな衝撃的な事実をよく忘れられたな、俺。
「えー、あはは……前みたいに、ひーちゃんって呼んでくれて良いからね。なんか、高梨くんに畏まった態度とられると逆にムズムズするよ」
「えっ、ひーちゃん、ですか……!?」
妙な汗が浮いてきた額を必死で拭う。
「うん、なあに?」
二コーッと無邪気に笑いながら俺を見上げてくるこの女性を、どう処理して良いか今の俺は全く分からない。過去の俺がこの「ひーちゃん」とどういう接し方をしていたのかも、まるで見当がつかない。
この人は年上だぞ、と自分に言い聞かせながら、ようやく言葉を絞り出す。
「さすがに恥ずかしいので、ひーちゃん先生ということでひとつお願いしたく……」
「へえっ!? あの高梨くんが恥ずかしいって!? あの高梨くんが!?」
「……申し訳ございません。できればその高梨くんのことは忘れてやってくれませんか。是非に宜しくお願いします」
あの、とか言われても覚えてないものは覚えていないのだ。
本名不明のひーちゃん先生は俺の懇願を聞くなり、いっそう大きく笑った。
「あははっ! なんか、遠目だとちょっと大人っぽくなったかなー? って思ったけど、やっぱり面白い子だよね、高梨くんは!」
褒めているのかいないのか判断に困るが、上手く誤魔化せてはいるらしい。
後は愛想笑いで乗り切ろうと笑みを作る俺に対し、笑顔の絵文字を擬人化したかのようなひーちゃん先生は、笑いながらもチラリと手首の腕時計を確認した。
なるほど、これは子供らしくない仕草と配慮である。時間を意識させることで、相手に会話を切り上げやすくさせているのだろう。それを見て、俺はようやく得心がいった。
「そういえば、先生はどうしてこちらに?」
「うん、来週、友達の誕生日なんだ。その買い物とか……あと色々かな。他の子とも待ち合わせてるんだけど、待ち合わせ夕方だから絶妙に時間あいちゃってて……」
「ああ、そうなんですか」
それは大変ですね。
はは。それじゃあ、また学校で。
さようなら。
ひーちゃん先生は、仕草ひとつでこんな流れをアシストしてくれたのだ。
見た目に反して、この人は大人だ。
俺は仄かな尊敬の念を抱きつつ、頭を下げる。
「それは大変ですね。それじゃあ……また学校」
「高梨くんはどうしたの? なにかお買い物?」
「……でえっ?」
流れをぶった切って食い気味に訊ねてきたひーちゃん先生の瞳に、
俺は、確かな好奇の光を見た。
ぞくり、と背筋が寒くなる。
「いや、俺も……友達の誕生日が近くて、まあ、プレゼントですかね」
俺は、目立たないように手にしていたスキンケア用品を棚に戻そうとする。
すると、たちまちひーちゃん先生の手が伸びてきて、ガシッと俺の手首を掴んだ。スキンケア用品、シアバターのチューブと俺の顔とを交互に見比べ、彼女は言う。
「えーっ? えーっ!? そうなんだー!? ちょっと話聞かせてよー!」
「ええっ!?」
「ちょっとくらい良いでしょ!? 先生暇なの! お茶しましょお茶ー!」
果たして、大人の配慮は何処へ消えたのだろうか。
あれは、蜃気楼か何かだったのだろうか。
俺の虚しき問いは、ティーンエイジャーにしか見えない担任教師の細くて熱い手に引かれ、あえなく全国チェーンのカフェへと引きずり込まれていくのだった。




