01.竜種①
手のひらに吸い付くような白い長剣の柄の感触は慣れ親しんで久しく、
何を斬るにしても、何に刃を打ち込むにしても、
その感触は、戦いの場において唯一、たしかに信頼できるものではあった。
断てぬものが無いと謳われる白き剣。
遺物、何でも切れる丸。
こんなふざけた名前を与えたのは、恐らく俺の幼稚な抵抗だったのだろう。
現実はゲームではない。
イベントに沿ってエネミーを倒せば終わるシナリオなどではない。
何でも斬れる剣が本当にあったとしても、それだけで万事が解決するわけもない。
どんな敵でも倒せるわけではない。倒したところで解決するとも限らない。
何でも斬れる、だけ。
本当にただそれだけの剣。
だからこその揶揄だ。
何もかもを滑らかに切断する剣は一切の抵抗なく敵を切り裂く。
何の手応えもなく、それ故に罪悪感も薄く、ただただ命を引き裂くだけ。
その剣はそういうものだ。
その剣によって数多の戦いを切り抜けながらも、俺は薄々気付いていたのだ。
刃を黒い少女の胸に突き立て、
その心の臓を突き破ってなお、この白剣はやはりそういうもので在り続けた。
蕾のような唇が形を作るより早く、少女が口から僅かに血を吹いた。
俺は温かいそれを数滴浴びて、そう。
初めて命を奪う実感を得たのかもしれなかった。
瞬間、手の中の白い長剣が何かおぞましいもののように感じられた。
命を預けていた筈の得物が、途端に恐ろしい怪物のように思えた。
息が詰まる。
喉奥から饐えた何かがこみ上げてくる。
俺は固まった指を柄から引き剥がし、胴の中心から剣を生やした少女から半歩後退る。そうして見て、やはり、俺は俺の所業を本当の意味で理解する。
俺は何をした。
吐き気がする。
相手が人の形をしていたから、ではない。
長い間共に戦った仲間だったから、でもない。
何百何千と屠ってきた命の全てが、弾劾を叫んでいる。
今ここに至るまで理解していなかった、命を奪うという行為の意味。
漸く理解したところで、許される筈もないのだと。
許される日は来ないのだと、悟ったから。
「……なんという顔をしておる。顔を上げんか、ばか者」
胸を貫く剣に岩壁へと磔になった少女が声を発した。
黒いドレスに長い黒の髪。人外の気配を漂わせる金色の目。
人であれば即死を免れない傷を負っても、彼女は死んでいなかった。苦しげに顔を歪めながらも口端を上げ、笑顔に似た表情を作る。
「デッセネウラ」
俺は呆然と彼女の名を呟くしかない。
なぜ。
なぜこうなったのか。
疑問符だけが思考を埋め尽くす。
「あぁ……生命の福音でさえ為し得ぬこととはいえ、おぬしの剣ならもしや……とも思ったが……上手くはいかんものじゃの。やはりわらわも死なぬようじゃ。かように生き汚くあるつもりはなかったが……」
「死ねないって……まさか、わざと俺に……」
「……たわけめ。おぬしはついでじゃ……思い上がるでないわ」
胸から夥しい量の血を流しながら、少女はやはり笑う。
彼女は、この世界に残された最後の竜だ。自らを竜種と呼ぶこの強大な種族は、彼女一人を除いて残らず打倒された。
戦いの中、彼女だけは人に与した。だから、竜戦争が終わった後も俺は――彼女と人が共存できるものだと信じていた。
しかし十年が経って俺が耳にしたのは、人喰いの悪竜の噂だった。
平穏を取り戻しつつあった現界に数多く興りつつあった国々のひとつ、北方の小国アルセウムが、悪竜によって一夜で滅んだのだと。
かつての竜戦争における英雄である俺は、助力を乞われて北方へと赴いた。
半信半疑のまま城館に踏み込んだ俺を待っていたのは、
喰い散らかされた骸の山と、玉座に座るかつての仲間の姿だった。
俺は彼女を剣で突き殺した。
「だが、この地の……ヒトが愚かであることに相違はないのじゃ。魔素を操れば滅ぶが定め……ましてや、死者を蘇らせようなどと。ヒトの手で魂を編み、肉を動かす……それは大いなる理への反逆じゃ」
分からない。
俺には彼女の言う事が分からない。何一つ。
分からなかったが、人を喰っていい理由など何処にも存在しない。そう思う。
俺達は決定的に決裂している。
だからこそ、まがりなりにも人の姿をとっている彼女を突き刺して殺した。
彼女が人を殺したから、俺は彼女を殺した。
矛盾している。
俺は矛盾している。
「……だが、おぬしがその為に惑う必要はないのじゃ。おぬしはヒトの……いや、定命の者達の守護者じゃろう。ならば、それを最後まで貫き通すのもまた、正しい」
「勝手に納得しないでくれ! 俺は……!」
「わらわの話ではない。おぬしに納得をしろと……言っておるのじゃ」
「できるわけないだろうがッ!」
彼女から剣を引き抜こうと手を伸ばした俺は、踏み出した靴が水溜まりを――大量の血液を踏んだことに気付く。少女が流している血が、足元に広がっていた。人の姿をした彼女は小柄で、その小さな体躯に比べると明らかに異常な量だ。体積より遥かに多い。
俺は、それ以上前に進むことができなかった。
「ヒトに仇為す最後の竜を討ち、おぬしの戦いは……いま、ここに終わる。外殻大地に残された定命の者達を縛るものは、もはや何もない。おぬしも……おぬしのあるべき場所に還る時が来たのじゃ」
「こんな……こんな終わり方で納得しろって言うのかよ!?」
「……安心するがよい。わらわは死なぬ。魔素の循環……理がわらわを殺さぬ。我ら竜は滅びることを許されておらんのじゃ」
彼女はそこまで言うと、己を磔にしている胸の剣へと指を這わせた。
「だが……この白き刃は、永久にわらわを……永遠に蘇り続ける命でさえも、幾千幾万の夜を超えて殺し続けるじゃろう。やがていつか……大いなる理さえも潰え果てる未来まで、わらわを大地に縛る。ゆえに、おぬしを剣の化身たらしめたこの刃は、このままここに置いていってくれ」
「……っ!」
生きているのか死んでいるのか分からないような状態のまま、永遠を過ごす。
そんなもの、いっそ死ねた方がまだ良いのではないか。
認められない。
悍ましい刃――もう、そうとしか感じられない白い長剣へ俺は手を伸ばす。
「アキト……どうか、わらわの最後の頼みを聞いてほしい。わらわはヒトの世を見とうない。ヒトの世にわらわの居場所はないのじゃ。その営みの中にわらわは居れぬ。わらわは理を守らねばならぬ。ヒトを喰ろうてまでも」
「そんなの……そんなものは俺も同じだ! このまま現界に人間同士の戦乱が続くなら、俺だって戦わないわけにはいかない! もっと人を殺さなきゃいけなくなる……俺とお前に違いなんか何もないじゃないか!」
「……たわけめ。おぬしはヒトじゃ。義憤によってたまたま剣を執っただけの、ただのヒトじゃ。なぜおぬしがヒトの業の全てを背負わねばならん。なぜおぬしだけがヒトの全てを救わねばならんのじゃ」
伸ばした俺の手は、黒い少女の白い手のひらに掴まれた。
力は弱く、とても人外の――竜などという強大な種族のものとは思えず、刺すような胸の痛みを覚えて、俺は立ち竦む。
靴を濡らす血は、もう城館の床一面に広がっていた。
最後に泣いたのはいつだっただろう。
俺にはもう、思い出せなかった。
歪む視界の向こうで、少女が言った。
「おぬしの剣はわらわが貰う。おぬしの力のすべてを、わらわが貰う……だから、もう一度言おう。おぬしの戦いは、ここに……終わったのじゃ」
彼女は苦しそうに笑っていた。
ずっと――後になって思えば、
その気にさえなれば、俺はデッセネウラの胸から剣を引き抜き、取り戻すこともできたのだろう。だがその時の俺は、そうはしなかった。
デッセネウラの言うように、遺物を――剣の福音の権能を手放せばただの人間として生きていける――などという傲慢な勘違いしたからではない。
邪悪な人喰い竜の最後の一匹であるデッセネウラを、己の力と引き換えに封じようなどと決意したわけでもない。
矮小な、ただの子供でしかなかった俺は、ただこう思ったのだ。
彼女の願いを叶えたいと。
許される日は来ないのだとしても、せめてそれくらいは、などと。
「すまない」
顔を伏せる俺の頬に、デッセネウラは作った笑顔のまま手を伸ばした。
引き寄せられるままに互いに顔を近付け、唇を重ねる。
俺と彼女はそんな関係じゃなかった。
だから、驚きがなかったわけじゃない。
もし。
こんな時でもなければ、もしかすると嬉しかったのかもしれない。
好意を明確に形にするその行為が。
彼女の気持ちを、素直に喜べたのかもしれなかった。
たとえ彼女がヒトでなかったとしても。
その先に未来なんかなくても。
重なりが解けた後、目の前にした人外の美貌はやはり笑顔だった。
「ヒトの姿をとった甲斐があったのじゃ。永きまどろみの、良いよすがとなろう」
「自分の血の味なんか思い出すつもりかよ。もっと……良い夢を見てくれよ」
「ふふ、嫌じゃ」
優しく肩を押され、俺は数歩後退った。
先程から聞こえている音がある。
終わりの足音――人喰い竜と英雄の物語が終わる。
「……さらばじゃ、アキト。おぬし達との旅路は……実に楽しかった」
地面が揺れる。
城館全体が振動していた。
足首にまで達した血の池の中で踵を返す。デッセネウラの――竜種の血は、それそのものが濃密な魔素を帯びている。様子を見る限り何か破壊的な力を発現しているに違いなく、それに俺が巻き込まれるのを彼女は望まないだろう。
機械のように歩く。
己の半身とも言える遺物と、大切な仲間を置き去りにして。
血が溢れた玉座を抜け、城館の門をくぐり、滅びた街を抜けて、俺はようやく振り返った。アルセウムという国があった場所には、もう何もなくなっていた。
如何なる力が働いたのかは分からない。
だが、その地は確かに地盤ごと崩落して地の底へと沈んで消えていった。
夜空の下、荒野に膝をついた俺の手にも、もう何も残っていなかった。
剣も、仲間も。
もう何もない。
もう誰もいない。
そう思うと、ごく自然に――ずっと抑えてきたものが――涙が溢れてきた。
みっともなく鼻水を垂らし、声を上げて泣いた。
泣き叫びながら、もっと早くそうしていれば良かったと思った。
あの優しい竜が、俺にそれを許してくれるよりも早く、
俺は、俺の弱さと間違いを認めるべきだったのだと悟った。
俺は、正しく英雄であるべきだと自分を定義していた。
人を超えた力を持つ者として、常に正しくあるべきだと。
正義を行う者でなくてはならないと。
だが、そんな自負に意味なんてなかった。
俺は、どこまでいってもただの子供で、ただの人間でしかなかった。
どれだけ英雄だ何だと他称されようと、ただひとりの人間でしかなかった。
間違わないわけがなかったのだ。
夜が明けて白み始めた、バニラ色の空に悪罵を叫ぶ。
神様気取りで俺なんかに力を与えた、理不尽な存在へ。
なぜ、剣の福音を手に入れたのが俺だったのか。
もし別の誰かだったら、きっとこんなことにはならなかったはずなのだ。
きっと、こんなことには。




