ex.モルモル
- 居ないはずの福音が変えてしまったもの。失われたもの。本来、二人はこうではなかった。
極度に透明度が高い、水底の小石すら見通せそうな透き通った水の中で目を開いた白い少女は、前後の記憶を探るより先に状況を把握することにした。
素早く左右に視線を動かして危険の有無を確認する。刺すような冷たさ。流れのない水。僅かに口に滲みた水の滋味から、水質は鉱泉の類であると推定。現在位置が地表ではないことを察する。
水中に生物や植物も見当たらず、さしあたっての危険はないと判断した彼女は水を掻いて白光が揺らめく水面を目指した。
ちゃぷんと顔の上半分だけを出して見やれば、周囲は黒灰の岩肌に埋め尽くされている。洞窟だ。となれば視界が確保されている――光が刺しているのはどういった理屈か。首を上に向けた少女は、いともあっさりとその理由を理解した。
天井の一部が抜け、森の木々と青空が見えていた。
(ああ……あの穴から落ちたのね)
少女は思わず頭を抱えた。何とも間抜けな話である。
気を取り直し、たすき掛けにしている革の鞄と白い長杖を水中に無くさないよう、慎重に泳ぎながら水から上がれる場所を探した。
しかし、思ったほどに体が動かなかった。身に纏っている裾の長いワンピースの布地が手足に絡み、水に抵抗してしまっているからだ。
この少女には着衣水泳の経験がない。それどころか、水着での水泳すらも馴染みがない。最後に泳いだのは小学校一年次の授業でのことで、十年を遡る。
筋力にも乏しい彼女は早々に力尽き、遂には湖の中心で手足をばたつかせるのみとなってしまった。冷たい水を飲みながら弱々しく動く彼女は、しかし、何の危機感も覚えていなかった。
(……駄目ね……全然前に進まない。これならいっそ、沈んで底を歩いた方が早いかしら……?)
呼吸がままならず、苦しいには苦しい。が、更に「どれだけ水を飲めば人体は沈むのだろうか」などと考え始める程度に彼女には余裕があった。どれほど窒息しようがどれほど体温が奪われようが、己を死に至らしめることはない。そう確信していたからだ。
その身に宿る《生命の福音》は、彼女に死を許さない。たとえ溺死を免れないこの状況であっても、水から上がるまで――しばらくの間は死に続けるだけだ。死にながら水底を進めば何とかなるだろう、という目算があった。数時間程度の窒息の苦しみなら、どうとでも耐えられる。慣れている。
そこまで考えた時、何かが着水したかのような大きな水音が少女の耳に届いた。湖面が揺れ、水死体同然になった彼女のもとまで波紋が届く。訝しげに首を曲げた彼女は、ざぶざぶと水を掻き分けて進んでくる少年の姿を見た。
沈みかけた少女とは全く異なる、服どころか背の荷物袋と腰の白い長剣の重量すらも無視するかのような猛烈な勢いで泳ぎ進んできたその少年は、器用にも泳ぎながら少女の首に腕を回して牽き始めた。
「柊! おい柊、無事か!?」
生きているし、死ぬわけがないし、怒鳴らなくても聞こえているのだが、少女は――白瀬柊は、ひとまず飲みかけの水を口から吐くことにした。
ぺっぺっと吐き出して舌を伸ばし、水の纏わりついた顔を手でごしごしと拭う。それから自分を救助する黒髪の少年を見た。
「……うるさいわ……静かに喋って頂戴」
「ああ!?」
「耳に響くのよ……あなたの声」
口からこぼれ出たのは、なぜか文句だった。実際に喧しいとは思っているのだが、ここは素直に礼を言う場面ではないのか――そう分かってはいても、素直になった試しは今までに一度もなく、今もない。
「明人……私が死ぬわけないって知ってるでしょ……もう忘れたの? 鳥頭なの?」
人との会話が得意でない柊だったが、この少年に対する憎まれ口についてだけは不思議と舌が滑らかに回った。
高梨明人。
柊と同じ、しかし彼女とは違う力を与えられた異邦人。異世界、外殻大地に召喚された九人の中のひとりだ。
九人の中で最も没個性、最も平凡な「普通の男子高校生」を自称している少々変わった――痛々しい少年である。が、他の八人の異邦人達の中に平均的な日本の男子高校生を知る者は居ないので、彼の主張が事実かどうか、異世界送りになった今となっては誰にも分からない。
ただ、彼がこの外殻大地を支配する邪悪な竜種を、現在までで十二体滅ぼしている事実は無視できない。その討伐数は竜種と戦う仲間たちの中でも群を抜いており、一介の学生とは思えない才能を発揮しているのは間違いなかった。
「さすがに忘れねえって。けど、死なないってのと無事かどうかってのは全然関係ないだろ」
「……そう?」
「そうだよ。ったく、穴に落ちるなら落ちるって言ってから落ちてくれ。探すのに手間取っちまった」
「穴から落ちたわ」
「いや事後報告は要らないけどな」
彼自身、運動とは疎遠でありそうな細い見た目をしている割に、泳ぎは力強かった。あっという間に地底湖の終端まで泳ぎ切ると、柊を岩場に持ち上げて自らも水から上がる。魔素の補助を受けているのもあるのだろうが、力尽きて生シラスじみて岩の上にへばりついた柊からすれば、彼のバイタリティは実に男性的だった。
「……ちょっと驚いたわ……泳ぎが得意なのね」
「ああ。こっちに来たての頃は、魚ばっか採って焼いて食ってたからな」
「魚……随分とワイルドだこと。素潜りで?」
「素潜りで。剣で刺して」
釣りでもすれば良かったのではないか、と幸いにも食料の問題には遭遇しなかった柊は酸欠気味の頭でぼんやり考えた。
「道具も無かったからな。一から道具作るってのもハードル高いし、動物は狩れても捌く自信なかったし。その点、魚は楽でいい。焼けば大体食える」
濡れたコートを脱ぎながらそう言った明人は、荷物とコートを放り投げると険しい表情で天井の穴を見上げた。
つられて視線を向けた柊も、彼の考えていることを理解する。
「無理……登れないわ」
部分的に崩落している天井までの高さは、およそ十五メートルはあった。位置的には地下空間のちょうど中央付近で、掴まれそうな岩壁からも遠い。
仮に壁から近くとも、今の体力では登りきれそうもなかったのだが。
「さすがに高過ぎて俺にも無理だな。まいった、こういう洞窟は大体どっかに出口があるってのがセオリーなんだが……」
「……どの世界のセオリーなのよ、それ」
「それはほら、ゲームとかアニメとか……色々あるだろ」
ふう、と溜息を吐いた柊は、自分なりの見解を口にした。
「風がないし、水も流れてないわ。もしかするとこの洞窟、地上に繋がってないんじゃないかしら」
「げ、マジかよ。誰か気付いてくれるといいんだが……気付いても探しに来るのは当分先だよな……こりゃしんどいぞ」
明人は引きつった笑顔を浮かべる。
仲間たちは別行動中で、合流地点はここから数日歩いた先にある村だ。もし彼らが事態に気付いて捜索に来るとしても、相応の時間がかかる。
「二重遭難だな。悪い、もうちょっと考えてから動くべきだった」
「……別に」
謝られても困る。
べっちょりと岩肌に倒れたまま、柊は苦い表情をした。地上から柊を見つけただろう彼が、そこで迷わず洞窟に飛び降りるような人間であることは知っているつもりだったし、それが悪いことだとも思っていない。
そもそも足元を確認せずに歩いていた自分の不注意が発端なのだ。
「ま、荷物が無事ならどうとでもなるけどな」
自信たっぷりに言う明人は水浸しになった荷物袋をごそごそと漁り始めた。
取り出したのは手のひらサイズの折り畳み焚火台、水に濡れても使用できる非常用燃料の鉱石が三つ。即席のキャンプファイアを組み立てて着火する。
「柊、遺物を貸してくれ」
「……動くのだるいから勝手に使っていいわ」
明人は蓮の花を象った白い杖を掴むなり、腰に帯びていた白い長剣と共に岩の隙間に間隔を空けて真っ直ぐ立てた。それぞれの先端にロープを張って物干し台に仕立てると、濡れたコートをロープに引っ掛ける。
「あなたね……使っていいとは言ったけど……遺物を何だと思ってるの?」
「仕事道具。今は物干しスタンドってとこか。それより、さっさと服脱げ」
「…………はい?」
「乾かすから服脱げ。風邪ひくぞ」
世の節理すら書き換える力を秘めた遺物を雑に扱う少年は淡々と喋ったのち、最後に真顔で信じられないことを言った。
「……かっ、風邪なんてひいても一秒で治るわよ……寒いけど」
「寒いんじゃねーか。いいから脱げよ」
言いながら自分もシャツを脱いでいるあたり、本当に他意はないのだろう。
ないのだろうが――これにはさすがに柊も起き上がった。起き上がったが、明人は起き上がった細い少女を呆れ顔で一瞥するだけだった。
「あのなあ……環境が改善しない限り繰り返すってんなら、そりゃ治ってないのと同じだろ。お前、頭いいのに結構バカだよな」
「バカ!?」
「今に限った話じゃないが……辛い時はちゃんと辛いって言え。無暗に我慢するな。我慢したからって辛いことが消えるわけじゃないんだ。それは無事とは言わないし、全然大丈夫じゃないんだよ」
絞ったシャツで頭を拭く少年は、やはり平然としていた。
柊は彼のこういうところに腹が立つのである。
「……余計なお世話よ」
もう変に意識する方が自意識過剰なのでは、という気にすらさせられたので水を吸って肌に貼り付くワンピースを脱ぎ、簡素な下着だけの姿になる。
「こっち向いたら殺すわ」
「向いても見ねえよ」
「知ってる。でも一応言っとかないと納得して死ねないでしょ?」
「……向いただけで殺すのは確定なのな」
「当然」
なってみればやはり相当な恥ずかしさがあったものの、明人が予想通りそっぽを向いている――真剣な面持ちで仄暗い洞窟の奥を見据えているのを見ると、その羞恥は早々に消えた。
開き直って濡れたワンピースを絞ろうとしたが、水を吸った木綿のワンピースは思いのほか重く、固い。手間取っていると明人がやってきて適当に絞って干してしまった。その最中の明人はばっちり柊の方を向いていたのだが、明らかに眼中になさそうにしている相手に対して怒る気にはなれない。
もうどんな顔をすればいいのかすらも分からなかったので、柊は大人しく焚火台の前で体育座りをすることにした。
そうしてみると小さな炎でもそれなりに温かく、一息つくことができた。
明人が腹の立つ人物であるには違いない。それでも、こうして頼りがいのある人物なのも間違いがないのである。
外殻大地に召喚された柊が最初に出会った同胞。それが彼と彼の相棒であるマリアという少女だった。
やや子供っぽく粗野だが、常に誰かの為に戦う明人。博識で優しく人当たりのいいマリア。この二人は多くの人々を救いながら、仲間たちを牽引してきた。もし彼らが居なければ、唐突に異世界に放り出された仲間たちもどうなっていたか分からない。
特に、柊は彼女固有の事情から自力で生活する能力が備わっていなかった。一人では野垂れ死にしていただろう。
感謝はしている。信頼もしている。
なのに腹が立つのは、恐らく――と、柊の思考が何度となく到達した行き止まりまで及んだ時だった。
「くそっ、迂闊だった……! どうして気が付かなかったんだ!」
荷物袋を確認していた明人が深刻なトーンで呻いた。
洞窟内に魔獣でも生息していたのか、と腰を浮かせて身構える柊に、振り向いた黒髪の少年は愕然と言った。
「パンが……俺のパンが水でふやけてる……ッ!」
「……そう」
体育座りに戻る。
「おま……お前っ! 相変わらず食事に対してドライな奴だな!」
「別に、乾かせば食べれるでしょ?」
「そりゃ多分難しいぞ……見てみろ」
柊が携行している食料も少量のパンと木の実だ。
パンといってもふかふかした発酵パンではなく、マリアが焼いた特製のショートブレッドだ。日持ちしながらも味も悪くない優れものである。
しかし、その優れものは鞄の中でボロボロに溶け崩れてしまっていた。
「確かに」
これでは乾かせても粉にしかならない。無理をすれば食べられなくはないだろうが、味には期待できない。下手をすれば体調を崩す恐れもある。
「無事なのはチーズと……瓶詰のモルモルだけか」
モルモル。
耳慣れないその単語が指し示す食べ物を想起し、柊は僅かに眉をしかめた。
「それはちょっと……厳しいわね。精神的に」
「ああ」
外殻大地で一般的に食されている種の芋類を加工して粉末にした食品。それがモルモルである。
乾燥した粉末なので保存性に長け、水さえあれば調理できるので主食として全土に普及している。問題は――
「マズいんだよなあ」
「……でんぷん糊みたいだものね」
味だ。食味が著しく悪いのだ。
柊と明人はモルモルが苦手だった。仲間内に居るもう一人の日本人も同様なので、日本人の味覚には合わないのだろう、と柊は推察している。
「でも大人しくモルモルするしかないんじゃない? 水は沢山あるんだし」
「えぇ……やだなあ。モルモルしたくねえなあ」
「……味なんてこの際どうでもいいじゃない。何もないよりはマシでしょう。なんだったらチーズでも入れてみる?」
「悪化しそうだが……とりあえずやってみるか」
渋い顔で胡坐をかいた明人はナイフでチーズの塊を削り始めた。
その妙に手慣れた手つきを見やり、柊は肩をすくめる。
「料理も……こっちで覚えたの?」
「いや、こっちは前からだ。自炊してたからな。家庭料理くらいなら一通り作れたよ。まあ、こっちじゃ大半の材料がねえけど」
「……へえ。理由を聞いても?」
「聞いて楽しい話じゃないさ。それより、何か香草持ってたら分けてくれ」
柊は前の世界の常識を備えていなかったが、一般的な高校生は自炊をしないものだという程度の感覚はあった。もし自炊をしていたのなら、そこにはそれなりの理由がある筈だとも。
しかし柊はそれ以上踏み込まず、黙って香草の入った小瓶を渡した。
「お前も料理やってみればいいのに。意外と簡単だぞ」
「私は……遠慮しとくわ」
「そうか? 勿体ないな。やってみたら割と面白いもんだぜ」
気まずそうに笑う明人も立ち入ってこない。
彼との距離感はそんなものだった。崩すのは得策ではない。
小さな鉄鍋で粉と水を煮る彼も、きっと同じように感じているはず――
「将来的にも役に立つんじゃないか。いつかはするだろ。結婚とか」
「結婚するの!? マリアと!?」
思わぬ言葉に身を乗り出す。
明人は慌てた様子で勢いよく頭を振った。
「お、俺の話じゃない! お前だ、お前!」
「……あ、ああ……私?」
肩を落とし、柊は膝を抱えた。
言われるまま自分の未来を想像しようとして、挫折する。
「別に……今はそんな呑気なことを考えていられる状況じゃないでしょ」
「別に考えてもいいじゃないか。今は難しくても、外殻大地から竜種を一掃すれば、あながち夢物語ってわけでもなくなる……というか、俺達はそういう平和な未来の為に戦ってるんだからさ」
そう言って鍋の中の粘液をナイフでかき混ぜる明人の横顔は穏やかだ。
食欲をそそられるとは言えない匂いが立ち込める中、柊は小さく呟いた。
「未来、ね」
***
薄明るい、クリーム色の空の下で目を開いた白い少女は、状況を把握するより先に前後の記憶を探ることにした。最後に見たのは振り下ろされる長剣、遠ざかっていく黒髪の少年の姿、そして暗く冷たい水だ。
どうやら川辺に流れ着いて眠ってしまっていたらしい、と理解して濡れた白い髪をかき上げた。水を吸った袖は重く、腕を持ち上げるのも億劫だった。
怠い。
体を起こそうという気も起きない。
ほんの少し、あの黒髪の少年が追って来ているのではないかと期待した少女は、すぐにその淡い期待を頭から追い払った。
来ているわけがない。もし彼にその気があったのなら、事前に手足の一本や二本は斬り落としにかかっていたはずだ。彼は来ない。
論理的にそう考えると、自然と笑みが零れた。
「昔から詰めが甘いのよ、アキト」
淡く囁いて水辺に揺れる白い少女は、次いで身を起こし、雫を散らせる。
水に浸ったせいだろう。懐かしい夢を見たのは。
「……未来なんてなかったわね。お互いに」
未だ、夜明けは遠い。
蓮の花を象った白い杖を携え、彼女は残された僅かな夜闇の中を歩き出した。




