49.不善
不意に覚醒した男は、漆黒に染まった視界に混乱して反射的に手足を動かした。しかし後ろ手に縛られた手首がびくともせず、両足もくの字で固定されていて身動きがとれない。もがこうにも、ぬるりとした液体に首まで満たされたその狭い空間には、姿勢を変えるだけの十分なスペースがなかった。
彼は声を上げようとして気付いた。何かが――何か太い管のような金属が口腔から喉にまで通されているのだ。肺から漏れ出でた空気は、ごぼごぼと湿り気のある音を鳴らすだけで声にはならない。
自由が効いたのは眼球だけだった。
視界の上方から光が漏れていた。
「魔力供給についてですが、この調子なら二ヶ月はもつかと思われます。あくまで現在の機関出力が維持できるとしてですが……おや、彼、起きてますね。麻酔の調子が良くないようで」
「早く直してあげたまえ。騒がれても困る」
「了解です。ま、騒ぎようがありませんけどね」
何者かが二人、会話をしている。
低下した思考能力でそう理解した男は、助けを求めるべく体を揺らす。狭い樽状の場所に押し込められた彼には、それ以外にできることがなかった。
一人分の足音が遠ざかって消え、残る一人が男を覗き込む気配がした。
「やあエリオット、具合はどうかな」
穏やかな男の声が問うた。
答えようもない。押し込められた男、エリオット・ランセリアは返答の代わりに血走った眼をいっぱいに見開いた。
「うん、元気そうで何よりだ。もし具合が悪くなったら技術者に声を掛けてくれたまえ。君程度の魔力では些かの不調でも供給に不足が出てしまうからね」
声は、意味の分からないことを優しく言った。
エリオットは男の声を知っていた。次第にはっきりとしていく思考で、
その男がこの国の皇子であることを思い出した。
初めて出会ったのは、互いにまだ少年の時分だった。
出来の悪い子供だったエリオットは、父にぞんざいに扱われて腐っていた。
この皇子はそんな頃に声をかけてきたのだった。
皇子は美しく、賢く、強い少年だった。絵に描いたような完璧な人間だった。
コンプレックスを感じなかったわけはない。
しかしそれ以上に、そんな完璧な人間に自分が選ばれたのだという喜びが勝った。彼に選ばれる自分はやはり特別な人間だったのだと舞い上がった。
不出来なエリオットはことあるごとに皇子に助けられてばかりだったのだが、友情は不思議と長く続いた。
エリオットが成長し次期当主として目されるようになってからも、皇子との友誼は続いていた。しかしある日、皇子が継承戦――次期皇帝を決める戦いについて漏らした時、エリオットの中で何かが変わった。
欲が生まれた。
この完璧な皇子に対して優位に立ちたいという、欲だ。
エリオットは皇子に秘密裏の協力を申し出た。
もし皇子が勝ち残って帝位に収まれば、公爵家の権力は更に高まる。
そんな打算はあった。
しかしそれ以上に、
あの完璧な皇子に協力してやっているという状況に、エリオットは酔いしれた。
表向きは継承戦に関与しない姿勢をとる皇子の代わりに、他の皇族に対する攻撃という汚れ仕事を引き受けてやる。皇子にできないことを、自分が代わりにやってやっている。
それは、なんとも言えない甘美な愉悦だった。その昏い悦びに耽るあまり、自身が後戻りのできない深みにまで嵌ったことにも、気付かないほどに。
「エリオット。もしかすると君は、私にとって君が友人だったとでも思っていたのかもしれないね。でも実際はこんなものだ。私は君を利用したし、君は私を利用しようとした。なら最後までそうあるべきだ。そうだろう?」
エリオットは我に返り、ごぼごぼと空気を漏らした。
その様子を抗議と受け取ったらしい皇子は、あくまで柔らかい口調を崩さないままで言葉を重ねた。
「頼んでもいない弁解をしにやって来た君を、一体どう処理したものかと迷ってはいたんだが……少々状況が変わってね。君みたいなのを使っていたと知れたら困ってしまうんだ。だから、君にはそこで余生を過ごしてもらう。技術者が言うには二ヶ月は生きていられるそうだから、安心したまえ」
二ヶ月。二ヶ月を過ぎるとどうなる。
生じたエリオットの疑問が声になることはやはりなく、当然、答えが与えられることもない。
ただ、辛うじて差し込んでいた光が金属の擦れる重い音と共に消えようとしていた。視界が完全な闇に閉ざされる直前、皇子は最後まで穏やかに言った。
「……ああ、そうそう。結局、木蓮は死んだそうだよ。せっかく君が買い取った木星天騎士団も終わりだね。本当に残念だよ」
蓋が閉ざされ、錠が掛けられる音が響いた。
他には何も残らなかった。
全きの闇、自身の荒い呼吸音だけになった世界で、押し込められた男はもがき続けた。彼に許された行為はそれだけだった。
次期公爵である自分が、こんな得体のしれない場所に閉じ込められているのはおかしい。まったく道理に合わない。なので、こうしてもがいていれば抜け出せるかもしれないし、そのうち助けが来るに違いない。
エリオットはそう考えた。
そう考えなければ、彼はもう自分自身を維持できなかった。
もがきながら、皇子の最後の言葉を思い起こす。
木蓮が死んだ。
その意味するところを、黒く腐り落ち行く思考で辛うじて考えた。
――ハリエット。
昔から目障りな妹だった。
器量がよく勉学も得意で、魔術の才能さえ持っていた出来のいい妹。
なのに気弱で、いつも部屋の隅で大人しく本を読んでいた。
容赦のない父は、器量がいいのを良い事に政略の道具に仕立てようとした。
愚かだ。出来がいいのだから優しくしてやれば良かったのだ。
だからハリエットは家を出てしまった。
愚かだ。外の世界に自由や幸福など存在しない。
だから、父の目を盗み、伝手を駆使し、
そうしてようやく見つけ出した妹は、恐ろしい怪物になってしまっていた。
世界は狂っている。
自分のように、人を食い物にする側の人間。
妹のように、人に食い物にされる側の人間。
人間はその二種類しかいない。
愚かなハリエット。
ずっと目障りだった。
せっかく前者に生まれたのだから、そのままでいればよかったのだ。
余計なことはせず、ずっとあの部屋の隅で本を読んでいればよかったのだ。
そうすれば少なくとも、
こんなどうしようもない下衆より先に死んでしまうことはなかったのに――
押し込められた男はもがくのをやめ、
最後に、何かに言い訳をするように息を吐いた。
闇の中、曇った水音にしかならなかったその声を聞いた者は、なかった。




