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異世界往還の門番たち  作者: 葦原
三章 パラドックス
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44.黎明③

 夜風とは異なる、温かさのある微風が頬を撫でた気がして、ハリエットは僅かに目を開けた。最後に見た馬上からの黒い世界は去り、明るんだ朝焼けの青と遠い歓声、蛍火のように無数漂う緑の魔素(マナ)の光があった。

 魔素は、炎を鎮める緑露風(ウェルヘシキル)という木属性魔法のものだ。大気中を満たしていたらしきその魔素の光は、もう殆ど消えかかっている。

 大きな火事があったのだろうか、とハリエットは曖昧に考えた。

 ゆっくりと流れていく街の景色のあちこちに、焼け残った建物が多く見えた。火の手が収まったことを喜ぶ人々の笑顔が見えた。大規模な鎮火の魔術が必要なほどの火災が起きたのであれば、よほどの出来事だったのだろう、とも考える。

 

 思考はそこで終わった。

 

 規則的に上下する視界とは裏腹に、ハリエットは自らが終わっている(・・・・・・)ことを自覚した。四肢の感覚は存在せず、冷えた水に浸かっているような感触だけがあった。少し首を動かすのもままならない。

 それは彼女にとって救いだった。

 

 師は敗れた。

 確かめるまでもなく、ハリエットは理解している。自らの内側に存在していた木蓮(マグノリア)の気配はどこにもなく、もう声は聞こえない。消えてしまった。その消失が意味するところはひとつだけだ。

 

 長い夢が終わる。

 

「……ウィルフレッドさん」

「やあ、良かった。目が覚めたんだね」

 

 その終わりが、この優しそうな騎士の青年であったことだけは、彼女にとっても予想外ではあった。

 

「はは……君に会えたらまず何を話そうかってずっと考えてたんだけど、うまく言葉が浮かばなかったんだよね。実は今も、そうなんだけど」

 

 自分を抱えて歩くウィルフレッドの足取りは確かで、目的地は定まっているように思えた。彼が何処へ向かっているのか、ハリエットは少し考えてから思索を放棄した。

 

 無意味だからだ。

 

「でも……そうだね。謝らなきゃいけないと思ったんだ」

「……なぜ?」

「何もしてあげられなかった……しなかったからだよ。君が誰にも言えずに思い悩んでいたのに、僕は……何も知らなかった」

 

 仲間なのにね、と自嘲気味に呟く青年の顔は、言葉とは裏腹に煤で汚れている。そうなった経緯をおぼろげに悟ったハリエットは、ああ、と息を吐いた。

 彼に助けられるのは二度目だ。

 二度目なのだ。

 

「ごめん、気付いてあげられなくて」

 

 あなたは何も悪くないのに。

 そう伝えようとして唇を動かしたハリエットは、言葉にもならない息を吐き出すだけだった。その程度の力まで肉体から失われてしまったことを自覚し、諦めて目を閉じる。

 

 再び、深く黒い世界がやってくる。

 しかし、そこにはもう、不安や恐怖はない。

 

 もし。

 もしも行動を起こす前にウィルフレッドに事情を話していれば、もしかすると何かが変わっていた――確かに違った結末を迎えていたのかもしれない。

 だが、相互理解を拒んだのは自分自身だ。他の誰かは悪くなどない。状況や感情に流されてしまった自分と、巡り合わせが悪かっただけだ。

 

 師は、誰にも救えなかった。

 長きにわたる迫害の歴史によって下層へ追いやられた貧民街(ゲットー)の人々も、元より救いようがなかった。

 

 それらは既に決まってしまっている。

 手遅れだったのだ。

 

 過去は変えられない。どれだけ手を伸ばしても、届かない。

 届かない。

 

 

 

 ***

 

 

 

 戦いはない。

 すべての状況は門番の少年が事前にそう語ったように推移した。

 

 少なくとも、木星天騎士団そのものとの戦いは起きなかった。

 事が始まる前、ウィルフレッドは敵がそれを許すかどうかを疑問視していた。こちらにその意思がなくとも、襲ってくる相手が大人しく聞き分けるかどうかとは、当然、何の関係もないからだ。

 ゆえに、他の者はともかくとしても、木蓮(マグノリア)と門番の少年だけはどこかで刃を交えるに違いないと確信していた。

 

 あの少年が勝るだろうとも。

 自身がまたしても何も出来ないであろうとも。

 決着の場に居合わせることができたのは、まったくの偶然であった。

 

 ただ、ハリエットに会わなければ。詫びなければ、という思いだけがあった。

 彼には他に何もない。

 

 皇女ミラベルとマリアージュの争いを切っ掛けに、ウィルフレッドを取り巻く状況は、日増しに変化している。国教会直属の最高位騎士――九天の騎士などという肩書は、もはや何の寄る辺にもならない。書類上の自分は死んですらいる。

 

 変化する情勢の中、自身がどこに立てばいいのか分からないでいた。自由に、自身が正しいと思うことをしようという漠然とした気持ちは何故かあったものの、具体的に何を目指せばいいのかが見えていなかった。

 継承戦の真の姿を知っても、なお。

 皇帝が絶対の悪で皇女達が絶対の善である、などという分かり易い構図であれば迷うこともなかっただろう。一部の九天の騎士と同じく、皇女達の力になればいいだけの話だからだ。

 

 だが現実は異なる。

 皇国の民は悪政に苦しんでなどいない。むしろ皇国には善政が敷かれているといっていい。大多数の国民は豊かな生活を甘受している。

 果てのない領土拡大を基軸とした皇国の方針は、その裏で少なくない数の不幸を生み出しながらも、千年の長きに渡って民に安息と幸福を与えているのだ。

 そして、この(いびつ)で豊かな大国には、その成り立ちから存在し続けているという強大な王の存在が不可欠だ。皇国で鍛えられた鉄が負けを知らぬ理由も、先進的な魔術を生み出し続ける理由も、その軍が無敗であった理由も、皇帝の持つ異界(クリフォト)の知識と御使いの力にあるのだと門番の少年は語った。

 

 その皇帝を討てば、この国がどうなるか。誇るほどの学はないとはいえ、これが分からないほどウィルフレッドは愚かではなかった。

 当然、門番も皇女達も承知しているだろう。承知の上で、皇帝を除こうと決めている。その彼らが絶対の善である、などと誰が言えるだろう。

 少なくとも、ウィルフレッドには頷けなかった。

 

 しかし、今は違う。

 

「僕も戦うよ」

 

 抱えている少女に向けて、騎士の青年ははっきりと口にする。

 彼女と彼女の師は弱者に味方した。弱者の為に戦い、摩耗し、道を踏み外していった。その行いは確かに間違っていたのかもしれなかったが、虐げられている弱い者達を救いたいという思いまでもが間違っていたとは思わない。

 彼女達こそ、皇国という巨大な器械が生み出した犠牲そのものだ。誰かがそれを悪と呼ぶのなら、自分も悪で構わない。

 

「やっと何かが分かった気がする。見えた気がするんだ。だから……まだ何が出来るか分からないけれど、まず君の力になりたい。そう思うんだ。どうかな」

 

 静かに語りかけながら、青年は少女に笑いかける。

 そうしなければ、込み上げる涙を抑え切れそうになかった。

 

 彼は見ないふりをしていた。

 

 抱えた少女が力なく目を閉じたまま、もう何も答えないだろうことも。

 かつてこの少女が自分に向けていただろう思慕も。

 その裏にあった懊悩も。

 

「……どうかな、ハリエット」

 

 歓声の中を歩く青年はもう一度だけ、口を動かした。

 返答はなかった。

 街路には救われた人々の歓声だけがいつまでも響いていた。

 

 いつまでも、響いていた。

 

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